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意天  作者: 安藤 兎六羽
四章 仙
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二十八、≪異気≫、暴走



――龍は中空で剣を掴みながら、えつを床に突き立てる≪常喘仙≫と、刃先の毀れている矛を同じように握り締める≪顛老仙≫を視界に収め、跳躍した。

 鉞――斧と似た形状。長柄の先にひとの頭部ほどもあろうかという幅広の刃。長柄の延長上には刃よりは短い左右に湾曲した突起が伸びている。その突起部分によって、玉の床に≪黒竜≫の抜け殻を縫い止めている。

 それと並行に床に突き立てられた矛。およそ二尺の両刃の刀身は、朱蝶に握りつぶされ、毀れた一尺ほどを残すのみ。毀れて欠けた刃先で、同じく玉の床を貫いている。


 龍は黒々とした≪異気≫に一歩を踏み入れる。どうやら龍の身体から染み出る≪竜気≫は、その密な≪異気≫すら弾き得る。

 決して龍が≪竜気≫を操るのに習熟しているわけでは無い。

 しかしながら、≪壊水≫のほとりを進んだ七日ほど、朱蝶の≪異気≫を弾き続けた事で、その≪竜気≫は鍛えられていた。


 朱蝶の≪異気≫には流れがある。屋の穴から入って、床を撫で、ふたつの≪仙器≫に抑えられた抜け殻を剥がそうと、上昇する流れ。

 ≪三老≫のふたりは、未だ≪白王神≫に≪意≫を向けている。

 元は≪神格≫、今は≪仙≫。その二名にとって、龍は≪竜気≫こそ操るが、ひとに過ぎない。≪獣神≫の王――≪白王神≫の挙動のほうが注目に値する。


――龍は、剣を鞘走らせる。≪三老≫のふたりの視線が、漸く中空――≪異気≫の中を駆ける龍の姿を捉えていた。

 左腰につけた鞘。その鯉口を斜め上方に、腰を切って四尺ほどの長剣を縦に抜き、初速を維持しながら、右脇を絞り込み、下方へと斬り下ろす。

 その間に、おおよそ二歩を跳んでいる。


 師たる長双が最も得意とする、矢弾すら落とす剣速には及ばない。



――強い、とは、まずは早い事。そして、次に速い事――



 師の言葉を反芻する。

 長双には及ぶべくも無い。しかし、龍も鍛錬を欠かした事は無かった。



――呼吸すら練る余地があり、歩法すら鍛える余地があります。重さの芯を常に一点に、勢が如何に変じようとも、そのところを変える事は無い。勢いとは、流れです。流れと伴に点を動かす。むしろ点によって流れを決める。さすれば流される事は無い――



 龍は常に、己の身体の一点――臍の下あたりの重さを≪意≫した。

 動く、止まる、跳ねる、沈む。右に左に、重心と動きが一致するように。吸えば沈み、吐けば持ち上がるような。そのような動きすら、操作する。

 いや、操作出来ると、長双は諭していた。


 剣先に≪竜気≫の末端を凝らすような感覚。糸を引くように、その剣先がゆらめき、孤を描く。

――龍が択んだのは、いわゆる、右袈裟切り。

 ≪三老≫、龍から見て右に立つ≪顛老仙≫が、まず悟る。


 受け切れない、と。

 ≪黒竜≫の皮の上では、如何に≪三老≫といえども≪仙気≫を纏う事は適わない。

 ゆえに、≪顛老仙≫は己が握る≪仙器・戒矛かいぼう≫――本来、その矛で突かれた者の纏う≪気≫を乱し、身体組織を物理的に弱体化するという能を持つ――に込められた≪仙気≫を用い、左腕を強化する。皮膚一枚の下に≪仙気≫を満ちさせ、≪黒竜≫の皮の影響を受けないように。


 ほぼ、同時に、≪常喘仙≫も≪仙器・憤鉞ふんえつ≫――刃先から込められた≪仙気≫を線上に迸らせて、鉞の重さと高圧のそれを以って敵を切り裂くという能を持つ――から≪仙気≫を絞り、同じく皮膚一枚下の筋骨を強化。≪顛老仙≫が剣を止めた後、龍を蹴り殺すつもりだ。


 だが、龍は知悉している。教えられている。


――備えあるを攻めず、備え無きを攻める――


 ゆえに、龍の剣はさらにゆらめき、軌道を変える。右脇をさらに絞り、袈裟から横薙ぎへ――

 身体の重心。そこにつながるような右腕。さらに延長上に剣。

 重心につながっているからこそ出来る、軌道の遷移。


「ふ――」


 短い呼気。一声未満の発露。それが、瞬息を以って、剣速を瞬きへと導く――


――結果、現出するは、床を高速を以って這う、一閃。

 ≪黒竜≫の皮と≪鸞≫の毛氈。それを込められた≪仙気≫を以って縫い止めていたはずの、ふたつの≪仙器≫の刃が、龍の剣に薙がれた。


「なんと!」


「しまった!」


 これにて、朱蝶の≪異気≫を堰き止める物は無く、≪黒竜≫の皮と伴に持ち上がる二名の≪仙≫の身体。

 龍はそれを見逃さない。返す一刀で、宙に浮んだ≪常喘仙≫が持つ≪憤鉞≫の長柄の首、刃とのつながりを断つ。


「――フン


 ≪顛老仙≫が斜めに身体を傾けながらも、≪戒矛≫を突き出す。が――

 龍の眼前に≪異気≫と伴に翻る≪黒竜≫の皮。

 そのまま、≪異気≫はどんどんふたりの≪仙≫を簀巻すまきにして行く。


「おのれ!」


 ≪竜気≫に守られた龍の身体を通り過ぎ、朱蝶の≪異気≫は≪黄帝廟≫の入口へと向かう。

 すぐさまそれを追おうとした龍の襟首を、むんずと捕える指。

 そのまま持ち上げられ、龍は後ろを向かされた。


 現在の自分よりも幾らか大きい龍の身体を片手で吊し上げ、相変わらず衣服の上から腹を掻く≪獣神≫の姿がそこにはあった。


「で、何事だ?」


「≪白≫様、どうかお放しくだされ! 朱蝶どのが只今、≪力牧真人≫と闘われておられるのです!」


 猛るように振動する龍の≪竜気≫に≪白≫が、厭そうな顔をして、鼻の頭に皺を寄せた。


「なぜ、貴様らはどいつもこいつも虫臭いのだ。……そこの娘を見てみろ。虫の臭いどころか獣の臭いがするというに……」


 その言葉に怪訝の表情を浮かべたのは玲華である。

 年頃の娘としては、獣の臭いを漂わせているわけにはいかない。

 しかも、夫の眼の前だ。


「≪獣神≫様! ――それは、どのような?」


「玲華どの! そのような事はありませぬから! それよりも≪白≫様どうか――」


――めきゃめきゃっ――


……そんな音が≪黄帝廟≫の屋根から降って来る。

 ふたりと一頭が思わず上を見ると、≪異気≫が入口へと向かって煌びやかな天井を破壊していくところだった。

 ≪白≫が広い≪廟≫の入口へと眼をやると、≪黒竜≫の皮に簀巻きにされかけていたふたりの≪仙≫が脱出して、≪異気≫の後ろを追っていくところ。


 既に、龍も≪白王神≫すら眼中に無い慌てぶり。


「……何やら、≪異気≫が?」


 獣のように僅かに首を傾げると、≪白≫は玲華の襟首を空いた手で掴んで、えっちらおっちら駆け出した。




 †††




――長双と、≪力牧真人≫を隔てたもの。それは、知っていたか、知らなかったか。あるいは、もっと単純に朱蝶との距離だったのかもしれない。



 その時、長双は迷っていた。なんと応えるべきか、と。

 朱蝶の言う事が正しい事は理解している。≪力牧真人≫が謀ったのだ、という事は。

 だが、証左は無い。


 朱蝶の言葉は信じるに足る。しかし、≪仙界≫ではどのように裁くものか長双は知らないが、この場合、皐公国が釈明する相手は今上帝となる。

 朱蝶は≪巫姫≫の僕だ。ゆえに、その証言が有する説得力は著しく下がる。帝都の秋官しゅうかんは朱蝶の言を取り上げないだろう。

 事情を知っている第三者。あるいは、事の推移を知る利害関係の無い者が必要だが、ここにはいない。


 その上、≪力牧真人≫がどこで、どのような方法で、いつから、どのようなはかりごとを行っていたかなど、知れるわけが無い。

 帝国下であれば、訴訟は庶人や士官同士ならば、国の秋官が裁く。諸侯国同士ならば、方伯国・方伯自らが。一方が方伯国であれば、帝都、帝国の秋官の長、師士しし――獄官の長が。

 だが、帝国の律法は≪仙界≫には及ばない。そもそも、≪仙≫の悪逆をひとの眼に捉える事など出来ない。≪仙≫は不干渉だし、≪神≫というものに到っては、ひとを裁くもののはずだ。


 裁神とは、皐公国の祖、≪皐陶こうようしん≫を指し、五罪を司るのは≪西王母神≫とも聴く。

 形式として、この世ではひとがひとを裁くが、実際はそれより上位の存在の定めた条理に因って行われる。

 ゆえに、長双は帝都に赴く役目を≪火聖真女≫に委ねた。彼女もまた、人界よりも上位の≪仙界≫の住人だからだ。≪極南山≫の女主である彼女の言葉は、今上帝といえど無視出来ないはず。


 結論を言えば、半ば≪仙≫とひととの争いとなってしまった今回の事は、一方的にこちらが折れるしか無い。

 ≪極南山≫と皐公国は、形式上無関係である事を示し、≪巫姫≫の非礼を詫びる。

 その対価として、長双は最悪、己の首を差し出すつもりだった。


 そもそも、この一件は不用意に長双が≪火聖真女≫の手を取ってしまった事に端を発しているとも言える。

 相互不干渉のはずの人界と≪仙界≫、皐公国と≪極南山≫が長双の勝手な≪意≫によって結びついてしまった事が問題なのだ。

 ならば、痛い腹があると思われる前に、開陳してしまう事が肝。


 皐公国として≪荊山≫と話をつけ、今上帝には≪火聖真女≫の口から皐公国との無関係を言葉にして貰う。

 だが、求められた対価は長双の身柄――


 長双の一存の範疇と言えば範疇。しかし……。


「……我が公国に責めは及びませぬか?」


「帝都は儂が言葉を尽くして、止めよう。どうだ」


「――ならば――」


――よぎったのは、なぜか≪火聖真女≫の顔。

 公爵の顔でも、やり残した仕事でも無く、仙女の輝く相貌。

 情が移ったか? しかし、これは長双の蒔いた種。ならば、長双が刈り取らねばならない。


 その時、長双の視界の後背、≪黄帝廟≫が≪異気≫にひしゃげていた――

 朱蝶を見る。その顔がなぜか驚愕に満ちている。

 長双は知っていた。その表情は、「失敗した」と思っている時の顔だ。


――≪異気≫の操作不良――


 結論を得た長双は早かった。≪仙気≫を拡げ、門の正面、≪巫姫≫と尚のいる場へと縮地。

 尚と≪巫姫≫を拾うと、続けてさらに門前から伸びる階段の下まで≪仙気≫を拡げ、縮地。


「卿? なんじゃ?」


「――宮城が――っ!!」


 三人の目前の宮城――≪黄帝廟≫が、≪異気≫に呑まれていく――




 ―――




 朱蝶は、≪力牧真人≫に誘き出されて、≪異気≫をアーチ状に展開していた。

 ≪黄帝廟≫の大広間、龍の眼前と、≪黄帝廟≫の門付近の二点を繋ぐ≪異気≫のアーチ。

 ≪気≫から切り離された≪異気≫は、≪気≫に与えられたみっつの命令オーダーを不完全に実現する。


――拡大と収集と連結――


 通常は最も安定した形状である球形を成し、ゆっくりと力を収集し、徐々に質量が集まる中心が凝り固まり、≪魍魎≫や≪魑魅≫となる。

 その過程で、何か異物を取り込めば、それの≪意≫を中心に形状を変化させ、一種一体の≪怪≫となる。

 ≪怪≫の種類が地方、地域によってほぼ固定されているのは、地勢によって取り込まれるものが限定されるからでもある。


 朱蝶体内の力が消えかけた今、≪異気≫は本来の性質を半ば取り戻していた。


――形状は球に近く、周囲のものから力を奪う――


 その渦に最も近かった≪力牧真人≫は、背後を見て絶望する。


「――ばかな――っ!!」


 彼の――彼が忠誠を捧げる主の、千年の城が壊れて行く。


「――何を……」


 今や完全に仇となった≪神怪≫に、愛剣の刃を伸ばそうとした、その腕が握られた≪閃剣≫ごと、高密度の≪異気≫に≪喰われ≫、力へと還元される。

 本来ならばあり得ない。この世のどこにも、物質をそのまま消化するような≪異気≫は存在しない。

 それを可能にしてしまったのは、ふたつ。


 極限まで飢餓状態に置かれた事と、ひとの眼にも捉えられるほどに凝縮された事。

 その二点において、朱蝶の≪意≫のくびきから半ば解き放たれた≪異気≫は、朱蝶の身体を中心に球状に集まり、周囲のすべてを単なる力へと還元していく――


 アーチの片側の柱を形成していた、屋内に残された≪異気≫の大半は、朱蝶が与えた≪意≫に遵って、床を剥がしながら、屋根を破砕し呑み込みながら、中心たる朱蝶の身体を目指し、合流して、球形になっていた。


「やめろ――」


 身体を呑み込まれかけた≪力牧真人≫を救ったのは、龍に撃退され、同じく≪異気≫に呑まれかけた≪三老≫のふたりの縮地。

 しかし、その時、≪力牧真人≫の城は三割ほどを喪っていた。

――唖然として空から≪力牧真人≫が眺める、≪異気≫の奔流に飛び込む娘が独り――




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