サマーゲーム4
院生・中村が自殺を図ったという報をクラブの寮で聞き、竜二は驚きの反面、納得もしていた。
彼のことをよく知っているわけではないが、彼が受けた衝撃は理解できる。華耀子を心から信頼しているがゆえに、ドーピング疑惑――いや、院生の中では疑惑ではなく事実として認識されているのだろう――を知った時、耐えがたい裏切りだと感じたのだろう。そして、少しずつ良い方へ歩んでいると思っていた彼はまだ暗闇の中にいたのだ。暗い海の中、華耀子に必死にすがりついていたが、その華耀子の存在が光だけではないと知り、失望とともに未来を閉ざしてしまった。
先ほど見た、狂ったように笑う元日本王者・中田、そして自殺未遂を図った院生・中村。どうしてこうも、陸上選手の末路は救いがないのだろう。だがそれは、明日の自分の姿かもしれないのだ。
寮の部屋に帰り、竜二は明かりもつけずに、練習着やスパイクなど一式が入っている鞄を机の上に置いたきり、思考の海に沈んだ。
自分の教え子であった華耀子の生活を滅茶苦茶にしてやると、呪詛を吐くように言って笑う中田。彼をそうまで憎しみに駆り立てる華耀子の存在とは何なのか。そして華耀子はドーピングをしたのかと聞いたであろう院生に何と答えたのか。
かぶりを振る。こんなことを考える自分こそ、華耀子に対する裏切りだ。華耀子のことを信じているのなら、最後まで何があっても信じ通すべきだ。
違う、と自分の中の何かが即座に
叫んだ。そんな綺麗な感情じゃない。
頼むから信じさせてくれ、裏切らないでくれ、と弱い自分が懇願している。無様に怯えるのはあの日の自分だ。怪我をして、信頼していた大学の監督に見捨てられた自分。孤立無援の自分。その自分が、命綱ともいえる華耀子の存在が消えることに怯えている。
オレは自分のことばっかりやな、と自嘲気味に笑った。自分のために華耀子に裏切って欲しくないと願う。自分を導いてくれる強い存在であってほしいと望む。すべて自分ありきだ。
アスリートとしては利己的であってもいい。他人のことを構っているようでは上には上れない。人を押し退けても自らに一番の恩恵を得るようにするのがアスリートだ。
ただ、思う。華耀子は院生が自殺未遂を図って、ショックを受けているだろう。竜二や中村にしがみつくだけしがみつかれて、利用するだけ利用されて、それではあまりにも、あまりにも――……。
これは、陸上選手としての感情ではないかもしれない。むしろ余分なものかもしれない。それでも、一度灯った想いは消えることがなかった。
翌日、華耀子は何事もないような顔をして、竜二を指導した。ただ、当然のことながら院生は来なかった。
たぶん、華耀子の中では何も起こっていないのだろう。どんなに院生の自殺未遂に衝撃を受けたとしても、竜二に話すようなことは何も起こっていないのだ。自分は選手、華耀子はコーチ。それを取り払ったとしても、男子大学生と一人前の女だ。相談相手に選ぶはずがなかった。
練習後、華耀子は昨日、聞きそびれた竜二の話を丁寧に聞いた。
いつもなら陸上の話をしていると、すぐに意識がそちらへ傾倒していくのに、今日はいやに集中が切れる。耳鳴りのように、様々な言葉が身の内から響いてくる。それでも何とか華耀子と話し終えた時には、思わずそれまで思っていたことを口に出してしまった。
「……中村さんのところに行かなくてええんか」
自殺未遂を図った中村が今、病院にいるのか自宅にいるのかわからない。どこにいるにせよ、ついていてやらなくていいのか、と思う。こんな風に平然と他の選手の指導に来ていたら、彼は余計に傷つくのではないだろうか。
華耀子はすぐには竜二の問いかけに答えず、しばらく窓の外を見ていた。この暑さのせいか、クラブのグラウンドには人影ひとつ見当たらない。遠くに陽炎がたって見えた。その揺らめく景色を見すえたまま、華耀子は口を開く。
「……コーチである私にできることは、全員に同じだけのものを与えることなのよ」
「同じもの?」
竜二の反駁に、「そう」と答えた彼女の顔には、半分だけ窓からの陽が当たっていた。
「彼の状態が思わしくなくとも、それであなたたちの練習時間を彼のために割くことはできない」
非情にすら見えるほどはっきりと華耀子は言った。選手とコーチの関係は、アスリートの永遠の課題と言ってもいい。ある程度のレベルになれば、選手間で指導者の寵をめぐる争いが勃発する。それを廃した徹底的な平等。選手間の格差がないチームこそ華耀子の目指すものなのだと知った。
――いや、とそこで竜二は自分の愚かさを認めるとともに否定した。自分たちは普通の部活動とは訳が違う。純粋に華耀子の求心力で成り立っている。華耀子に救われ、病的なまでに彼女に傾倒する自分たちが平等に扱われなければどうだろう。華耀子が誰かひとりを特別扱いしたなら、その先は想像に難くない。
この華耀子への信頼関係で成り立っているという、聞こえはいいがもろい自分たちの関係は誰かひとり“特別なもの”を作った瞬間、バランスを崩す。華耀子しか頼る先がないのだから、支えを失った自分たちの衝撃は、普通の選手の比ではない。
そう認識した時、竜二は猛烈な羞恥にさいなまれた。サマーゲームの夜の、華耀子を自分ひとりの女にしてしまいたいという身の程知らずの望み。年齢差以前の問題だった。華耀子が選手の誰かひとりにコーチの枠を超えた情をかけるなどあり得ない。それは自分たちの崩壊を招くことだからだ。
華耀子が竜二を恋愛対象として見ることはない。はなから、そしてずっと、コーチと選手でいる限り、彼女に恋愛感情が芽生えることはないのだ。
そんな簡単なことにも気づかずに、期待をした自分がどうしようもなく恥ずかしかった。竜二の告白を拒んだ華耀子の思惑を、今の今まで理解できなかった自分は何て幼いのだろう。
西の五十嵐。インターハイ準優勝。超高校生級。期待のホープ。竜二を彩る賛辞の数々は、いつしか自分が“特別扱い”されるのに慣れていたことを知らせた。陸上を初めてからずっと、竜二はどこへ行っても別格扱いだった。合同合宿に行けば、監督が向こうからわざわざ指導に来たし、竜二と走りたいからという理由で強豪校から練習試合が申し込まれた。無数の注目。称賛。それを自分は華耀子にも無意識のうちに当てはめてしまっていたのかもしれない。彼女も自分を一番見てくれる、と。
「竜二」
竜二が自らの内側の嵐に耐えていると、華耀子が静かに呼びかけた。さぞかし今の自分は情けない顔をしているのだろうと思うと、顔が上げられない。
「あなたは中田から何を聞いたの」
華耀子の口から初めて出た『中田』の名前に、竜二は情けなくも動揺した。思わずまじまじと華耀子を見つめてしまう。
どこまでもただ夜のように黒いその瞳が、竜二を責めているように思えてならなかった。先ほど、中村のところへ行かなくていいのか、と聞いた竜二の中にあったのは、彼を案ずる気持ちではなかった。頼むから自殺未遂までした中村のところに行って、必死に弁解をして欲しいという願いだった。でないと、真実になってしまう。ドーピングに手を染めたという汚ならしい疑惑をなりふり構わず否定して欲しかった。
出会ったときから変わらない、何もかも見透かすような華耀子の瞳に、竜二は華耀子を信用しきれない自分を恥じた。
「……何も聞いてへん」
竜二はやっとのことでそれだけを口にする。口ではそう言ったところで、感情が顔に出やすい竜二の口先だけの言葉など何の意味もなさないだろう。華耀子はさらに「竜二」と畳み掛けるように呼んだ。
竜二は口を引き結んだまま、無言で首を振る。ここで聞けば、中田との関係、そしてドーピング疑惑の真実がおそらく聞けるだろう。けれどもそれは竜二にとっての敗北だった。華耀子の言葉がなければ、彼女を信じることができないということを証明することに他ならないからだ。
たとえ、華耀子が竜二を選手として以上に愛すことがなくとも、自分は華耀子を一番に信じる者でありたかった。
竜二は華耀子のまなざしから逃れるように、きびすを返してクラブの一室から出た。華耀子の物言いたげな瞳を無視する。
華耀子の存在を感じないところまで足を進めて、竜二は背を廊下の壁につけて止まった。こうでもしないと、自分の体を支えられそうになかったのだ。
思わず笑いだしそうになる。滑稽だった。無邪気に華耀子へ恋心を向けていた自分は、とてつもなく無知で、己のことながら笑えた。いつか竜二が想った分だけ華耀子も想いを返してくれるかもしれないと、根拠もなく信じていたのだ。
もっとおかしくてみじめなのは、今の状況を理解してなお、華耀子が好きだという気持ちが少しも衰えていないことだ。この恋心を生かす道など見つからないというのに。竜二は額を手で押さえて笑う。人間どうしようもない時は笑うしかないのだ。
「おい、聞いた? 陸上の方の話」
不意に、竜二が立ち止まっている廊下の先から話し声が聞こえる。竜二は話が話だけに、出ていくこともできず、反射的にドアが開け放されている近くの部屋に身を滑らせた。そっと向こうの様子をうかがうと、向こうから歩いてくるのは水泳セクションの男性コーチふたりだ。
「聞いた聞いた。自殺未遂だろ?」
「まあ、運動選手にしてはひ弱そうだったもんな。あの選手」
その口ぶりから、彼らが院生について話していると知り、竜二は身を固くする。しかも話が別セクションのコーチのところまでもう伝わっているということに、驚きを隠せない。
「それにしても、まずくないか? 自分の教えてる選手が自殺未遂って、責任問題だろ?」
「当然辞任するように圧力かけられるだろ、上から」
まったくもって歩きながら軽い調子で話すふたりに、竜二は目の前が暗くなった。辞任――。
「てか、あそこ、異様に若いコーチだったじゃん。俺、最初見たとき選手かと思ったよ。しかも何だか得体も知れないし」
「陸上のことわかんないけどさ、一体どっから連れてきたんだ、あのコーチって感じだったよな。噂によるとここの会長の知り合いらしいけど」
「何それ。コネかよ」
竜二の存在に気づくことなく、男性コーチたちの話は続く。一方が急にトーンを変え、「ていうかさ」と、ひそやかで、どこかいやらしさを含んだ声を出した。
「あんな男ばっか集めてさ、若い女コーチが指導するって何かあやしくない?」
「言えてる。今回の自殺未遂だって痴情のもつれってヤツなんじゃないの」
下卑た笑い声に、竜二は頭のどこかの回線が焼き切れるのを感じた。炎天下で直射日光に当たるのとは違う。内側からの熱が、竜二を動かす。気がついた時には、部屋から廊下へ躍り出ていた。
「待てや! 何も知らんくせに、何勝手なこと言うてんねんっ」
仁王立ちになって、彼らの背後から怒鳴ると、廊下の先を歩いていたふたりは、当然ながら驚いた顔をして振り返る。
「何が痴情のもつれや。アンタらにバカにされることなんてあの人はやってへん!」
悔しかった。華耀子の指導が女だから、若いからというだけで、けなされ、汚された気がした。
思わぬ竜二の登場に、コーチふたりはしばらくぽかんとしていたが、竜二より十も歳上の男たちだ。加えて、新設の陸上セクションに対し、伝統と実績ある水泳セクションは優越感を持っている節がある。そこにかけて彼らが黙っているはずなかった。歪んだ笑みを浮かべる。
「悪かったね。そっちのことよく知らずにいろいろ言ってさ」
清々しいくらい、口だけの謝罪だった。親身さを装って、彼らの内のひとりが竜二の肩に手を置く。
「何かそっち大変そうだからさ。大丈夫かなって思っただけだから」
何が大変そうだ。何が大丈夫だ。頭がおかしくなりそうなくらい、彼らの偽善に、その偽善を隠そうともしない姿に、腹がたって仕方ないのに、何も言えない。何が言えるだろう。ここは力の世界だ。強ければ正。それがたとえ偽善であろうとも。
オリンピック選手を抱える水泳セクションのコーチに、国内どころか今はまだ県内レベルの選手である竜二が何を言えるだろう。竜二が反論したところで、そこには何も伴っていないのだ。
拳を握りながら黙りこんで、竜二をやり込めて満足そうに去っていくふたりを見ているしかできなかった。力が欲しい。今、どんなに言葉を尽くして華耀子が自分たちに必要な指導者だと説いても、誰も信用してくれないだろう。竜二が大言壮語を吐いても、コーチの華耀子が笑われないくらいの力が欲しい。速さが欲しい。実績が欲しい。握りこんだ指が軋んで、ぎりぎりと音をたてる。
「……オレがあの人を守るんや」
決意とともに、竜二はつぶやく。
院生は言うまでもない。由貴也は夏の暑さから調子が悪く、高校生たちは若すぎる。選手である竜二が結果を出すことは、すなわち華耀子の評価につながる。華耀子の辞任を打ち消すだけの結果を今、出せる可能性があるのは自分しかいない。竜二自身がこのクラブに必要不可欠な選手となれば、その意向を踏みにじることはできなくなる。
窓から背中に降りそそぐ昼下がりの日はどこまでも強く、遠くで蝉が鳴いていた。その中で、竜二は人の気配というものを排して、一人きりで立っていた。
華耀子は竜二に守られることを良しとしないだろう。それでもひとりでも戦ってみせよう。そう思った