兎が援護をしてくれます
「儂じゃよ。ミカエル」
歴戦の士にして、今年齢八十八になる安西加助は携帯電話も使いこなすことができる。電話口からは若い男の声が漏れていた。
「いやあ、すみませんね、老体に無理させちゃいましたか。対鏡獣戦も知らない犯罪者なんて正直新米を派遣しても良かったんですけど、近頃どんどん死んじゃって人手不足なんですよ」
「ふっ、まだまだ現役で働けるぞ。それより例の邪神を発見した。これより捕獲に入ろうと思うが、最新の情報が欲しい」
安西は五階の部屋の一室、バレーのレッスンルームに入ると、電話をしながら自分の肉体を壁一面の鏡に映した。
引き締まった美しい己の肉体を安西は惚れ惚れと見つめた。変装のためとはいえ春先に着たコートは暑かった。全身は薄ら汗で湿る。
「うーん、参照してみましたけど、その子、本当に脱走した邪神ですか? 邪神はもう既に太平洋沖で捕獲されているようですよ、協会の犠牲者を二ケタも作ってね。まったく、新米殺しの中間管理職泣かせです」
「ほう、似た別ものというのか」
「契約した時に出る波動は科学部が感知していますから、鏡獣関連であることは間違いないですね。僕も興味が出てきましたよ。契約者の方はどうでもいいですから、鏡獣はなるべく無傷で捕獲しといてください。すぐ行きます」
「そうか……あの少年は契約したのか。儂はむしろ契約者の方に興味がある。例のものも持ってこいよ、ミカエル。あの殺人犯、一発殴られた跡があった。契約者の青年は能力を持たずとも悪に立ち向かっていける者なのだ」
安西は鏡の前で力コブを作りポーズを取った。昔の自分は貧弱で苛められており、いつも力が欲しいと思っていた。体を鍛え、亀蔵と契約を結んだ後もその気持ちは変わらない。だから、毎日十キロは走り、週三日のジム通いも欠かさず続けてきた。
だが、たまに思う。力のない頃の自分は果たして無力だったのか。
本当に力が無ければ何もできないのか。
答えはまだ見えてこなかった。
「やはり、戦いの中で見つけるしかないのか」
「あ、そうだ、この前の戦いで安西さんが作った損害の賠償の件なんですが――」
「フンッ」
安西は士気が高揚してきてしまい、卵の殻を割る要領で思わず携帯電話をへし折ってしまった。そして、へその前で拳を突き合わせて上腕二頭筋を膨らませると、
「分子分身!」
と高らかに宣言した。
筋肉の魔人が二人に増える。各々、相手の筋肉を叩き合って互いを激励した。
鏡也と納豆丸は三階の警備室で壁にかかった手鏡を見つけた。警備室にはモニターも設置されており、センター内全域の監視カメラの映像が映っている。
「おそらく、鏡の外じゃ警備員が常駐しているんだろうな」
「鏡也、こんなものもあったよ」
納豆丸が机の引き出しを漁り、小型のトランシーバーを取り出した。ヘッドフォンのような形状をしていて、持ち手無しで使えるようだった。
「でかした、納豆丸。これでどこにいても通信できる」
電源を入れ、納豆丸と鏡也は一つずつ装着した。
ふとモニターに目を移すと、五階の廊下を移す監視カメラに二人の安西が映っていた。白い回廊を悠々と歩き、四階へと続く階段に向かっているところだった。
鏡也はスケッチブックの一ページを細かく裂くと、必要となりそうな物の名前を紙の断片にあらかじめ書き込んでいった。それが終わると、手鏡と断片とボールペンをパーカーのポケットに詰めていく。
鏡也は納豆丸の肩に手を置くと、納豆丸の目を見つめて言った。
「納豆丸、お前はここにいて、監視カメラの映像から俺に指示を送ってくれ。俺は今からジジイをぶっ飛ばしてくる」
「私も連れて行け。一人は嫌だ……」
納豆丸は怯えたように眉をひそめ、鏡也の服の袖を握った。握られたところから納豆丸の震えが伝わってきた。彼女も不安を感じているのだろう。
「一人じゃないさ、イヤフォン越しに声は聴けるだろ。どんな小さな声も兎なら拾えるだろ」
握られた納豆丸の拳を鏡也はそっと包んだ。納豆丸の震えが徐々に止んでいく。彼女は顔を持ち上げ、赤い瞳で鏡也を睨んだ。
「絶対帰って来いよ。まだ私はお前の卵焼きを食っていないんだからな」
「ああ。お前こそ寂しくて泣くんじゃないぞ」
「泣くか、馬鹿!」
納豆丸の叱咤を受けて、鏡也は警備室を脱兎のごとく飛び出していった。
薄暗い階段を駆け上がっていき、鏡也は学習室の並ぶ四階に到達した。どうしたものかと考えあぐねていると、イヤフォンから納豆丸の高い声が聞こえてきた。
『ジジイの一体――仮にGⅠと名付けるか――は現在、四階端のトイレをうろうろしている。GⅡの居場所は分からない。気を付けて直進しろ』
「了解、トランシーバーはしっかり機能してるみてえだな」
鏡也は背後に気を付けながら、入り組んだ廊下を歩いて行った。廊下に面した学習室の窓から部屋の中の様子が覗けたが、勉強道具が散らばっているだけで、特に怪しい人影はなかった。
廊下の曲がり角に差し掛かろうという時、納豆丸の声が耳に届いた。
『GⅡを発見! 鏡也のずっと後ろから走ってきてる! 気を付けろ』
鏡也は慌てて振り返る。白い道着を下だけ着たマッチョな爺さんが、足音も立てずに背後から全力疾走してきていた。
「あの爺さん、忍者か!」
「ほう、よく儂の気配に気付いたな」
GⅡは察知されたことに気付き、足音を立てて更にスピードを上げてきた。鏡也はすぐさま角の向こうへと身を翻した。
「逃がしはせぬぞ」
鏡也はすぐにポケットから先ほどの紙切れを取り出した。それには「炎」と鏡文字で書かれている。鏡也は手鏡にそれを映す。途端に紙が燃え上がり、火の球ができ上がった。
熱くもなければ、手が焼けることもない。どうやらスケッチブックに書いてあったことは本当らしく、「疑似偽字」の能力では完璧な偽物を作ることができるようだ。
GⅡが角から姿を見せる。鏡也は彼にめがけてその火の球を投げつけた。
「むう!」
GⅡは一瞬怯み、体を後ろに傾けた。その隙に鏡也は彼の間合いに踏み込んで、腰を落として力を溜めた。
「爺さん、ちょっと痛いが覚悟してもらうぜ」
腹に向かって全力で正拳突きを放つ。手加減は加えなかった。
次の瞬間、鏡也の拳に骨が砕けんばかりの激痛が貫く。腹ではなくまるでコンクリートでも殴ったかのような反動だった。少し遅れて足にも痛みが走った。
鏡也の踏み出した足が、GⅡの足によって踏みつけられていた。
「悲しい……儂は甚く悲しいぞ……騙し技を使い、この程度の攻撃しかできぬとは……」
GⅡは目を細めて鏡也を見下す。彼の手の中では燃え盛る火の球が握りつぶされているところだった。
鏡也は必至に足を引こうともがいたが、GⅡの力は機械のように強かった。指の骨が圧に潰され、めりめりと音を立てている。
「なんて馬鹿力だ……ジジイ……」
「致命の一撃とは、このように打つものだ」
GⅡが暴れる鏡也の首元を鷲掴む。
やばい。そう直感するが逃れる術はなかった。GⅡの岩のような拳が鏡也の腹へと叩き込まれた。
焼けた杭でも刺さったようなひどい痛みが走った。内臓の位置が腹の中で変わっていくのが分かる。粘性の高い唾が吐き出される。
爺さんの強さは並大抵のものではなかった。鏡也は気の早い性分からしばしば争いに巻き込まれ、喧嘩の腕だけには自信があったのに、その自分が手も足も出せなかった。
このジジイは強い。
鏡也はGⅡを睨み上げながら、そう確信した。
「弱い殴りだぜ……もう終わりか、老いぼれジジイ」
「そんな軽口を叩けるとは、まだまだ足りないようだな」
GⅡは鏡也の首を左手で掴み、そのまま吊るし上げた。気道が塞がり息ができない。鏡也はGⅡの指を掻き毟ったが、力は一向に弱まらなかった。
「邪神はどこだ? 喋りたくなったらいつでも目で合図するがいい」
「ダレが……イウ、カヨ」
かすれ声で反論すると、首を絞める指の力が強まった。脳に血が回らなくなり、視界がぼやけてくる。
「儂は今、頸動脈を絞めている。もう少し力を加えれば、血圧が急速に下がり、お前は気絶するだろう。そうなる前に口を割るのが身のためだぞ」
「アイニク……チノケは……オオクテネ」
鏡也は最後の力を振り絞り、ポケットから無作為に一枚の紙と手鏡を取り出すと、即座に能力を使った。
触った感触は刃物だった。ただぶつけるだけでは駄目だ。先ほどの火の球の攻撃で自分の能力はすでに騙しだとばれているだろう。
その時、鏡也の頭に機転が浮かんだ。
まず、左手の刃物をGⅡの顔面にぶつけにいく。上がった腕を見ると、それはレイピアだった。
「無駄なことを。筋肉の動きから偽か否かはすぐ分かる」
GⅡはレイピアの先端を手でガードした。レイピアはすぐ破けた紙に戻った。
次に、右手で手鏡を握り割る。乾いた音が響く。かけらを握りしめ、鏡也はそれをGⅡの首元めがけて走らせた。
GⅡは一瞬目を見開き、空いている左手で鏡也の右手を払いのけた。
「こちらは本物か」
GⅡの腕が左から右へ大きく動いた。その隙を突き、左手の拳でGⅡの右肘の外側を殴りつけた。
首を絞める力が弱まる。力任せに足掻いて振りほどくと、床を飛びずさってGⅡと距離を取った。
GⅡは腕を抑えながら呻き声を上げていた。
「う……うぅ……腕が痺れた。貴様、儂に何をした……」
「人体にはどれだけ鍛えても無くせない弱点がある。肘の外側はその一つ。神経が筋肉にも骨にも守られずに剥き出しになっているんだよ。狙って殴れば、力の差があっても勝てる」
「どこでそんなことを知った」
「喧嘩の経験でだ!」
鏡也はGⅡに背を向けて廊下を走り出した。GⅡは追ってこなかった。
血まみれの手がうずく。鏡を握り割ったのだから無理もないかもしれない。止血しないといけない。