イ・チ・ヌ・ケ・タ
痛みの描写に弱い方はご注意下さい。(そんなに強烈なわけではないのですが、念のため)
序。
飲み込んだ涙は重たくて
飲み込んだ涙は重すぎて
いつか私は海の底まで
沈んでしまうのです
何も見えず
何も聞こえず
ただただ苦しくて
ただただ寂しいのです
飲み込んだ悲しみは
何処へ行ったのかしら
※
「ほほぅ入学式の直後に飛ぶのかい?」
突然後ろから話しかけられ、須所之井里はゆっくり振り向いた。四月の生暖かい風がうなじをくすぐる。膝小僧を隠すスカートがふわり、となびいた。
「あら、先客? 鍵はかけたつもりだったけど」
根羽山高校、その屋上。里によって閉じられた扉。扉の上は更に上れるようになっている。里が目をやると、透き通るほど色の薄い金髪の男子生徒が寝転んでいた。細身の身体と相まって、妙に長細い印象を与える。里は内心の動揺を隠し、やや身構えて反応を待った。
「まぁね、入学式前からいるから」
飄々と微笑むその少年は、眼鏡の下の目を細めた。風に揺れて、男子にしては長い髪の毛がキラキラ光を放つ。
「入学式に出てないの?」
呆れてぷっと吹き出す。里の表情から警戒の色がほんの少し薄れた。
「今日は風が気持ち良いからね〜」
分かった様な分からない様な事を言う。風が気持ちよくても、式典を欠席する理由にはならない。何とも自分本位な男だな、とため息をつく。
「あなた、何年何組? 私、今日入学した六組の須所之井里」
壁に埋め込まれたタイプの梯子に足をかけ、里は少年に近づいた。精一杯の虚勢でタメ口をきく。年功序列で敬語を使う気は無い。最初が肝心とばかりに上から目線で話しかけ続ける。
「初めまして。私も一年六組の出雲路紙矢だ」
同じクラス? 思わず里の口をついて出る。しかも一年生。平気で入学式をサボるくらいだから、てっきり上級生だと思い込んでいた。
「それはそれは……もうすぐホームルームのはずだけど?」
「キミこそまだここにいるじゃないか」
にべも無く即答。
「私は――もういいの。ここで人生に幕を引くから」
飛び切りの笑顔を浮かべて――里は校舎から身を躍らせた。
※
里が物心付く頃には、自分に何が出来るか、ということは経験で知っていた。水中を華麗に泳ぎ、時には何時間でも潜り魚達と戯れる。水の申し子――それが当たり前の世界で生きてきた里は、幼稚園時代から周りの友人との差を感じてきた。
やがて、泳ぐ時に“姿を変える”生き物などいないのだ、と知った。では、自分が水中に身を浸した時、自然と広がる指の間の水掻きはなんなのか? 水中をぐんぐん進む時、口が水鳥のようになるのは何故なのか?
答えをくれたのは、『妖怪の秘密』と題された児童書であった。自分の姿は――甲羅や頭の皿は無かったものの――最もポピュラーな妖怪に酷似していた。
即ち、河童。
最初は本に書かれていたことによって、「他に仲間がいるのだ」と、喜んだ覚えがある。それも直ぐにショックへと変わった。
妖怪などいない、あんなものは唯の想像上の生き物に過ぎない――初恋の少年に突きつけられたその言葉は、失恋以上の衝撃を里に刻みつけた。再び湧き上がる疑問。
“ワタシハナニモノダ――”
両親を早くに亡くした里は、祖父の弟の娘夫婦に育てられた。直接血が繋がっていないという事も要因となり、里は相談すら出来なかった。何より、一緒に泳ぎに行ったことがまず、ない。義母たちも泳ぐ時姿を変えるのか……? 気になってはいたが、義理の妹、弟が生まれると、里と育ての親の間には少しずつ溝が出来ていった。
中学に上がる頃には、一日の間に家族と口を聞くということが数えるほどになった。幼い義妹、義弟の世話を焼こうとするのだが、二人は決して懐かず、義母も申し訳なさそうにありがとうね、としか言わなかった。
家に自分の居場所を感じられなくなったのはその頃からである。むやみに自傷行為に走った。カッターナイフを手首に当てる。しかし決まって最後の一線は踏みとどまった。
当時、クラスメイトの男子に恋をした。相手も里に対し好意を持ってくれた。この人となら一生一緒に笑いあいながら生きられるかもしれない、そんな風に考えた時もある。
だが、中三の夏。遊びに来た海で少年が溺れる事があった。思わず飛び込んだ里は、姿を維持する余裕が無い。“泳ぎに適した姿”で少年を助けた里。幸い少年は里の異形を覚えてはいなかったようだが、ふとした時に里を通して不気味な幻を見るようになってしまった。PTSD――覚えていなくても、見てしまったのだろう。以来、里は少年に会わないよう心に決めた。
そして中学校を卒業――無事高校の入学を果たした。少し実家から離れた高校を選び、新しい生活を夢見た。だが。入学式で例の少年と再会してしまった。
少年は里を目にした途端、泣き出しそうなほど顔を真っ赤にして笑顔を浮かべた。喜びに満ちた笑顔。会えなかった間も里の事を思い続けていてくれたであろう想い。それらは一瞬にしてガラガラと崩れ落ちた。
絶叫――。恐らく少年は、自分の喉からその音が生まれてきているとは思いもしなかったであろう。不思議そうな顔が浮かんだ後、過呼吸になり保健室送りとなった。
あぁ、私の高校生活はもう終わったな――
里の足は屋上へと向かった。
※
これが走馬灯というヤツか……ぼんやりと里はそんな事を思う。自分の身体が屋上の縁を離れた時、ジェットコースターに乗った時の浮遊感に身を任せた。一瞬にして地面に叩きつけられるものと思っていたが、中々その瞬間が訪れない。死の寸前とはそんなものだろうか――そんな事を考えていると、急に下から上へガクン、と重力が掛かる。頬を柔らかい毛が触れた。
自分が飛んでいるという事に気付いたのは、背中を抱きかかえる腕に気付いたのと同時であった。目を横に流すと、鳥のようなライオンのような顔の獣がいる。額、というより眉間に宝石のようにキラキラ輝く部分がある。よく見ると、猛禽類の瞳に似ていた。
「え……ちょ……!」
思わずバタバタともがく。獣は旋回すると、ゆっくり屋上へと戻った。地に足が着くなり、里は屋上の出入口に走る。そこにのんびりした声が飛んできた。
「空中遊覧は如何だったかな?」
恐る恐る振り向くと、そこには先ほどの獣。ゆっくり背中を丸めると――見る間に眼鏡の少年・出雲路紙矢へと姿を変えた。衝撃に里は言葉も無い。
「何よ……あんた……」
初めて出逢えた異形の者――その想いは好悪ない交ぜになり、里に、昼間幽霊を見たような居心地の悪い表情にさせた。
「いやいやいや、目の前で死なれちゃ目覚めが悪いからね。私の我侭で生きてもらう事にした」
さらっと言ってのける紙矢に、キッと里は眦を上げる。今度は確実に死ねる、とそう確信していただけに、余計な事を、という思いが爆発した。冷静を信条としてきた里。これまでに鬱屈してきた――心の中に溜め込んできた悲しみが、絶叫と共に出口を見つけてあふれ出す。知らず、カッターナイフを握り締めた里は、紙矢に踊りかかっていた。
※
「落ち着いたかい?」
里は空ろな視線で黒い丸を見上げる。顔の上に顔らしき影が被さっていた。それが男である事を知り、飛び起きた。どうやら、男に真上から寝顔を覗き込まれていたらしい。恥ずかしさに顔から火が出そうだ。
男――出雲路紙矢が柔らかい口調で微笑む。
「良かった、頭は打ってないようだね」
その声に紙矢の顔を凝視した。顔には――白い包帯が巻かれている。丁度右目があるであろう位置にはわずかに血が滲んでいた。
最前の自分の行動に思い当たり、里の顔が青くなる。
「わ、私――」
紙矢は、くすり、と音を立てて笑う。
「ちょっとね、当たり所が悪かった。間抜けにも眼球を傷付けちゃったらしい……キミ、意外と素早いねぇ」
眼球? 大丈夫なのだろうか? 改めて辺りを見回す。どうやら保健室のようだが……。
「私さぁ、三年前に高熱にやられたんだよね〜」
突然紙矢が話し出す。
「それでね、一命は取り留めたものの、左目がグンと視力落ちちゃって」
何の話だろう――里はベッドの上で身じろぎも出来ない。
「どうやら右目も……見えなくなっちゃったみたい」
里の頭が真っ白になる。カッターナイフ――自分が振り回した……それが紙矢の右目を? 全身を寒気が通り過ぎる。毛穴という毛穴がザワザワと音を立てているようだ。
「あ、あの……ごめんなさ……!」
「だからさぁ」
里の謝罪に被せるように、紙矢が少し大きな声を出す。
「だから、一生キミの事は忘れてなんかやらない。これから、一生、キミは僕の目になって貰おうかな。キミも決して私の事を忘れてはならない。一生私の事を――忘れてくれるな。勿論、僕の許可なく死ぬのも無しだ。約束――できるね? それがキミの罰だよ」
決して責める口調ではなく、むしろ慰めるような声音で。聞き様によってはプロポーズまがいの。
心は妙に軽かった。当然、罪悪感はある。だがそれ以上に紙矢の言葉が温かくて。
里はこくり、と肯いていた。