プロローグⅠ
アメリカ合衆国の首都、ワシントンD.C.。その中心部には、国内でも有数のひときわ広大な土地を持った豪邸が存在することをあなたはご存じだろうか?
『ペンベルシア1600番地』とは米国で最も有名な住所の一つである。相当にアメリカ通な方々ならばこの言葉一発でピンと来たに違いない。
そう。そこはアメリカの大統領が住んでいるということで有名なホワイトハウスである。
すでに時刻は0時を迎え、周囲の建築物の照明が一気に消えはじめる頃だ。
海底のように薄暗い夜空が、ワシントンD.C.の都会的で活気に満ちた町並みの風景をゆっくりと暗闇に染め上げていく。
ワシントンD.C.の灯りは一部の建物を除いてすっかり消え失せてしまい、夜の街へと姿を変えてしまう。
それは、ホワイトハウスも決して例外というわけではなかった。
ホワイトハウスの内部には、トイレなどの例外を除けばいかなる灯りでさえも灯ってはいなかった。
すでに、大統領を含む彼らの家族は大きなベッドの上に体を休めていた。
大統領は、気持ち良さそうな表情で、裸の妻とベッドの上で横になっている。
大統領という非常に忙しい職業柄もあってか、彼が大統領に就任してからそれからというものの、平均して3時間程度の睡眠しか取れていなかったのだ。
日々、会議やら外交やらの準備で、睡眠時間を十分に補充できるほどの余裕は、大統領である彼には残されていなかったのだ。
彼は、ここまで高額な給料を受け取っていなければ、こんな過酷な職業に就きたいとは誰も思わないだろうと、何度思ったことか正確には覚えていない。
今日は、珍しく会議が順調に進んだために、以前にもまして早い時間帯に彼はこうして体を休めることが出来たのである。
彼自身、今日の会議がここまで早く、それも順調に上手くいくとは夢にも思っていなかったのだ。しかし、物事は意外なほどに早く思惑通りに運ばれた。
常に会議というものは、こちらが意見を主張すれば、決まってそれに反対するような否定的な意見が返って来るようになっているようなものなのだ。その傾向は会議に参加している人材が優秀であればあるほどに顕著になって現れる。
もちろん、今日の会議でもそのような意見の衝突が全く無かったという訳ではなかった。
あったといえば、確かにあったのだが、今回は妙に反対派が上機嫌だったのか、或いは、熱にでも浮かされていたのか、真偽のほどは定かではないが、すんなりとこちらの意見に賛成してくれたのだ。
彼は彼らのいつになく親しみあふれる態度に、一瞬眉をひそめたが、それ以上は特に気に留めることはなかった。その時、彼の心の中ではその奇妙な出来事以上に会議が上手くいったという喜びの方が限りなく強かったために、ささいな物事の変化などは全く気にならなかったのである。
だからなのか、彼の寝顔には、明日にクリスマスを控えている子供のような笑顔がひっそりと現れていた。
見たところ、今の彼はこれ以上にないくらいに上機嫌であることは間違いないだろう。
そんなふうにして、彼は25歳以上年の離れた、ハリウッドモデルのような若くて美しい妻の横で、心地よさそうな表情を浮かべながら眠るのだった。
彼が家の中で裸の妻に抱かれて心地良さそうな表情で眠っている一方で、ホワイトハウスの周囲では特殊警察が24時間体勢を取って周囲の警備に当たっていた。
しかし、24時間体勢とは言っても、1人で24時間勤務をする訳ではない。
彼らは、いずれもハーバード、オックスフォード、ケンブリッジなどの世界の名立たる名門大学の出身者であり、睡眠を全く取らずに、1日中勉学に励んだ猛者どもである。しかし、月曜日から金曜日までの平日5日間の間、全く休養も取らずに警備の仕事を続けていれば、いくら彼らであっても過労死してしまうに違いない。
そのために、彼らは職員を6時~18時までの早朝勤務担当、18時~翌日6時までの深夜勤務担当の二種勤務制に分けて、警備の仕事に当たっているのだ。
ただ、彼らにはこの警備の仕事以外にも他に、事務作業などの通常業務の仕事がある。だから、彼らにとって警備の仕事は通常業務の仕事との兼ね合いもあって非常に大きな負担になるのだ。ただ、彼らにとっての唯一の救いは、この警備の仕事が土曜日、日曜日、祝日、または、夏休み等の長期休暇中は休みになるということだ。
これは、大統領の彼らに対する気遣いであるとともに、大統領自身が休暇中に安心して日々を過ごすことができるように、軍隊の特殊部隊を雇うためだ。
彼らは、ホワイトハウスの灯りが珍しく消えているのを確認すると、いつも以上の緊張感を持って警備の仕事に当たった。
彼らは顔にガスマスクを被り、防弾・防刃使用の特別製の黒い制服を着用していた。黒い革製の手甲をはめた両手には拳銃コルトM1851が硬く握られている。
彼らは、常に拳銃を手に持って周囲の警備に当たっている訳だが、拳銃を発砲するような異常事態に遭遇したことなど一度たりともなかった。
しかし、有事の際に対処するための発砲訓練をしっかり積んでいるだけあって、銃の腕と人を殺すときに生じる躊躇いの少なさは、軍人顔負けだった。
ただ、そんな優秀な彼らにもたった一点だけ弱点があった。
こんな真夜中に、それも手に拳銃を持った警察官数十名が敷地内をうろちょろしている中に、忍び込もうと考えるような物好き集団が本当にこの世にいるのだろうか?
彼らの根底にはこういう考え方が存在しているために、どんなに緊張感を持って、警備に当たろうとしても、それがなかなか出来ないのである。
言ってしまえば、油断である。
これこそが、彼らを束ねるクヴォルツ・フローレンの唯一の悩みの種だった。
一応、彼はこの仕事を始める際に、いつもメンバーを集めて、気を引き締めて警備に当たるようにと怒鳴り声を上げて注意してはいるが、自分自身ですら、こんなところに突っ込んでくる変わり者が本当にいるのだろうか? と自問してしまうあんばいだ。
気を引き締めて警備に当たらなければならないとは、頭では分かっていても、ついつい肩から力が抜けてしまうのだ。
どうせ、今日も侵入者はいないだろうと彼は、眠たさからあくびをしながら心の中でつぶやく。
そんなときだった。
彼の耳に一発の銃声が鳴り響いた。
方角はホワイトハウスの玄関方向。場所は午後7時になると関係者以外は立ち入り禁止エリアとなっている、ホワイトハウスから約85メートル先の敷地内にあるザ・エリプスというアメリカの国立公園だった。
園内の敷地面積が、通常の学校の十倍はあると思われる非常に広大なザ・エリプスの芝生グラウンドには、黒いブラウスに臙脂色のミニスカートを着た二人の少女が仲良く並んで歩いている姿があった。
そして、彼女の正面方向には、不可解な光景に首をかしげ、拳銃を構えたまま突っ立ている、一人の特殊警官の姿があった。彼の手に持っている拳銃コルトM1851の銃口からはかすかな灰煙が立ち込めていた。
さっきの銃声とこの状況から察するに、彼は彼女たちを拳銃で撃ったのだろう。しかし、悲しいことに……彼の銃弾は彼女達のところにたどり着く前に速度を失って、そのまま地面に落下するのだった。それとほぼ同時に、空薬莢が頼りなく地面に転がり落ちる。
「何だ……、これは!?」
彼は一瞬、我を失いかける。いや、もうすでに我を失っているかもしれない。
彼はいま、すっかり精神的なパニック状態に陥ってしまい、自分の身の回りで起きている異常現象について、頭が追いつかなくなっているのだった。
ついに彼は、両手で頭をかかえ、その場に崩れ落ちてしまうのだった。
仲間の銃声を聴いて、急いで駆けつけた特殊警官達が数十名、彼女達の行く先を阻むように、目の前でずらりと横に並ぶ。何十人もの特殊警官が横にきれいな列を作り、彼女達をホワイトハウスへ向かわせないようにするのだった。
「撃て!」
そして、彼らは何の躊躇もなく彼女達に何十発もの銃弾を浴びせる。