表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
94/127

サマーゲーム11

 強烈な恐怖を覚えて、反射的に飛び起きた。 竜二はベットの上でよくわからないままに荒い息をついた。悪夢を見ていたようだと認識するまでにしばらくかかる。そしてそれが“悪夢”ではなく“現実”だと悟るまでにはもっと長い時間を要した。怪我をして、走れない体になったのはまごうことなき現実なのだ。

 寮の自分の部屋で、ベットの上で膝を抱える。部屋も、寮の中もしんと静まり返って、夜明けはまだ遠い時刻であることを示す。華耀子に走らなくていいと言い渡されてから、一昼夜が経っていた。

 目をつむっていても、部屋の様子は再現できた。黒地に赤のラインが入ったクラブのユニフォームも、大事な大事なオーダーメイドのスパイクも、手入れもされずに雑然と床に転がっている。このまま放置すれば、それらが痛んでしまうことはわかっていたが、動けない。

 こうなることはある程度予想していた。冷静さを失っていても、自分がリスクを犯していることは承知していた。それでも、華耀子をひきとめておけるならいいと思ったのだ。

 だが、どうだろう。自分の手の中に何が残った。怪我をしたあげく、正気を失い、華耀子の腕の中で崩れた。

 少しは冷静さを取り戻した今ならわかる。関東選手権のことはまぎれもなく暴走だった。華耀子がいなくなる焦りのあまり、自らの体を省みず、結果として何ひとつとして手に入れられなかった。

 欲を制御できない運動選手は必ず自滅する。感情をコントロールし、緊張を味方につけることは、一流の運動選手なら身に付けていて当たり前のことだった。

 華耀子を想うと、自分の冷静な部分がなくなっていく。彼女の存在は、今までどんなことにも侵されなかったあの走路の中の竜二に影響を及ぼす。彼女がコーチゆえに、その一挙一動は竜二の走りにまで連動する。

 膝を抱える力が強くなる。今ならわかる。華耀子の存在が竜二に影響を及ぼしすぎるから、彼女は竜二を自らの元から解放しようとしたのだろう。彼女がコーチゆえに竜二は彼女を愛し、コーチゆえに選手の竜二は乱れるのだ。

 だが、どうすればよかったのか。あの時の自分に、他に何ができたのか。いまだにわからない。堂々めぐりの息苦しさを感じ、竜二は発作的に部屋を出た。壁に手をつきながら使い物にならない足を引きずり、寮を後にする。

 上手く動かない足をもどかしく思いながら、足の向かう方向のままに歩く。草木も眠る時刻の住宅街は、ひっそりとして、だが、人々の眠る息遣いが聞こえそうな闇の気配は余計に竜二の孤独をあおった。

 歩く程度のことも満足にできない自分に憤りながら、ひたすら足を進める。重い夏の闇は、粘性すら孕んでいるようで、たちまち息が切れた。

 どれだけ歩いただろう。むせかえるような草いきれに顔を上げる。そこで初めて足がアスファルトではないところについているのに気づいた。

 竜二は芝の上に立っていた。まわりは青々とした木々に囲まれている。公園だった。

 何でこんなところに、と思ってまわりを見回すと、小さな土のグラウンドを視界にとらえた。グランドを囲むように木々が植えられたそこには見覚えがあった。

 ここはかつて、竜二が華耀子のもとから逃げ出して、さまよって行き着いた公園だった。

 華耀子のもとにやってきてから一ヶ月ほど経った時、彼女に言われて竜二は走ってみたものの、結局走れず、すべてが嫌になって華耀子のもとから逃げたのだった。あの時の竜二には、昼間のこの公園に集う人々がたまらなくまぶしく温かく見えたのだった。

 夜明け前の今は、外灯が煌々と輝くのみで、人気もない。公園はずいぶん寂しい有様だったが、結局ここに来てしまった自分はあの頃と変わらないのだと苦笑する。

 手頃なベンチに座って、竜二は夜の公園を透かして、過去の自分を見る。

 華耀子との出会い、反発や挫折。今思えば、拉致同然で関西から連れてきた挙げ句、無反応な竜二にビンタをかまし、やられたらやりかえせとけしかけたという、わりと無茶をかましていた彼女である。竜二は微かに苦く笑った。

 特に考えようとしているわけでもないのに、彼女との思い出は次々とあふれてくる。一緒にいた期間は一年にも満たないのに、その存在は重たく大きく尊く竜二の中で主張する。

 結局、何も返せへんかったな、と思う。あの人に立ち直らせてもらったのに、こうしてまた沈んだ。何ひとつ返せないどころか、マイナス収支ですらあるのに、自分だけこうして与えられ続ける。

 ……ほら、こうやって――。

 竜二は薄く笑んだまま、背後を振り仰ぐ。そこには予想通り、シャツとジーンズに結わずに流した髪というラフな格好で、偶然ここに来たのよ、というような涼しい顔をした華耀子が立っていた。

「……コーチは相変わらずオレのことお見通しやなぁ」

 この人には敵わない。いつだって、竜二のピンチに駆けつけてくる。竜二はこの人の存在から逃れられないと諦感すら抱いて華耀子から視線を外し、前を向いた。

「オレのこと、そんな見はっとらんでも、自殺なんかせえへんよ」

 冗談めかして言ってみても、今の自分にはシャレにならない響きがあるような気がした。案の定、「ええ、そうね」と華耀子は平淡に言ったものの、自殺とまでいかなくとも、精神状態の危うい竜二が何かをしでかすのではと思っていそうだった。だから、夜中に寮を抜け出した竜二の様子を見にきたのだろう。そう思うと、自嘲の笑みがこぼれた。

「院生の二の舞は踏まんわ……」

 そうだ。自分は自殺未遂をした中村のようにはならない。どんなに道を踏み外した陸上選手の末路が暗かろうと、まだまだこの人と行きたいところ、やりたいことがあるのだ。

 まだまだ走りたい。この人とさらに遠くの高いところに行きたい。――まともに歩けもしないくせに。

「未練たらしくてやんなるわ……」

 唸るように笑うと、自然と頭が垂れた。どこで一体自分は間違ったのだろう。最初は純粋にこの人とまだ到達していない場所へと行きたかっただけなのに、いつのまにかいろいろと手に余るものを抱え込んで、身動きがとれなくなった。

「あきらめたように笑うのは止めなさい。まだあなたは何も終わってないでしょう」

 熱帯夜の密度の濃い闇を切り裂くように、華耀子の声が響いた。

「私はあなたを待つと昨日言ったはずよ。怪我を治して戻ってこいと」

 竜二は思わず立ち上がって、華耀子の方へ勢いよく体を向けた。その動きに膝が悲鳴を上げる。こんな満足に走れない選手を手元に置いておいて何になる。自分は今はもう、完全に華耀子のお荷物と化したのだ。

 叫び出しそうな激情をこらえて、竜二は華耀子を見つめた。

「――これから、」

 こみ上げてきた苦い感情を飲み込んで、無理やり口を開く。

「オレを飼っといて、コーチのプラスになることなんてないやん。むしろ面倒なことの方が多いやろ」

 一息に言い切って、その言葉に、自分自身が打ちのめされた。今シーズンは棒に振る上、この怪我では復帰できるかもわからない。しかも復帰できたところで、このたちの悪い怪我は繰り返すだろう。加えて年齢的にももう悠長に構えてもいられない。何よりも、自分は愚か者である。選手失格である。自己管理も、感情の抑制もできず、ただ暴走する愚か者だ。

 もう一度、華耀子に背を向けて、ベンチに座った。覚悟はできているから、はよ言ってくれや、と身構えて破門を受け入れる準備をする。

 「……あなたのどこがマイナスだというの」

 ふと背後から、闇を貫く華耀子の声が竜二に向かった。言葉を挟ませる隙もなく、華耀子が続ける。

「足を切断したの。それとも陸上界を追放されたの。不治の病にでもかかったというの。違うでしょう」

 それはもはやへりくつに近いのではないかと思うが、その歪んだ理屈すら真実にするほどの強さが彼女にはあった。

 竜二の背後に立っていた彼女が、重い歩みで竜二の前に立つ。

「私はまだあなたを倒れさせはしない」

 ゆっくりと竜二の座るベンチの前に華耀子が膝をついた。

「オレは膝に爆弾抱えた選手やで」

「知ってるわ」

「また暴走してアホなことしでかすかもしれへん」

「今度こそ止めてみせるわ」

「オレは役に立たない選手やで」

 だらりとベンチの上に投げ出した手の先に、華耀子の手が触れた。

「私にとってあなたの代わりなんていないわ」

 ああ、と竜二は華耀子の手を握る。この人はいとも簡単に竜二の心を突き崩す。どうしてこんなにもこの人の一言で心が揺さぶられるのだろう。他の人が言ったなら、竜二の心はこんなにも響かなかった。

「あなたは私に公私の別があると思っているでしょうけど、そんなものはないわ。全部、選手たちのものよ」

 その言い方は反則やろ、と喉まで声が出かかった。それやったら、アンタの全部が欲しいオレは選手として走り続けるしかないやん、とつないだ手のぬくもりを感じながら絶望的に思う。

 そして、止めをさすように華耀子は言った。

「あなたたちは――あなたは私にとって何よりも大切よ」

 その一言で、竜二は自分の中であるひとつの答えが灯ったことを感じた。同時に、自分は最大のものを得て、最大のものを失うのだと予感する。

「……それ、愛の告白みたいやな」

 泣きだす一瞬前を笑みに変えたような気分で竜二はつぶやく。

 元カノの手を振り払い、関東選手権の決勝戦に出ようとした竜二を阻止しようとした華耀子の手も振り払った。でも今つながっている手は振り払えそうもない。

「私に、もう一度チャンスを――」

 華耀子の言葉に、竜二はうなずいていた。去年の冬もこうして華耀子は竜二の前に膝をついて、手を握って、竜二に「走って」と言った。

 また一から始める、ここから。

 夏の早い夜明けに、東の空が白み始める。ずいぶん長い夜が終わった気がした。







 夜が明けてから、早い時間に竜二はクラブのコーチ室を訪ねた。

 朝の光の中を、華耀子のデスクの元へ歩く。竜二の姿を認めた華耀子がわずかに目を見開いた。

 運動選手としては長めの金色の髪を短く切り、黒く染め、ピアスなどの装飾品をすべて外した姿で竜二は立っていた。この姿は竜二にとって自戒と決意が形になったものだった。

 華耀子のデスクの前まできて足を止めると、彼女もそのただならぬ様子を察したのか、パソコンを閉じ、竜二に体を向けた。どこまでも白い日が、窓から差し込んで、自分たちの間を静かに照らしていた。

「トレーナーの元に行きます」

 固い自分の声が、二人きりのコーチ室に冴々と響く。華耀子は無言で竜二の次の言葉を待っていた。

「膝の手術も受けます。必ず走れるようになってオレはコーチの元に戻ってきます」

 このまま沈みはしない。膝の手術も、怪我からの復帰法に定評がある老トレーナーの元へ行くのも、すべては再起のためだ。まだ日本選手権にも、インカレにも、世界陸上にもオリンピックにも行っていない。走路の果てまでこの人と走るのだ。そのために、この人を得るために、自分はこれから自らの心の一部を失う。

「もう二度と、選手として分を超えた真似はしません。オレはあなたの選手に徹します」

 これからずっと、どこまでも華耀子の選手として生きていく。華耀子は自分のすべてをコーチという職分に捧げるといった。ならば自分も生半可な気持ちではいけない。

 恋を捨てる。華耀子への想いを抱いたまま走るなら、自分はまた今回のようなことを繰り返すだろう。陸上選手として冷静な判断が下せない。華耀子はコーチ、自分は陸上選手。その関係がある限り、この想いに出口はなく、それ以外の関係性が成立する余地もない。

 恋を捨てる。いついかなるときでも、陸上を優先する。倒れるまで選手としての顔を貫いてみせる。全力で華耀子の選手として生きてみせる。彼女の指導に、自らのすべてもって応えてみせる。

「だからあなたは選手としてのオレに最後まで責任を持ってください。そうすれば、オレは選手としての生をまっとうします」

 最後まで――走路の果てに吹く風の色を見る時に、華耀子がそこにいてくれるのならば、自分はただの選手になれる。いや、最高の選手になってみせよう。

 華耀子は最初から最後まで竜二から目を離さなかった。おそらく竜二の言葉の意味を違えず理解しているはずだ。彼女は一瞬だけ瞳を伏せ、それから視線を落とす前と寸分変わらない強いまなざしを竜二に向けた。

「約束するわ」

 その言葉を聞き、竜二はうなずく。何かが始まり、何かが終わったことを感じながら、すぐさまきびすを返す。もう見つめあう時間は自分たちの間に必要ない。

 廊下を歩きながら、華耀子を好きだと態度に出してはばからなかった無邪気な自分を思い出す。もう二度と、あのように振る舞うことはない。

 クラブの建物から外に出ると、むらのない青空が竜二を迎えた。その青さが目に染みる。

 そこで初めて竜二はこの怒涛の日々の間に、自分が誕生日を迎えていたことに気づいた。八月一日、竜二は二十歳になった。名目上は子供から大人へ。実質的な意味では自分が大人だとは露も思わない。

 ただ、自分の少年時代は終わったのだと、今痛いほど感じていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サイトに戻る
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ