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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
97/127

鎖2

 クラブから竜二がいなくなったが、由貴也の競技生活は相変わらず何の変わりもなく送られている。

 彼が少し前にコーチの華耀子と何かあったのは由貴也とて察していた。その前から彼女のまわりに変な男がうろついていたし、それと同時に竜二の様子もおかしくなっていった。

 関東選手権という大きな大会前なので、当然といえば当然なのだが、あの頃の竜二は触れたら手が切れるか感電するのではないかというぐらいとがった空気を出していた。あの竜二をコーチとして御するのは並大抵の苦労では済まないだろうと由貴也は離れたところから完全なる傍観者として彼ら師弟を見ていた。

 彼女の過去を吹聴する男がいても、竜二がそういう状態でも、華耀子はそれを微塵も表には出さなかったし、由貴也の指導をおろそかにすることはなかった。自分に火の粉が飛んでこない限り、由貴也にとって周囲の騒ぎは特に問題にすべきこととは思えなかったし、自分に他所の問題に首を突っ込むほどの余裕があるとも思えなかった。突っ込む気も端からないが。

 父親に出された陸上続行の条件は一年以内にそれなりの結果を出すことだ。由貴也が解釈したそれなりの結果とは、将来陸上で身を立てていけるだけの展望を示すことだ。つまりは日本選手権出場か、インカレ――天皇賜杯での入賞くらいは最低でも果たさなければいけない。それくらいの箔がなければ、実業団から誘いはかからない。

 加えて、実働期間としては八、九、十月、それと来年のシーズンである四、五、六月の半年しかない。冬期はシーズンオフなので大会がない。すでに日本選手権につながる県選手権で敗退している由貴也にとって、父親を納得させられそうなめぼしい大会はあとはインカレぐらいしかない。地区予選も含め、インカレは今から始まる。それまでに弱点の克服にあたるべきである。そう考えたら、自分以外に構っている暇などないのだった。

 香代子の出場した市民陸上記録会の数日後、由貴也はいつもの通り、クラブの練習に赴いた。クラブの駐車場からグラウンドには日影ひとつなく、今日も暑そうでうんざりする。由貴也は暑さが嫌いなのだ。

 暑さに嫌になりながら風船ガムを口で膨らませる。由貴也は今、様々な風船ガムを組み合わせて、どれだけ大きく膨らませられるか、という研究をしていた。

「由貴也」

 後ろから呼びかけられ、顔の半分くらいまで膨らんでいたガムが破裂する、ガムにベットリと顔の下半分を覆われながら、呼びかけを無視しようと決める。誰だか知らないが、他人と会話するぐらいなら、その労力を練習にとっておきたい。由貴也は顔についたガムを口で器用に回収して納め、一刻も早く日影に入ろうと歩を進める。

「由貴也、待たんかい!」

 威勢のいい大阪弁に驚くより先に、首根っこをつかまれた。首がしまる。同時にガムを飲み込んでしまった。今日の配合は今までで一番うまくいったのに。

「お前はほんっとにマイペースなやっちゃなー」

 金魚のようにぱくぱくと息をしながら後ろを向くと、日曜の朝にやっている戦隊モノのレッドの変身前のような男がいた。ムダに熱血で、ムダにエネルギーを使ってそうで、ムダにさわやかで、ムダに世界の争いごとに憂いを抱く。

「誰?」

「オレやっちゅうねん。五十嵐やっ!」

「ああ、竜二」

 やっとこの目の前の黒髪短髪の男がチームメイトの五十嵐 竜二だと理解する。彼はトレードマークだった金髪を短く切り、少しの赤みも残さずに黒く染めていた。ピアスもつけていないので、彼の軽さだのチャラさだのはなりを潜め、さわやか戦隊モノ風スポーツ青年ができあがっている。

「どういう心境の変化なわけ」

 金髪長身の竜二は見分けやすくて良かったのに、と思いながら一応尋ねる。人の顔を覚えるのが苦手な、というか覚えない由貴也にとって、金髪というわかりやすい特徴があるのは楽でよかった。

 由貴也の首根っこを離した竜二は苦笑する。

「……充分に走れもできへんのに、見た目だけチャラチャラ飾っとってもしゃーないやろ」

 口調は軽いのに、その言葉は何だか重い。それに、竜二の気軽に話しかけられないような切羽詰まったような雰囲気は消えていた。代わりに彼の存在の質量が増えた気がする。重心がしっかりして、容易に揺らがない。

 竜二は胸元にワンポイントのついただけの白いTシャツと黒の長ズボンのジャージという、髪型も相まって今まで見た中で一番地味な格好をしていたが、それによって彼の何かを損なったわけではなかった。

「てか、なんでここにいんのさ」

 竜二はその道で有名な老トレーナーの元へ電車で直接通ってるはずだ。クラブに来る用事はない。

「由貴也に会いに来たんや」

 人懐っこい笑みを浮かべて言った竜二に「何その冗談」と返す。自分たちはわざわざ時間を作って会うほど仲良くもないはずだ。

「冷たいやっちゃな、由貴也は……とりあえず座ってええか?」

 何を由貴也に言われても笑っている竜二に「座れば」と返す。膝を怪我しているため、長時間立っていることが辛いのだろう。竜二は近くのベンチに座った。由貴也はその前に立つ。

「香代子ちゃん、どやった?」

 唐突に香代子の名前がその口から出てきて驚く。覚えていたのか、と。

「ビリだった」

「それはオレが応援に行かなかったからやな。悪いことしたわ」

 何その根拠のない自信、と思ったが、とりあうのも面倒なので、放置しておく。

 お遊びは終わりとばかりに、竜二は陽炎がたちそうな夏の暑い宙を見てかすかに笑う。

「……お前、最近練習どうや」

「何もどうも、アンタや院生がいなくなった分までしごかれてるよ」

 多少チクリとやって返すが、竜二は「そりゃ結構なことや」と意に介さない。

「しっかり走っといて、体力つけるんやな。由貴也は体力なさすぎんのや」

「アンタが体力ありすぎるんじゃないの」

 自分に体力がないのは否定しないが、竜二の方に体力がありすぎるのは確かだ。竜二の走法はダイナミックに体を使う、ストライド走法だ。動きが大きい分、体力も使う。現に竜二は「体力ないと走れへんもん」と答えた。そして続ける。

「けどオレは由貴也みたいには走れへんし、由貴也もオレみたいには走れへんやろ。オレは体力ある代わりに怪我が多いんやけど、そういう風に生まれたんやから、そういう風に走るしかあらへんのや」

 過剰な諦感も、悲観もなく、竜二は薄く笑う。竜二のストライド走法は体を大きく使う分、負担も大きい。だからといって由貴也が主に使っている前半逃げ切り型のピッチ走法は竜二には使えない。彼は体が大きいゆえ、初動に時間がかかる。長い手足をスタートの際に持て余してしまうのだ。

 短距離は、努力でどうにかならない部分が多すぎる。生まれた時点で、大部分は勝敗が決している。そういう風に生まれたなら、そういう風に生きるしかないのだ。

「まあ、神様からの授かり物だからしゃーないって言ってるわけにもいかへんし、死に物狂いでがんばるわ」

 笑う竜二を横目に、だから嫌だ、と思う。竜二の話は毎度身につまされる。由貴也は自分の才能を信じて疑わないが、そのうち自分にも才能や努力ではどうにもならないことが起きるのではないかと思ってしまう。今からそんなことに恐々としていても仕方ないのだが、自分は細い糸の上に立っているのだと思い知らされる。

 不意に、竜二の淡い笑みが消えた。鋭い音がしそうなほど、急速に彼のまとう空気が固くなる。

「オレはここで沈まへん」

 静かな決意表明の後、竜二はすっと立ち上がった。文字通り、斜に構えて話を聞いていた由貴也は、竜二に正面から対峙されて、自分の不適当で不誠実な話の聞き方を露呈させられる。

 最終的に竜二の迫力に呑まれ、きちんと竜二に向き合い、相対するハメになっていた。

「オレは必ずここに戻ってきて見せる。何シーズンかかってもまたはいあがって見せるわ」

 由貴也が極力感情を挟まずに竜二の話を聞いていると、おもむろに彼が頭を下げてきた。お辞儀というには深すぎる角度に、さすがの由貴也も驚く。

 表情すらわからないその姿勢のままで竜二は言った。

「オレは少なくとも今シーズンは戻れん。その間、由貴也にクラブの選手として活躍してほしいんや」

 由貴也はしばらくまばたきもせずに竜二を見つめ、なるほど、と彼がここに来た目的を理解した。

「勝手なことを言っているのはわかっとる。ただもう院生もオレもおらん。高校生はまだ若すぎる。頼む、由貴也」

 頼む、と繰り返す竜二に「とりあえず顔を上げてよ」と言う。この仰々しい状態をどうにかしたくて、「座ったら?」と言うが、竜二は体は起こしたものの、立ったまま無言で由貴也の言葉を待っていた。

 由貴也はクラブの恩恵だけ受けている。精神的支柱は部活の方にあって、そこからいつまでも離れられずに、片手間でクラブに所属している。それを竜二は改めてくれ、と言っている。クラブの看板を背負えと言っている――華耀子を助けるために。

 できることなら自分がやりたかった。自分がクラブの看板選手として、院生が自殺未遂を図ったことで信用が失墜した華耀子を救いたかった、竜二は言葉には出さないものの、その表情は雄弁にそう語っていた。

 だが、彼のその尊い使命感に由貴也が付き合う義理はない。自分たちの間にあるのは友情ではない。たとえ友情があったとしても、自分の利益を一番に考えられないようでは運動選手失格だ。

 竜二はそこまで愚かではなかったことに自分は薄く笑う。竜二の瞳は彼自身の願いだけでなく、由貴也にもたらされる益を示していたからだ。

「オレがクラブを中心で活動すれば、アンタがいなくなった分、コーチに集中的にみてもらえるってわけ」

 由貴也の言葉に、竜二は無言でうなずく。彼の表情を探るが、竜二は彼にしてはめずらしいくらい無表情だった。おもしろくないだろうに。本来なら等分されていた竜二の分の華耀子から指導は、由貴也に移る。

「アンタは俺に同情をかけられたいの?」

「いや、かけられたくはないわ。やけど、プライドどうこう言ってる余裕もあらへんな」

「そう」

 由貴也は是とも非ともいえない答えを残して、竜二の脇を通り過ぎようとする。「由貴也!」と切羽詰まった声で呼び止められて、仕方なく竜二の方を向く。すれ違う一瞬の位置で、互いの顔は間近にあった。

「俺がどうするかは俺が決める。アンタに口出されることじゃない」

 その瞬間、竜二は傷ついたような、憤慨したような、納得したような、予想していたような、つまりは形容しがたい表情を浮かべた。まがりなりにもお互いアスリートなら、むやみに干渉するべきではない。それにきっと華耀子はそんなことは望んでいないだろう。

 アンタは干渉しすぎだし、と胸の中で思う。由貴也が陸上を辞めると言った春の騒動の時にもずかずかと踏み込んできた。

「……アンタはこういう時のために俺に陸上を辞めさせなかったわけ」

 竜二がダメなった時のスペアとして、クラブで働くために残しておいたのかと尋ねる。竜二はとたんに気色ばんだ。

「違う! そんなつもりはなかったんや……今となっては全部言い訳にしか聞こえへんけどな」

 自嘲気味に最後は微笑んで、わずかに肩を落として彼は言った。

「あん時は自分がこんなんになる予定なんてこれっぽっちもなかったんやから」

 その竜二の言葉を最後に、由貴也はクラブの建物へと歩き始めた。

 建物までの道は、やはり少しの日陰もない。暑い、と思う。だが、暑くするのは体に張り付く大気だけではない。

 竜二との会話がいつまでも耳に残っていた。







 夕方、最近の日課になっているジョギングから香代子が死にそうになって自分のアパートに帰ってくると、階段横に設置された郵便受けが開いているのに気づいた。この物騒なご時世だから、郵便受けに名前は記されていない。部屋番号だけだ。無機質なシルバーの扉が並ぶ中、香代子の部屋のものだけ開いていた。

 各郵便受けにはダイヤル式のロックがついているけれども、チェーンとロック部分をつなぐ部分がペンチか何かで壊されて、ロックだったものの残骸が地面に落ちている。さすがにこれはぞっとする。悪意を持ってなされたとしか思えないからだ。中の郵便物は手をつけられていないようで、ますます相手が何の目的があってやっているのかわからない。

 背後で香代子の動揺を示すように、蝉がじわじわと鳴く。真夏の太陽に背中をあぶられているのに、冷や汗をかいている。

 香代子はとりあえず郵便受けを閉め、周囲に怪しい人物がいないこと確認し、壊されたロックの破片を握りしめてアパートの階段を駆け上がった。そのまま自分の部屋まで一目散に走る。

 勢いよく部屋のドアを開けて閉め、後ろ手で鍵を閉める。そこで初めて息を吐いた。自分のテリトリーに帰ってきた安堵だ。

 つめていた息を吐ききってから、スニーカーを脱いで部屋に上がって、一瞬だけぎょっとする。キッチンの床に人が行き倒れていたからだ。

 驚いたのはほんの少しの間で、香代子は「由貴也、そんなところで寝てたら風邪引くよ」と一応声をかける。クラブで相当厳しい練習がなされているのか、由貴也は香代子の部屋にたどり着いたとたんに半ば気絶をするように倒れて眠ってしまう。今日はタイミング悪く、由貴也の方が先に部屋に着いていた。

 由貴也の体をひっくり返し、その脇の下に腕を入れ、仰向けになった由貴也を寝室兼居間に引きずっていく。これでもなかなか由貴也は重く、キッチンと居間のささいな段差に香代子は苦労する。

 何とか居間のフローリングに敷いてあるラグの上に由貴也の体を横たえる。夏用の白いコットン素材のラグの上で、由貴也はまったく起きる気配なく眠っている。その上に香代子はタオルケットを掛けた。

 クラブでシャワーを浴びてきたのか、びしょびしょの彼の頭をタオルで拭きながら、何かちょっとほっとするな、と思っていた。何かあった時に由貴也が頼りになるとは思えないけれど、郵便受けを壊された後では、そばに信頼できる誰かいるということに安心感を覚える。

 ちょっとだけ、くっついてもいいかな。

 彼が寝ているのをいいことに、香代子は由貴也の背中側にまわりこんで、自分もラグの上に寝転がった。

 横向きに寝ている彼の背中が間近にある。頭を少しだけ倒して、タオルケット越しに彼の背中に自分の頭を触れるか触れないかの距離でくっつけた。

 起きてる時にはぜったいこんなことできないな、と思いながら、寝息に上下動する由貴也の背中を感じて目を閉じる。まぶたの裏に感じるカーテンを透かす夕方の光、夜を連れてくる風。部屋に落ちる濃い影、どこかから聞こえる子供の声。そういったものにささやかな幸せを感じる。

 そのうち、自分もうとうとして眠っていた。走るのはかなり体力を使う。香代子もジョギングを初めてから、由貴也がこの部屋に帰ってきてすぐに倒れて寝てしまうのも実感としてわかった。

 ふと目を開けると、部屋はもう暗かった。香代子はまばたきもせずに硬直した。由貴也はすでに目覚めていて、タオルケットを肩から被ったまま寝癖をつけた頭でぼんやりと暮れなずむ窓の外を見ている。

 何てことだ。由貴也にくっついて寝てしまった挙げ句、それを彼に見られてしまった。由貴也は他人に触れられるのを嫌がるので、不快に思ったのではないだろうか。無言でぎゃーっと叫ぶ。

 そんな香代子の羞恥に荒ぶる心境などよそに、由貴也は外だけを見続けていた。視線は外にあるのに、外を見ていない。心ここにあらずというような様子に、思わず体を起こしながら「どうしたの?」と尋ねた。

 由貴也が音のしないかすかな動きで香代子の方を向く。タオルケットが彼の肩からずり下がる。

「……どうしたのって何」

 唇の動きだけで由貴也が問い返してくる。灯りのついていない部屋は薄暗くて、由貴也の姿はぼんやりと薄闇に浮かび上がっている。

「何か、いつもと違うように見えるから」

 そう言うと、由貴也はわずかに驚いた顔をした。

 きっと香代子がいつもと違った様子に見えたのも、今、彼が驚いて見えたのも、他の人には何も変わらないように見えるのだろう。出会ってから二年以上も時間がかかってしまったけれど、彼の表情の小さな変化が読み取れるようになったのは自分の小さな自慢だ。

 他人に対して自分の心情を吐露することに慣れていないのか、由貴也は言いよどむ様子を見せた。その彼に「ねえ、マッサージしてあげようか?」と言ってみた。

 きっとクラブには優秀なトレーナーがいて、香代子よりも巧みなマッサージを由貴也に施すのだろうけど、こうすることで由貴也がリラックスして話しやすくなると思ったのだ。由貴也は「うん」とうなずく。

 高校の時からマッサージはマネージャーの仕事だったし、今でもクラブがない部活の日は香代子が彼のマッサージを行っている。言葉がなくとも由貴也はすぐさま仰向けになった。

 足の先端から体の中心に向かって手のひらをすべらす。血液の循環を促進しているのだけれど、何回もマッサージをしているうちに素人マッサージでも何となく相手の状態がわかってくる。

「だいぶ疲れてない?」

「……うん」

「今日豆腐と鶏のささみね」

「……豆類キライ。鶏も味しないからヤダ」

「好き嫌い禁止! タンパク質は筋肉の疲労回復にいいんだから」

 そういった他愛のない会話をしていると、由貴也がぽつりとつぶやいた。

「……竜二が怪我をして」

 竜二の怪我の状態は気になったけれど、香代子はとりあえず「うん」とだけ答えて、話を聞いているということを示す。由貴也は他人と話すことが下手だから、こちらが口を挟むと話が脱線する可能性がある。

「俺に部活よりもクラブを優先させて、エースを張れって」

 由貴也はそれきり沈黙してしまったので、話はこれで終わりのようだ。一体、竜二がいないのとクラブでエースを張るのとどうつながりがあるのかわからずに香代子は考えた。

 クラブのエースの竜二が怪我でいなくなった。エースを張る人がいない。だから由貴也に部活とクラブの二足のわらじを辞めてクラブのエースを張れということなのだろうけど、その話の流れには疑問があった。

「クラブには由貴也よりも年長の院生の人がいるって聞いたんだけど、その人はどうしてるの? それにクラブにエースって絶対に必要なの?」

 香代子が疑問を差し挟むと、由貴也はあまり段取りのよくない話し方でクラブの内情を語った。

 院生の自殺未遂のこと、そのことでコーチがつらい立場に立たされているのではないかという懸念。その名誉回復のために活躍するエースが必要であること。クラブを優先させることのメリット。

 香代子はクラブがそんなことになっているとは露とも思っていなかった。どうりで竜二が香代子の指導に来ないはずだ。それどころじゃない。

「……俺は竜二の要求をつっぱねた」

 現状を説明し終えて、最後に由貴也はそれだけを自分の言葉で言った。それが香代子には何だか必死の釈明に聞こえてしまった。

「クラブを優先させるのがそんなに嫌?」

 マッサージを終えて、体を起こした由貴也の目を見て聞く。香代子は前回と同じ轍を踏まないように慎重に言葉を選んで尋ねた。由貴也にクラブを優先しろと言って激昂させたのは記憶に新しい。

 答えられない彼の瞳に、あるひとつの感情が浮かんで消えたのを香代子は見逃さなかった。

 由貴也の抱く感情の中身を確信して、香代子はさらに踏み込んだ問いかけをする。

「部活から離れるのがそんなに嫌なの?」

 胸の一番痛い部分にかすり傷をつけられたように、由貴也は香代子から目を離し、押し黙った。

 由貴也は部活を彼自身のホームのように思っている節がある。哲士がいて、根本がいて、香代子がいて。自分を受け入れてくれる気安い仲間の元から離れたくないのだ。彼は絶対に自分を傷つけないひとつの世界で完結したがっている。馴染みの薄い新しい世界は怖いのだろう。

 由貴也は長い間沈黙していた。けれども香代子は言葉で助け船を出して、彼の思考の流れを形作ることはしなかった。これは彼がひとりで考えるべきことだからだ。

 地平線に残っていた朱が消えるまで由貴也は口を閉ざし、そしてやっと開いた。

「……部活から離れるのは嫌だとか、俺にそんなこと言ってる余裕がないのもわかってる」

 由貴也の答えに、うん、とだけ答える。由貴也は一年後までに結果を出すことを求められている。それには使えるものは何でも使うくらいの気概がないといけない。クラブでコーチの指導が密に受けられるなら、環境の良い方へすぐに移るべきなのだ。遊びで陸上をやっているなら居心地の良い方を選んで楽しんで陸上をやればいい。けれども陸上で身を立てると決めた彼はそれではいけない。

「部活のみんなは――部長は聞いたことないけど、私も根本も、大学を卒業したら陸上ではご飯を食べていかないんだよ。由貴也とはゴールがもう違うの」

 大学の部活はあくまで学生生活の彩りだ。部員たちは誰一人として不真面目に部活をやっているわけではないけれど、陸上を生きていく術にしようと日々鋭く磨いているわけではない。

 由貴也が小さい子供のような顔をした。自分だけ放り出されたような心許なさを感じているのだろう。

 揺れる由貴也の両頬を両手で包みこんで、至近距離で向き合う。由貴也は今日初めて香代子を見たかのように目をわずかに見開いた。

「だけど、道が違っても、アンタとの関係がなくなるわけじゃない。由貴也は離れたらすぐ私たちとの関係がなくなっちゃうと思うの?」

「……思わない」

「アンタがどこでどうしてたって離れたりしないよ。ちゃんと見守ってるって言ったじゃない」

 由貴也の手がさ迷うように動く。最後にたどり着いたのは、由貴也の頬に触れる香代子の手で、上から存在を確かめるように由貴也の手につかまれる。体温の温かさに安堵するように、由貴也が目を伏せた。

「……もう少しよく考える。インカレもあるから」

「部長にも相談してみたら?」

 部活を完全に辞めてしまえば、大学対抗のインカレの出場資格を失ってしまう。各方面への影響力が強いインカレに出ないのは由貴也の競技人生に大きなマイナスを残す。この事に関する相談役は、三年生が引退して、予想通り陸上部の部長となった哲士が適任かと思われた。

 由貴也がうなずいて、触れ合っていた手を離した。きっと彼はこれ以上、深く触れ合うことをしない。決定的な何かをしてしまえば、彼の中の何かがガクンと一気に傾き、厳しい競技の世界に立っていられなくなるからだ。恋愛と陸上を両立できるほど、由貴也は精神的に安定していない。

 由貴也とともにある難しさを、香代子は改めて思い知る。香代子が少しでも由貴也と在ることを疑ったり、信じられなければ、それはすぐさま彼に伝わって揺らぐだろう。それでも支えると決めたのだ。

 今はいい。手をつなげなくとも、長く触れ合えなくとも。

 それに、と思う。由貴也のことは確かに好きだけれど、最近弟と接しているような感覚に近いんだよね、と。だから触れ合うのも平然とまではいかないけれど心臓が破裂しそうなほど動揺もしていない。

 男だと認識する方が困るので、この状態の方がありがたいといえばありがたい。もし異性だとつねに強く意識しているようでは、ふたりっきりで部屋になどいられない。

 都合がいいのかな、由貴也が弟みたいだってことは――あれ、でも私は由貴也の姉ちゃんになりたいわけでも母親になりたいわけでもなくて……。

 考えると頭が混乱してきて、由貴也にとってプラスになるなら私は姉ちゃんにでも母ちゃんにでもなってやるっ、と結論づけ、「晩ご飯、作るっ!」と立ち上がった。

 その時には破壊されていた郵便受けのことはすっかり忘れていた。

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