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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
82/127

ある晴れた日曜日に

自サイトの拍手文再録。

 香代子はいらいらしていた。大学のもっとも忙しい時期――前期末試験が差し迫り、試験勉強に追われていた。加えて、バイト先の大学四年生が、無責任にもシフトを放り投げ、海外旅行に行ってしまった。そのため、一分一秒でも単位取得のために勉強しなければいけないこの時期に、香代子は哲士と折半して穴の空いたシフトを埋めていた。

 そういうわけで、香代子には時間の余裕がない。けれども、バイトが久々に入っていない日曜日、試験勉強をするのには格好の日だというのに、なぜか自分は部屋の掃除機をかけていた。

 毎日掃除機をかけないと落ち着かない自分の性格を恨めしく思いながら、手早く掃除機動かす。けれども、つっかかって上手く床を滑らない。カーペットの上に大きな障害物が転がっているからだった。

「由~貴~也~!」

 香代子が忙しく掃除機をかける側で、この上なくくつろいだ大きな図体が横たわっている。ジュースとほぼ糖分と合成着色料でできたゼリービーンズをかたわらに起き、陸上雑誌を気のない様子で読んでいる由貴也だった。

「アンタ勉強しなくていいの!?」

 腹立ちまぎれに、由貴也のそばで仁王立ちになって聞いた。由貴也は視線すら動かさずに「だって授業のノートあるし」と答えた。

 予習、授業、復習、レポートというサイクルで回っている香代子の看護学部と違い、由貴也の文学部英文科は期末試験の一発勝負であることが多い。そして、文系の例に漏れずに持ち込み可なテストが多いのだろう。うらやましい限りだ。

「授業のノートって、全然授業出てないじゃない」

 香代子は疑問に思って尋ねる。由貴也は予想を裏切らずと言えばいいのか、授業の出席率がすこぶる悪い。香代子と同じ授業はひとつだけとっているけれども、それも彼が出席しているのは一回しか見たことない。

「この前の授業の時、何かもらった。隣の席の女子から」

 事もなげに言う由貴也に、香代子は目を瞬かせた。このアイドルも俳優も裸足で逃げ出すような美形である由貴也は、行く先々で女性陣の熱いまなざしを受けている。おそらくどの授業でも由貴也にお近づきになりたいと思っていた女子が、授業のノートを提供するという任務にかこつけて彼の元へやって来たのだろう。

 何か、ちょっとおもしろくない。

「アンタはノートあって余裕かもしれないけど、私は余裕じゃないの!」

 嫌みが口から出る。心のどこかでこの状態はよくないとわかっているのに止まらない。ちょうど掃除機の先がカーペットに寝そべる由貴也の体に軽く当たった。

「もうっ、邪魔!」

 気がついた時には口から乱暴な言葉が飛び出していた。言いすぎた、と香代子の後悔がわき上がると同時に、今まで視線も寄越さなかった由貴也が顔を上げる。静かな瞳。いらいらして熱くなっている自分とは対照的な凪いだ目で、由貴也は香代子を見ていた。掃除機の音がやけにうるさい。

 由貴也に一直線に見つめられて、香代子はひるんだ。けれども、「……何よ、言いたいことあるなら言えばいいでしょ」と小さな反論を試みる。まだ少しだけいらつきが残っていた。

 由貴也はそれにも何も言わなかった。ひとしきり香代子を見た後は、すくっと無言で立ち上がり、玄関に向かって歩き出す。香代子が声をかける間もないほどためらいがなく、すばやい行動だった。

 玄関のドアが閉まる音で我に帰る。掃除機を持って立ちすくむ。

「……何なのよ」

 食べかけの極彩色のゼリービーンズ。黄金色のりんごジュース。呆然とつぶやく自分の声。部屋にはそれだけだ。

 あれくらいのことで、あんな顔して出ていかなくてもいいではないか。第一、ここは香代子の部屋なのだ。自分が好きに使う権利があるはずだ。

 言い様のない後味の悪さを感じながら、もう彼のことを考えるのはやめようと決意する。せっかく彼がいなくなって、静かで存分に勉強できる環境を手に入れたのだ。学生らしく勉強に精を出すべきだ。

 由貴也のことを頭の中から追い払って、香代子は急いで掃除機の続きをかける。けれども、かけてもかけても終わらない。自分の部屋を見回して思う。こんなに広い部屋だったっけ。

 早くも由貴也に傾きそうになる思考を止め、香代子は掃除機をかけ続けた。ゼリービーンズは袋の口を縛り、りんごジュースとともに冷蔵庫に入れる。ゼリービーンズは常温でも大丈夫だけれど、暑がりの由貴也は何でも冷やしたがるのだ。

 夏真っ盛りの今、由貴也はたいてい香代子の部屋に来ると暑そうに転がっている。いつもいつも邪魔な思いをしているので、いなくて清々する。

 荒い足音を立てながら、備え付けの収納に掃除機をしまい、そこではたっと気づいた。いつもっていつだっけ、と。前に由貴也が部屋に来たのはいつだったか。

 口元に手を当てて考え込む。そういえばここ最近バイトしているか、図書館でテスト勉強をしている記憶しかない。試験前なので、大学の陸上部も休みなのだ。

 さらに考えても、ここ最近の由貴也といた光景が思い浮かばない。彼はいつもゴロゴロしているわけではなかった。むしろ久しぶりに来たのだ。

 何か、私まちがった――?

 とっさに浮かんだ考えに頭を振る。由貴也で頭がいっぱいになってどうする。香代子の今一番すべきことは勉強だ。何も考えないようにして机に向かった。

 数時間は順調に過ぎた。集中して勉強していると、あっという間に時間が過ぎていく。集中が切れた合間にはっとして顔を教科書から上げると、部屋には赤い西日が射していた。

 濃い影が香代子が今いる居間兼寝室から伸びてキッチンの方まで落ちている。時計の秒針が進む音が部屋に響く。

 ――何か、静か。

 変な気持ちだ。まるで自分の部屋が違うものになったようだ。

 由貴也がいないせいなのかと思ったけれど、すぐにその考えを打ち消す。だって由貴也は無口で、香代子の部屋をにぎやかにするわけではない。

 教科書を閉じて、カーテンを閉め、照明をつける。由貴也のことだ。きっとお腹が空いたら帰ってくるだろう。

 夕食を作ろうとキッチンに向かう。何気なく冷凍庫を開けると、冷凍の海老が目についた。同時に、以前由貴也にエビフライを作った時のことがよみがえってきた。

 あれは由貴也が記録会で自己ベストを更新した時の夕食で、テレビを見ながらくつろぐ由貴也に、冷凍のエビのパックを「じゃじゃーん! 今夜はエビフライだよ」と見せたのだった。海老はしがない学生の香代子にとって高級食材なのだ。

 その時の由貴也は表情を変えなかったけれど、彼のまとう空気がぱっと明るくなったのを覚えている。味覚が子供な由貴也はお子さまランチ系のものが好きだから、エビフライもきっと好きだと思っていたのだけれど、間違えではなかった。揚げたてのエビフライを前に「……エビ」とつぶやいた由貴也にはハートマークが浮かんでいそうだった。

 ちょっと微笑ましい記憶を思い出して、香代子はふふっと小さく笑う。そしてまた由貴也に揚げてあげようと思っていた冷凍海老を手にとる。エビフライのにおいにつられて由貴也が帰ってきそうな気がしたのだ。

 勉強の次は、黙々とおいしいエビフライを作ることに集中した。身はぷりぷり、外は衣でサックリ上がったエビフライを、キャベツの千切りがのった二枚の皿に数本ずつのせる。仕上げにタルタルソースをかけ、くし型に切ったレモンをのせた。

 よしできた、と額ににじんだ汗をぬぐう。直後は夕食を完成させたという満足感があったけれど、それが去ると部屋の静かさだけがやけに強調される。おいしそうにエビフライもできあがって、ご飯も真っ白にふっくら炊けたのに、まだ帰ってこない。どこに行ったのだろう。

 不意に、由貴也に授業のノートを持ってきた女子たちの話を思い出す。由貴也なら、いくらでもエビフライを食べさせてくれるかわいい女の子のもとへ行けるだろう。そう思うと香代子の胸はいつになくざわつき、むかむかとした嫌な不快感がわきあがる。

 けれども、一時のいらつきが去ると、残るのはむなしさだけだ。嫉妬はため息に変わる。

「……本当に邪魔なわけないじゃない」

 香代子のつぶやきに答えは当然ながら帰ってこず、後には湯気をたてるエビフライだけが残った。







 香代子の部屋のドアが開いたのは、翌日になってからのことだった。

 ラップに包まれた大量のエビフライは二人前。香代子は 自分の分に手をつける気にならず、ほとんどエビフライは残っていた。

 夜は各々の部屋に戻って寝ているので、もう由貴也は夜が明けるまで帰ってこないとわかっているのに、夜更けまで帰りを待ってしまった。そのうちに寝てしまったのか、香代子は机に突っ伏して教科書と大量のレジュメに埋もれて眠っていた。

 浅い香代子の眠りを破ったのは、玄関が開く音だった。鍵かけ忘れた!? と反射的に飛び起きる。

 不審者が上がってきたのかと慌てるけれど、もっと現実的な可能性に行きつき、香代子は立ち上がりながら思わず叫んだ。

「由貴也!」

 キッチンと居間を繋ぐドアを勢いよく開く。そこでは由貴也がくんくんと鼻を動かし、「……エビフライのにおい」とつぶやいていた。昨日の揚げ物のにおいがうっすら残っているけれど、由貴也は基本的に鼻がいいのだ。

 帰ってきての第一声がそれかよ、と心中つっこみながら、自分は由貴也の体のいいご飯作り係なのかと思ってしまう。

 再燃しそうな怒りをこらえつつ、「アンタがちゃんと夕御飯までに帰ってこないから、エビフライまずくなっちゃったじゃない。揚げ物は揚げたてが一番なんだから」と文句を言った。言った後で、何だかんだで自分の中では、由貴也が夕飯を食べることが前提になってる、と気づいた。

「……今からでも食べる?」

 多少気まずい思いを抱えながら聞くと、由貴也は無言でうなずく。彼の方にしこりは残っていなそうで安堵する。エビフライを温め直す香代子の後ろで「……エビ、エビ」とつぶやいていた。

 空腹だったのか、由貴也は思いの外よく食べた。しばらく口も聞かずに腹を満たすことに集中していた。

 その姿を眺めながら、何となく穏やかな気分になっている自分に気づく。何を自分はあんなにもイライラしていたのだろう。

「あ、あのね……」

 香代子はもごもごと口を動かす。由貴也が帰ってきて、安堵して泣きそうになった。昨日、彼が出ていってからずっと、その存在をこの部屋の中に探していた。邪魔ではないということをきちんと伝えなければいけない。

 お説教のバリエーションは腐るほどあっても、素直になるのは苦手だ。なかなか次の言葉が出てこない香代子を前に、エビフライを咀嚼した由貴也の方が口を開いた。

「コーチがダメだって」

 次に口に運ぶエビを箸の先でとらえながら、由貴也は淡々と話す。香代子は話のつながりがわからなくて、「へっ?」とまぬけな声を漏らす。

「ダイエット」

 由貴也が補足のつもりで継いだ言葉も、香代子をますます混乱させた。どうやら由貴也はダイエットの許可を運動選手らしくコーチにとりに行ったようだ。けれどもそれがどうこの事態に関係するのかわからない。

 何度か繰り返し考えて、香代子ははっとした。由貴也は香代子に邪魔! と言われたのを、存在が邪魔とではなく、単に体が大きいから邪魔ととらえたのだ。だから少しでも体積を減らすべくダイエットをしようとしたのだろう。

 香代子は脱力感にめまいがしそうになった。邪魔という言葉を、そうとらえられるとは思わなかった。まともにケンカもできやしない。

 けれど、すぐにまあいいか、と思い直す。目の前の由貴也は大好きなエビフライを前に、心なしかうれしそうな顔をしていて、それは香代子を幸せにさせる。

「邪魔じゃないから、たくさん食べてスタミナつけて……それで黙って出ていかないで」

 心配するから、と消え入りそうな声で言って、香代子はそっぽを向く。照れながらも、存在が邪魔とではなく、体の大きさが邪魔と言われたと思われていた方がいい、と思った。由貴也をムダに傷つけずに済んだ。

 香代子があさっての方向を見ながら、横目で由貴也の様子をうかがうと、彼はエビフライを無邪気によろこぶ子供の顔ではなくなっていた。

「アンタが俺のこと心底邪魔だって思ってるわけないでしょ」

 由貴也はそこで箸を置いて、卓の上に肘をつき、頬杖をついた。そして、強烈に微笑む。

「だって、アンタには俺が必要なんだから」

 下から見上げるようなすさまじい流し目に、香代子は「……な、ななな」と言語にならない声を赤面しながら発する。

 その一秒後、香代子の「何なのよアンタはーっ!!」という叫び声に、アパート全体が揺れたのだった。

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