サマーゲーム10
――なかなかあの子たちのようには上手く走れないものだわ。
真夜中のクラブのグラウンドで、華耀子は息を切らしながらタータン舗装の地面に横たわった。
寝そべり、夜空を見上げると、夏の星座が輝いていた。大三角形が瞬いている。夏の空は、重い湿気を引きずってぼんやりと輝く。
結わえた髪をほどくと、長い髪は地面に放射線状に広がる。それを今は汚いとも思わない。どうにでもなれという気分すらある。
走りでもしないとやっていられないわ、と悪態に近い強さで思う。現役の頃のように毎日ハードにというわけにはいかないが、時間が許す限り華耀子は誰もいなくなったクラブのグラウンドで自分のためだけに走っていた。
間近で由貴也や竜二を見ているせいだろう。走れば走るほど、自分はやはりそこそこの選手だということを思い知らされる。どこにもいけない二流半の選手だ。
県大会準優勝。けれども、次の関東大会は勝ち抜けない、それが華耀子の卑下も贔屓目もない正確な選手としての能力だ。中途半端に才能があることで諦めきれずに大学まで陸上を続けてしまったが、卒業と同時に競技からは足を洗うのだろうと予測できるほどには、当時も自分自身の能力に過信はしていなかった。
それが中田と出会うことで一変した。愛し、愛される喜び、脳裏に焼きつく、彼の現役時代の勇姿。その才能に恐れすら抱き、抗いようもなく、彼に強く惹かれていった。その上、自分のタイムも飛躍的に上がったのだから、彼を神のように思うのに時間はかからなかった。
世間知らずもいいところだった。陸上ばかりしてきて、世間の男が自分にそう都合よく甘くはないことを知らなかった。
思えば、中田はもうあの時からおかしかった。興奮剤、麻薬性鎮静剤、筋肉増強剤、男性ホルモン増強剤、それをドーピング検査の時に出ないようにする様々な薬剤。彼が現役時にそれらを常用していたことは距離が近しくなっていくうちに理解していった。引退後、中田はそれらの副作用に体を蝕まれていた。体だけではない。ドーピング薬剤の中には精神に影響を及ぼすものも少なくはない。凶暴性を増すものや、躁鬱状態をもたらすものなど様々だが、それらによって中田が壊れつつあるのは明白だった。
周囲の人は彼の変調を指導者として上手くいっていないせいだと理解していたが、一番影響をもたらしたのは薬物依存だったのだ。
気がついた時には一緒に暗闇に囚われて、どうしようもなくなっていた。十五も歳下の小娘にどうにかできるほど、彼の闇は浅くなかったのだ。
結局、自分はアメリカに逃げ、復讐と紙一重の情熱をもってスプリント大国の指導法を学んだ。当初は中田よりも優れた指導者になってやるという子供じみた意思があったのだが、実際指導する選手たちは人間だ。無論華耀子の事情に構うことなく、好き勝手にやってくれた。だが、それがよかった。
つらつらと考えていた思考を切って、体を起こす。その拍子に長い髪の毛先が背を叩く。息切れは治まっていた。
グラウンドの端に置いてあるスポーツドリンクとタオルをとりに歩き始める。太陽の代わりに月が上天にあるのに、まったく涼しくはない。むっとした熱気が、薄いウェアにはりつく。
中田に会わなかったら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろう、と月に照らされる静かなグラウンドを見ながら思う。少なくとも指導者などにはなっていなかったはずだ。指導者は、選手としてそれなりの実績がある一部の者――皮肉にも中田のような者にしか開かれない道だ。当然、自分には届かない地位だった。
それが中田の罪を被ったことによって、クラブの会長である彼の父親が口添えし、華耀子の道を拓いたのだった。
グラウンドを囲むフェンスの近くに、自分の荷物一式と、タオル、スポーツドリンクが置いてある。スポーツドリンクを口に含みながら、風を感じた。今まで無風状態だったことを考えると、この風は雨の予兆かもしれない。
ペットボトルを手にしながらふと顔を上げると、クラブの巨大な建物が見えた。電気が消え、静まり返ったそこから、自分の手に視線を移す。中田の凶刃を阻んで、包帯に包まれている右手だった。
感傷的に言えば、中田に捨てられ、罪を被せられ、彼との人倫に悖る恋に一応の終止符を打ってから月日が経つにつれ、中田の父親の罪悪感は薄れ、華耀子を疎み始めているのはわかっていた。加えて院生の自殺未遂だ。会長からは厄介者払いという意味の辞任の圧力はかかっていた。華耀子は一度の失態も許されない立場にいたのだ。華耀子自身も自らのいたらなさについて忸怩たる思いを抱えてもいた。
それが、この手の怪我だ。華耀子は苦笑する。意外と深くて将来ひきつれを残すかもしれないらしい。この怪我によって、会長は忘れていた罪悪感を思いだし、華耀子に辞任を迫れなくなった。華耀子がナイフを阻まなければ、会長の可愛くて誇らしくてたまらない息子の中田は今頃殺人者だ。彼のナイフは竜二の心臓という冗談では済まないところを狙っていたのだ。
中田の父親が息子かわいさに道を誤りながらも、人並みに罪悪感を持ったことは路頭に迷った十九歳の華耀子にとって幸運であったが、今の華耀子にとって幸運であるかどうかはわからない。たとえ会長が辞任を強要できなくなったところで、華耀子のコーチとしての不甲斐なさは消えない。
あの日、自殺未遂をする前の日、院生の中村は汚いと泣きながら華耀子を責めたのだ。中田から華耀子の過去を歪んで伝えられ、そのドーピングという行為に彼は強い嫌悪感を示したのだ。
もともと中村は潔癖症のきらいがある繊細な青年だった。そして二十四になる彼の、最後の分岐点が今年だった。これ以上低迷するようだったら、年齢的に彼に陸上選手として生きる道はない。
その中村は自殺未遂をした翌日、白い病室のベットに横たわりながら、華耀子の予想だにしない表情を浮かべて言った。「これでふんぎりがつきました」と。清冽な微笑を湛えて、「僕は昨日自分を殺そうとしたんじゃない。陸上を殺したんです」と清々しさすら滲ませて言った。
中村は抜け出せないスランプに苦しむことに飽いていた。ずっと辞めたいと願っていた。だが、陸上に並々ならぬ時間と労力と苦しみと喜びを与えられた、または与えられたゆえにそこから容易に離れることができなかった。だから強いきっかけが必要だったのだ。そのきっかけを華耀子が作った。
「あなたは僕を裏切った。だからもう引き留めないでください。僕という選手を黙って失ってください」
そう言って、中村は華耀子の前から去った。それは責められるよりも辛い仕打ちだった。ドーピングをしたなんて、コーチ失格だと罵られた方がどれだけよかったかわからない。去っていく中村をじっと見ていることしかできないのは、この上なく歯がゆかった。彼の未来と才能を摘んだのは自分なのだ。だが、釈明は許されない。自分自身も許さない。
上からの非難は会長が抑え込んでくれるにせよ、自分は指導者として居続けていいのかという思いは消えはしないで華耀子の中を巡る。ゆらゆらと迷いは揺れて、竜二の怪我で一気に傾いた。自分の存在が竜二に怪我をさせたと悟ったからだ。
遠雷の音が鼓膜を震わせ、雨粒がぽつりと赤いグラウンドに落ちた。雨だと認識している間にそれは強くなっていく。
華耀子は別段慌てなかった。バッグを一応タオルでくるみ、それだけだ。今から車で自宅であるマンションに帰るだけだし、今着ているのは水着のような肌と一体化する陸上の短距離走用のウェアなのだ。別に濡れたところで困らない。
帰ろうと顔を上げると、何かが視野でひっかかる。目を凝らすと遠くに人影が見えた。雨が降っていて視界はきかないが、その人物はちょうど外灯のもとをおぼつかない足どりで歩いていたので、誰だかかろうじで判別がついた。
「竜二……!」
ここからでは彼に聞こえないだろうに、思わず声に出して走り出していた。バッグを放り出して、タオルだけひっつかむ。
弱くはない雨が降る中、意思を感じさせない歩みで進む彼の姿は奇異に瞳に写る。そんな姿の彼にも、自分は内心驚きもしない。どこかで予測していたのかもしれない。竜二がここへ来ることを。
「そんな体でこんな時間に寮を抜け出してきて何をしてるの」
立ちはだかるように竜二の前に立って、その金色の頭にタオルを被せて遠慮なくがしがしと拭いた。見れば竜二はタンクトップにハーフパンツという思いきり部屋着である格好をしていて、どこかぼんやりした表情をしていた。
膝のサポーターに目が自然と留まり、華耀子はわずかに顔をしかめる。今の彼は心身ともにぼろぼろだ。
竜二は自分自身もなぜここにいるのかわからないという顔で口を開く。
「オレ、とにかく走らんへんといかんと思って……」
心の中に浮かんだ言葉をそのまま口にしたという無防備さで竜二は話す。
「オレ、走らへんと」
その言葉を口にした途端、竜二の瞳に強烈な意思が灯った。あまりに劇的な変化過ぎて、何かにとり憑かれているようだ。目の前の華耀子の存在を無視して、グラウンドの中央へ足を向ける。
「竜二!」
歩き出す竜二を止めるべく、華耀子はその腕をつかんだ。今度は死んでも離さないように、しっかりと彼の腕を両手でつかむ。彼を制止しきれず、関東選手権の決勝戦に行かせてしまったことは最大の悔いだ。
予想に反し、竜二は強く反抗することもなかった。それどころか、バランスを崩し、地面に膝をつく。あっけないともいえる姿に、華耀子の胸にはあるひとつの可能性がよぎる。
もしかして、膝が上手く動かなくなってる――?
華耀子はすばやく竜二の全身を見た。ここへ来るまでに何度も転んだのか、手の平や膝にすり傷ができていた。
竜二はなおも立ち上がろうとするが、できずに崩れる。スムーズに膝の曲げ伸ばしができなくなるのはロッキングという半月板損傷の症状だ。
「竜二、動かないで」
華耀子も地面に膝をつき、竜二の両肩をつかんでその動きを止めさせる。竜二は立ち上がれない自分が信じられないようで、呆然と地面を見ていた。
やがて、その顔が無理やり笑みの形に歪む。
「こんな怪我、すぐに治してみせるわ」
地面を見たまま竜二が力ない笑みを浮かべてみせる。言葉とは裏腹に、それは追いつめられた人間が最後にどうしようもなくなってこぼす笑みだった。
「オレは何度だって立ち上がってみせる。次の大会では優勝してみせるわ。他の誰にも負けへんから」
笑みが消えた竜二の顔を伝うものは、雨か、涙か。
「オレはまだ走れる……!」
それは悲鳴のような言葉だった。それしかすがりつくものがないかのように、同じ言葉を繰り返そうとする竜二を、気がついた時には抱きしめていた。
彼をこの場に押し止めておくように彼の背に腕を回しながら、落ち着かせるように何度か彼の名を呼ぶ。自分よりも体の大きな男を抱いているはずなのに、頼りない子供を腕の中に閉じこめた気分になる。
彼をここまで走らせて、無理をさせて、壊したのは自分だ。だから、彼にこう言うのも自分しかいない。それがたとえひどく残酷なことであろうとも。
「竜二。もう走らなくていいの」
その言葉を放った瞬間、彼の輪郭をかろうじで保っていたものが、もろく崩れていくのを感じた。
「今は少し休みなさい」
外界から遮断するように、竜二の頭を抱く。ずるずると力を失った竜二の体が下がってきた。しばらく茫然自失した間があり、その後、押し殺した嗚咽が漏れてきた。
今、この瞬間、竜二に愛してると言ってあげられたらどんなにいいだろう。竜二の頭を抱きしめ続けながら、そう思う。けれども、華耀子はどうしても竜二にそういう感情を抱けなかった。選手との恋愛は絶対のタブーだと自分の中で定めている。一度、指導者である中田と抜き差しならぬ関係に陥ってしまった自分に、二度目はない。それに誰かひとりの選手に特別な情を与えては、クラブの陸上セクションは瓦解する。華耀子にとって自分の受け持つ選手との恋愛は、自分がコーチを辞めるべき事態だと理解していた。
竜二の向ける感情を、同じ種類、同じ強さで返せない。それどころか、彼をここまで追いつめ、ぼろぼろにした。だから、竜二と離れなくてはいけないと思ったのだ。きっと彼はまた無茶をするだろう。それを防ぐために名高い老トレーナーの元へ預けようと思ったのだ。
中田が竜二にナイフを向けた時、自分の内にあったのは中田が殺人者になる恐れよりも、竜二が傷つけられる恐怖だった。
あらゆるものから彼を守りたい。怪我からも、過去のトラウマからも、そして彼に害を与えた華耀子自身からも。そう思っていた。だから自らの進退について思いを巡らせ、一方に固まりつつあったのだ。
それが今宵、崩れた。
「怪我を治して戻ってきて。ゆっくりでいいから」
もっと早く、こう言ってあげればよかった。一言こう言えば彼にこんな身を削るような真似をさせずに済んだ。あなたが帰ってくる場所はここだと。ずっと側にいて支えると。
「そしたらまた一緒に走りましょう」
彼を擦りきれるまで走らせたのは自分だ。だが、彼を本当の意味で止めるのも自分だ。自分にしかできない。だからコーチを辞められない。
祈るように思う。もう一度だけチャンスをちょうだい、と。今度はこうなる前に死んでも彼を止めてみせる。中村や、竜二の姿に誓う。今度こそあなたたちを守ってみせる。
私は、私はあなたたちを苦しみを与えるためにコーチをしているのではないわ――!!
自分に対する怒りすらこめて、胸の中で叫ぶと、同時に過去の記憶が弾けた。竜二が華耀子のもとへ来てから、初めて記録会で走った日の夕方だった。
自分は矢も盾もたまらず、乱暴な手つきでクラブの自分の机の引き出しを漁っていた。ただやみくもな捜索の後、目当てのDVDを持って、マルチメディアルームにほぼ走るように足早に向かう。震える手で、機器にDVDをセットする。まもなくプロジェクターを通じて、スクリーンに映像が写し出された。それは冬の日、みぞれの中で走れなくて倒れる竜二だった。
神様、神様、神様――っ!!
その瞬間、華耀子は今まで信じたこともないあやふやな存在に、生まれて始めて感謝した。スクリーンの中では、暗い闇の底にいるような目で、陸上を辞めさせてくれと懇願した竜二が、自分が一度はあきらめかけた彼が、今日力強く地を蹴り、自分の前を駆け抜けて見せた。それはまるで奇跡のように思えた。
竜二が復帰後初めて出場した春の記録会を懐古しながら、あれを奇跡で終わらせるわけにはいかないと思う。自分は何度だって奇跡を確実に起こしてみせる。何度だって倒れた彼を立ち直らせてみせる。
自分は指導者と選手の恋愛の結末を知っている。だから竜二と恋はできない。だが、コーチとしてなら惜しみなく全力を注ぐ。何よりも誰よりも大切に思える。
竜二にはこの上なく残酷なことであるのはわかっていた。許して、と声もなくつぶやく。コーチとしてはすべてをもってあなたを支えてみせるから、どうか許して、と。
自分が迷ったから、竜二は倒れた。だからもう迷わない。
夜半の雨は強まるばかりだ。攻撃性すらはらんだ雨粒から、竜二を守るように抱き続けた。
痛いほどの雨に打たれながら、華耀子は“今”の中田についてほとんど思いを巡らせてないことに気づいた。七年前は彼のことだけを考え、関係が決裂してからは愛憎入り交じった強い感情に長らく苦しめられたが、刃物を振り回すほどに精神がおかしくなっている中田の今後について、心のみならず、自分の存在自体が持っていかれそうなほどに思い悩むことはなかった。それどころか、思考に沈めば思い浮かぶのはここ最近なら竜二の――選手のことばかりだった。
自分はかつて、竜二に陸上のない人生のやり直しなど、再生ではなく、ただの余生だと言った。自分はもう、晴れ舞台で走ることはない。だが、竜二や自分の受け持つ選手たちをみることこそが自分の再生であったのだと今、この瞬間気づいた。