浜辺に立つ二人
騙されたと思って見てみてください。
神戸のとある場所に浜辺がある。
狭い土地に国道とJRと山陽電鉄がひしめきあう、そんな一角にその浜辺は存在する。
それは海水浴客に見放された浜辺なだけあって、資本主義とは馴染まないいかにも昭和の浜辺だ。
そんな砂浜に男が一人。
彼は海を見つめていた。その虹彩に力は無い。
同時に悲観的なまどろみもなかった。
彼は中学を卒業すると海に出た。
と言っても舟乗りではなく、父親の漁の手伝いを始めたのだ。
彼は今年で24歳、彼の周りで結婚していないのはついに彼だけになった。
時刻は大体十二時位、普段の彼ならば昼網の仕掛けを回収する為に海に出ていてもおかしくない時間なのだけれど、彼は海に出ずに砂浜に突っ立ったまま動かないでいた。
季節は初夏、刺すような日差しを受けても彼は動こうとしない。
彼は足元に何かが絡まりつくのを感じて視線を海から足元に向けた。
一瞬の眩暈ののちに彼の眼が一人の少年を捉える。
「こんな時間に何しとるんや。」
彼は共犯者を見つめるような笑みを浮かべ、少年に問いかけた。
少年は彼を見上げ、不敵にほほ笑んだ。
そして彼は言葉にならない感情を抱えながらほほ笑み返す。
そして彼らはいつものように連れだって漁師小屋へと向かう。
漁師小屋。
それは海水浴客の集まらない砂浜の奥手にひっそりとたたずむバラック小屋だ。
それは彼が生まれるずっと前に父親がしつらえたものだ。
彼その小屋で少年に本を読み聞かせるのが日課になっていた。
そして今日も。
いつものように実家の押入れに眠る児童文学書を持って浜に出ては、少年がやってくるのを待つ。
それがいつからかの彼の日課となっている。
そして今日も。
少年は名を良輔と言う。
「父親は知らない」
少年は在りし日に交わされた彼の問いかけに短くそう答えた。
良助の母親は近くのアパートに住んでおり、彼女の働く飲食店もこの浜辺からすぐ近くの場所にある関係で以前から面識があった。
彼はあまり多くを語る青年ではないから、人づきあいもごく限定された範囲でしか行われない。
それに取り立てて耳目を集めるような人間でもない。
だから彼には友達は少ない。
そもそも人に対する執着を彼が持っているのか、それさえ怪しいくらいに、彼は人と接することを好まないのだ。
それなのに、なぜだかこの少年とは馬が合うようだった。
きっと二人は似ているのだ。
青年の名は高橋。
高橋には母親がいない。
母親は彼が中学に上がるころに家を出て以来、彼のもとに現れることはなかった。
だから高橋は母親を知らない。
だが良助と関わる様になって気付いたのだが、彼の部屋の押入れには沢山の児童文学書が眠っていた。それはたぶん、高橋の母親が彼に買い与えた物なのだろうと彼は考える。
考える。
つまり彼は覚えていないのだ。
高橋は三年以上何かを記憶することができないという構造的欠陥を抱えていた。
とはいっても本人は特に気にしている様子もないのだが。
高橋は今、良輔にキツネと猫の住む田舎に帰省する少年の物語を良助に読み聞かせていた。
「キツネさんは村から村へと駆け抜けて、五穀に加えて果樹までも、命を宿して駆け抜ける」
彼は歌うように読み進める。
「五穀ってなに?果樹ってなに?」と良輔が問いかけるたびに。
「五穀はお米。果樹はリンゴのことやで。」と高橋が答える。
しかしながら大体において良輔は話なんて聞いていないのだ。
そんなことは浅薄を自認する高橋でさえも容易に想像することができた。
高橋と良輔は、二人でいること、それ自体に何らかの安らぎを覚えているのだ。
彼が本を読み進めてしばらくすると、良輔は小屋に置かれたソファにもたれ、眠り始める。
そして高橋は本を閉じ、良輔と同じようにしてソファにもたれかかる。
今、高橋に聞こえるのは明石海峡を通る船の汽笛と、浜辺の裏を走る電車の風と鉄がこすれあう音だけだった。
高橋は良輔の母親を思った。
その作業の過程で彼自身の母親が脳裏をかすめる。けれど彼は、そこに焦点を当てることなくやり過ごす。
彼はそんな自分自身の姿勢を嵐に備える漁船のようなイメージで捉えた。
しかしながらそのイメージに映る船は漁船と言うよりもさながら難破船のような孤独感を漂わせていた。
そして高橋もうつらうつらとする。
彼の意識をつなぎとめているのは海から漂う海洋生物の残滓が放つ死臭だけだった。
彼は首を持ち上げ隣で眠る良輔の存在を確かめ、自身もソファにより深く体を沈める。
その過程で夢の中の良輔がいささか顔を曇らせる。
眠りに落ちていく。
彼は良輔以外の温もりを感覚的に認識する。
眠りに落ちていく。
それは底知れぬ安堵感を彼にもたらし続けている。
眠りに落ちていく。
その安堵感はしばらくの間彼を戸惑わせる。
眠りに落ちていく。
そして今、まさにそれが彼を飲み込もうとしている。
「こおへんな」
「きいへんな」
「けえへんな」
高橋は今、海の向こうに浮かぶ島から聞こえる誰かの囁きに耳を澄ませている。
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