サマーゲーム3
数日間考えた末に、走り方を変えることを決心し、それを伝えるために竜二は練習時間より早めにクラブへ赴いた。
朝のせいか、日差しは弱い。けれども、熱帯夜の名残が足元にたまっている気がする。今日の練習も過酷そうだ。
竜二はクラブの駐車場を抜け、グラウンドへ向かう。早朝の今の時間は院生の中村が華耀子とともに練習しているはずだった。けれども、グラウンドは無人だ。朝の湿気を含んだ空気だけが漂っている。
今日、中村さん休みなんかな、と思いながら、コーチ室を直接訪ねることにした。竜二たちは個々が違うメニューで練習に励んでいるため、院生は休みで、大学生・高校生は通常練習だとか、竜二は休みで由貴也は練習だとかいうこともざらだ。だから竜二は中村の不在にも別段不審さを抱かなかった。
プールを臨めるロビーを抜け、クラブの最奥へ踏み込む。窓型の日が降り注ぐ廊下から、コーチ室の中をのぞいた。
コーチ、と声をかけようとして止めた。華耀子は日を避けようともせず、窓に程近い自身のデスクの前にたたずみ、スマートフォンの画面をのぞきこんでいた。
指は画面に触れていない。ただ華耀子は画面を凝視しているだけだ。あまりに一心に華耀子が画面を見ているので、声がかけられない。
華耀子は電話を待っているのではないだろうか。携帯を持って、画面を見つめていれば誰だってそう思う。電話の相手は中村か。華耀子は決して公私混同をしない。とすればコーチ室で電話を待つのは陸上関係だけだ。そこで初めて竜二は中村が無断欠席したのではないかという疑いを持った。
「竜二、どうしたの。早いのね」
戸口につっ立って、ぼんやりと華耀子を見つめる竜二の気配を察して、彼女がこちらを向く。スマートフォンは画面を裏返して静かにデスクに置かれた。
どうしたの、と聞きたいのはこちらの方だ。けれども聞いたところで答えてはくれないだろうから、竜二は「ちょっと相談があるんや」と言う。
「走り方のこと?」
華耀子の問いかけに、竜二は無言でうなずく。華耀子は心なしか、きれいな形の眉を下げた。
「ごめんなさい。これからちょっと行くところがあるのよ。あなたたちの練習までには戻るから」
「行くところ?」
竜二は思わず反駁する。まだ時刻は午前八時前。どこも開いていないし、人を訪ねるのにも早すぎる――緊急時でもない限り。
「あなたの話は今日の昼、練習後に聞くわ。あわただしく聞いてはいけない話でしょうから」
言いながら、華耀子はジャケットを羽織り、身なりを整えた。デスクの引き出しから、車のキーケースを取り出す手つきが、どうにもせわしく見える。その普段と違う何かが、竜二に聞いてもムダだと思うことをあえて口に出させた。
「中村さん、何かあったん?」
竜二が恐る恐る尋ねても、華耀子は動きを止めることはなかった。キーケースをポケットに入れ、小さなバックを肩にかける。竜二に視線もよこさず、しばらく口も開かなかった。
外出の準備が整ったのか、華耀子はやっと竜二を見る。薄く、その唇が言葉を紡ぐために動く。
「彼は――」
ちょうどその時、華耀子のデスクの上で、スマートフォンが震えた。スチールの無骨な机は、スマートフォンの振動を何倍にもして伝える。顔をしかめるような、不快な音だ。けれども静かな部屋に響いたその音は、不快感よりも不穏さをどことなく漂わせていた。
華耀子が余裕があるようにも見える動きで、電話をとる。そして耳にスマートフォンを当てる。その一連の動きは、あらかじめ準備してあったかのように見えた。
「はい」
いつもはやかましいはずのセミの声も、水泳組を指導するコーチの声も聞こえない。着信に応答した華耀子の声だけが大きく聞こえる。
答えたきり、華耀子は話さない。けれども、電話の向こうの人物が何事かわめいている様子が竜二にも伝わる。
通話相手とは裏腹に、華耀子は表情を一分たりとも動かさずに聞いていた。だがそれは、電話がつながっている間のことだけだった。
一方的にまくしたてられ電話を切られたのか、華耀子が携帯を耳元から外す。それは華耀子が落ちつきを保っていた最後の行動でもあった。
それまで表情を崩さなかったのが嘘のように、机の上のバックを引ったくって、華耀子は竜二の存在を無視して部屋を飛び出していく。普段の落ち着き払っている彼女との落差についていけなくて、竜二は呆然としてしまった。
いったい何が起こったんや、と思った時にはもう華耀子は陸上選手の片鱗を見せ、駆けていってしまった後だった。
事態が飲み込めなくて混乱しながらも、竜二は確信していた。華耀子があんなに必死になるのは陸上の――選手のことに違いない。そして、何かあったのはあの院生だと。
華耀子の教え子は竜二を含めて五人。高校生二人は今、高校陸上連盟主催の合宿に行っていたし、由貴也はコーチにある程度の信頼は抱いていても、彼女にすべてを委ねるような真似はしない。となると院生しかいない。
消去法でそう判断したものの、竜二は解せなかった。側から見ていた竜二すらわかるほど、院生の変化は如実に現れていた。元々、脆い男だったが、ともに走る時、彼が確実に速くなっていることを感じていた。そして、その深い色合いの瞳は華耀子に対する絶大な信頼を映し出していた。竜二には心身ともに院生の調子が上向いているのを感じていたのだ。
なのになぜ、大抵のことを慌てずに片づけそうな華耀子を、ああもなりふりかまわないようにさせたのか――竜二はそこで、拳を握っている自分に気づいた。
己の内にある感情に気づいたとき、竜二は苦々しさに顔を歪めた。自分はこんな時まで嫉妬している。
あの人が自分以外にも必死になることを。そして、しょせん自分は選手のひとりに過ぎないことを。あの人はコーチで、決して自分ひとりのために動いてくれる存在ではないことを、強く認識した。
これが選手としてのコーチに対する悋気なのか、男としての悋気なのかはわからない。どちらもおそらく正解だ。
竜二は燃え立つような嫉妬を感じながらも、自分自身に対する不安を感じていた。今まではっきりしていた個人としての五十嵐 竜二と、陸上選手としての五十嵐 竜二があいまいになっていく。
いずれ、走ることよりも強く、華耀子を求めてしまったら、どうなるのだろう。また、その逆を――陸上を迷いなく貫くことができるのか。答えはでなかった。
華耀子は結局、竜二たちの練習が始まる時刻までに帰って来ず、由貴也と二人、自主トレでその日の練習を終えた。
汗を流してもちっともさっぱりすることなく、もやもやとした気持ちのままクラブを出ると、あの男が外のベンチに座っていた。
この前と同じく、首回りが伸びたTシャツに、無精髭。縦横無尽に伸びた髪が目を隠す。華耀子がコーチと呼んだ元日本王者・中田 優だった。
クラブから出てきた竜二の姿を認め、向こうが何が言おうと口を開く。竜二は先んじて、「コーチなら出かけてはるで」とそっけなく言った。
中田はきょとんとした顔になるが、やがて合点したのか、ああという顔つきになる。その流れは、本当に彼が華耀子のコーチだったのだと竜二に知らしめた。つまり竜二の言う『コーチ』が、華耀子だと中田はすぐに理解できないのだ。いつまでも彼にとって華耀子は教え子なのだろう。
中田の額に、幾束かの髪が汗で貼りついていて、竜二は見苦しさに視線をそらせる。あれだけもてはやされた陸上界の寵児とは思えない風体だ。少年の頃あこがれた中田は、こんな汚ならしい男ではなかったはずだ。
それに、彼と華耀子がどんな関係であれ、今の中田はふさわしくない。元日本王者という肩書きを持ち、敬意を払ってしかるべき相手なのに、今の中田には嫌悪感ばかりがつのる。
「いや、違うんだ。君に用があるんだ」
意外な中田の言葉に、思わず「オレ?」と聞き返す。中田は無言でうなずいた。
何となく嫌な予感がする。どこが、とは言えないが、先ほどから中田のささいな仕草に違和感を感じる。世間の目に慣れた、有名なスポーツ選手のはずなのに、中田の動きはどこか見ている者を不安にさせる。
中田はおもむろに竜二の腕をつかんだ。まるで逃がさないかのように、両肘のあたりに中田の指が食い込む。
「華耀子は本当はコーチなんてやっていていい人間じゃないんだ」
そのあまりの鬼気迫る様子に、竜二は絶句した。本気で目の前の男が中田ではなく、彼の不肖の双子の片割れではないかと思ってしまった。
華耀子と中田は一回りの歳の差があるはずだ。しかもかつての教え子であるのにも関わらず、ほぼ他人といえる竜二に彼女を貶めるようなことを言う神経がわからない。陸上選手や指導者としてだけではなく、人として卑しさすら感じる。
「アンタ、何がしたいんや! アンタはコーチのコーチだったんやろ!? したらなんで教え子のジャマするようなこと――」
「君は、華耀子の過去にまったく疑問を持ったことはないの?」
一瞬ひるんでしまったのは、それがあまりに自分の心のわだかまりに飛び込んでくるものであったからだ。空白の華耀子の過去。今のところ、華耀子に何ら不満はないが、本来なら経歴が明らかでないコーチは許されるものではなかった。なぜなら、選手時代の実績がコーチとしての最初の信頼の素地になるからだ。
足元がぐらぐらする。知りたい。ただ純粋に。好きな相手の過去のことを。華耀子の秘すそこに何があるのかを。そして、この男が知っていて自分が知らないという耐えがたい事実にどうしようもなく腹が立った。
中田は竜二の動揺を読み取ったのか、唇を歪めて笑った。その瞬間、背筋に寒気が走った。その笑みがあまりにいやらいくて、おぞましさすら感じる。目が血走り、しがみつくように竜二の腕をつかむ手は血が通った人のものとは思えないほど白く、何より目線が竜二に向いていながらも、何も映していないように見えた。
何や、この人は――。中田の実物を見た昨日から何度も思ったことだが、今回はあきれや失望が根底にあるものではなかった。異常性、そこから派生する恐怖。具体的に言えないが、この人はどこかがおかしい。目の前にいながら、永遠に意思の疎通などできない遠くにいるようだった。
竜二は思わずつかまれている腕を振り払う。中田はいとも簡単に体勢を崩し、よろめく。尻もちをつかなかったのはさすがというべきか。
「……聞きとうない」
自分でも意識しないうちに言葉が出ていた。
「コーチの昔んことに興味があってもアンタからは聞かへんわ!」
叩きつけるように叫んで、その場を離れるべく中田に背を向ける。走り出さなかったのは竜二の最後の意地だが、これ以上中田と関わり合いになるのが恐ろしかった。――開かないはずのパンドラの箱が音を立てて開くようで。
「ドーピングだよ」
遠ざかりながらも、中田の気配をずっと感じていた背後から声がかけられた。ただの言葉なのに、心臓にナイフが向けられたような衝撃を受けた。
ドーピング? 竜二は思わず足を止め、目を瞬かせた。言葉がすんなり頭に入ってこないのに、やけに自分の心臓の音が大きく聞こえる。何かが喉の奥からせり上がってくる。
ドーピング。競技における不正薬物使用である。有名なものでは筋力を劇的にアップさせる筋力増強剤、また興奮剤や鎮痛剤、利尿剤など種類は多岐に渡る。競技の公平と、選手の健康を守るため、もちろん薬物の使用は禁止されている。体を一時的にでも“異常”な状態にする薬物は、選手の体にも牙を向き、きつい副作用を与えるのだ――時には命をも奪うような。
身一つで“人外”の領域に挑む陸上は特にドーピングが発生しやすい種目だった。体格の差、身体能力の差がそのまま敗北につながる。テクニックや努力ではどうしようがない競技だ。
そこまでわかっていても、竜二の思考回路がつながらないのは無理からぬことだった。基本的に中高では国際大会を除き、ドーピング検査はない。だからドーピングという単語を聞いても上手く反応ができない。
いや、違うと反射的に思い直した。上手く思考回路をつないで、上手く反応して、事実を鮮明に知るのが嫌だ。誰が、ドーピングをしてたかを。
空白の過去。健康体ながら、選手としての盛りの時期にコーチをしている理由。すべてがつながってしまう。ドーピングが判明した場合、それまでの記録は抹消され、悪ければ陸上界から追放される。
知りたくない。知りたくない。知りたくない。ドーピングなど、選手として最低なこと、唾棄すべきこと、勝負の亡者になった醜い人間のすべきことだ。アスリートの中ではどんなことよりも深い大罪。
いや、と頭の中から疑惑を振り去る。こんな男の言うことを鵜呑みにしてたまるもんか、と拳をにぎる。あの人がそんなことをするわけがないと、竜二は勢い良く中田へ顔を向けた。
「オレはあの人の口から聞いたことしか信じん!」
一息に言って、ずんずんと大股で歩く。もう中田が何を言っても取り合わないと思っていた。例え、華耀子の選手時代の情報が見えないことが、ドーピングによる記録抹消、そして今コーチをやっていることが不正薬物使用で選手生命が閉ざされたからだとしたら説明がつくとしても。
「だったら聞いてみたらいい」
無風状態の真夏の昼間は良く声が通る。忌々しい。
「そもそも怪我やスランプで調子を落ち込ませているところにつけこむなんて、コーチとしてやり方があまりにお粗末だと思わないかい?」
嘲るように言われて、竜二はもう我慢できなかった。
「アンタに何がわかるっちゅうねんっ!」
気がついた時には中田を見据え、肩を怒らせ怒鳴っていた。その竜二を中田はじゃっかん呆れ気味に見返してきた。
「君、そんな怒りっぽくてよく陸上選手なんかやってられるね」
「ああ、陸上選手やっとるで! コーチのおかげでな」
挑発だとわかっていても、黙って見過ごせなかった。華耀子がいなければ、自分は今もあの湿ったグラウンドから抜け出せなかったはずだ。もう一度、竜二に息を吹き込んだのは華耀子だった。それをお粗末だと言われるのは我慢ならない。
「君は思わないの? 華耀子のやっていることは君の弱ったところにつけこんで、恩義を感じさせて縛りつけているだけじゃないの……まあ、君の場合、“恩義”だけじゃなさそうだけどね」
中田がどこで竜二が華耀子に師事するまでの経緯を聞いたのかはわからない。けれども恋愛感情までも見透かされて、ずいぶん詳細に知っているのは間違えなかった。
中田が言わんとしていることは理解していた。竜二は恩義、つまりは情で華耀子に教えを乞うているといっているのだ。悔しいことだが、中田の言い分は竜二をぎくりとさせるものがあった。自分のコーチは華耀子しかいないと思っているが、感情と指導能力は分けて考えてしかるものだった。華耀子が指導者として無能ならば、どんなにコーチとして信頼していても師弟関係を解消しなければならない。だが、華耀子のコーチング技術ではなく、情から関係を構築してしまった竜二は、もしかしたら冷静に華耀子の能力を見極められないかもしれない。
「余計なお世話や」
完全な苦しまぎれになって、竜二は何とか反撃を試みる。といっても、これこそ本当にお粗末な反撃だ。
「まだ言うとは……君は昨日の彼より気骨がありそうだね」
中田は聞き分けのない子供を見るような目で竜二を見ていた。台詞だけ聞くと誉め言葉なのに、むしろ中田は忌々しそうだ。
それよりも竜二は中田の一言が気になり、思わず聞き返していた。
「……昨日の彼?」
言いながら、脳裏に浮かんだのは院生・中村 清一郎だった。今日の練習に来なかった中村。もし、彼が昨日、この男から今の竜二と同じような話を聞かされていたら、自分のコーチの華耀子が過去にドーピングをやっていたと、彼の中で確信してしまったら――裏切りだと思うかもしれない。
だって、それは卑怯な行為だ。軽蔑すべき行いだ。不正薬物の毒に染まったその体で、誘惑に負けた弱い心で自分たちを指導するのか。陸上選手として強くあれと言うのか。それは裏切りではないのか。信じたくない、信じない、と全身で拒絶し、竜二もやっと平静を保つことができていた。
「……アンタ、中村さんに何したんや」
華耀子に対する疑念を宙に浮かせたまま、竜二は尋ねる。胸の中に渦巻いている様々な想いを、すべて中田に対する怒りに変えてしまいたかった。
「そんな風に言われるのは心外だなぁ。だって真実を言っているだけなのに」
中田は、この場に不釣り合いなくらい軽く笑う。その表情だけ見れば、気弱なサラリーマンのようだ。真っ先に街のヤンキーに狩られそうに張りがなく、しぼんだ男。
「華耀子はね、コーチなんかしていていい人間じゃない。それを教えてあげてるんだよ」
親切でしょ、と言う。いつの間にか彼は影のように竜二に忍び寄り、肩に手を置く。その手が真夏なのに冷たくて、竜二は鳥肌がたった。
「君は、僕に何の目的でこんなことをしているのかって聞いたね」
密やかに、耳元で中田が呟く。じっとりと汗が首筋ににじんで流れる。それなのに、背中が冷たい。
「華耀子の持っているものを全部壊してやるっ!」
突如として中田は大声で笑い始めた。辺りにはこの男の哄笑がけたたましく響く。
そのあまりの尋常じゃない様子に、竜二はただ唖然として見ているしかできなかった。
その後、どうやって帰路についたかは覚えていない。けれども、クラブの寮に帰った竜二を待っていたのは、院生・中村が自殺未遂を図ったという報だった。