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「僕」の闇行シリーズ

無幻影~ヌル~

作者: 吉田 将

 ヌル……それはドイツ語で「0」を表し、コンピューターでは「無いこと」を示す言葉だ。

 よく漁師の間ではヌルを魚の身体に付いている「ぬめり」を略して使われるが、それとは言葉のニュアンスこそ同じであれ、意味は全く違う。

 有る物、無い物……その違いなど火を見るより明らかどころか、幼い子供でさえ言わずとも理解出来る。有る物は有る、無い物は無い……ただそれだけなのだから。

 しかし、人間という生き物はそう単純には出来ていないのだろう。

 有る物には現実を見て、無い物には理想を見る……どちらにせよ「希望」を求め、「夢」を追う。

 先にある幻影……それに翻弄されるかのように。


 希望を持つことは悪い事ではない。

 願いを込める事も悪い事ではない。

 しかし、夢を持つ事は良い事なのだろうか?

 夢とは生きる上での原動力となり得るが、逆にいうと叶わないからこそ原動力といえる。

 叶うものは目標という言葉に変わるし、もし万が一にも夢が叶ったその先には何があるのだろうか?

 新たにまた夢が出来れば良いが、夢が無くなったその先には……何も無い。

 真っ白あるいは真っ黒に燃え尽き、生きる意味を無くし……やがて草木のように朽ち果てる。

 夢のというのは、何もない無という意味かもしれない。

 夢の先にある幻と無から生み出される幻……二つの幻は一体何をもたらすというのか?

 夢の先にある幻“希望”、それは誰もが存じているだろう。ならば、僕はこれから無から生み出される幻“絶望”について、語ろうと思う。




 **********




 当時、とある出版社に勤めていた僕は二年前に取材したある心霊スポットの神社に行ってからというもの、少し見方や考え方が変わってきていた。

 人間の欲、悪意、怨み……それらの変貌していった成れの果てを見た僕は人間不信とまでは行かずとも、負の感情がもたらす忌々しいその恩恵を恐れ、人と関わっていくのを最小限に留め、いつも通りの生活を送ろうと前より一層努めていた。

 しかし、件の心霊スポットに行った際に出来た左手薬指の青紫色の指輪状の痣はそれを良しとはせず、僕の視界に入ってくる度にあの時の恐怖を鮮明に蘇らせてはそれをナイフで抉るかのように、僕の心に深く刻み込んできた。

 そんな折、僕に一件の取材依頼が来た。

 取材の内容は、ある港町にて起こる不可解な現象とその調査……正直、こういう件にはあまり関わりたくは無いが仕事なのだから仕方がない。

 僕は妙な感覚を胸に抱いたまま、その現場へと向かった。

 不思議な事にこの時、僕の中には恐怖という感情が無かった。




 **********




 その港町は西の地方にある小さな港町だった。

 小さな港町といっても、寂れた海辺の町の事を指しているのではない。

 そこは……離島であった。

 人口が千にも満たない離島の小さな港町……ここで謎の現象が起きているという。

 その謎の現象とは……


 日が暮れてから浜辺に行くと、海の向こうから黒装束の死者がやってくる。


 ……というものらしい。

 もはや、これは現象ではなく言い伝えではないか? と思ってしまうのだが、実際に島民の中では海からやってくる黒い何かを見た、という話しは幾つも聞かれた。

 しかし、その黒い何かを見た人々は間近で見た訳ではないという。

 なぜ、近くで見ていないのか?

 それは恐らく、この島に伝わる言い伝えが原因だろう、と僕は考えた。

 この島は古よりある信仰が存在している。

 それは命は東より出て、西へ沈むという太陽を命の権化とした信仰であった。

 この地域独自の“生東死西せいとうしせい思想”と呼ばれる思想は非常に変わっていて……山を生の世界とし、海を死の世界ともしているらしい。

 それなら、東に海があり、西に山がある場所はどうなんだ? という疑問が浮かぶが……そこは勘違いしてはいけない。

 この思想はあくまでこの地域だけのものである。他の場所など関係無いのだから……。

 地元ならではの風習とはそういうものだ。

 さて、話しを戻し……なぜ島民が間近で見ていないのが言い伝えと関係あるか……。

 死に関するものには極力関わってはいけない……すなわち、穢れをもらってしまうという考えが島民にあるからではないだろうか?

 穢れを祓う風習は日本中どこにでもある……それと同じ故、死者の穢れが付かないように島民は海からやって来る黒い何かと触れ合ってはいけないのだろう。

 だが、僕に関してはそんな事は関係ない。

 なぜなら、僕は余所者である上に仕事でここに来ているからだ。

 僕は島民達の制止も聞かず、浜辺にテントを張り、海からの来訪者を今か今かと待った。

 海辺近くの商店でビールとツマミを買い込み、日が暮れるまでの間に一杯引っ掛ける……出版社勤務はこういうのも経費で落ちるので、僕はこれをささやかな楽しみとしているのだ。

 さて……そんな事を思いながらビールを飲み、焚き火をしている内に辺りは徐々に暗くなってきた。

 来るとしたらそろそろだろう。

 僕は自身と海との間に焚き火を置くようにして座り込み、揺らめく炎の向こうにある海を見つめる。

 海は日中の綺麗な蒼色と違い、宵闇の天井を映す鏡となってその色を闇色に染めていた。

 しかし、鏡に映る闇には天井の闇とは違い、小さな無数の光は無い。

 光が無いのは水面に揺れる波のせいだろうか?

 そう何気なく考えていると、揺れる波間から何かがヌッと出てきた。

 しかも、それは一体だけでなく空に浮かぶ星々の数分、無数に出てくる。

 僕は何も言うことが出来ず、ただジッとその場に佇み、それらを見据えた。

 それらは人の影のようなものが起き上がってきたもの、とでも説明すれば分かるだろうか?

 とにかく、真っ黒でのっぺりとしていて例えるなら黒いのっぺらぼうと言った方が良いだろう。

 黒いのっぺらぼう達は口のようなものを開き、ノロノロと僕の方へとやってくる。

 それらは近付いてくる程、人とは程遠いただの影に見えてくる。


「……なんだ、死者とは程遠いじゃないか」


 それらを見た瞬間、僕は一瞬自分が何を言ったのか理解出来なかった。

 恐怖によって言葉が出ない、悲鳴にもならない叫びを上げる……そんなネガティブな事ばかり思っていたのに、現実では溜め息と落胆の言葉。

 なんでこんな言葉が出たのか、自分にも分からない。だが、何気なく左手薬指の指輪状の痣を見た途端、その意味が何となく分かったような気がした。

 痣の青紫色は僕の知らぬ間に死んだ恋人との契りの証……この契りは僕の日常に恐怖を与えていたが、非日常を前にすると心強くも感じる。

 いつでもあったものが、ここにもある……その安心はやがて大きな支えとなる。

 ここにきて、ようやく僕は気がついた。

 なぜ、今回に限って僕は恐れなかったのか……それは恐怖よりも彼女、縁に会いたいという思いが強かったからではないか?

 噂でも良い……死んだ縁ともう一度会い、話せれば、僕はどんな危険を犯しても良い。そんな感情に支配されていたのだろう。

 現実では死んだ者を生き返らせる事はおろか、会う事も話す事も出来ない。

 そんな事は分かっていた。

 分かってはいたが、ただの根も葉もない噂であってももしかしたら、という希望を抱いてしまった。

 結果は夢はやはりただの夢、こんなのだったら寝て見る夢の方がまだマシだ。

 僕の中で抱いていた希望は絶望へと瞬時に染まり、心の中はぶつけどころの無い怒りで満たされた。

 気がつくと黒いのっぺらぼう達はいつの間にか僕の周りを取り囲み、口を開け、手を伸ばしながら迫って来る。

 しかし、僕はそれに何も感じなかった。

 例え、幻影だろうが本物の死者であろうが関係ない。

 その中に彼女が居なければ何の意味も無い。

 今は空虚になった心から生まれし、この理不尽な怒りをどこかにぶつけたい……。


「消えろ……」


 怒りの全てを集約させ、僕は渾身の言霊を連中に向けて放った。

 その瞬間、一陣の強風が僕の周囲を襲い、砂煙を巻き上げながら唯一の灯りである焚き火を消していった。

 辺りは瞬く間に黒いのっぺらぼう達諸共、闇に溶け込み、さざ波の音だけとなった。

 それは夢が無へと還った時でもあった。




 **********




 後日、出版社へと戻った僕はこの体験談をまとめる為、会社で必死にパソコンを叩いていた。

 とはいえ、全部を全部ありのままに書くつもりは無い。

 記事を読む者は驚きや面白さを求めている……だが、僕の体験には驚きこそはあれど面白さは無い。

 フィクションを入れたノンフィクション……興味を引き立てる為には真実を少しだけねじ曲げる。情報というものは、こうして人という研磨剤によって磨かれていく。

 それがガセと呼ばれるガラクタになるか、都市伝説という宝石に変わるかは時が経ってからになるだろう。

 しかし、いずれにせよ……あの黒い何かをのっぺらぼうと称するのは何だか格好が悪い。

 そこで僕はあの黒いのっぺらぼうを“ヌル”と称した。

 由来は僕が一喝した際、何も無かったかのようにその場から消え去ってしまったから……それはまるで初めから無かったものに幻を見出していたかのように。


 深夜となり、誰もいなくなった後も僕は相変わらずパソコンを叩き続ける。

 街中に灯るネオンの光が暗い部屋の中に居る僕を僅かに照らし、光の加減によって幾つもの影を作る。

 それはまるで、あの日……僕を取り囲んだヌル達を連想させた。

 もしかしたら、ヌルは本当は日常の中に居て光と闇の調和が取れた時、その影として現れるのではないだろうか?

 だから、光が強過ぎても闇が強過ぎても消えてしまう。

 すなわち、人の思いが生み出す無いものの幻“無幻”といったところだ。


 恐怖といった絶望“無幻”……夢といった希望“夢幻”……幻は限りなく広がり、無限の不可能と可能性を人々に与える。

 もしかすると、ヌルは生物の中にある僅かな負の感情が具現化した人工的な蜃気楼のようなものなのかも知れない。


 そう、それは光によって生まれる自然の幻ではなく……闇によって生まれる人工の幻。

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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公の恋人に会いたいという強い思いによってヌルたちは現れたのでしょうか。そして希望が叶わなかったためにそれらは消えてしまったのでしょうか。 離島、土着信仰、不吉な海、蘇る死者、伝説に挑む…
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