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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
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サマーゲーム2

 竜二は大会後の休養日を終え、再び練習漬けの毎日に復帰した。

 その日常の手始めともいうべきか朝、クラブのロッカー室で由貴也と顔を合わせた。

「由貴也」

 手を上げて挨拶すると、向こうは目だけで応じた。竜二は苦笑する。この人並外れて顔の造作の良い男は、ひどく無口なのだ。もっとも、女受けしそうな甘い顔に似せず、意外と口も悪いので、黙っていた方がモテるだろう。

 ともかく、今の竜二にはその無口さがありがたかった。おしゃべりなヤツに興味本位でおとといの首尾はどうだったと聞かれたくはない。

 それにあの夜、男としてはいいとこなしだった竜二だが、それにいつまでもとらわれているわけにいかない。走り方をどうするか、という大きな問題が立ちふさがっていた。

 竜二は目線だけ動かして、着替えている由貴也を見た。彼は竜二とは正反対の陸上選手である。

 竜二が日本人離れした歩幅の広さを持つ選手なら、由貴也は驚異的なピッチ数を持つ選手だ。ピッチとは足の回転数のことで、これが優れている選手は爆発的なスタートをきれる。今日、歩幅重視のストライド走法、ピッチ走法と完全に区別することは難しいが、由貴也はまぎれもなくピッチ走法寄りの選手だ。体にかかる負担が少ない走法ゆえに彼は怪我が少ない。怪我をしない――それだけで充分な才能に値した。

 実際、彼はこのクラブにいる時点で竜二と同等かそれ以上に才能に恵まれた選手なのだろう。

 華耀子に見出だされるというのはそういうことで、もし竜二が平々凡々な選手だったら、あの暗いグラウンドに捨て置かれたままだっただろう。華耀子が別段薄情なわけではない。短距離走とはそういうもので、ここで生き続けるにも、救われるのにも才能がいる。選ばれた者だけのスポーツだ。

 オレらの問題はむしろ中身やな、と竜二は着替えながら胸の中でひとりごちた。華耀子の大学時代の先輩に紹介されて入ってきた由貴也はともかく、他のグラブメンバーは皆、傷を持っている。竜二の怪我のように挫折を味わった、あるいは今も味わっている最中のため、精神的に脆い。

 まあそれは由貴也にも言えるこっちゃな、と竜二はつらつらと考えた。精神的に強くないというならば、由貴也もだ。それはもちろん生来の気質なのだろうし、どちらかといえば彼の遅咲きの経歴にも関連しているのだろう。自分は才能ある陸上選手だという意識が由貴也にはない。だから陸上選手としてぬるい。

 とにもかくにも、このクラブには自分も含めてやっかいで扱いづらい人物が集まっている。コーチの苦労が忍ばれた。

 ロッカー室から出ると、“やっかいで扱いづらい人物”の最たるものと遭遇した。大学院生のクラブ生、中村 清一郎だ。

 彼は挨拶もせずにすっと竜二の横を通り抜けていく。個人的に思うところはあるにせよ、竜二は彼の背中に「お疲れさんです」と一応声をかけた。このクラブに上下関係は存在しないが、歳上に服従する体育会系の癖は抜けない。

 次いで出てきた由貴也はもっと淡白で、ふたりは視線すら交わさず、もちろんあいさつもなしにすれ違った。

 学部生時代に日本選手権に出たこともある大学院生・中村は、相変わらずどこからどう見ても運動選手に見えなかった。青白い顔と対比するあせたところのない真っ黒の髪。繊細そうなたたずまいは文学青年そのもので、事実彼は文学部の修士課程に在籍しているそうだ。

 彼のすごいところは、文学青年、色白、黒い髪、繊細というずいぶんネガティブなキーワードを持ってしても、存在が鬱陶しくならないところだ。外向的な竜二にその物静かさは理解できないが、彼のまわりだけ夜明けの清潔な静けさがただよっているような気がした。

 もっとも、自分の中だけで流れる刻を持っているような男だから、長期間のスランプにはまるのだろう。外の風が入らないから自家中毒を起こすのだ。

 竜二は灼熱のグラウンドへ向かって歩きながら、中村の存在を頭から追い払おうと努めた。自分たちは皆、華耀子にとって“選手”という横並びの存在だ。うっすらとわかってはいたことだが、おととい改めて認識した。

 その横並びの状態から一番脱せれそうなのが中村だ。何といっても年齢が竜二の四つも上だ。高校生・大学生組とは一線を画している。そして、華耀子と二つしか変わらない。二十歳と二十六ではジェネレーションギャップが存在するだろうが、二十四と二十六ではそう大きな感覚の差はないだろう。

 それに――それに、誰にも心を許さない中村も、華耀子にだけは最近笑顔を見せるらしいのだ。中村がそれだけ華耀子に気を許しているという事実に、竜二はどうしようもない焦燥を感じるのだった。

「おはよう」

 先にグラウンドで待っていたのは華耀子だった。白いポロシャツにジャージの長ズボンというシンプルな服装ながらも、竜二に彼女はまぶしく見えた。

「お、はようございます……」

 竜二は歯切れが悪く答える。顔が見られない。おとといの夜のことは、子供が歳上の女に懸想するなど百年早いと言われたようなふがいなさを竜二の中に残している。

 華耀子の方はというと、まったくもっていつも通りだった。院生との朝練、次いで竜二たちとの午前練、暑い時間帯を避け、高校生たちと夕方に練習するという過密スケジュールながら、涼しい顔つきをしている。そして、竜二の動揺になど頓着せず、容赦なくキツいメニューを課した。自分の存在は全然彼女の心を動かさないようだ。

 華耀子の表情のレパートリーには冷静な顔以外もあるのだろうか、という竜二の疑問はすぐに解決されることとなった。練習後、竜二が冷静な顔もまあ良いんやけど、と思いながら、華耀子と今後の練習方針について話しているときだった。

「華耀子っ!」

 聞き覚えのない男の声が、セミの鳴く声に混じって響く。反射的に竜二は声の方向を見る。

 三十代後半ぐらいの男だった。セットされていない頭髪は乱れ、頬もこけ、サイズがあっていないTシャツをまとっているが、竜二はピンときた。この男は陸上選手だ。筋肉のつき方がそれを如実に物語る。

「……コーチ」

 華耀子が呆然と呟いた。実際は呆然としていたように見えただけだったのかもしれない。竜二が彼女に視線を向けた時にはもう表情を立て直していた。

 竜二は男をまじまじと見る。華耀子はこの全体的にくたびれた男のことを『コーチ』と呼んだ。つまりコーチのコーチだ。

 男は矢も盾もたまらず、といった様子で華耀子に駆け寄ってきた。

「華耀子っ! 君は今までどこに――」

 男があまりに華耀子の肩をつかみ、乱暴に揺さぶるので、竜二は眉を寄せて「オッサン、何すんねん!」と男の手をつかんだ。男の目が初めて竜二に向く。目があった瞬間、既視感に襲われた。この男をどこかで見たことある。

「竜二」

 華耀子が落ち着いた声音でいい、竜二の手をつかんで男から外させた。

「ごめんなさい。また後で話しましょう。私はこの人と話があるの」

 竜二は反射的に「けど、コーチ」と言う。この平静さを失っている男と華耀子を二人っきりにしておくのは不安だった。

 竜二の反論に、華耀子は無言で応えた。あの目だ。おととい竜二の告白を制した、暗闇の中で存在している瞳だ。そのまなざしが竜二を一瞬にして凍らせた。

 警告だ、これは。これ以上踏み込むなという華耀子の意思表示なのだ。

 華耀子に対し、何の権利も持たない竜二は引き下がるしかない。絶えず竜二の中であの男は嫌なものだと警鐘を鳴らしていたが、華耀子が男を案内するのを黙って見ているしかなかった。

 自分の“選手”という身分がこのときばかりは煩わしかった。







 華耀子と男は応接室に引っ込んでしまい、竜二は結局何もできずにクラブを後にした。

 その足で、大学の図書館に向かう。自身のパソコンを持っていない竜二は図書館でその用を果たしたかったのだ。

 夏休み中で図書館はがらがらだったので、難なくパソコンを使うことができた。資格試験の勉強をする学生ぐらいしか人影は見当たらず、冷房がよくきいていて寒いくらいだ。

 竜二はパソコンが立ち上がるのをもどかしく待ちながら、あの男の顔を思い浮かべる。頭の中で彼の正体が形になり始めていた。

 検索エンジンで、あるワードを打ち込む。画面が切り替わり、竜二の憶測は確信へ変わった。

『百メートル 元全日本王者』という単語が検索窓には入っている。そして、検索結果には『中田 優』。陸上連盟が管理する選手名鑑のウェブページにあの男の顔はあった。

 日に焼けた顔には輝きと、自信がみなぎっている。先ほどグランドに押しかけた面やつれした男だとは思えない。

 中田 優。中学三年の国体少年Aの部優勝を皮切りに、インターハイ百メートルを高校二年の時に制覇。同年、全日本選手権出場。高三の時に国体少年Bの部連覇。名門大に進み、大学一年の時に日本選手権で優勝。大学二年の時にオリンピックに選出され、翌年の世界陸上では日本人として初めて準決勝まで進んだ、日本陸上界の至宝である。陸上をやっている者ならば、往年の彼の姿はあこがれとともに脳裏に焼きついているはずだ。

 彼は長命の選手で、三十の時に引退している。その後は指導者に転身と簡単に書いてあるが、竜二はその先を知りたくて、単純な興味からさらにキーボードを叩いた。

 すぐにその後のことはつかめた。まず強豪大学のサブコーチとして第二の人生を歩み始めている。しかし、一年足らずで辞任。シーズン中にコーチの任を離れるなど、常識では考えられない。そのせいか、次いで着任したのは地方の体育大学だった。ひとつ目の陸上名門校よりずいぶん格が落ちる。

 華耀子の年齢を考えるなら、おそらくこの体育大学で彼の指導を受けたのだろう。それにしても、元日本王者が、ずいぶんお粗末な経歴だ。この体育大学も三年ほどで退任しており、以後、彼の指導者としての活動は空白だった。

 竜二が少年時代、目を輝かせて活躍を見ていたヒーローは、今や輝きを失い、くたぶれたサラリーマンよりも虚ろな存在になっている。昔が輝いていた分、今の姿が余計に薄汚れて見え、竜二に少なからず衝撃を与えた。おそらくあの様子では陸上連盟の役員や、競技の解説者として生計を立てているわけでもないのだろう。

 ここまでざっと調べても、竜二は満足しなかった。いや、“かつて憧れた選手のその後”という側面では竜二の好奇心は満足したが、それ以外のもっと切実なところは何も満たされていない。

 華耀子と中田 優はどういう関係なのか。中田のただならぬ様子から、ただの師弟関係だとは思えない。

 竜二はパソコンデスクの上に肘をつき、組んだ手に額をつけた。華耀子はきっと詮索を嫌うだろう。彼女は公私の線引きをしっかりしている。コーチと選手の精神的な結びつきは不可欠だが、それは何もプライベートをすべてさらけ出さなければいけないわけではない。

 そうはわかっていても、竜二は重い動きで顔を上げ、キーボードに手を伸ばした。彼女は謎が多すぎる。若い女コーチが率いるクラブチームという格好の注目の的なのに、華耀子の選手時代の噂がどこからも聞こえてこないというのはおかしい。

 キーボードに文字を打ち込む。久世 華耀子というフルネームと、先ほどわかった体育大学の校名を入れて検索をクリックする。

 竜二は唾を飲み下した。何も出てこない――。

 愕然とした。もちろん、検索結果が何もないわけではない。体育大学のホームページは出てきたが、それだけだ。体育大学陸上部単体のホームページでも、歴代の卒業生一覧に華耀子の名前はない。体育大学のワードを消して、華耀子単独で検索しても同じことだった。ほとんどが久世という名字を持つ別人だ。

 今の時代、こんなことがあるのだろうか。しかも、陸上を通して大会に出ることもあっただろう。それを誰一人として個人のブログで上げもしないということは考えられない。華耀子がたとえ小さな大会の優勝や準優勝も飾れない選手だとしても、そんな仮定自体無駄だった。たいしたことのない選手はそもそも指導者になどなれない。そんなに多くのコーチや監督は必要ない。だから下層の選手にその道は開かれない。

 心臓が、血液を大量に送り込むように鼓動を打った。一体、彼女は何者なのか――。

 パソコンにさらなる検索ワードを打ち込もうとして、手が止まる。もう打ち込むべきワードを持っていなかった。これ以上華耀子について知っていることなどないのだ。

 竜二はそこで息をつき、強ばっていた体をほぐした。気分が落ち着いてきた。急に、今まで加熱していた気分が正常に戻っていく。

 華耀子が何者であれ、それに何の問題があるというのだ。あの冬、竜二を救ったのは確かに彼女だった。だったらもう、何も考えずに華耀子についていくべきだ。唯一無二の竜二のコーチ。それは華耀子の過去と関係なく、不変の事実なのだから。

 踏ん切りをつけるように、一息にパソコンの電源を切り、図書館を後にした。外の熱した空気は、押し込めた欲求を再燃させそうだったが、ひたすら耐えた。正直にいうと、自分は中田と華耀子の関係の真実を知るのが怖かったのかもしれない。

 その晩、竜二の携帯は華耀子からの着信に震えた。

「昼間は話が途中になってごめんなさい」

 華耀子はそう簡単に謝ると、すぐに本題の陸上の話に入った。律儀にも、中田の出現によって中途半端になっていた話の続きをするために電話をかけてきたようだ。

 竜二は最初、華耀子の声音に変わったところがないかを探ってしまったが、無意識のうちに止めていた。華耀子に別段変わったところが見られなかったというせいもあるが、否応なしに陸上の話をされると、そちらに思考が傾く。

 ふと、一個の陸上選手として、中田 優を思い浮かべる。彼は腿を高く上げ、腕を大きく振るという走りの常識を覆した人物でもあった。日本人の体格にあった走り方を作り上げるにはその既成概念は邪魔だったのだ。

 ストライド走法にこだわる自分もまた、既成概念から抜け出せてないのかもしれない。腿を高く上げ、腕を大きく振るだけが正解でない。フォームだって千差万別あってもいいはずだ。上を目指すなら、上を目指すほど、自分独自の走り方が必要になる。

 走り方を変えるべきなのかもしれない、と華耀子と話しながら考えた。中田は自分自身のフォームを見つけたからこそ、息の長い選手だった。自分はこのままでは活躍する前に怪我に悩まされ散るかもしれない。

 華耀子との電話を終えて、ベットに転がる。クラブの寮の部屋は狭いが、個室で清潔だ。たまには、同クラブ所属の水泳選手がどたばたと騒ぐ音が聞こえ、時には竜二も加わるが、おおむね静かな環境だ。

 手をシーツの上に投げ出して、そこで初めて電話越しの華耀子の声を思い出す。声だけというのは不思議なもので、相手の存在をより強く意識させる。竜二は赤面してベットの上を転がるそうになるのを、寸でのところでこらえた。

 自分でもどうなっているのかわからない。陸上の話をしている時には華耀子を女性として意識することはない。あくまで師弟でコーチだ。それなのに、ひとたび陸上を離れればこうなのだ。

 まるで、陸上選手である五十嵐 竜二と、年相応の大学生である五十嵐 竜二は別人格のようだ。けれどもわかっていた。このふたつが混ざって、陸上選手の竜二を、私生活の竜二が凌駕するようなことがあれば、自分はダメになるのだろう。

 自分はそうはならない。竜二には絶対の自信があった。たとえ華耀子が自分の恋人になったとしても、必要な時には自然と意識が陸上に向くはずだ。

 竜二は白色灯の光る天井を見ながら瞳を閉じた。

 華耀子を想うことで、自分は強くなっていける。この時の竜二はそう信じて疑わなかった。

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