サマーゲーム7
痛みが増していく。
関東選手権当日は台風接近に伴い、本降りの雨だった。
すべてが悪い方向へ作用している気がする。アップに使う小トラックにしゃがみこみ、竜二は舌打ちでもしたい気分だった。
雨で地面という地面がすべり、一歩歩くにも走るにも普段より膝を使う気がする。一刻一刻強くなる雨は体を冷やし、さらに膝への痛みを強くしている。不快感が集中を阻害する。
病院に行ってから三日を経て、細心の注意を払って生活してきたというのに、違和感が徐々に痛みに移行してきていた。
竜二は顔を上げる。雨の小トラックには色とりどりのユニフォームが散らばっている。いずれも各県から集めた精鋭ばかりだ。誰もがこの関東選手権の上の日本選手権を目指す。
日本選手権に出場するには、この関東選手権で三位以内に入り、かつ標準記録Bを破ることが求められる。竜二はB記録はすでに突破しているので、あと満たさなければならない要件は三位以内のみだ。
地区選手権に出場するのはもう三回目だった。高二と高三の時――もちろん関西地区での出場だが――は、直前のインターハイに照準を合わせてしまったので、惜しくも日本選手権の切符を逃した。地区選手権に専念していれば、もうとうにその上の日本選手権に出ていたはずだ。自分にはそれだけの力がある。
今回は関東選手権に調子を合わせてきている。ここで止まるようなことは許されない。許さない、自分が。あの人を守るだけの力を手に入れてみせる。鳴り物入りで作ったクラブの陸上セクションから誰も日本選手権出場者を出せないようではいけないのだ。
「竜」
自分の名前を呼ばれて顔を上げると、傘をさしたジャージ姿の由貴也が立っていた。出場者でない彼は今日、竜二の付き人としてついてきていた。
「時間」
本当に最低限しか話さない由貴也に苦笑しながら、竜二はうなずく。出場する競技の召集がかかっているのだろう。
ペットボトルとタオルと差し出され、とりあえずタオルを受けとり、自分が着ていたレインコートを渡した。由貴也が機械的に傘をさしかけてくる。その下で雨でたれた髪がうっとうしくて、乱雑にふいた。
小トラックからしばらく歩くと、スタジアムが見えてくる。集中力を高めると言われる青いトラックの色も、今はどこか寒々しく思える。
「竜二」
スタジアムの外と中をつなぐ通路で華耀子が待っていた。彼女は竜二に視線を留めるや否や、「表情が固いわ」と言う。竜二はあらかじめ考えておいた「雨嫌いなんや」という言い訳でしのぐ。事実、竜二は雨嫌いの選手だ。地面を蹴り、前に進む力が制限されるようで不快なのだ。
「そう」
華耀子は竜二の言い訳を信じたような信じていないような様子で答える。
「背中を向けて」
怪訝に思いながら、華耀子に言われるがままに背を向ける。次の瞬間、背中の肩甲骨の間に触れられた。
「体はきちんと温まっているわね」
背中越しに響くその声にも、ユニフォームを通してでも感じる華耀子の手のひらにもどぎまぎしてしまう。
「行ってきなさい」
背中を軽く押され、竜二は前に出る。胸の奥から温かくて、でもその温かさだけ恐怖にかられるような感情が沸き上がってきた。後押ししてくれるこの手を失いたくないと切に願う。
由貴也と華耀子を残してスタジアムの内部に入りながら、胸が叫ぶ。頼む、もってくれ、と祈るように膝を見る。同時に、こちらを軽んじて侮る、水泳セクションのコーチ陣の顔が浮かんだ。オレが、二度とそんな顔で見させない。日本選手権に出て、少しは陸上セクションにも使える選手がいると思わせてやる。
闘志で恐怖を吹き飛ばす。雨の音は人の気配をあいまいにさせ、不安にさせる。過去の残像が近くに潜んでいる気がする。
集中力である程度の痛覚を切る。その分、他への感覚も鈍くなった気がする。
スターティングブロックに足をかけ、スタートラインに手をついた瞬間、雨の音が遠ざかった。代わりに引き寄せたのは過去の映像だ。
視界が一瞬だけ暗転し、世界が夕焼けに染まる。隣のレーンの選手が笑ったような気がした。あの日、竜二の膝を壊したあの部員の顔で。体が否応なしに萎縮する。
竜二を現実に戻したのは雨をものともしない鋭いピストル音だった。先ほどまで竜二を支配していた夕刻の朱さが消え、雨音が耳朶を叩く。現実の風景にはっとし、竜二は反射的にスタートラインから飛び出した。
出遅れた。そう強烈に思う頃には、レースは中盤に差し掛かる。これがまだ短い百ではなく、後半に挽回のチャンスがある二百だったことは幸いだが、いまだに体の強ばりが抜けない。竜二が膝を壊されたのも二百を走っている時だった。隣を走る部員がカーブの膨らみに合わせて竜二のコースに侵入して、足をひっかけたのだ。今も、隣の選手の存在を感じて、体が身構えて固くなる。動きが悪い。
結局、最後まで全力で走らなければならなくなってしまった。力のある選手は後半を流して体力温存を計るのだ。
何とか予選突破ラインである組二位につけたが、あがいた分、体へのダメージは大きい。痛覚を元に戻した時、膝の痛みに低くうめいた。
これでは華耀子たちの待つテントに戻れない。少なくとも何事もないようにとりつろえるようにならないとダメだ。足を完全に引きずりながら、雨が当たらなくて、人目につかないところを探す。
ベンチコートで雨を防ぎながら、スタジアムの外をさまよう。準決勝の召集は一時間半後だ。早く体力を回復しないといけない。
あてもなく歩いていると、草木に囲まれるようにしてスタジアムに隣接していた公園を見つける。わりと背の高い木が多く、しかもスタジアムの出口とは反対側ということもあって、ひっそりとした公園だった。子供が遊ぶには寂しすぎる風情だ。
雨足がさらに強くなり、昼だというのに外灯がついた。シーソーもブランコも、雨粒を垂らしながら陰気に濡れている。ぬれそぼった砂場の砂を踏みしめながら、竜二は小さなプリン型の山へ向かった。
頂上から滑り台が伸びた石造りの山には、予想通り下部に山肌をくりぬいたトンネルがあった。身を屈めてその中に入る。
トンネル内では雨音がくぐもって聞こえた。それをBGMに竜二は身を横たえる。ここへきてやっと一息ついた。
怪我を隠し、どこにも行くあてがなくて、こんなところで身を潜めている自分はみじめだった。同時に孤独だった。
息を吸う度に、膝が焼けるように熱い。ざまあない、と自嘲の笑みを漏らす。
痛覚を意図的に切るという器用なことができるようになったのはこっちに来てからだ。華耀子の助けがあり、何とかどん底から這い上がった後も、膝の痛みを記憶が恐怖とともに再現してしまっていた。それを断ちきるために、痛覚を切ったのだ。要は自己暗示だ。
自分は鈍感だ。いや、鈍感のふりをしている。こうして痛覚を切って、痛みをかすかな違和感にしてしまうことも、つらかった記憶を忘れてしまうことも、その証に他ならない。記憶も痛みもすべてがすべて、怖いからだ。
でも――。
その臆病な自分が、今、あの人を失うほど怖いものはないと思っている。怪我よりも、過去の記憶よりも何よりも怖い。
腕を目の上にのせて視界を隠すと、不意に両親と兄の顔が浮かんだ。あんなに応援してくれているのに、また怪我をして本当にアホだ。
心の中で彼らに謝る。自分は誰のためでもなく、自分のために走る。あの人を失いたくないという愚かな望みのために走る。
家族の姿がぐにゃりと歪む。自身の願いを貫く自分はもう、冷静な陸上選手だとはいえなかった。
気がつくと雨音に包まれて少しうとうとしていたらしく、竜二ははっとして飛び起きた。その拍子に、トンネルの低い天井に頭をぶつけ、悶絶する。
ヒリヒリする額に顔をしかめながら、おそるおそる膝を動かす。ちゃんと動く、まだ。
四つん這いになって何とか土管のトンネルから出た。外は雨が弱まり、霧雨のようになっている。
けぶる景色の中で屹立する時計は、竜二が最後に見てから四十分の経過を告げていた。よかった、寝過ごしてはいないようだ。小トラックに行って、準決勝のために体を温め始めることにする。
もう早々に膝の痛みを意識の奥底に沈めた。足を引きずるなんて、陸上選手としてもってのほかだ。歩き方を崩せば、体幹が崩れ、走りに変な癖がつく。
竜二は努めて普段通りに歩きながら、いつまでもこんなことが続けられるはずがないと思っていた。痛覚を切り続ければ、普通の動きはできるかもしれないが、その分知らないうちに無理をするということだ。体が嫌がる動きは、いつか大波になって竜二に甚大な傷を与えるかもしれない。
いや、いつかではない。もう近い。
竜二は苦々しく思いながら、細かい雨の中を歩いていた。まっすぐ地面へ落ちるどしゃぶりの雨よりも、こういった繊細な雨はかえってまとわりついて体を濡らす。うっとうしい前髪をかき上げたとき、散歩道の向こうに、見知った人影を見て、目を見開く。伸びた髪を幽鬼のようにたらす中田 優だった。
さながら墓場を抜け出してきた亡霊のようにふらふらと歩いているにも関わらず、その足取りには明確な目的があるように感じた。そのちぐはぐさがどこか不自然で不気味だ。
竜二が眺めているうちに、その姿は雨の先に消える。ただ見送っていた竜二だったが、気がついた時には足が動いていた。華耀子の生活をめちゃくちゃにしてやると言った中田の目的は彼女だろう。
すぐさま追いつき、「中田さん」と声をかける。傘もさしていない中田の伸びたTシャツは濡れてまだら模様を作っている。彼は緩慢な動きで振り向いた。
竜二は絶句する。現役だった頃はいざ知らず、竜二が実際に顔を合わせた中田は健康的な男とは言いがたかった。だが、ここまでひどくはなかったはずだ。たれた前髪の間からのぞく瞳は眼窩が落ち窪み、頬の肉は急激に削げ、全体的に危うい鋭さを増した。正常な人間ならぬ凄みが彼のまわりには漂っている。
奈落の底から竜二を見るような暗さで、中田は睨む一歩手前のような目でこちらを見た。確かに彼は破滅を連れてこれるような不穏さを持っていて、竜二は不安を隠して「アンタ、何しに来たんや」と問いかけた。
爬虫類じみた眼球の動きで、中田の瞳が竜二をとらえる。ひどく白く、青くすらみえる顔色が、さらに彼を人ならぬものに見せている。顔をつきあわせた時から話の通じなそうな男だったが、今はまるで竜二の言っていることを弾いて、独自の理論で武装しているように見える。
「君はどうしてまだ走ってるの」
ゆるゆると中田が近づいてくる。人との適正な距離をまるで無視して、中田の顔は驚くほど至近距離にあった。
「君には華耀子の真実を教えたはずだ」
ささやくような中田の声に、「真実?」と挑発的に返す。
「余計なこと吹きこんだ院生みたいにオレを潰したいんか、アンタは」
怒りをこめて、竜二は低く言い放つ。精神的に弱い院生に目をつけ、華耀子の過去らしきものを暴露した中田のやり口は憎々しい。それで華耀子はコーチの退陣という窮地に追いこまれている。
「オレはそうはならん。あの人をめちゃくちゃになんてオレがさせんわっ!」
啖呵を切りながら、膝が痛みに震えていた。本当はもうめちゃくちゃや、と胸の中の自分が苦笑する。心身ともに満身創痍だ。
不意に、往年の中田の姿が頭に浮かんだ。竜二の記憶に残っている一番古い中田は、日にやけた褐色の肌に、鋼のような肉体を持って、何より全身から自信と生命力がみなぎらせ、赤茶色のグラウンドに立っていた。日本の絶対的エースだという自負。あの時の中田は竜二の唯一無二のヒーローだった。
彼の行く先々には日しか当たっていないと思っていた。彼のように強くありたいと願った。今だってそう願っている。
竜二の憧れや願いの中に存在する中田と、今の中田はどうしてこんなにも隔たってしまったのだろうか。輝く彼はいったいどこに消えたのか。あまりの中田の変貌に胸が切なくなる。
「教え子の足を引っ張ることが中田 優のやり方かっ!」
感情が膨張して弾けた。今でもあざやかに風とともに思い出せる神に愛された才を持つ中田の欠片が、今の彼にも残っていることを信じたかった。
「アンタの陸上選手としての、日本王者としてのプライドはどこへ行ったんや!!」
竜二のその言葉を聞いた途端、中田が吹き出した。何がおかしいのか、彼は転げ回らんばかりに笑い続ける。その勢いは彼がひきつけを起こすのではないかと不安になるほどだった。
そして、唐突に笑いを切る。刹那の静けさが耳を打つ。
「……プライドや、清廉さだけで勝てると思っているのなら、君はずいぶんおめでたいね」
その顔に笑いの余韻はなく、狂気だけが見てとれた。ひやりとするような暗闇が、彼の回りに凝っている。
「体格のいいネグロイド系の選手たちに混じって走ることが、どんなに僕を打ちのめしたか君はわかるかい? どんなに努力しようとも、追いつけない生まれながらの差があることを」
中田の手が、竜二の首にかかる。いたぶるようにその指が巻きつく。
「華耀子は返してもらうよ」
そのために来たんだ、と中田は言う。逆に首に手を巻きつけられたまま、竜二は静かに言う。
「あの人にあんのは、アンタとの過去やない。コーチしてるっつう今や」
後ろを向いて、過去ばかりを持ち出す中田。前を向くあの人は彼の手をとらないだろうという確信があった。
竜二の首を握る中田の手の力が、ゆるやかに強まる。真冬の外気の中にいるような冷たい手に、気道が圧迫されるが、竜二はつとめて表情を変えなかった。膝が傷ついていても、過去に心揺さぶられていようとも、見せかけでも強く見せたいのだ。教え子である自分が揺らいでは、コーチである華耀子がそこまでの人間だと思われる。
緊迫した空気が流れた。竜二の首を締める中田の手は強くも弱くもならない。霧のような細い雨が自分たちを揺らす。
「ちょ……何あれ!」
自分たちのはりつめた状況を破ったのは通行人の驚いた声だった。睨み合いに近い状態で相対し、片方がもう片方の首を絞めているとなれば、注目を集めない方がおかしい。
その声に反応してか、するりと中田の手が離れていった。彼は一瞬だけ竜二を見たかと思いきや、きびすを返す。
中田の背中を見ながら、竜二は息をつめながら自分たちを見ていた通行人にあいまいな笑みを向ける。竜二のとりつくろいの笑みに、彼らは釈然としない顔をしながらも去っていった。
つかまれていた首から中田の体温が消えて、妙に冷たく、頼りなく感じる。竜二は緩慢な動きでそこに手を当てた。
先ほどの中田とのやりとり――会話とも言えないが――の中で、竜二は確信していた。華耀子はどうだか知らないが、少なくとも中田は彼女に執着といえる感情を持っている。それはおそらく男女の関係に起因するものだ。
彼は狂気の淵で、竜二を本気で殺したいと思っていた。彼女に近づく男を排除したいという気持ちは竜二にも覚えがある。あのような状態にありながら、彼の目の奥底にある感情に共感すら抱いてしまった。
知らないうちに笑みがこぼれる。
「……殺され損やなぁ」
竜二は弱く、苦々しく笑う。中田がどう誤解しているのか知らないが、竜二と華耀子の間には艶めいた事実など一切ない。ありもしない事を誤解されて、中田から逆恨みされるなど、あまりにも割に合わない。
過去や感情をあのポーカーフェイスに隠す華耀子が中田を語ることはない。ただ、彼女はきっと中田に惹かれただろう。今の中田ならいざ知らず、過去の中田に惹かれないはずがない。陸上をやっている者なら天賦の才を持つ彼に惹かれないでいられるはずがない。
中田はどこをどう見て華耀子と竜二ができていると信じて嫉妬したのだろうか。
霧のような雨が前を見えなくする。竜二は前髪から水滴をたらしながら、中田が消えた雨の向こうを見る。
自分は彼に嫉妬される要素も実力もいまだないのだ――。