兎とともに戦います
『鏡也、鏡也、怪我……大丈夫、なの……』
ヘッドフォンから納豆丸の弱々しい声が聞こえてきた。彼女には先の戦闘におけるマイクの音とカメラの画像が届いているはずだ。
『やっぱり私も戦うよ』
「心配すんなよ。ちょっと予想以上にアイツが強かっただけだ……こんな傷、すぐに良くなる。それより、ジジイたちの居場所を教えてくれ」
鏡也は廊下を曲がった先の陰に給水所を見つけた。顔を見る鏡も付いていた。血を洗いながら、納豆丸をなだめていると、ようやく彼女は了承してくれた。
『無理しないでよ』
「分かってるよ」
包帯代わりに薄手のタオルを手に巻きつけた。タオルを探す際、給水所の奥にモップも見つけた。武器になるかもしれない。
『GⅡはさっきの場所から動いていない。GⅠが給水所の近くまで来てるよ……鏡也、早く逃げて』
カメラを見ている納豆丸の切羽詰まった声が届いてきた。
鏡也はしばし思考した。逃げるだけでは勝てない。さりとて、力の差は歴然としており面と向かって行っても敵わない。そんな強敵が二人もいるのだ。
頭を使う必要があった。
擬似偽字の能力と、監視カメラとマイク。上手く活用し、突破口を探らねばならない。
先の戦いで気付いたことは、疑似偽字の本質は騙すことにあるということだ。最初能力を知った時は目くらましに使うものだと思っていたが、一度使った後は種がばれて大して意味がなくなる。
如何に騙せるか。そこが鍵だった。GⅠの足音は迫っている。鏡也は知恵を振り絞って考えて、一つ思いついた。
給水所の鏡を外し早速実行してみた。
『あれ……どういうことだよ、鏡也。GⅠが廊下を素通りしていくよ。鏡也はいったいどこに隠れているの?』
納豆丸の不思議そうな声が聞こえてきた。カメラの位置からだと、給水所の入り口は上手く映っていないようだ。
鏡也は確信した。この方法で鏡也の能力を知らないGⅠは足止めできる。
問題はすでに能力を知るGⅡだった。能力の種を知っているGⅡを騙すのは容易ではない。
裏をかく必要がある。更なる大がかりな準備が必要だ。
熟考の末、鏡也はある結論に辿り着いた。
「納豆丸、やっぱり一人だけじゃ、あいつには勝てない。お前の力を貸してくれ」
「最初から頼ってくれたら良かったのに……別に嬉しいわけじゃないぞ。非力なお前の面倒はやはり私が見てやらないとな」
納豆丸は拗ねた子どものように、そう返事をした。
「上手く行ったら後で納豆料理を食わせてやるよ」
鏡也は作戦の内容を伝えていった。
GⅠは絵画の飾られた白い廊下を歩いていた。背後に、左右に、前方に隈なく目を利かせ、怪しい人影がないか調べていく。
この階に、邪神も青年もいない。GⅠはそう結論付けようとしていた。
その時、彼の目は、廊下の突き当たりに白いワンピースの裾を捉えた。確か、邪神が身に付けていたはず。それを思い出し、GⅠはすぐさま追いかけ始めた。
『うわあっばれた!』
予想通り、邪神の可愛らしい声が聞こえてきた。
「ふふっ、頭隠して尻隠さずとはまさにこのことよ」
廊下の突き当たりに達すると、角を曲がる。また廊下の奥にワンピースの裾が見えた。
「儂の健脚から逃げられると思うなよ」
GⅠはフォッフォッとくぐもった笑い声を上げると、その後を追いかけていった。
その廊下も駆け抜けて角を曲がると、行き止まりが見えた。その横がどうやらトイレになっている。
GⅠは行き止まりの先まで足を運ぶ。行き止まりは他の空間の広がりから考えて少々不自然な造りに感じられた。だが、あまり細かいことにこだわらず、GⅠは女子トイレの中に入っていった。
なぜなら、少女の声がトイレから聞こえてくるからだ。
「さあ、邪神よ。もう逃げられないぞ」
『来ないで、来ないで』
一番奥の個室から、少女の怯える声が漏れてくる。GⅠはその個室の前に立った。
個室の扉の下からは少女の素足とワンピースの裾が覗けている。GⅠの顔に笑みが広がっていく。
「お前がここにいるのは分かっている。もう隠れていないで、素直に出てくるのだ」
『あっち行け』
「そういうわけにはいかない。儂にはお前を捕まえるという使命があるからな」
『私はトイレ中だぞ、このヘンタイじじい!』
それを聞き、GⅠの顔は急速に赤くなっていった。
「す、すまない……気が付かなかった。今、出て行く」
GⅠは急いで女子トイレから出た。居心地も悪く、廊下でしばらく葉巻をふかす。GⅡに邪神を見つけたことを知らせに行きたかったが、その間に邪神に逃げられては元も子もない。
まあ、ゆっくり待とうとGⅠは思った。邪神はもう手の内なのだから。
葉巻三本を灰に変える時間が過ぎた。邪神はまだ出てこない。
痺れを切らして、トイレの中に呼びかけてみる。
「おい、そろそろ終わらないのか……」
『ちょっと時間がかかっているんだ。もう少し待ってよ。どうせ、もうどこにも逃げられないだろう?』
少女ののんびりした声が聞こえてくる。
「なるべく早く頼む……その、下痢気味なのか?」
本気で心配そうにGⅠが聞くと、トイレの中から
『死ね!』
と邪神の罵倒が返ってきた。
GⅠは顔を赤くして首をすくめ、もう一本葉巻を咥えて火を付けた。
この後、長い時間が経ってからGⅠはようやく気付くこととなる。行き止まりの壁、ワンピースの裾、少女の足が全て擬似偽字の能力の産物であり、トイレにはトランシーバーが立てかけられているだけということに。
「奴の能力……偽物を生み出す力か……」
GⅡは三階の捜索を終え、そう呟きながら二階に向かう階段を下っていた。頭の中は青年の使用した能力の分析でいっぱいだった。
鏡獣との契約により生まれる能力は、必ず発動に鏡が関係している。青年が手鏡を所持していたことから、鏡に紙を映すことが発動条件であることは分かったが、他の条件や効果範囲は不明であった。
「まあ、良いか。所詮、偽物。まやかしの力に過ぎない」
当初、勘が良いので何か感知系の能力かとも思っていたが、三階のもぬけの殻と化した警備室を見て考えが改まった。おそらく耳に付けていたイヤフォンのようなものを通し、そこにいた邪神と連絡を取り合っていたのだろう。
テレビモニターは全て壊した。これでもう二度とその策は使えない。ならばひたすら逃げ隠れ、不意打ちを狙ってくるだろうと読んでいた。
だから、階段を降り切ると、GⅡは目を丸めずにはいられなかった。
二階の集会場の扉は開かれており、その前には、手に布を巻き、杖を構えた鏡也が立っていたのだ。
「ほう、随分、潔いな」
「ジジイ、今度こそ逃げも隠れもしないで戦ってやるよ」
鏡也は笑ってそう言った。手の布からは血が滲み、額には油汗が浮き出ている。杖はモップの頭を取ったもののようだった。
彼はもはや戦える体ではないように見えた。負ける気は一切しなかった。だが、全力で向かってやるのがせめてもの情けだろうと考え、GⅡは構えた。
「何度も言うが、手加減はしないぞ」
「上等だ」
足を大きく踏み出し、鏡也は杖を薙いだ。
GⅡはそれを耳の脇で、上腕二頭筋を使って受けると、青年の間合いに踏み込んだ。足を思い切り踏みつけ、逃げられないようにする。
後は煮るなり焼くなり好きにできる。鏡也に対して憐みの情を抱きながら、GⅡは足に体重をかけていった。
首を絞めようとGⅡは顔を上げ、気が付いた。
鏡也の目は爛々と光り輝いていた。彼の身体はGⅡの下へと沈みこんでいく。
なぜだかGⅡの背筋に寒気が走った。
「杖状のものを敵が使っていたら、相手の間合いにさっさと入りこむことが重要だ。だからジジイは即座に俺に近づいてくると読んだ!」
鏡也は足が踏まれているという無茶苦茶な姿勢で体を反転させ、背中にGⅡを載せた。鏡也の足の関節が砕ける音が聞こえてきた。
「そして、さっきの戦闘から知った。お前は相手の足を縫い付け、敵をサンドバッグにする戦い方を好んでいる。足を囮で出したら、体重をかけて踏みつけてくるだろうと読んだ!」
腰が浮き上がり、瞬く間に背負い投げの姿勢となった。
「まさか、一本背負い!」
「筋肉ばっかで重心移動が下手くそなんだよ、ジジイ!」
片足が折れたにも関わらず、鏡也は馬鹿力でGⅡを投げ飛ばした。GⅡの身体は、集会場の中へと吸い込まれていく。
GⅡはすぐに猫のように空中で体を回転させ、受け身の姿勢を取った。
正直、八十キロはある自分の身体を投げられて、驚きを禁じ得なかった。だが、受け身さえ取れればダメージには至らない。他方、鏡也はこの技を仕掛けるために片足骨折という大ダメージを負っている。バランスが全く釣り合っていない。
だからこそ、寒気が止まらないのかもしれない。青年はまだ奥の手を隠している。確信を持ってGⅡは察した。
床に手が付く寸前、反転した視界の先、鏡也は口角を持ち上げて笑っていた。
「一つ、教えてやるよ。俺もさっき知ったんだが、俺の能力では壁や床も作れるんだよ!」
床についた手はみるみるめり込んで、床を破いた。
途端に、今まで集会場の床と認識されていたものが、全て、一枚の紙へと変わった。
「何!」
集会場の床が丸ごと陥没し、一階へと続いている。いったいどんな方法を使って、こんな大きな穴を空けたのか。分からないが、一つだけ分かった。
自分の身体は数メートルの高さを真っ逆さまに落ちていく。下にはいくつもの瓦礫の破片が、尖りを上に向けて散らばっていた。
GⅡは必至に空中で体をのけぞらせ、致命傷を負わない落下地点を探った。受け身も何も考えている暇はなかった。
比較的平らな床へと体は激突した。全身の骨がきしみ、筋肉が痙攣し、肺から酸素が一気に吐き出された。
陸で溺れる魚のようなGⅡの首に、ナイフの切っ先が添えられた。
「動くな。殺すぞ」
邪神の少女がナイフを両手に持って自分に向けていた。
落ちてくるのを待っていたのだろうか。追撃の手段まで用意してあるとは敵ながらあっぱれであった。
拍手を送りたい気持ちに溢れつつ、GⅡは安らかに目を閉じた。