鎖1
『地上の風』読了推奨。
「何でこんなことに……」
今日何度目かの香代子のつぶやきは胸の中に留まらず、ついに声に出された。けれども市民運動公園に集うランナーたちは忙しくウォーミングアップをして、誰も香代子のつぶやきを拾わない。
じわじわと真夏の日差しが羽織っているジャージ越しに肌を焼く。この猛暑日の中、香代子は長袖長ズボンのジャージをきっちり着込んでいた。
「マネージャー、早くアップしろよぉ」
後ろから根本がのんきそうに声をかけてくる。香代子はついつい勢いよく振り返って根本をにらみつけた。諸悪の根源はコイツなのだ。
事の発端はこの前、根本、由貴也、哲士、竜二の四人で行ったボウリングだ。四人のボウリングの腕前は、目も当てられないほどひどく、四対一だというのに香代子は圧勝してしまった。勝った方のいうことをきくというベタな賭けをしていたので、運動音痴の香代子は走りの得意な彼らに早く走る方法を伝授してもらおうと思ったのである。彼らは快諾し、さっそくその翌日から部活の合間に香代子の指導にとりかかった。
一言多い根本とはすぐにケンカになり、指導どころではなくなった。かといって、由貴也は黙して語らなすぎたし、竜二は「ええか。ピストルがパーン鳴ったら、バッと体起こして、ドドドって走って、バーっとゴールに行くだけや」と、万事感覚的すぎるアドバイスしかくれなかったので、一向に香代子の走りは改善されなかった。
けっきょく、頼れる哲士に的確な指導をしてもらい、百メートル走の記録が二十秒近い鈍足の香代子でも平均に近いレベルにまでタイムが縮んだ。
バイトやスーパーからの帰り道に無意味に走ってみたくなる程度には香代子は満足していたのに、根本がある日嫌な予感がする笑みを浮かべて言った。「市民陸上記録会、エントリーしといたぜ」と。わなわなと震えながら根本から手渡された記録会の要綱をその場で握りつぶして、「誰も大会に出たいなんて言ってないでしょうがっ!」と猛抗議したけれど聞き入れられず、むしろ「せっかく速くなったんだから一回くらいこういう記録会に出てもいいと俺は思うけどな」と、哲士に勧められ、他の陸上部員にも「いいじゃん。出てみろよー」と言われ、断れなくなってしまった。そして、渋々ながらも香代子はこうして市民陸上記録会なるものに参加することになったのである。
マシになったとはいえ、まだまだ人並み以下の走力であること、元々香代子は運動会やマラソン大会などの運動系の行事に苦手意識があることなど、いろいろこの場から逃げ出したい理由があるものの、目下の大問題はこのジャージの下の陸上ウェアだ。
いくら参加することに意義があるというイベント的側面の強い記録会とはいえ、さすがにジャージで走るわけにもいかない。Tシャツとハーフパンツでもふさわしいとはいえない。
大学の陸上部の女子部員に相談すると、おもしろがって腹部が露出するセパレートタイプのものを着せられそうになったけれど、力の限り拒否した。ついで体にフィットするレーシングシャツとショートタイツを勧められたけれども、香代子はぴったりしたウェアを着て、空気抵抗を抑えないといけないほどのレベルでは到底ない。けっきょくオーソドックスなランニングシャツとランニングパンツに落ち着いた。
それでも腕と足むき出しだけどね、と香代子はジャージの胸元を押さえながら心の中でつぶやいた。下着並みに肌が出る陸上のウェアになることが、香代子の緊急かつ最大の悩みだった。
とはいえ、なし崩しといえども、出場すると決めた以上、アップも何もかもきちんとやりたい。香代子は根本を睨みつけながら腹をくくってジャージを脱いだ。
ランニングシャツとランパンは通気性を重視して作られているため、身に着けていてもすーすーする。落ち着かない気分になりながら、かたわらにいる根本に今まで着ていたジャージを渡す。中肉中背の香代子は体脂肪率が二十パーセントを切るような短距離女子選手とは違う。二の腕なんかぽよぽよだし、太ももはぷよぷよだ。
マネージャーデブだな、ぐらい根本に言われるかと思ったけれど、ランニング、ランパンの女子は見慣れているのか、意外にも何も言わなかった。根本と同じく見物しに来ている由貴也と哲士もノーコメントだった。
自意識過剰とわかっていても、何も言われないのもつらい。ああもうなんでこんなことになっちゃったんだろ、と思いながら黙々とアップを始めた。軽くジョギングをする。
「古賀ー。アイスー」
暑さに参っている根本が由貴也の肩にあごを乗せてアイスをねだっている。由貴也はいつも保冷バックを手に提げていて、その中にはおいしいアイスがたくさん入っているのだ。その根本の顔を由貴也が無言で自分の肩を振って落とす。哲士だけが走りゆく香代子を律儀に見守っていた。
なんだか変な感じ、と思いながら香代子は小トラックの入口に彼らを残して白線の上を走る。今日、彼らはジャージではなく、私服だ。もちろん足元も陸上用のスパイクではない。だから小トラックの中まで立ち入らない。普通の靴ではタータン舗装が傷つくことを知っているからだ。
いつもは逆なのに。マネージャーの香代子が彼らを見守るのに。でもたまには見守られるのもいいかもしれないと思ってしまう。後ろに誰かいるのは安心する。
これからもマネージャーとしてがんばって彼らを見守ろうと決意を新たにする香代子だったが、今はそれどころではない。自分のことだ。
ジョギングをして入口付近の彼らのところへ帰ってくると、三人で仲良くアイスを食べていた。何だか心なしか、いつもとは逆の観戦者という状況に彼らがウキウキしているように見える。絶対物見遊山気分でしょアンタたち、と香代子は心中で悪態をつく。ランニングから出る、二の腕の贅肉のつき方で悩んでいた自分がバカみたいだ。
結局、いつものように怒りながら彼らに背を向けてストレッチを始めた。体がよく動く。やはり自分は怒りが一番エネルギーとなる質らしい。
「そういえば、お前んとこの五十嵐どうしてんの」
根本が由貴也に尋ねる。香代子の走りのコーチの一人である竜二は一度あまり役にたたない指導をしに大学のグラウンドまで来てくれたけれど、それ以後は来なかった。大学で行き会った際に「なかなか行けんでごめんなぁ。今度埋め合わせはするわ」と心底すまなそうな顔で謝られたけれど、別に香代子は気分を損ねたりはしなかった。そもそも彼はあの時、関東選手権が近く、香代子に構っている暇など最初からなかったのだ。
「……何か、いろいろおとりこみ中っぽい」
いつもながら要領のつかめない由貴也のコメントに、「おとりこみ中ってなんだよ。おとりこみ中って」と根本がツッコミを入れている。
「関東選手権で怪我したんだろ、五十嵐。あ、マネージャー。ハムはよく伸ばしておいた方がいい」
哲士が前半は由貴也へ、後半は香代子へと言葉を向ける。「うん。わかった」と返事をして、フェンスに足をかけて、足を伸ばした。ハムストリングス、通称ハムは、太股の裏側の筋肉の総称だ。瞬発系の競技に不可欠な筋肉だけれど、肉離れを起こしやすい部位でもある。
「膝だろ、五十嵐の怪我って。もう少しだったのになー、日本選手権」
由貴也の代わりに根本が答える。こういう情報は彼らも陸上選手ゆえ、伝わるのも早い。
「どうすんの、アイツこれから」
「……さあ?」
根本の問いかけに、由貴也が気のない様子で答える。
「『さあ』って、お前ら仲いいのか悪いのかよくわかんねー」
根本が薄情な由貴也をわずかに責めるようなセリフを吐く。由貴也は間髪容れずに「仲良くないですよ」と答える。
「本気で走るのに仲良さなんていらないし」
何の気負いもなくさらっと答える由貴也に、思わず香代子は振り返って彼の顔をまじまじ見てしまった。根本と哲士も同じような反応をしている。
普段はやる気と努力と根性など生まれたときから持っていないかのようなふるまいをする由貴也なのに、時おりびっくりするほど勝負師の顔を見せる。彼らは確かに仲良くはないかもしれないけれども、相手を軽く扱ってはいない。本気で走るということで、互いに敬意を払っているのだろう。そう思いながら香代子はダッシュを繰り返す。大会に出場する部員の様子を見ているので、アップの方法は知っているし、記録会の大体の流れはつかめている。けれども自分がやるとなるとまったく勝手が違う。体に緊張の膜がかかって、まだ体が目覚めていない気がする。もう一度怒った方がエネルギーが発生していいかもしれない。
『出場者の皆さまにお知らせいたします。成人女子百メートルに出場する方は召集場所まで――……』
アナウンスが競技場の隅々まで響き、香代子は身を固くした。
「おっ。マネージャー出番だぜ!」
根本がにやにやと笑いながら香代子の背を叩く。どうしてこうも根本という男はいちいちムカつくのだろう。
「マネージャー、そんな緊張しなくていいから。リラックス。リラックス」
哲士に軽くなだめられ、無言でうなずく。走るどころか、体が固まって歩けるかどうかもあやしい。
それでも手と足を一緒に出しながら歩き、競技場の前まで三人に送ってもらう。「俺らは観客席で見てっから」と根本がひらひらと手を振り、去っていく。とたんに行かないで、と子供みたいなことを言ってしまいそうになる。
小学生の時のマラソン大会ではいつも途中で嘔吐し、完走したためしがない。中学の時の体育祭は三十人三十一脚で香代子がクラスメイトの走りについていけずに転び、結果的に列が乱れてゴールにたどり着けなかった。高校の時の陸上記録会では走り幅跳びの時に体勢を崩し、顔から地面に突っ込んで脳震盪を起こした。他にも球技大会ではボールが顔に当たって卒倒。水泳大会では溺れて死にかけるなど、スポーツがらみの失敗談に事欠かない香代子だ。次々と嫌な思い出がよみがえってくる。
観客席に上っていく彼らを引き留めそうになるのをぐっとこらえながら、香代子はぱらぱらと落ちてきた髪をくくり直そうと、ゴムを抜く。ボブヘアーを無理やりひとつにくくっていたのだ。
「あれ……」
何だか手がすべって上手く結べない。早く召集場所に行かないとと思っても、手が震えて動かない。
「かして」
背中から声がかかって、反射的に振り向く。相変わらず無表情の由貴也が「前向いててよ」と言って立っていた。香代子はあわてて顔を正面に戻す。
由貴也の指が香代子の髪をすいて、ゴムで結ぶ。その手のぬくもりに、どうしてか涙が出そうになる。今まで自分は選手と同じ緊張感の中に身を置いていたつもりだったけど、それが大きな勘違いだったと知った。選手は走る時はひとりきりだ。誰も助けてくれないし、孤独だ。
「……アンタがビリじゃなかったら今日の夕食エビフライにして」
「な、なんで私が走るのにアンタの望みを聞いてやんなきゃいけないのよ!」
由貴也と軽口を交わしながら、いつもの自分が戻ってくる気がする。由貴也がほんのわずかに目を細めた気がした。
召集テントにやって来た時にはだいぶ落ち着いていた。係員からナンバーカードを渡され、まわりの様子を見ながら見よう見まねで安全ピンで留める。前は何とかつけられたけれど、腰ゼッケンが上手くつけられずにもたもたしてしまう。もうすぐスタートラインに移動しなければいけないのに。
あせればあせるほど、安全ピンが上手く留まらない。じっとりと汗をかいてきた香代子の手の横から別の手が伸びてきて、難なくナンバーカードを留めた。
香代子が驚いて顔を上げると、隣で三十代後半とおぼしき女性が丸い顔をさらにやわらげて微笑んでいた。
「あっ、ありがとうございますっ」
香代子がよく回らない口でお礼を言うと、女性はにっこりと微笑みながらうなずく。この記録会は参加者の区分が小中高で分けられている他は成人としてひとくくりにされているため、香代子の組は様々な年齢層の出場者がいた。陸上には各大会ごとの参加標準記録というものがあり、それを破るまでは出場できない。この記録というのは、普段の練習などで出したものは認められない。ゆえに標準記録を破るのに使える正式記録を録るための記録会があるのだ。よって人と勝負をするわけではないので、参加者のくくりもおおざっぱだし、参加者の間に流れる空気もおだやかだ。
スタートラインに移動する。赤いタータン舗装の地面に、スパイクが吸い付く。このスパイクも部活の女子部員からの借り物だ。足裏にピンがついているタイプのもので、慣れない香代子には少し歩きづらい。けれども、このピンがあるのとないのではまったく足が地面をとらえる力が違うのだ。
直線コースに八人が並ぶ。香代子は真ん中の四コースだった。記録会ゆえに観客は少なく、当然ながら歓声も起こらず、場内アナウンスによる選手紹介も省略だ。香代子はとにかくいつも哲士や由貴也がやっているように、足元のスターティングブロックを調整する。
『位置について』
すぐさま号令がかけられ、香代子はえっ、もう!? と動揺する。どうしよう、と思う。スターティングブロックがこれでいいのかもわからないし、まわりの景色もよく見えない。音もよく聞こえない。香代子以外の七人はやけに落ち着いている気がして、余計に感情の波が収まってくれない。ストップウォッチ早押し競争や、スポーツドリンク早作り競争なら自信があるのに、と香代子は場違いなことを考える。
『用意』
アナウンスは香代子の動転具合など意に介すことなく、非情にも進んでいく。同じ組の参加者から一拍遅れて香代子も地面に手をつき、腰をあげて用意の体勢をとった。
普段はしない体勢に、ぶるぶると体が震えて、ぐらつきそうになる。ここで少しでも動くとフライングと見なされ、一発失格となってしまう。香代子はこらえた。
天高くピストルが鳴る。香代子は転びそうになりながら飛び出した。由貴也や哲士たちとは違って、数えきれないほどの余計な動作が加わっている。
空気の抵抗を感じながら体を起こしきった時、前には七つの人影があった。つまりはビリだ。
負けるもんか、と懸命に腕と足を動かす。自分には四人ものコーチがついている。優秀かどうかはともかくとして、自分の背後に控えていてくれている。
由貴也の軽やかさ、哲士の安定感、竜二の力強さ、根本の勇敢さをイメージして走る。上半身のブレを最小限にし、体に一本の芯が通っている様を心がける。
その瞬間、風を感じた。自分のまわりで風が起こっている気がする。視界が雨上がりのようにクリーンになる。
――何だろう、これ。気持ちいい。
前を走る人の背中が近くなる。それがさっき召集テントの中で香代子のナンバーカードを留めてくれた人だと気づく。心の中で謝る。ごめんなさい。親切にしてくれたけど、あなたを抜かしてビリじゃなくなって、今夜はエビフライを由貴也に作ってやらなきいけないんです――。
ついに横に並んだ。ゴールは間近だ。あともうひとふんばり、と香代子は全力で足を動かした。半歩、香代子が先行する。
このまま突っきれ、と思った瞬間、がくんと体がぶれた。
「えっ……」
自分が発した言葉が空中においてけぼりとなる。手が、上半身が、足が崩れる。気がついたときには地面が眼前に迫っていた。
「ふがっ!!」
悲鳴とも何とも言えない声を発して、地面と香代子はキスをする。万歳の体勢で転んだ香代子の横を、一瞬前まで競り合っていた人が走り抜けていく。
その後、香代子が再び立ち上がるには長い時間を要した。そして、会場の温かい拍手の中、圧倒的ビリでゴールするという、屈辱的一ページが香代子の生まれてからずっと栄光の光が射したことのないスポーツ史に加わったのだった。
「いやー、いい走りだったよ、マネージャー。本当に! 期待を裏切らないでくれて……ぶくくく、あり、ありが、ぶぶぶっ」
笑いを必死にこらえる根本の足を思いっきり手で叩き、香代子は頭の上のタオルをさらに深く被り直した。
「マネージャー、でも本当にいい走りだったよ。きっとあのまま走ってたらベストタイムだったな」
哲士のなぐさめも右の耳から左の耳へ流れていく。記録会後、撤収する人の波の中、香代子は暗雲を背負い、市民運動公園の芝の上に体育座りをしたまま動かなかった。転んで擦った額には大きなガーゼが貼ってある。それを隠すために頭からタオルを被っていた。
香代子の記録会デビューは散々な結果で終えた。なんとタイムは二十三秒五四。哲士や由貴也の二百メートル走より遅い。それどころか、百メートル走全参加者の中でもっとも遅い。
「まぁ気にすんなって。てか、腹減ったよ。何か食いに行こーぜ」
根本が気楽に言って、香代子は反発したくなる。香代子にとっては一大事だったのに、こののんきさ。こちらの苦労を知りもしないで、と憤る。
そこで、はたっと気づいた。苦労なんていつしたんだろう。大して気合も入れずに走り始めて、せいぜい半月間の、しかも片手間程度の練習しかせずに、苦労だなんていえない。今日転んだのもスパイクのピンが地面にひっかかってという理由だ。由貴也や哲士、根本ならまずしない失敗だった。それに根本は“走る格闘技”の八百メートル走の選手だ。オープンコースで接触、妨害何でもありの中距離選手から見たら、彼曰く『お上品に』区切られているセパレートコースである百メートル走でなぜ転ぶのか理解できないのだろう。
いつもバカなことばっかりやっている根本だって、意外と努力家なことを香代子は知っている。瞬発力と持久力の両方が要求される中距離を走るのは容易ではない。それに根本は何度他の選手に妨害されて転倒しても、また立ち上がって走る。
何もまだがんばってもいないのに、落ち込んだりめそめそしたりする資格はない。結果を悲しむのは、充分に努力し、苦しんだ上ですることだ。香代子は出てきそうな涙を何とかひっこめた。そして立ち上がる。
「今日は帰る。次につなげられるようにちゃんとひとりで反省会する」
香代子が拳を握りしめながら言うと、根本と哲士が驚いた顔をしてこちらを見た。由貴也だけは相変わらず平然としている。
「マネージャー選手になんの」
「えっ……?」
「だって『次につなげる』って……」
最初を根本に、次を哲士に尋ねられ、自分が次も走る気になっているのに気づいた。
「な、ならないよ。だって私の目標は全国マネージャー選手権で優勝することだし」
「そんなのあんのかよ」
すかさず根本につっこまれ、香代子自身もそんなのあるのかな、と本気で考えた。
「選手にはならないけど、何かちゃんと走ってゴールしないと、一生ゴールできない気がするの!」
出たよ、自分の中途半端嫌いが、と思いながら、香代子は叩きつけるように言い放っていた。このまま走ることを止めてしまったら、自分はずっとレーンの上で転んでいる気がする。横を誰かに駆け抜けていかれてしまいそうな気がする。
「もういっそのこと部員になっちゃえばいいんじゃね」
「それは嫌」
即座に返事を返す。自分はマネージャーの仕事に強い使命感を持っている。それに、今まで香代子は本格的に走ったことがなかったから、百メートルを十秒台で走る彼らのすごさを実感を伴ってはわかってなかった。今日、走ったことで、それがはっきりわかるようになってしまった。これ以上走り続けていたら、余計に格差を感じるようになるだろう。だったら、自分が得意なマネージャー業で輝いていたい。
「マネージャーも陸上の魅力にハマった?」
哲士までそんなことを言ってくるので、「ちがうってば!」と否定した。
しつこくしつこく選手になれと言ってくる根本と哲士と別れ、由貴也とふたりで香代子のアパートへの帰路につく。由貴也は当然のように香代子の部屋に上がりこむつもりだ。もう慣れたけれど。
この頃になると、疲労のため、肩に下げているスポーツバックが重くなってきた。体力はそうない方ではないと思うけれど、今日は慣れないことをしたせいでくたくただ。夕日に照らされて前を歩く由貴也の影を追うだけで精一杯だ。
唐突に由貴也が止まって振り返った。思わず香代子まで足を止めてしまった。由貴也の動作はいつも脈絡がなくて驚かされる。
香代子がびっくりしている間に、由貴也がためらいのない歩調で近づいてきて、香代子の前に立った。そしておもむろに彼のマイ保冷バックから棒アイスを取り出し、無言で香代子に突き出す。
「……もらっていいの?」
あっけにとられて香代子がそろりと聞くと、またもや由貴也が無言でうなずく。由貴也の行動原理はいまいちよくわからない、と思いながら「ありがとう」と言って受け取ると、代わりに由貴也の手が香代子のスポーツバックに伸びた。そのまま香代子のスポーツバックは由貴也の手に渡る。
香代子のスポーツバックを肩にかけ、由貴也は再び香代子に背を見せて歩き始める。香代子は溶ける前にアイスを食べ始めた。バニラアイスの冷たさと甘さが疲れた体に心地よい。
「……アンタらしい走り方だった」
歩みを止めないで由貴也が話し始める。ゆらゆらと西日にふちどりされた背が揺れる。歩道に伸びた長い影も揺れる。
「気持ちから走ってるよね、アンタは。全身で負けるもんかって言ってる」
「……でも負けたよ」
そう。香代子は負けた。ビリだったことではない。転んでもすぐに起き上がれなかった。やっぱり自分はダメだったとあの時思ってしまった。運動音痴なのはもちろん生来のものもあるのだろうけど、一番は自分はダメだと思いこんでしまっているからだと思う。
「エビフライは今度ね。今度は転んでもすぐに立ち上がるから」
「立ち上がったらいいんじゃない」
「そうする」
「うん」
何なのだろう、この会話は。でも、悪くはない気分だ。
転んだけれど、香代子の自分史・スポーツ編に暗黒の一ページが加わったけれど、走るのはそう悪くなかった。彼らのすごさがわかって、遠くも感じたけれど、同時に近くにもなった。彼らがこうも熱心に陸上に取り組む理由が香代子にも自身の体験としてわかった。スポーツをして楽しいと思ったことは人生二十年初めてのことだ。それが陸上であることがうれしい。
「もう少しだけがんばるよ。ビリじゃないように」
「うん」
「お腹空いちゃった。早く帰ろう」
「うん」
「夕ご飯何がいい?」
「……エビフライ」
香代子は苦笑して「ダメ」と答える。エビフライは脱ビリ記念に取っておこうと思った。
「……アンタはきっとこのままで終わらないと思ってた」
ぼそりとひとりごとのようにつぶやいた由貴也に驚くと同時に、意外と見ていないようで見ているんだなとうれしくなった。ちゃんと香代子のコーチなんだな、と胸が温かくなる。
「アンタたちみたいにはなれないけど、ビリからは脱却するよ!」
香代子は夕日の中で、拳をにぎって決意も新たにつぶやいた。由貴也が一瞬だけ笑った気がした。