09
生徒会副会長、古賀 巴が陸上部へやってきたのは翌日のことだった。
練習中のグラウンドにひとりで現れた彼女はやはり皆の注目を集めていた。立ち姿からしてもう違う。濡れたように艶めく黒髪が風になびいている。その髪を手で押さえる姿すら綺麗だ。
巴の来訪に最初に気づいたのは由貴也だった。いつもの直線コース――グラウンドの端にいたにも関わらず、一番先に巴の姿に気づいた。
香代子も一拍遅れて巴に気づく。それから由貴也がじっと巴を見ているのにも気づいた。
ふたりが顔を見合わせている状態に香代子の方が動揺してしまう。アンタ大丈夫なの? と由貴也に言いたくなってしまう。また後で、数日前みたいに限界まで走り込んでまた倒れてしまうのではないのかと思う。
しかし由貴也は相変わらずの無表情で巴の方へ歩いた。巴が陸上部に何らかの用事があって尋ねてきているのは明らかなのに、香代子はただ由貴也の様子を凝視していた。
「巴」
距離がある程度狭まったところで由貴也が巴に呼びかける。
「どうしたの」
あまりに普通過ぎる由貴也の言葉に香代子は力が抜ける。
失恋相手なんだからもう少し何かあるものではないかと思った。由貴也らしいといえば由貴也らしい。彼は感情を表にまったく出さないし、そもそも何を考えているのか香代子にはさっぱりわからない。
「昨日提出してもらった書類に不備があってな。マネージャーさんはいるか?」
巴の話題がマネージャーの所在に至り、初めて香代子は自分の立場を思い出した。由貴也と巴のやりとりに気にしている場合ではない。巴の対応をするのは香代子の役目だったのだ。由貴也に練習を中断させてしまった。
スポーツドリンク作りを中断して、香代子は巴の方へ向かう。
巴に向かって走っていると、突然由貴也に臆面もなく指をさされた。真正面から指をさされるなど初めてで、ぎょっとする。
「あれ、マネージャーだと思う」
『思う』ってなんなのか。香代子はれっきとしたマネージャーだ。
もっとも相手は無礼のかたまりである由貴也だ。その程度の認識しかされてなくて腹は立つが、驚きはしない。
「指さすのは止めないか。失礼だろう」
巴が由貴也の一直線に伸びた腕を下げさせる。さすがに巴の言うことだけあって、由貴也は素直に従った。
「マネージャーは私ですが!」
思わず香代子は声を張り上げていた。どうしてこんなムキになっているのだろう。
由貴也はいつもの通り香代子に一瞥も与えない。巴は香代子の大声に少しあっけにとられた顔をしていた。
「……ああ、あの昨日提出してもらった遠征費の申請書に不備がありまして」
巴はすぐに表情を立て直し、香代子に書類の入ったファイルを手渡した。
申請書は提出する前に何度も抜けがないか確かめたはずだ。それなのに不備とは、と香代子はファイルから書類を取り出した。
そこで固まる。これは不備とかいうレベルではない。申請書と思って提出したものは、今月の陸上部練習予定表だった。
「……すみません」
顔から火が出そうだった。いつもこういうことは抜かりなくやるのに、今回はマヌケすぎる失態だ。すぐさま部室にとって返し、今度こそ申請書を手渡した。
「申請書、確かにお預かりしました」
怜悧な声で巴は言い、それから由貴也へ視線を向けた。由貴也はなぜかそこにある鉄棒にぶらさがっていた。まったくもってやりたいことを人目をはばからずにやる男だ。
「由貴也、しっかりな」
整った顔に呆れた表情を浮かべ、巴は由貴也に言った。確かに由貴也はどこもかしこもしっかりしていなさすぎる。
「巴もしっかり壮司さんつかまえときなよ」
さらりと返された言葉に香代子は驚く。壮司というのはあの生徒会長の名前だろう。巴の恋人である彼のことをどうしてそんなにも簡単に言えるのだろう。由貴也のライバルだったのではないだろうか。
横目で由貴也の様子をうかがう。いつも通り飄々とした顔をしているのかと思いきや、彼は薄く笑っていた。ゆるく弧を描く瞳には自虐的な色が浮かんでいた。
香代子にもわかる表情の変化に、いとこである巴が気づかないはずがない。一瞬だけ彼女は表情を凍らせた。
「余計なお世話だ」
巴は苦笑した。由貴也のいびつな笑みを受け流すことにしたようだった。そのまま由貴也とは視線を交わさずに颯爽と去っていった。
由貴也も何事もなかったように練習へ戻る。
短いけれど、重いやりとりだった。由貴也が巴に複雑な思いを抱いているのはありありと見てとれた。
巴、と呼んだ由貴也の声が耳の奥で響いていた。何の力みもなくするりと出てきた名前。呼び慣れているとわかった。
香代子には視線ひとつよこさないのに、巴ならばグラウンドの端にいたってきちんとわかる。
香代子はしょせんあれ呼ばわりの空気扱いなのだ。
どうして昨日からこんなにイライラしているのだろう。だから申請書の出し間違いなんかのつまらないミスをしたのだ。
どうかしている、と香代子もやりかけの洗濯に戻った。
胸に重くのしかかるもやもやとした気持ちは結局練習中ずっと続いていた。