意識の底の世界
仮に僕が生死を決する僕の大きな戦いで僕のために僕の命を落としたとして、それはやはり僕が僕のために胸を張って誇れる死に様なんだと思う。
僕は僕のためならいつだって死ねる。だからこれから多くの悪魔たちと戦ってもし死ぬようなことがあっても僕は悔やんだりしない。その死に様を悔やんだりしない。僕の選んだ道を悔やんだりしない。
世界は悪魔の影に蝕まれながら今日も息づく。冬が近づいてきたせいか心の輪郭が冷たく浮き彫りになったような気がする。それどころか僕の纏う鎧すらも冬の風に凍えてその重さをうつうつと増していった。この場合、鎧というのはもちろん実際の鎧のことじゃなく一種の比喩的表現だ。僕が感じる周囲の空気をそう表現したのだ。この暗鬱とした重苦しい空気を。
僕はベッドから半身だけ起こす。軽く伸びをするとベッドから降りて窓を開けた。開けた窓からは冷ややかな風がびゅう、と入り込み僕の寝起きの身体を突き抜けた。
僕はその寒さに凍えながら窓から見える外の景色を眺めた。天気は晴れ。快晴。青い空がどこまでも広がって僕の心を空っぽにさせた。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、僕は窓を閉めて顔を洗った。冬に何が一番嫌気がさすって言ったらこの水道水の冷たさに他ならないだろう。もちろん僕の水道はお湯も出る。いまどき水しか出ない水道を使ってるのなんて公立の小中学校くらいだろう。一般の家屋ではほとんどがお湯の出る水道を使ってるはずだ。なんにせよ、とにかく僕は冬の冷たい水が嫌いだ。このお湯が出るまでの冷水の時間がほとほと嫌になるね。冷たい水に嫌気をさしつつも僕は顔を洗い朝食を用意した。簡単にハムエッグとトーストを食べた。朝食はシンプルなものに限る。
僕は朝食を済ませると着替えをした。薄いベージュのチノパンに濃い肌色のティーシャツ、その上にグレーのカーディガンを羽織った。首元まで伸びた長い髪を無造作に整え、茶色のレースアップブーツを履いて僕は家を出た。悪魔に害されることのないこの平和な家を。
「積木くん、ずいぶん髪が伸びたんじゃない?」陽の当たる道端のベンチで彼女は僕の髪を眺めてそう言った。「ほら、引っ張れば肩まで伸びるわ。こんなに伸ばして一体どうするの?」
「どうするの、って。ふふ、別にどうもしないよ。ただ切るのが面倒だったのと、鏡を見て特に妙な違和感も感じなかったんだ。だから、放っておいたらこうなったのさ。」僕は前髪をつまんで言った。すると彼女はふうん、と言って視線をむこうに見える山のほうへ移した。僕も前髪をつまむのをやめて山に視線を移した。山は見ている僕の心を特に動かしたりしなかった。山はただの山でそれ以外の何でもなかった。少しの間、僕たちは山を見ていた。そしてどっちからともなくベンチを立って歩き始めることにした。時刻はまだ十時前。それなりに冷たくなった空気を肌に感じる。吐く息も白く染まり、僕らに冬の訪れを知らせているように思えた。冬の寒さは僕を言葉にできないような不安な気持ちにさせる。
信号が赤色を示したころ、僕は左手に不意にぬくもりを感じた。見てみると僕の左手は彼女の右手にぎゅっと握られていた。
思わず彼女の顔を見るとそこには特に表情という表情はなかった。むしろ無表情とでもいうのか。彼女は僕の手を信号が青になるまでずっと離さなかった。
信号が青になると、ふっと僕の手からぬくもりは消えて彼女は淀みのないペースで歩き続けた。僕は何とも言えない気持ちを胸にしまい彼女のあとを追った。
彼女が歩くのはいつでも僕の三歩前。三歩後ろから見える彼女の後ろ姿はいつでも僕の心をざわつかせた。
黒く艶やかに伸びた黒髪が風に吹かれて広がるとその匂いまでも一緒にあたりに広がる。その匂いは三歩離れた僕の鼻腔にまで届いた。それはとてもいい匂いで、僕の気持ちをとても澄み渡ったものにした。そんな彼女の後ろ姿を僕はとても愛おしいものに思えた。
「積木くん。私ってどこかおかしい?」それはひどく唐突な質問だった。
彼女は道の真ん中で振り返って僕の目を覗いた。そして僕の目をしげしげと見つめてそう言う。
「おかしいって。ええと、急にそんなこと聞くなんてどうかしたの?」僕は少し困惑したふうに言う。「僕はそう思わないけど。君は君自身でどこかおかしく思うところがあったりするの?」
僕がそう言うと彼女は考え事をするかのように眉間にシワを寄せた。「んー、どうかしら。本当はね、私って自分のこと全然おかしくなんて思わないの。むしろとっても普通の人間だって思うわ。」
彼女の言葉でさらに僕は困惑する。「よく分からないな。君は君のことをひとつもおかしいなんて思ってない。」
「私は私のことをひとつもおかしいなんて思ってない。」彼女は僕の言葉を繰り返した。
「じゃあ、なんでさっきみたいなことを突然聞いたりしたのさ?」僕がそう訊くと彼女は再び眉間にシワを寄せて言葉を選ぶように喋った。「うーん、だからね。私は自分のことを全く普通の人間だと思うの。でね…私は自分のことそう思うけど、周りの人は違うじゃない。周りの人はもしかしたら私が普通だと思ってる私のことをひどくおかしな人間だって思ってるかもしれないじゃない。そういうのって、すごく気にならない?」
彼女の言葉に僕は少し考えた。自分の思う自分と他人の思う自分のこと。やはり誰でもそういうことは気になるものなのか。
僕は歩みを止めることなくそのままのペースで彼女に言った。
「確かにそういうことはとても気になる。僕も他人の思う自分のことをとても興味深く思うよ。」
「ね、そうでしょう。」彼女は期待通りで喜んだような顔をした。
「まぁ、君のことだけど。君はあまり変わってるという感じはしないよ。変わっていると言えばどこか変わってるところもあるけれど、それは大多数の人間それぞれをもっと深い面で見ないと分からないような違いのようなものだ。誰でも深く関われば違いというものが個人々々浮かび上がってくるものさ。つまり、僕にとって言えば君はそこまで変わってるというような面はないね。」
僕らは歩きながら会話を進める。僕の意見に彼女は満足しているのかそうでないのかよくわからないような顔をしながらも歩む速度を緩めたり急がせたりはしなかった。
少しの間、僕たちは特に会話を交わすことなく歩き続けた。
僕たちがいったい何処に向かっているのか、それは僕にもわからない。僕はただただ三歩前方を歩く彼女の後ろ姿を視界に入りこませながら無心に足を動かせるのみなのだ。
僕の身はもはや彼女に任せてあるといっても過言ではない。彼女が行くところならば僕は何処だって構わなかった。彼女が行くところならば僕はどれだけ歩いても構わなかった。
ふと、彼女は立ち止った。僕は顔をあげ様子を見てみる。すると、そこにはまた赤色に薄く点る信号があった。僕らの目の前の道路には一台も車は走っていない。僕らの周りの風景には一人も人影のようなものはない。なんだか僕たちはどこか別の静寂だけが支配する世界へと知らないうちに移り変わってしまったのかもしれない。
「ねぇ、積木くん。なんだか不思議だと思わない?」彼女は平淡な口調で尋ねてきた。それに対して僕は一言、そうかもしれないと言った。
「何でここまで静かなのかしら。今日は別に日曜ってわけでも祝日なわけでもないのよ。時刻だって…ほら、十一時半。とっくに普通の人間なら活動しててもいい時間だと思わない?」僕はそれに対してまた、そうかもしれないと言った。
彼女は鞄の中から携帯電話を取り出した。誰かに電話でもするのだろうか。それともメールだろうか。
信号が青に変わる。
「積木くん。携帯、借りてもいいかしら?」僕は不思議に思いながら彼女に自分の携帯電話を渡した。彼女は訝しそうな顔をして僕の携帯電話のディスプレイを眺めた。僕には彼女が何を思ってそんなことをしているのか分からなかった。でもなぜか何をしているのかなんて訊いたりはしなかった。何故だろう。分からない。
しばらく僕の携帯電話と自分の携帯電話を比べて眺めたりしたら、彼女は何か諦めたかのように僕に携帯電話を返した。
「何でもないの。ごめんなさい、ありがとう。」そう言って彼女はさっと横断歩道を渡る。
僕も彼女の後を追って歩き出そうとした。しかし、僕の足は思うとおりに動かなかった。動けなかった。
彼女が横断歩道の真ん中あたりを歩いていると、そこに突然現れたのはおよそ時速八十キロほどの速さで走行する貨物トラック。僕の足はピタッと地面にはりついたかのように微動だにしなかった。ただ眼球だけが水分を失いながら活動を続けていた。心臓の音、呼吸の音、そして骨のきしむ音。それだけが僕の脳内で響き、鼓膜が伝える音量はゼロと言っていいほどまったく感じられなかった。そして、僕の網膜がとらえた景色は僕の理解のはるか外側をいくものだった。
まずトラックのフロント部分に彼女の身体がスライムかタコのようにぐにゃりとへばりつき、そのまま彼女の身体はトラックの下敷きになる形で巻き込まれてゆき、次の瞬間僕の視界からはトラックの姿は消えていた。そして、彼女の姿すらもそこにはなかった。
白や薄い灰色や薄いベージュ、若草色などといった極めて薄い色であたりの風景は構成されていた。
周りを見渡す限りここには建物というもの、つまりビルなどのそういった建造物は見止められることはなく、ただただ草原や丘といったなだらかな景色が広がっていた。
私にはなぜ自分がこんな場所にいるのかということが分からなかった。少し前までの記憶が断片的に欠落しているように思えた。何かを忘れているということは曖昧な霧のように感じられたが、それについて思いを馳せようとすればすぐに私の思考はひどく濃い闇の中に消えてしまうようになった。私は携帯電話を確認してみた。日付や時刻が分かれば何か記憶を探る鍵になると思ったのだけれど、期待むなしく携帯電話のディスプレイは漆黒に沈んでいた。携帯電話を鞄の中にしまうと、私はとりあえず歩くことに決めた。立ち止っていても仕方ないのだから。
しばらく歩いてみても景色はずっと変わることはなかった。ずっとずっと薄い色に染まった草原が広がっているのだ。どれほど歩いたのだろうか?体感的にはもう一時間くらいは歩いていそうだ。
私は近くの適当に座れそうな場所に鞄を置いて座り込んだ。歩くのは嫌いではない。むしろ好みの方だ。しかし、こうあまりに恒久的に変化のない景色を眺めながら歩き続けるというのはなかなか精神的にこたえる。だから私は少し休むことにした。私はもう一度自分の状況について考えてみることにした。
私の名前は卯月希。
年齢は25。
1987年3月24日生まれ。
卯年。
うお座。
血液型はAB。
右寄りの両利き。
身長162センチ。
体重42キロ。
バストカップはB。
ウエストは60。
ヒップ76。
私を構成する情報はざっとこのくらいのもの。どうやらこういった基本的な情報は記憶としてしっかり残っているみたいだ。私が幼稚園だった頃のことも小学生だった頃のことも思い出せる。
だとすれば思い出せないのは、ここに移ってきた時の記憶だけ。
私は少しの間目を閉じて考えつく様々なことについて頭を巡らせた。昨日のことはなんとか思い出せる。昨日の朝は七時十二分に起きて、トーストと目玉焼きを食べた。そのあと私は本屋に行った。望みの本はすぐに見つかった。そして、本屋の近くの喫茶店でそも本を読むことにした。二時間ほどして喫茶店を出た。そして、誰かに電話をした。そう、誰かに。
「誰だったかしら…。」私は思わず口に出して呟いた。私は確かに誰かに電話をした。どんなことを何のために話したのかは全く思い出せないが誰かと電話をしたという記憶だけはある。私は一体誰と電話をしたのだろう。
はっと思い立って再び携帯電話を取り出してみる。しかし、そこには真っ暗なディスプレイがぼうっと覗くだけだった。私はひどく落胆した。何故こんな時ばかり携帯電話は携帯電話としての機能を果たさないのだ、と。その通話記録なんかを見れば私が誰と(内容まではわからないが)通話したのか瞭然だというのに。私は携帯電話を投げ飛ばしたい感情を必死に抑え、鞄にしまった。その時、私の持つ携帯電話は急に長い振動を続けた。私はその突然の振動にひどく驚き、危うく取りこぼしそうになるが、何とか持ち直し携帯電話のディスプレイを確認した。すると、そこには非通知で誰かからの着信があることを知らせていた。私はほぼ反射的に電話に出た。電話に出ると女の声でもしもし、と呼び掛ける声がまず聞こえた。
「もしもし?」私も同じように言う。するとむこうからノイズ交じりの音声がかすかに聞き取れた。
「ーーーザザーー…あなたは卯月希ーーザザザーー」聞き取れる音声を頭の中で何度か咀嚼して意味を見出す。卯月希と言えば私の名前。この電話相手は私のことを知っている?私は不思議に思いながらも続いて言葉を紡いだ。
「ええ、私は卯月希よ。あなたは誰?」私の問いかけに対して電話の主は感情のない言葉で答える。
「あなたが今いる世界はあなたの知っている世界とは別の世界。」
電話の主は私の問いかけを無視してよくわからないようなことを話し始めた。ノイズもいつの間にか消えている。
「どいうこと?ここがどういう場所か知っているの?」
「この世界は始まりながら終わっていく世界。世界の果てにある現実と乖離された新しくもいにしえの世界。」
私には彼女の言葉の意味があやふやでほとんど理解できなかった。そもそもこんな不可思議な世界でこんな不可思議な言葉を唐突に言われてもすぐに飲み込めるわけがないのだ。私はそれほど達観してる人間なんかじゃないのだから。極めて一般的な人間だ。
私は彼女によく分からないわ、と言った。すると彼女は静かな声で、歩き続けなさい。そうすれば何かに巡り会えるはずよ。と言って電話を切った。
電話が切れた後、私はしばらくぼうっと風景を眺めた。気が付くと空には光を失っている月がひっそり佇んでいた。空はまだ仄明るい。時間的にはまだ昼から夕方の間と言ったところなのだろうか。そもそもこの世界に朝と昼と夜という概念が存在するのかどうか疑わしいところだけれど。
月から目を離して、空を全体的に見渡してみる。すると空には太陽がどこにも存在していないことが分かった。仄明るい空には太陽はなく、星もない。あるのは光を失った月のみだ。月はとても大きく見えた。本来なら私たち人間が肉眼で見ることのできる月はほんの豆つぶほどの大きさだが、いま私の目に映る月はひどく大きい。私の知る太陽よりもはるかに大きい。月と地面の距離が近いというわけではない。果てしなく遠
い位置に月はあるように思える。なのにあの月にはすぐにでも手が届きそうな感覚がする。私にとってそういった景色はもうこの世界の在り方として素直に受け入れるしかないようだった。私が今この世界についてある知識と言えば、ここは元いた世界とはやはり違う異なった世界で空には太陽や星々はなく非常に大きな月があり、私が歩き続けるしかないってことくらいだった。
僕はひどく混乱した。もしかしたら今もまだ僕は混乱を続けているのかもしれない。僕はとりあえず彼女に電話をしてみた。何回目かのコールの後、電話の向こうから聞こえたのはこの電話番号はもう使われていないということだった。僕は携帯電話をポケットにしまい、途方に暮れた。呼吸の間隔が段々と短くなってくる。視界もにわかにブレてきた。僕はどうやら自分で思うよりもずいぶん戸惑っているのかもしれない。過呼吸とまではいかないが、呼吸が乱れる。頭の中がぼうっと白みを帯びる。顔色が悪くなっているという感覚もする。僕は気を落ち着かせるため、何処かのカフェに入ってコーヒーを頼んだ。コーヒーはひどく苦くて、僕の脳みそをゆっくりではあるが確かに沈めていくようだった。コーヒーの苦みが口中に浸透しきった頃、僕はようやく冷静さを取り戻した。僕はひとまず自らの状況やらその時の状況などを検分してみる。今日の朝から彼女が消えるまでの時間の流れの中で起こった事象を一つ一つ見返してみる。しばらくの間、僕は考えられるすべてのことを綿密にあらゆる方向から黙考し通した。だが僕は全くと言っていいほど解決の糸口となるヒントすらも見出すことができなかった。そもそも不思議で不可思議で不自然だ。僕はいったい何について考えればいいというのだ。目の前で彼女が突然トラックにひかれたと思えば次の瞬間トラックごと跡形もなく消えていたなんて。どう考えてもおかしい。あり得ることじゃない。トラックにひかれるまでならもしかしたらまだ起こり得るかもしれな
い。可能性はゼロじゃない。しかし、消えるだって?消失と言ってもいい。そんなのは〝あり得ない″。起こり得るはずがないんだ。この世界で10ある質量が瞬く間に0になるなんてことが。ましてや人一人にトラック一台。それだけの質量を瞬時にどこかへ移動させることの出来る技術は現代には存在しない。もはや空想の世界の出来事。
はっ、と僕は思い立った。「幻…?」そう口に出して呟いてみる。しかし、そんな儚い思いも泡沫のようにすぐに消え失せる。そんな〝幻なら…″なんて世迷言が、それこそあり得るわけはない。僕は不自然すぎる出来事に対して、もはや自分自身を疑おうとしたのだ。まさかこの期に及んで自らを疑うという愚昧は犯すまい。もう信じるべきは自分自身をおいて他にありはしないのだから。僕はこの謎に対して独力で挑まなければならないらしい。
ふと、コーヒーを半分ほど飲み終えたところで携帯電話を確認してみる。すると、急に携帯電話のディスプレイに着信を知らせる画面が表示された。僕は一瞬驚いて、着信元を落ち着いて確認してみる。ディスプレイに映るのはは「非通知着信」。僕は少し迷いながらも電話に出る。
「もしもし?」僕は電話に出てお決まりの台詞を言う。すると、電話の相手は少しもやのかかったような声で返事をした。
「もしもし?あんたは積木末来だね?」
唐突に僕の名前を確認する電話相手に僕は少し怪訝になった。
「ああ、僕は積木末来。あんたは?」
「今朝…と言ってもすでに昼前だったか。そう、その昼前。何かあったろ?何か重大なことがあったはずだ。」電話の主は僕の問いかけを無視して話し続ける。「なに、心配することはない。俺はお前を助けてやろうとしてるだけさ。ほんのささやかな手助けってやつだ。さ、何があったのか言ってみろよ。」
僕は少し、というよりかなり動揺した。ひとつずつ相手の言葉を噛み砕く。彼の真意なるものはいったい何であるのか。少しの間黙って考える。そうして僕が黙っていると彼は少し苛立ったような口調で再び話し始めた。
「……そーいや自己紹介をしてなかったな。素性も知れん相手にほいほいと喋る気にはなんねーよな。……といっても俺は決まった名前なんか持ってねーんだよな。まぁ、呼び名は好きに決めてくれ。俺の名前なんてたいして重要じゃない。重要なのはむしろ、俺の役割か。
俺はお前にいくつかのチャンスを与えてやれる。それはいくつかの小さなチャンスだ。そのチャンスをしっかり活用するのもみすみすフイにするのもお前次第だ。」彼がここまで話したところで僕はようやく口を開く。
「ちょっと聞いてもいいかい?」
「何だ?」
「まず君には名前がない。」
「そうだ。」
「名前は僕がつけるのかい?」
「んー、まぁ、違いねえな。お前の好きなように呼んでくれりゃそれでいい。」
「じゃあ、君のことは“ストレンジャー”とでも呼ばせてもらうよ。かっこいいだろ?」
「ああ、構わねえ。“ストレンジャー”……なかなか良い名前じゃねえか。気に入ったぜ。」
「それで、ストレンジャー。君は言ったね。僕に“チャンスを与えてやれる”って。その“チャンス”というものはいったい何のことなんだい?君は、何者なんだ?」
「俺が何者かは追い追いお前にも分かってゆくはずさ。というより、俺は俺の正体ってやつをお前に言うわけにはいかねえ。それはお前自身でこれから見つけてくれ。」彼は頭を掻くように言った。
「で、チャンスというのは?」
「簡単なことさ。お前が“卯月希”に巡り合うためのチャンスのことだよ。」
僕は心臓がキュッと引きつくのを感じた。
彼は今確かに〝卯月希〟と言った。僕は自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。脳みその奥深くに血流がドクンドクンと響き渡る。僕は彼に対して極めて平静な口調で言葉を紡ぐ。「僕が、彼女に巡り合うための?」僕の言葉に彼はそうだ、と言う。「俺はいわばアドバイザー的な意味合いを含んだ存在だ。このゲームにおいて、お前に対してフェアになるように俺はお前に有益な助言を与えることができる。無力な人々が有力な神々にあらがうことができるように。」
そこまでいうと彼は唐突に電話を切った。その余韻すらもすっぱり断ち切るように。
僕はしばらくの間、呆然と佇立していた。どれくらいの時間そこに佇んでいたのか、もう空には太陽が半ば沈みかけ仄暗い空気があたりを支配していた。
僕は家に帰ることにした。
しばらく歩き続けていて私はあることに気付いた。すでに頭では多くの時間が過ぎ去ったように思える。だが、私の肉体に時間の経過という概念はほとんど感ぜられることはなかった。それはまるで肉体が私の脳とは遠く乖離された位置にあって、今私の首から下についている肉体は私とは何の関係もないただのたんぱく質の塊にすぎないのではないかと思えるほどだ。試しに自分の前腕部分を軽くつねってみる。するとそこにはか細く鋭い痛みがストレートに神経を伝わって私に届いた。どうやら曲がりなりにもこの肉体はしっかりと私のもののようだった。疲れは感じなくても痛みは私にしっかり届くのだ。どうにも疲れを忘れることはできても、人は痛みを忘れることは簡単にはいかないらしい。
私が途方もなく歩き続けている間、再び電話が鳴ったりすることはなかった。私にとってこの世界はとても、と言っていいほどに謎が多すぎる。肉体に疲労は感じられなくとも精神には、心には確かに疲労は溜り積もっていた。それに心は身体ほどシンプルでない。休めればたちまち回復するとは限らない。私は足を進めれば進めるほどに不安に包まれた。自分はいったいどこに向かっているのか、それだけでいい。それだけ教えてくれれば私の心はいくらか軽くなるはずだ。何人も終わりのないレールを歩み続けることはできないのだから。
ふとしたところで私は十メートルほど離れたところに三メートルほどの腰の曲がった木があることに気付いた。その木はこの漠然とした世界の中でいつしかその寂しさに耐えきれなくなって、そろそろと過ぎ行く寿命の流れの中に身を任せているように見えた。
私は失礼しますと少しお辞儀をして、その老樹に寄りかかって座り込んだ。私は老樹に仄かな暖かみを感じ、とても落ち着いた気分になれた。それは懐かしみのある暖かさのように思えた。ときおり心地の良い乾いた風が吹いた。その風になびく自分の髪を耳にかけて、しばらくぼうっと景色を眺めた。風にざわめく原の草は規律的に生えそろっているし、空にはやはり太陽の姿はなくて、私はこの世界では独りぼっちだ。
私は再び昨日の夜、最後に電話した相手が誰だったかを思い出す。背中に感じるこの老樹の暖かみ。その懐かしさがどのようなものから感じる暖かみであったのか。その答えに私はどこか心当たりがあるはずだ。ただそれを忘れているだけなのだ。いくら深い沼の底に落としたといえど探し物は確かにその沼にあるのだから、見つからないはずはない。ただ時間がかかるだけだ。私にはその時間を限りなく短くする何らかの契機が必要だった。ダウジングマシーンのような探し物を見つけるためのきっかけたり得るものが。
事態は唐突に進みゆく。
私はいつの間にか知らない間にうたた寝をしていたらしい。目が覚めたとき私の目の前の景色は穏やかでパッとしない薄いものから突然、白銀が支配する凍てつくものへとその色を変えていた。
目の前に広がるのはただただ純白に映える雪原。空からも白や銀といった雪のようなものが辺りにしんしんと降り続いていた。
私は目を疑った。目の前に厳粛に広がる雪景色は果たして幻だろうか。私は近くにある雪に手を触れる。そこには確かにひんやりとした冷たさが息を潜めていた。
私にはこれが幻ではないことが理解出来た。もう私の神経は随分とこの世界に慣れてきたように思える。
常識が常識でなくなる感覚。もっといえば非常識が常識になる感覚。そんな感覚は思ったよりも簡単に私の体に染み付く。
私は立ち上がって伸びをした。冷ややかな空気が肺の中に立ち込める。私の心は不思議と清々しく感じられた。さっぱりとした冷たい空気は私にとって目覚ましのように思えた。
私は老樹にお辞儀をし、また果てなき道を歩いた。私の履くブーツの底に雪の感触が一歩一歩染み付く。後ろを振り返ると足跡の平行線が、遠く見えるあの三メートルほどの腰の曲がった老樹までずっと続いている。私はその平行線を見るとなんだかそこはかとなく安心感のようなものを感じた。
しばらく歩いていると道はどんどん傾斜が増してきた。大きな丘のようだ。私は感覚的に三十分ほどでその丘を登ることができた。
頂上からはこの世界のずいぶん遠い場所まで見通すことができた。そこには、果てしなく続く草原があると思えば、なだらかな地面がずっと広がっていて、またあるところには深い深い森閑とした森が佇んでいた。
眺望を一つずつ確認したところで、私の肉体はやはり疲れを感じていない。思えば、喉の渇きも空腹も尿意も便意も何も感じない。私は不思議に思った。やはり私の身体は私のものであるようで、実際全くの別物なのではないか。私はいったいどういった経緯でこのような身体になったのか。甚だ疑問だ。しかし、悩んでいたところで私には何の答えも見出せないことは自明だ。私にはやはりこうやっていつまでも彷徨し続けるしか道はないらしい。
ただ、ただ一つ。私にはどうしても知っておきたいことがあった。私がこのような世界になぜいるのか、ということや、この世界の仕組みについて、などよりもより一層私は昨日の夜誰と電話をしたのかを知りたかった。
恐らくその人物はこの出来事と大きく関わっているはずだ。根拠はない。直感的に私はそう思う。私のことだ、恐らく前日の晩に電話をするということは翌日に会う予定の取り決めでもしていたのだろう。私はいつもそうやっていた。よっぽどのことでない限り私はそういうこと以外で夜に電話をしない。翌日、つまり今日。私がこの世界で目覚める前の時間。その時に私とその人物は恐らく共にいたはずだ。百パーセント確実に、というわけでは決してないが可能性は非常に高い。そして、その人物はこの事(私が異世界に迷い込んだこと)について、まさか無関係であるとはとても思えない。
何事も憶測でしかないけれど、私は私の中でその人物に対してそんな強い希望のようなものを抱く必要があった。
次の日の朝、僕は八時二十二分に目が覚めた。いつもよりかなり遅い起床だ。昨晩のことは何も覚えていない。何時ごろ食事をしたのか、何時ごろ寝床についたのか。寝る前に何をしたのか、何を考えていたのか、そんなことはどれも僕の脳みそには残っていなかった。
僕はいつも通り洗面所で冷たい水に顔を歪めながらも顔を洗い、少しうっすら生えた髭をカミソリで剃った。
朝食はあまり食べる気にはなれなかった。だから、コーヒーだけ飲むことにした。
僕はコーヒーを飲みながらストレンジャーについて考えた。彼がいったいなにものかということよりもまず、彼の本意について考えた。彼は僕と彼女が再び巡り合うために協力してくれるらしい。突然、目の前から普通じゃない形で消えた彼女。そして普通にはとても思えない謎の人物、ストレンジャー。ふたつの謎が僕を更なる謎の混沌に追いやっているかのように思えた。
それは金色に鈍く光を纏っている。僕はその金色がひどく眩しく思えた。青い柄に金色の鍔。そしてスラリと短く伸びた刀身はやはり金色に鈍く光を纏っている。僕はその眩しさに目を細めなければならない。
僕はその短剣を鞘にしまった。鞘は赤をベースに金色の装飾がそこかしこに施されていた。
「この剣は……?」僕は極めて平静な様子で尋ねた。
目の前のカラスは僕をその黒い双眸にピッタリ捉えたまま、何も言わなかった。僕は重ねて問いかける。
「この剣が……僕にとって何か強い意味を持つ。
僕にはそう思える。根拠なんかないけど、僕はそう思う。」
僕の声にカラスはやはりなんの反応も示さない。僕とじっと睨めっこを続けるばかりだ。
僕はコーヒーを飲み終えたあと、家を出た。どこに行こうというわけでもない。ただ、これでも僕は大きく悩んでいる。強く思いつめている。そのほとんどは彼女についてであり、それに関することだ。そうやって、脳みそを悩みの溜まりに浸して家にこもってばかりでは身体にとても良くないと思ったのだ。
そして、僕はあてもなくぶらぶらと考え事をしながら歩き回ることにした。
近くの公園や少し離れた公園。
雑踏のはびこるスクランブル交差点。喧騒にざわめく繁華街。
この世界は僕がいくら大きな問題を抱えていようが関係なく進みゆくようだ。
僕がそうやってグルグルグルグル
とどこかしらを歩き回っていると、急に僕の眼前に一羽の漆黒に身を包んだカラスが飛んできた。僕はそれについてひどく驚いて、思わず腰を抜かした。誰しも不意にカラスが自分に向かって飛んでくると分かって準備してる訳はないだろう。それに僕は繊細な人間なのだ。毎日が驚きに満ちている。それくらいのリアクションにどこもおかしいところはないはずだ。僕は打ち付けた腰をさすりながらゆっくり目をあげる。すると、そのカラスがくちばしに例の金色の剣を咥えていたことが分かった。
「ねぇ、僕はこの剣で何をどうすれば良いのかな。どうすれば僕は彼女に逢うことが出来るんだい?
君は恐らく、ストレンジャーがここへ寄越したんだろ?じゃあ普通のカラスじゃないはずだ。頼む、何か教えてくれ。」僕はそうやって真剣にカラスに語りかけ続けた。しかしカラスは僕の目をずっと黙って見つめていた、かと思えば次の瞬間首を傾げてどこか遠くの方へ飛び去ってしまった。
僕はカラスが飛んで行った方向をしばらく呆然と見つめた。
考えれば普通カラスが口を聞くわけもないんだ。僕は冷静になってそんなことを頭の中でつぶやいた。僕はやはり少し落ち着いた方が良さそうだった。
剣自体はそこまで大きくはない。短剣という名称がピッタリといったサイズだ。しかし、いくら短剣であったとしても白昼堂々片手にこれを携えて歩くということはとても簡単な話ではない。不審極まりない。一歩間違えれば通り魔と疑われる可能性も無きにしも非ずだろう。僕は生憎、カバンなどは持ち合わせていない。どうすれば僕は、静けさを保ちながら時折その危険な匂いを顕著に発するこの怪しさを周りから隠し通すことが出来るだろう。
僕はしばらく状況を斟酌し、結局その短剣をポケットにしまった。
家へ帰ると同時にストレンジャーから二度目の着信があった。
「どうだい、俺のプレゼントは気に入ってくれたかい?」
彼はニヤニヤとした口調でそう言った。
「やっぱり君だったのか。あのねぇ、こういうのは出来るなら今後は無しにしよう。僕はあまりタフじゃないんだ。それにカラスは苦手だ。これからもカラスが何度となく僕の目の前に飛び込んでこられるのはとても喜ばしいことじゃない。僕には考えただけで気が重くなることだ。わかったかい?」
僕は子供を諭すような口調でそう言った。ストレンジャーはそれについて分かったんだか分からないんだかよく飲み込めない曖昧な返事をして話を続けた。
「俺がお前に渡した剣はなんてことはない、もちろん魔法の剣なんかじゃねー。そいつは変哲もないただの短剣だ。切れ味がちょっと良いくらいのただの短剣だ。
まぁ、人にとっちゃ……なんだけどな。」
彼の言葉に僕は一瞬ドキりとした。「人に……とっちゃ?」一つずつ吐き出すように尋ねる。
「あぁ、それは普通なら何の変哲もないただの短剣だ。しかし、まさか俺がお前にただの短剣を渡すわけはないだろう。
それは世間からすればただの刃物だ。しかし、お前が持つことでその短剣は大きな意味と特殊性を得る。」
僕はいまいち釈然としなかった。僕によって特別になり得る。僕によって僕にとって大きな意味を持つ。そんな短剣が果たしてあり得るのだろうか。
僕は少し怪訝そうに尋ねる。「疑うつもりはない。信じてくれ。ただそうたやすく鵜呑みに出来るわけじゃないだけなんだ。
証明は出来るのか?
そう、僕にとってこの剣が特別であるということが。」
「ふー、そうするとフェイズが随分と先飛ばしになっちまうんだけどな。まぁ、どのみちお前にその運命の剣を渡すことは避けられない事態だったからな。別に構わないか。いいだろう、話してやるよその証拠を。」
彼は意を決したように言った。
私は森の中を深く進んだ。別に進む先はどこでも良かったのだ。果てなく続く草原だろうが、終わりの見えない地面が広がる道だろうがどこでも。問題は私が歩き続けるかどうかということなのだ。
森は思ったより険しくなかった。外から見る森は厳しく穏やかでない印象を私に受けさせたが、どうやらこの世界は見た目とその本質が同一であるという蓋然性はあまり高いようではなかった。
ともかく、森の道が険しくないことは私にとって少なくともマイナスではなかった。人間誰しも楽をしたいものだ。異世界に迷い込んだ私であってもそれは例外ではない。
この世界でも樹々は生気をあたりに振りまき雄々しくそびえていた。手を触れてみると、そこには確かに命の脈動が感じられた。さきほどの老樹には感じなかった脈動だ。それはまるで男性器の打つ脈拍のように思えた。
私は男性器について考える。まず、何故私はこんな時に男性器など頭に浮かべたのだろう。他にも思い浮かべるべきものはたくさんあったはずだ。ここに来て思いも寄らない男性器。私は欲求不満なのかしら。確かに最後にセックスをしたのは思い出せないけれど、いくらなんでもということはあるだろう。
もしかしたら、私が突然男性器を思い浮かべたのは、昨日電話した人物に強く関係しているのかもしれない。その蓋然性はまだ高くてもおかしくはないはずだ。
しばらく森の中を進んでいくと、ふとしたところでそれなりに開けた場所に出た。枝と枝とが重なり出来ていた森の屋根はなくなり、上を見上げればそこにはすっかり暗くなった空があった。
「暗く……。」私は思わず口に出して呟いた。そして続けて心の中で、ここにも夜はあるんだと感心するように思った。だが、夜になっても空には星の姿はなかった。空はひどく重く沈んだ黒色をしていた。
星や月の輝きがないせいか、空の黒さはとても尋常ではない深さを伴っていた。重力の奔流の塊のような重々しさがそこにはあった。
私は広場のようなこの場所にどこか座れそうなところを探す。そして、一本の太く大きな逞しい樹木にもたれかかるようにして座った。空を見上げ、その重さをじっと見つめ続ける。鼓膜に響くのはただひたすら沈黙の音であったり、自分の呼吸の音、そして心臓の音だった。そうやって意識を一点に集中していると一秒が悠久の時の片鱗であるような気がしてくる。
空の黒さは、まるで私の心に強く何かを問いかけているように思えなくもない。しかし、そのずっしりとした重力が私に対してどのような問いかけをしているのかは分からない。私は目を閉じる。耳を済まして風の音を聞く。風は樹々を優しく揺らし、心地よいメロディを私の双耳に届ける。
急にガサッという音が私の鼓膜を揺らす。私は一気に血が冷めゆくのを感じた。と、同時に目を開きその音のした方を睨みつける。
「誰!?」と私は語気を強くして問いかけた。音の元から反応はない。動物か何かかしら、と思いかけるが、私が睨みつける場所から再びガサっという音とともに聞き覚えのある空気の振動がした。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。」
その声に私は唖然とした。
僕は剣を机の上に置いた。そして、自分の心臓の音に耳を傾ける。ドクンドクン、と喜びのような高揚感に不安の入り混じったような音色が聞こえた。
僕は剣を鞘から抜いて、光に翳して目を細めた。
美しい、そう思えた。
ストレンジャーから彼女が死んだということを聞いたのはつい五分ほど前の出来事。
状況説明などはされなかったが、彼は僕にそういう結果だけを教えてくれた。
そして、この短剣についての確実な説得力を持つ証明をしてくれたわけじゃないが、短剣の役割や意味合いについて少し詳しく話してくれた。
「彼女が……死んだ?」
「ああ、そうだ。」彼の口調は心なし厳かだった。
「卯月希は完全に死に切ったと言い切れるものでは、確かにない。だが、生きていないということは確実に言い切れる。生きてないけど死んでない。概念的に言えば卯月希はまるでアンデッドみたいな存在になってる。色んな限定的で複雑な状況が卯月希に折り重なってしまった。そうして、結果的に卯月希はそんな存在として異世界を彷徨うことになってしまったのさ。」
僕は声帯が震えているのを感じる。「アンデッド……彼女が?はっ、そんな……そんな馬鹿な。」
僕はひどく動揺した。
そんな突拍子もないことを言われて、僕は一体どうすればいいと言うんだ。昨日今日で僕の周りの世界が急速に崩壊していってるように思える。実に迷惑だ。僕はそんな非常を望んだりしていない。気付けば僕の平穏はどこへ行ってしまったんだ。
「動揺しているな。まぁ、仕方ないことさ。よく分かる。信じたくないし、信じられないことだろう。人間ならではの感性だ。大事にした方がいい。
でも、俺が言ったことは正真正銘事実。信じようしか道はないような事実さ。
ただ、こんな絶望的な状況でも俺はお前を助けてやれる。もちろん無条件でな。」
「僕を助ける…。昨日も確かそんなことを言っていた。
分かった、分かったよ。従おう、僕は一体どうすればいいんだ?」僕はなるべく息を落ち着かせてそう言った。
「まぁ、助けると言っても俺はもう半分くらいお前を現在進行形で助けてやってるところなんだけどな。」一呼吸して彼は続ける。
「その剣、それの本質は運命を司っている。運命の剣、とでも言えば格好がつくだろ?」
「運命の……剣。」
「ああ、そうだ。そいつがお前の手に渡った時点で運命は急速に自転を続ける。もうすぐ自分でも分かるようになるはずさ。運命はもうお前の手の中にあるんだからな。」
そこまで言うと、ストレンジャーは電話を切った。
僕はそのあとストレンジャーが言った、この運命の剣について考えた。この剣がもしかして、僕と彼女を繋ぐ鍵のようなものになるのだとしたら、その扉はいったいどこにあるのだろう。
僕と彼女が再び巡り合うためには、僕がいるこの世界と彼女がいる別世界とを繋ぐ通路を見つけなければいけないらしい。
僕がこの世界ですべきことは恐らくそれを見つけることだろう。
彼女もきっと別の世界で僕と再び巡り合うために何かしらの努力をしているはずだ。あるいはこの世界に還ってくるための努力を。
茂みから出てきたその人影は私にとって随分馴染みがあるような外見をしているように思えた。
彼?彼女?外見から性別の判断をとるのが難しく、その人影はとても中性的な顔立ちをしていた。細部をよくよく観察してみれば、その表情はどこか私に似ているように思えたし他の誰か(私に馴染みの深い誰か)の顔に似ているようにも思えた。
「あ、あなたは誰?」私はようやく、その人影に訊ねた。
人影はじょじょに私の元へ近づいて、およそあと三歩ほどのところで立ち止まった。近くまで来るとその人影の顔がより鮮明になり、私は目を見開いて驚いた。
「つ…みき君?」不意に出てきたその名前は私の記憶の沼をひどく揺るがし刺激した。つみき君、私はその名前を知っている。
私はその人をそう言って呼んだ。
でも、その人とは誰なのか。
つみき君が誰なのか、私には分からなかった。
「僕の名前はストレイヤー。君も……迷子なの?」ストレイヤーと名乗るその人影は私の目を覗き込みそう言った。「良ければ君の名前を教えてくれよ。」
私はひどく戸惑った。
急に現れたこのストレイヤーと名乗る男だか女だかよく分からない外見をした人物。
それに急に私の記憶の沼から持ち上がった“つみき君”という誰かの名前。
この世界は私に謎を与えるのが随分得意なように思えてくる。
「私の名前は卯月希。こんばんわ。」私はそう言ってストレイヤーをじっと見た。
「卯月……希。オーケー、分かったよ。よろしく、卯月さん。」
そう言って、ストレイヤーは私に右手を差し出した。私も右手を差し出し言った。「ええ、よろしくストレイヤー。あの、一つ訊きたいんだけれど、あなたは男性で……いいのかしら?」
私の問いにストレイヤーは少しキョトンとして、当たり前じゃないかと言った。
「それにしても良かったよ。
僕、ちょっと迷っちゃっててさ困ってたんだ。あなたに会えて良かった。」彼はにこやかにそう言った。それに対して私は少し申し訳なさそうに「えっと、ごめんなさい。私もついさっきここに来たばかりで、迷っていると言えばそれに間違いないんだけれど。というのも、あなたの力になれるとはとても思えないの。」と言った。
「そんなの構わないよ。大切なのは僕と君が出会えたというところにあるんだから。」
「それは、どういう……?」私がそう訊ねようとしたところで彼は私の手を引いて早足で駆け出した。「ちょ、ちょっと!」
「大丈夫さ、いいから来なよ。」
彼は笑顔でそう言った。
私は彼の握る手に強い暖かみを感じた。それは樹木なんかとは全然違う、生身の暖かさだった。
彼と駆ける森の中はまるで絨毯が敷かれているかのようにずっと一直線に道が続いた。
森を抜けると私たちは海岸にいた。目の前には広く果てしなく続く水平線があった。水面は空と同じ暗黒に沈み、その水面には何も映ってはいなかった。
私は途切れ途切れに呼吸を繰り返し、その海を見つめていた。水面には何も映らない分、代わりに私の心の中をその黒面にありありと映しとっているように思えた。
私は“つみき君”について考えた。
私にはつみき君が誰なのか未だ分からない。でも私は少しづつ昨日の夜に電話をした相手がその“つみき君”であるということに気付き始めていた。もはや頼るべき自分自身に根拠は何もないけれど、不思議とそういう確信のようなものを持っていた。最低限の可能性として、そう考えるのは妥当だと思った。他に選択肢がない以上、手にあるピースはどんどんパズルにはめていかなくてはならないのだ。
それに“つみき”という名前にはどこか親しみに似た温かみを感じる。それだけで私には彼が私と親しい間柄にあったという自信のようなものを持てる。
気付けば私はずっとストレイヤーと手を握り合っていた。ストレイヤーの身長は私より頭一つ分高く見上げれば、彼がその頬に涙を浮かべていたのが分かった。私は一瞬それに驚いて、一言、大丈夫?と訊ねた。
「ああ、ごめんなさい。こんなにキレイな海を見たのは初めてだったから。」彼はそう言って袖で涙を拭った。そうした彼の顔は私にはとても魅力的なものに見えた。
「少し、歩きましょう。」私は彼にそう提案した。すると彼はいいね、と言って歩き出した。
私たちの手はまだ繋がれたままだった。
夢を見た。
夢には彼女と僕がいた。夢の中で彼女は深い森の中に座り込んでいた。とても深く暗い森だ。僕は茂みの中から彼女の元へ近付いた。初め、彼女は僕が分からずひどく戸惑っているように見えた。
僕が自己紹介をすると彼女はぎこちなくではあったが、僕に自己紹介をしてくれた。
僕は森から出ようと、彼女の手を握って走り出した。それに彼女は少し驚いたようだったが、手はぎゅっと握っていた。
しばらく走ると、僕たちは海岸に出ることができた。目の前には果てしなく続く水平線が広がっていた。僕はそれを見て急にとても悲しくなって涙を流してしまった。彼女はそれについて心配してくれた。僕は涙を拭うけれど、悲しみは心から消えてはくれなかった。
そのあと僕たちは手をつないだまま海の中を歩いた。
僕は彼女に何か話しかけた。それについて彼女はいろんな心情をその顔に浮かべた。
いつの間にか僕たちはキスをした。それはとても濃厚なキスだった。僕も彼女も、そういうものにひどく飢えていた。
そうやってキスをした後で、僕は目が覚めた。
僕は目が覚めたあと、ベッドの上でしばらくそうやって夢のことについて考えた。単なる夢にしてはとてもリアリティを帯びている。まるで実際に僕が彼女と会うことができたかのような、実際に彼女と触れ合うことができたかのような、そんな現実味がそこにはあった。
とりあえず夢のことは夢のことで置いておき、僕は朝食をとることにした。食パンがまだ何枚か残っていたので簡単にサンドウィッチを作り食べた。
朝食を摂り終えると、僕は机に座り“運命の剣”を手に取った。僕にはまだこの剣の使い道が釈然としなかった。運命がどうのこうの言われても僕にはてんで理解出来ない。どうすれば僕はこの剣で運命をどうこう出来ると言うんだろう。
やはりこの剣は何らかの運命の扉のようなものを開けるための鍵のようなきっかけに過ぎない存在なのだろうか。ファンタジーはあまり得意じゃない。こういう思考回路はあまりむかないんだ。出来ることなら、より現実的な仮説は他にないのだろうか。
試しに僕は剣で右手の親指を引っ掻いてみた。親指からは薄くすーっと血が流れる。特に意味のない行動だ。じわじわと僕は不安のような焦燥感に包まれるのを感じる。ストレンジャーからは電話がかかってきそうな気配すら感じない。
この世界は僕に謎を与えるのが随分得意なように思えてくる。
海水に足を浸けるとヒヤリとした心地のいい冷たさが身体に染み渡る。水は浅くずっと遠くまで歩いていけるようだった。試しに海辺から水平線の向こうに随分と歩いてみたが、海の深さは増したりはせず、ずっと一律の水位が続いた。
「この先をずっと進めば、きっと僕たちは新しい何かに出逢える。海の向こうには新しい世界が広がってるもんだ。
ねぇ、君はちゃんと僕についてこれるかい?」ストレイヤーは私の手を彼の胸に当てて私に問いかけた。「僕たちはもう出逢ってしまった。この世界で出逢ったんだ。それは偶然なんかじゃない。僕たちはいずれ遅かれ早かれこういうかたちで出逢うことになっていた。本当さ、運命だったんだ。誰が取り決めたってわけじゃない。世界はそうして動いてるんだ。
さぁ、行こう。きっと新しい世界が僕たちを待っている。」
私は彼の言葉をそこまで聞くと、手をほどいて後ずさった。
何か私の中で暗澹とした不安がざわめき立った。彼の言ったことを理解できないわけじゃない。ストーリーの流れを汲むことは出来る。きっと私にはそうして彼と水平線の向こうに待っているはずの世界へ足を踏み込まなければならないのだろう。
でも、私の足はどうにも前へ進んでくれそうになかった。やはりこんな新次元的で突発的な出来事に私の意識はうまく馴染めないのだろうか。
「怯えているんだね。大丈夫さ、心配しなくていい。ほら、僕の手を握ってごらん。」そう言って差し伸ばされた彼の手の親指に、薄く切り傷のようなものがあることに私は気付いた。「それ……。」と私はつぶやくように彼に言った。彼はあー、なんだろこれ。と不思議そうに親指を眺めた。
私も一緒に彼の手を見ていたが、ふと彼のポケットに金色の輝きがしのばされていたことに気付いた。それは何かと彼に訊くと、彼は何でもなさそうにポケットからそれを取り出した。
「これは運命の剣って言うんだ。この世界と君がいた世界を繋ぐためのきっかけとなる存在さ。」
私は彼の言葉に衝撃を受けた。そして訊ねた。縋るように訊ねた。「繋ぐ……?この世界と、あの世界を繋ぐための……?」
「ああ、そうだよ。 」彼はそんな重大な事実を特にどうでも良さそうに言った。私は落ち着きを保てずに彼に訊ねる。
「ねぇ、もしかして私はそれを使って元の世界に戻ることが出来るの?」
私の問いかけに彼は残念そうに首を振って答えた。「残念、それは無理だ。こちらから扉を開けることは出来ない。この世界はあくまで受け身なんだ。こちらから能動的に外に干渉することは出来ない。それに、本当のことを言えば君はもうこの世界から出ることは出来ないんだ。もう決まってしまったことなのさ。
そう簡単に受け入れられることじゃない。それは僕も分かるよ。生き物は何でも、常識に因って行動範囲や意思を決定する。突然突き付けられた非常識を受け入れられるほど、生き物の脳みそは柔軟性を持ってるもんじゃない。
でも、仕方のないことなんだ。どちらにせよ君はここから出られない。慣れるしかないのさ。時間をおけば、脳みそだって柔軟にならざるを得なくなる。」
彼がそこまで語り終えたところで、私はなんだか心にずっと引っかかっていたモヤのようなものが晴れたような気がした。少なくとも彼の言うことに因れば、私が元の世界に戻ること、再び“つみき君”という幻影のような人物に会うことについての可能性はほぼ潰えたらしい。
元の世界に戻ることが出来なくなった事は取り敢えず受け入れられる。もともと、元の世界に心残りがあるかと言えば別にそうでもないのだ。ただ、つみき君という人物の正体を知れなくなったということが悔やまれる。
とても残念だ。推測ではあるけれど、彼はきっと私にとって大切な人間だったのだろう。だって、ここまで私に想われるのだ。私の心は、人間の心はきっとそういう人を大切に想えば想うほど、その人に焦がれるのだろう。
思えば私の心はもう、幻影でしかない“つみき君”にとても焦がれている。
そう考えれば、元の世界に戻れないということがとても悔やまれる。でも仕方ない。私に出来ることはどうやらなにもない。
このままストレイヤーと歩き続けるしかないみたいだ。
「分かった、行きましょう。あなたがいう新しい世界に。あなたは私をそこへ連れて行ってくれるんでしょう?」そう言った私の手を強く握り、彼はにっと微笑んだ。
ストレンジャーから電話がかかってきたのは午前三時。通話時間は7分。僕は今、世界の果てにいる。悪魔の棲む果ての世界。
僕の左手には金色を纏う運命の剣。
なぜ僕がこんなところにいるのか。順を追って話さなければいけないだろう。
「卯月希はもうこの世界に戻ってくることは出来ない。あの女の本質はもう人間のそれではなくなってしまった。
まさか俺もこんなに早くそうなってしまうとは思っていなかった。」ストレンジャーは失敗した、みたいな感じでそんなことを言った。僕はやはり例によって例の如く彼の言葉の意味が分からない。「それは、前言ったアンデッドがどうこうということに関与するものなのかい?」
「良い線いってるよ。まぁ、アンデッド……つーよりもその本質は“悪魔”のそれだ。卯月希の本質はもうすでに悪魔となってしまっている。もう手遅れなのさ。」
彼の言葉に僕は慌てて食いつく。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!手遅れ?手遅れだって?冗談はよしてくれ!君は初めから彼女がそうなってしまうケースのことなんて全く念頭において話したりしていなかったじゃないか!
あくまで僕が能動的に彼女をこの世界に戻すために……!」
「“戻すために”?おいおい待ってくれ。俺がそんなことをいつ言った?俺はお前に“卯月希と巡り会うためのチャンスを与えてやれる”と言ったんだぜ?
誰もあの女をこの世界に戻してやるだなんて言ってない。」僕は愕然とする。まさかこの後に及んでそんな意味の分からない屁理屈を持ち出すなんて。僕は彼に訊ねる。
「はぁ、分かった。じゃあ、巡り会わせるっていったいどうやるつもりなんだい?彼女をこの世界に戻してやる気がない以上その方法は皆無のように思えるんだけど。」
「そんなの理屈だけ言えば至極簡単だよ。あちらからこちらが不可能なら、その配列をこちらからあちらにすれば良いだけのことだ。」
こちらから……あちら。
僕は少し黙って考える。こちらからあちらへ、というのはつまり彼女が僕に会いにくるのではなく僕が彼女に会いにいくことをいうのかしら。
ちょっと待ってくれ、そんなことが……出来るのか。そうだ、それは不可能じゃない。確かに彼女はそうやってこの世界を出て行った。いや、待てよ。
「それはどういう原理なんだ?つまり、僕あるいは彼女がこの世界を出ていくという行為は。
大体、なぜ僕たちはそんなことが出来たんだ?いや、そんなことになってしまったんだ?」
僕はここで根源的に謎だった、なぜ僕たちがこの“現象”に巻き込まれたのかということをストレンジャーに訊ねた。すると彼は面倒臭そうに答えた。
「だから言ったろ?それも“運命”なんだよ。そう決まってしまったんだから運命に従えよ。
まぁ、ただその剣があればその運命を多少捻じ曲げることが出来るんだけどな。いや、それもまたそうなる運命なのか。どう転んでも運命から逃げることは出来ない。
じゃあ、恐らく最後になるがここで一番のチャンスをお前に与えてやるよ。
お前があの女に会うための一番近い道をここで用意してやる。」
彼はそこまでいうと、やはり唐突に電話を切った。そして、その通話が途切れた瞬間に僕は世界の果てに佇んでいた。
物語はそろそろと終息に向かっている。
私の身体が人でなくなってしまったことは少なからず私にも理解出来始める。そもそも腹も減らず疲れも感じず、人間のあらゆる生理的な欲求をその身に感じなくなったという時点で、私はもっとこの肉体を疑ってかかるべきだったのだ。今となっては手遅れになってしまったのだけれど。いや、手遅れというのならば私がこの世界に招かれたという時点で、それはもうその時から手遅れだったのだ。もっと言うなら、私が父親によって母親の肉体に宿ったその時からもうどうしようもなく手遅れだったのだ。そういう運命だったんだから。手遅れと言うのも本来間違いであるほどに。
「卯月さん、落ち込まないで。分かるよ、君の気持ちは。でも分かって欲しい。絶望視しちゃいけない。希望はある。それを忘れちゃいけない。君は永遠になったんだ。この世界に“死”という概念は存在しない。いや、概念的には存在する。しかし、その実体はこの世界に存在しない。この世界で生き物は死ぬことはない。老いることもない。永久に続く意識の中で生きるんだ。
それはとても素晴らしいことだろう?」
私は絶望し、落胆した。
“永久に続く意識の中で生きる”?それはもう生物として生きていると言えるのだろうか?
そもそも私はそんなことを望んでいない。ストレイヤーはそこに希望があると言ったが、私にはおよそ控えめに言ったとしてこの永久に続く意識の中の世界に希望をとても見出せそうになかった。
「いいえ、ごめんなさい。ちょっと待って。私にはそんなこと出来ない。とても許されることじゃないわ。
私はまだ永遠を享受するには早過ぎる。早過ぎるし若過ぎる。」
「早過ぎるし若過ぎる。ははっ、そうだよね。そりゃそうだ。でもね、いずれ早過ぎる事はなくなる。普遍的な問題だ。どの生き物にも当てはまる。それにさっきも言ったはずだ。“慣れ”なんだよ。君はまだ脳みそがついていけていないだけ。
次第に君はこの永久に続く世界を愛することが出来るよ。」
どうやらいくら文句を言ったところでこの青年の言うことが変わりそうにはなかった。
もう諦めよう。そうだ、彼の言う通りかもしれない。要は“慣れ”なんだろう。私もきっとそのうちこの世界を受け入れることが出来るかもしれない。
可能性はゼロじゃないはずだ。
世界の果て、と言った。
そういう呼び方はもちろん形而上的なものではなく、それ本来の名称だ。
“世界の果て”
ここには何もない。僕以外に呼吸を続ける物質は存在しない。あるのは“何もない”という概念のみだ。
空は黒く沈み込み、空間には光の粒子すら見受けられない。
ただ、存在しているというならそれはこの剣の纏う金色の輝きのみだ。
この剣は、まるでそれ自体が光源であるかのように煌々と光り輝く。僕はその灯りを頼りに前へ進む。
“世界の果て”と呼んだものの、僕にはこの世界?空間?のことについて全く情報を持ち得ていない。全てのことが不確かで曖昧だ。
無論、それはこの空間にだけ当てはまることではないのだが。
しばらくの間、僕は歩き続けた。どれだけ歩いてみてもこの空間にはゴールのようなものはなかった。僕にとってこの空間はまるで奈落のように思えた。僕はいつの間にか死んだのだろうか。
沈黙が僕の鼓膜を支配している。周囲には沈黙以外の音はなく、僕は流石に心細くなった。
ストレンジャーめ、僕をこんなところに連れてきて一体どうしろっていうんだ。そういう感情が僕の頭の中を交錯する。
もういい、原因について頭を使うのは止めよう。どう考えてもこんな超常的な現象が僕の足りない脳みそで理解出来るはずはないんだから。
僕はしばらくの間ずっと歩み続けた。そんな中でも僕は彼女について考えていた。このままだともう僕は彼女に逢えないかもしれない。事実かどうかはわからないけど、彼女は悪魔になってしまったらしい。悪魔なんて言われても僕はあまり実感を持てない。
彼女が悪魔だとどうなるんだ?
僕はもし彼女にまた逢えたとして、やはり僕の命は彼女に奪われてしまうのだろうか?
悪魔と言うからにはそこに幸福は存在し得ないだろう。僕は彼女と逢うことについて一体どんな不幸を被ることになるんだろう。
僕は少しそのことに考えを巡らせてみようとしたが、やっぱりやめた。彼女に再び逢うことで僕にどんな不幸がおとずれようと、僕には彼女ともう逢えなくなるという事の方がよっぽど不幸のように思えたから。
ふと、三メートルほど前方にうっすら人影のようなものが目に入った。
僕は急いで駆け寄ってその人影に剣をあてて詳細を確認した。人影は地面にぐったりと倒れている。顔の方へ剣をやる。すると、剣の光で顔が照らされその形が明瞭になってくる。
どうやら女性のようだ。
そして、その女性の正体は卯月希だった。
彼女の瞳は硬く閉ざされて意識は深い闇の底に沈んでしまっているようだった。
僕は彼女の手を握り、自分の頬にあてた。そこには全ての温もりが欠如していた。てのひらはまるで氷のように冷たい。僕は彼女の頬をなでた。そこにも何の温かみはなく、僕のてのひらさえ冷たくさせた。
まるで眠っているよう。僕はそう思った。そう思ったし、そうあって欲しかった。
気付けば僕は、頬を暖かい雫で濡らしていた。
何でこんなことになってしまったのか。どういうことなんだ。
彼女は悪魔になったんだろう?
悪魔でも死ぬのか?
僕は一体なんのために?
僕は重く深い後悔に苛まれた。そして絶望に病んだ。とめどなく溢れる涙は枯れることはない。僕はふと左手に握っている剣を見た。“運命の剣”。
「うん……めい。」僕は呟く。この剣があれば、僕はきっと運命を変えることができる。そうじゃなきゃ、そうじゃないと、こんなこと許されることじゃない。
僕は強く輝く剣を強く握り、彼女を右腕で抱き抱えた。
「愛してるよ。」そう言って僕は剣を僕の胸に深く突き刺した。次に目が覚めた時、彼女と笑いあえる景色を願って。
水平線の向こう側にあった新しい世界は私にどのような感動を受けさせるのだろうか。
そこは希望に満ちているのか、はたまた絶望が支配する世界なのか。私はストレイヤーに訊ねてみた。
「そこには希望もあり絶望もある。僕たちが感じる全ての感情が集結し、いっしょくたになる。するとどうなると思う?
ふふ、するとそこには何もなくなる。全てがあるということは何もないということだよ。
何かがあるということは何かがないということだ。空っぽと満タンはつまり同じことなのさ。少し難しいかい?
簡単さ、表と裏の問題なんだ。表と裏はどちらもどちらになり得るだろう?
見方の問題さ。背反する事柄はすべからく同質なんだよ。」
どうやら彼の言うことを理解するにはもう少し時間が必要なようだ。
私たちがそうやってたまに口を開きながら歩いていると、彼は急に足を止めた。私もそれに倣って足を止めた。
私たちの目の前にはもう海は広がっていなかった。あの果てしなく続くと思われた水平線が終わったのだ。
もう時間の経過という概念が存在しないこの世界では、私がここにくるまでどれほどの時間がかかったのかということが分からなかった。
「この先には何があるの?」と私は彼に訊ねた。彼は表情のない顔を浮かべて、私の顔を見つめた。
「どうしたの?」私は不思議に思いそう訊いた。
「僕がついて来れるのはここまでだ。ここから先は君一人でいかなきゃならない。」
私には分からなかった。彼が何故、何を、言ったのか。
「僕もまた運命のかけらだったんだ。君はこれから生まれ変わるんだ。それこそ永久に続く世界にね。心配しなくていい、きっとそこには愛する人がいる。」
彼はそう言うと、剣で私の胸を刺した。ゴプッと私の口から血が溢れる。胸にはじわぁと赤い鮮血が染みる。薄れゆく意識の中で私は網膜に彼が口元に笑みを浮かべてるのを映した。
積木未来は目が覚めた時、太陽の強い光に照らされていた。
彼が起き上がって、辺りを見渡すと一人の女性が目の前に佇んでいるのが分かった。
卯月希は目が覚めた時、太陽の強い光に照らされていた。
彼女が起き上がって、辺りを見渡すと一人の男性が目の前に佇んでいるのが分かった。
積木未来は一瞬、彼女が誰か分からなかった。その反面、卯月希は一瞬で彼が誰か分かった。
彼女の胸に熱い想いがこみ上げてくる。それは涙と共に外へ流れだす。
積木は泣き出す彼女を見て、ようやく目の前の女性が卯月希であることに気付いた。
「希……久しぶりだね。」彼は飾り気のない言葉を彼女に投げかけた。
「うっ……うっ……ぐす、はぁ、うん、久しぶり。」
「ははっ、泣かないでよ。ようやく逢えたんだから。」そういう彼の目にも涙が溢れている。
「積木くんだって泣いてるじゃない、男なのに。」
「仕方ないだろ?ようやく逢えたんだから。」
「そうね、私たち随分逢えなかった。私たち何があったのかしら。」
「分からない、何も覚えてないんだ。僕たち今まで何をしていたんだろう?」
彼らは手を繋いだ。手のひらと手のひらを重ねて、絡み合わせるように手を繋いだ。
「もう離さない。」彼は切実な想いでそう言った。そして彼女もまた、確かめるように頷いた。
彼らは今、運命の終わりの中にいる。奇跡的で凡庸的な彼女たちの運命。運命の終わりは終わりのない世界だ。しかし、終わりのない世界にはすべからく終わりがある。
この運命がどのような形でその終焉を迎えるのかは誰にも分からない。