開く外への扉
華耀子視点の番外編。
自サイトのmemo再録。
重たい、と思って隣を見ると、竜二の頭が自分の肩にのっていた。
場所は夕刻の電車内。いつもは帰宅途中の学生でにぎわっているだろう車内も、祝日のためか空席が目立つ。立っている乗車客などいなかった。
華耀子は電車での移動を好まないが、今回は仕方なかった。今回の大会開催地が行楽地の近くで、三連休最終日の今日は道路の状況が読めなかったのだ。安全策をとり、ダイヤが正確な電車で行くことにした。
大会を終え、帰る段になり、駅へ向かう道すがら、もう一人の引率していた選手である由貴也は、「俺、あそこによって帰ります」と、有名な観光化された神社を指差した。――否、神社の参道を指差した。もっと言えば、参道の両脇に立ち並ぶ、食べ物の屋台を指差した。甘いものに目がない由貴也は、そのままふらふらと今川焼やら、ご当地名物何とか焼きに誘われていってしまった。選手のプライベートにまで口を出す気はさらさらないので、「体重管理だけはしっかりして」と言って別れた。
かくして、竜二とふたりっきりになったわけだったが、彼は明らかに緊張して固くなっていた。先に通った神社が恋愛の神を奉っているらしく、気がつけば駅で乗車するのも降車するのもカップルばかりだ。飾り気のないカッターシャツと夏用のスラックス姿の自分と、大会帰りでジャージ姿の竜二。一体自分たちは人からどう見えるのかしらね、と思いながら、少なくとも師弟だとすぐに当てられる人はいないだろうと思った。
竜二ががんばって引き出した会話の種に、二、三言返すということをしながら、電車に乗る。がらがらの車内ではかえって立っているのもおかしく、華耀子はロングシートの端に腰かけた。竜二は少し間を明けて隣に座る。
思えば、その間が悪かった。竜二はしばらく大きな体を固くしてお行儀よく座っていたが、次第に大会の疲れが出たのだろう。うとうとと船をこぎ始めた。寄る辺のない体は不安定に揺れている。寄りかかることができる端の自分の席と代わろうかと声をかけようとした瞬間、電車が駅に停まった。電車が進行方向に揺れる。竜二の体も揺れた。
駅で人の波が降車し、乗車している時には、竜二の頭は華耀子の肩に乗っていた。
隙間を明けて座っていたのもまずかった。通常なら体格差があり、肩の高さが違う自分たちは、逆はあり得ても大きい竜二が小さい華耀子に寄りかかることはできない。だが、隙間分体を傾けることによって、その差を解消し、竜二が華耀子の肩に寄りかかることができてしまったのだ。
竜二の意外とやわらかい金色の髪をシャツ越しに感じながら、あらまあ、とその寝顔を見ていた。どうしても体勢に無理が生じているのか、片足を投げ出し、片足で踏ん張るという状況で竜二は寝ている。この姿勢はどう考えても体に良くないと起こそうとして、止めた。
――どうしてこんなに幸せそうな顔してるのかしら。
鼻をつまんだら、今にもうへうへと笑いだしそうな表情で竜二は寝ていた。あまりに彼が至福の表情で寝ているので、向かいに座っている女子高生二人組がこっそりこちらを見てはささやきあっている。
これでは起こしたら自分が悪役になった気がする。華耀子は起こすのを断念し、バッグからタブレット端末を取り出して今日の大会の映像を観た。
ディスプレイに映る映像は、選手たちの今日の走りを納めたもので、華耀子は細かく丹念にチェックしていった。選手の研究は指導者としての基本だ。
由貴也の映像が終わり、竜二が現れた。本番であまり緊張するたちではないらしい竜二は、鼻唄でも歌っているような軽快な足取りで登場してくる。華耀子は画面から目線を寝ている竜二に移した。なぜ走る時にはこんなにも緊張しなくて、自分といるときはあんなにも叩けば硬質な音がしそうなくらいに固くなってしまうのだろう。
それはともかくとして、画面の中では「位置について」のコールがなされ、選手が各々スターティングブロックに足をかける。画面がズームし、竜二だけに焦点が当たった。華耀子は顔をしかめる。この映像を撮っているのはクラブの職員だが、何かのドキュメンタリーでも作るつもりか。アップしすぎて竜二の顔が主に映っている。どんなに顔が見映えよく映っていても、肝心の走りがわからないことには意味がない。華耀子は早送りしようと指を滑らせた。
指がディスプレイに触れる直前に、「用意」の号令がかかる。画面の中の竜二の表情がすっと険しくなる。どちらかと言わずとも、竜二は陽性の気質を持っているが、この時だけは冷たく、他者を寄せ付けないオーラを放っていた。華耀子は純粋にその表情を美しいと思う。隣のこの今にもよだれをたらしそうな男と同一人物だとは思えない。
それにしても、と思う。このまぬけな顔が金メダリストだなんて。そんなに大きな大会ではなかったが、今日も竜二は四百メートル走で優勝した。彼は百からロング・スプリントである四百まで走りこなすオールラウンダーなのだ。
そこで自分にしてはめずらしい思考をしているのに気づいた。普段、陸上ありきで彼を見ている華耀子は純粋に“五十嵐 竜二”として彼を意識したことがない。今は逆で、このしまりのない顔をさらす普通の男子大学生が天賦の才を持つ陸上選手だなんて、と思っている。選手として鳴かず飛ばずだった自分と竜二では立ってるステージからして違う。たぶんそれは才能が不可欠な短距離走者としての生まれながらのうまらない差だ。
指導者というだけで、選手としては彼の足元にも及ばない自分が、竜二よりもえらそうにしていることに少々不思議な気分になると、電車が少し大きめなターミナル駅に到着した。車窓の田園風景はいつのまにかささやかながら建物が立ち並ぶ駅前の市街地に変わっていた。
結構な人が乗り降りし、車内の座席はたちまち埋まっていく。目の前に老女が立ったのに気づいた華耀子は優先席に座っているわけではないが、譲ろうかしら、と腰を浮かせる。竜二を支えている腕がしびれてきた。華耀子が立ち上がれば竜二は起きるだろう。この無理な寝方を続けていたら、明日の走りに差し障る。
そんな華耀子の行動を老女は微笑みながら手で制した。老女は竜二に視線を遣り、それから笑みを深める。要は『お隣のお兄さんを寝かせておきなさい』ということだろう。ありがたくはない気遣いだが、「ありがとうございます」と言っておく。
姿勢の悪さが与える、体への悪影響はスポーツ選手ゆえ気になるが、竜二がこんな体勢であっても眠れるほどに疲れていることはわかっていた。何も知らない素人から見ると、短距離走など数回走るだけではないかと言われがちだが、その一走にどれほどのエネルギーをかけているか知らないからそう言うのだ。一回走るだけで熱中症を起こす選手だっている。それぐらいあの十数秒には詰まっているのだ。
腕のしびれぐらい気にせず、竜二を寝かせておくことにした。早く体力を回復してもらって、今後の練習に備えてもらうことにする。
華耀子がそう腹をくくったとき、電車が揺れ、竜二の体が華耀子とは反対側へ行く。満席に近いので、当然向こうには人が座っている。華耀子はとっさに竜二の肩を抱いて、自分の方へ引き寄せた。この期に及んでも竜二は安らかに図太く眠っている。
華耀子が嘆息すると、竜二の向こう側に座っている若い男と目があった。その男は感心したような、羨望に近いまなこをこちらに向けている。かと思えば、目の前に立つ老女は微笑ましいものでも見るかのごとく、竜二と華耀子を見ている。向かいの女子高生たちはこちらを見て盛り上がっていた。いつからこの国は、電車という公共の場でいちゃつく男女に寛容になったのだろうか。
否定するのも面倒で、否定するすべもなかったので、それらの視線を適当に受け流しつつ、竜二の肩を抱き続けた。こうして支えていないとすぐに彼の体は反対側に傾いてしまうのだ。
さすがに起こしてもいいのだが、起きたら起きたでこの体勢に動揺した竜二が何をしでかすかわかったものではない。好奇の視線にさらされながら、空いた手でタブレット端末を操作し、動画の続きを観た。
決勝戦、西日の中で走る竜二の姿は感動に値するほど綺麗だった。身体能力を無駄なく使う野生動物のようだ。スプリンターとしての才能は、いかに二足歩行である人間という概念を捨て、走ることに特化した獣となれるかにかかってる気がする。
車内のアナウンスがまもなく降りる駅だと告げた。
タブレット端末のディスプレイをブラックアウトする。バックにしまい、何気なく減速していく列車の窓の外を見た。
意識は外ではなく、竜二の肩を抱いている手の先にあった。指に感じる温もりが心地よい。
自分より勝っている陸上選手に嫉妬を抱かなくなったのはいつだろう。はっきりとそう自覚したのは、この竜二だったように思う。
嫉妬を抱かなくなった――それはすなわち、同じ勝負の舞台に立つ相手だと見なくなったからだ。華耀子は選手として、その幕を完全に引いたのだ。
そして、思う。
――あなたとはどこまで走っていけるかしら。
選手としてはどこにもいけなかった華耀子だが、彼とならどこかへ行ける気がする。それは竜二が才能のある選手だからというのもあるが、自分が選手であった時より飛躍できるような気がするのだ。
それは彼の可能性の上に乗り、勝手に夢を見ているのかも知れない。だが、途方もない夢だと笑えなかった。
一人では無理でも、二人でならどこかへ、高みへ。
「竜」
陸上選手としての顔を脱ぎ捨て、爆睡中の竜二に声をかけて起こす。電車が歩くような速さになり、停車する。華耀子が立ち上がると、バランスを崩したことでやっと、竜二が「んがっ」と目を覚ます。女子高生たちが笑っていた。アナウンスが駅への到着を知らせる。
外へ通じる扉が開いた。