消えない熱
自サイト10万打記念小説再録。
梅雨間の青空が広がる、気持ちのいい日曜日だった。
休日の香代子は大忙しだ。朝寝坊もほどほどに、シーツやカバー類の洗濯をして、平日にできなかった細かいところの掃除をして、授業の課題をする。数ある学部の中でも指折りの忙しさである看護学部に在籍する香代子には、今週もいくつかのレポートが課されていた。
そういうわけで、早く家事を終わらせたい香代子だけれども、掃除機がスムーズにかけられない。理由は部屋に大きな図体が転がっているからだった。
部屋の主である香代子よりもよほどリラックスして、けれどもいたって真剣に彼が雑誌を読んでいる。違う、と香代子は胸の中ですぐに訂正した。彼の顔の上半分は真面目に雑誌に目を走らせているけれど、鼻から下、つまり口はハムスターのごとくいっぱいの飴で頬を膨らませていた。
「ゆーきーやー!」
香代子が仁王立ちになって、由貴也を見下ろした。せかせか動きまわる香代子を尻目に、優雅に雑誌を読んでいた由貴也がそこで初めて顔を上げる。頬が重そうだ。
「アンタ、糖分とりすぎっ! せめてひとつずつ食べなさい」
由貴也の膝の上にあった飴を「今日はもうおしまいっ」と取り上げた。とたんに由貴也はわずかに眉を寄せ、悲しそうな顔をする。その幼い子供のような表情に、ちょっとかわいそうになってくるけれども、それも頬がこれでもかと膨らんでいるまぬけなシルエットでかき消される。
「……さんするいのはめをみっくしゅすることで――」
「そんなことはどうでもいいの」
由貴也が口に飴を含んだまま、ふがふがと何か言っていたけれど、香代子は取り合わなかった。最近の由貴也は違うメーカーの飴を同時に口の中へ入れ、その味の変化を探ることに心血を注いでいて、毎日飴を食べているのだった。そのせいか、なめているときも、研究者のような顔をしている。
もっとも、由貴也がアホなことをやっているのは平和な証拠だ。彼の身辺が慌ただしかった少し前まで、由貴也がこういった変なことをやっていなかった。それを思えば、彼が飴に情熱を傾けている現状はいいのかもしれない、と息をついた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
「こんにちはー、宅配便でーす!」
「あ、はーいっ」
宅配便なんて頼んだっけ、と思いつつも、出ようと玄関へ足を向ける。その横を、由貴也がすばやく通り抜けていった。あまりに由貴也に似つかわしくない機敏な動作だったので、香代子は目を丸くしてしまう。
そうしている内に、玄関で由貴也が宅配業者の応対をし、香代子があっけにとられている場合じゃないと思ったときには、ドアがすでに閉まっていた。
由貴也は腕に抱えるぐらいの箱を持って居間兼寝室に戻ってくる。彼はそれを丁寧にカーペット敷きの床に下ろし、手早く開け始めた。心なしかウキウキといったようなオーラが出ている。
「ちょっと、私宛ての荷物じゃないの?」
あまりにさも当然のごとく由貴也が受け取り、箱を開けるので、香代子は慌てて由貴也を止めた。
由貴也はまるで香代子の言葉など聞こえてないかのように、開封作業を続ける。やがて何重もの新聞紙の中から姿を現したのは、黒い筐体を持つ、テレビに接続する家庭用ゲーム機だった。
由貴也はうっとりとそれを眺めている。まるで離ればなれになっていた恋人と再会したみたいだ。
由貴也が箱の中から何本かのゲームソフトと攻略本を取り出している内に、香代子は箱の上でひらひらとそよいでいる送り票を見た。住所はここ、香代子の部屋。けれども宛名は古賀 由貴也――。
「アンタ、何私の部屋を宛先にしてんのよ」
「だって俺、だいたいここにいるじゃん」
香代子の台詞の方がおかしいと言わんばかりの由貴也の言葉に、香代子はつかつかと窓に歩みより、日よけのために閉まっていた薄手のカーテンを開けた。
「アンタんちはあそこっ! あのマンションの最上階でしょうが!!」
思いっきり、窓から見える高いマンションを指差す。由貴也は学生には分不相応なほどの綺麗な新築マンションに住んでいる。香代子の部屋と違って、お湯の出も悪くないし、外階段を上ってくる足音も聞こえないような、快適な部屋だろう。
にもかかわらず、由貴也はここに居着いてしまった。向こうの部屋にはほとんど寝に帰るようなもので、日中は香代子の部屋に入り浸っている。
日曜の今日は、めずらしくクラブの方は完全休養日で休みらしく、由貴也は朝からこの部屋でくつろいでいる。そのせいで香代子の掃除がなかなかはかどらないのだ。
「私は自立したいのっ。そのために一人暮らししてるの!」
もう何度言ったかわからないことを由貴也にまた言う。はっきりと白黒つけたい香代子は“なし崩し”という事態が一番嫌いだった。今まで由貴也を家に上げていた状態の方がイレギュラーで、基本的には彼と暮らす気はないのだ。
――つきあってもいないのだから。
由貴也はまったく聞いておらず、「急にこのゲームやりたくなって、でも自宅の方に置きっぱなしだったから困ってた」と、噛み合わない答えを返し、いそいそとゲーム機をテレビに接続している。香代子の部屋に由貴也の私物がどんどん増えていく。
いい加減沸点の低い香代子が爆発しそうになった時、由貴也が段ボールから取り出した攻略本から何かが落ちた。床に当たってページが開いたそれには写真が貼ってある。ミニアルバムだった。
「アルバム! 見せて見せて」
香代子は一秒前までの怒りも忘れて、しげしげと何だろうこれ、と見ている由貴也の隣に座った。由貴也の幼少期の写真などかなり気になる。無邪気に笑って、子供らしく振る舞う由貴也など想像できなかった。
当の由貴也はといえば、気のない様子で香代子にアルバムを渡してきた。香代子はゲームを前にした由貴也のように、さっそくうきうきと開く。
「何、これ……!」
早くも一ページ目にして香代子は言葉を失った。そこには四、五歳ほどの由貴也が写っていて、海外旅行にでも行っていたのか、煉瓦作りの美しい街並みを背景にした一枚だった。その中で幼い由貴也はレトロなセーラーカラーの服を着て、ご機嫌ななめというふうに、顔をしかめている。そんな表情でも抜群に愛らしく、少し長めの髪も相まって、そんじょそこらの女の子では太刀打ちできないほど可愛いかった。
とりたてて子供が大好きというわけではない香代子ですら、この由貴也には胸を撃ち抜かれる。
「か、かわいー! 女の子みたい」
めろめろの香代子をよそに、それが昔のものであれ、自分の顔になど興味はないというように由貴也はゲームに没頭していた。
このもだえるほどの愛らしさを誰かと共有できなくてつまらなかったけれど、香代子は夢中でページをめくっていく。幼稚園卒園、小学校前入学、七五三、小学校卒業、中学校入学――由貴也の成長をたどっていく内に、香代子はだんだん、心が固くなっていくのを感じていた。彼の隣にはいつも同じ人物が写っている。
「……はい、返す。どうもありがとう」
心の変化を隠しつつ、由貴也にミニアルバムを返す。由貴也は「うん」と相変わらずテレビの画面に釘付けだけれども、何か感想をコメントしないといけない気がした。
「お兄さんがいたんだね。知らなかったよ」
香代子は何とか感想を絞り出す。ミニアルバムには時々、由貴也ではない年長の男の子が写っていて、コメント欄には母親とおぼしき人の字で『文ちゃんの卒業式』などと書かれていた。その男の子は由貴也とは似ていなく、由貴也とは違って利発そうな、けれども由貴也と同じくちょっとお目にかかれないような抜群の美形だった。
「いるけど。俺だってアンタの家族構成なんて知らないし」
由貴也はコントローラーを握ったまま、さらりと答える。そういえば、由貴也は自分のことを話さないけれど、自分も自身のことをあまり彼に話していない。
「私は弟二人と歳の離れた妹がいるよ」
「ふーん。アンタっていかにも長女だよね」
意外にも、由貴也は返事以上の言葉を返してきて、ちょっと驚く。今、自分たちはいたって“普通の会話”をしているのではないのだろうか。同じ空間にいることから、徐々に会話は増えつつあっても、意思の疎通が計りづらい由貴也とまともな言葉のキャッチボールをすることは少ないのだった。
ちょっとうれしくなって、もっと話そうと意気込んで顔を上げた瞬間、香代子は脱力した。テレビ画面に映ったゲームの世界では今、ケーキ作り大会が開かれているところらしく、由貴也が操るキャラクターが『秘技・生クリーム泡立て!』と叫んでいるところだった。やはり由貴也がまともな時など、グラウンドにいる時以外はないのだった。
それでもめげずに香代子は由貴也に話しかけることにする。
「ねえ、お兄さんっていくつ上なの?」
「…………たぶん二つ」
たぶんってなんだと思いつつも、『一撃必殺・イチゴのせ!』とキャラクターがよくわからないポーズをとっているテレビ画面を見ないようにしながら、香代子は続ける。もっと由貴也のことを知りたかった。
「お兄さん、今何してるの?」
また、由貴也に考えるような間が空く。肉親だというのに、どうしてこうも家族の動向に疎いのか。
「……アメリカに留学してると思う」
留学。由貴也は何の力みもなくさらりと話す。留学には多額の費用と、覚悟を要する。けれども、由貴也も高一のときに留学していたのだと思い出した。古賀家の子供にとって、留学というのは、世間一般の人が考えるものよりもずっと当たり前でハードルが低いものなのかもしれない。
ふと、視界の端に、由貴也が先程まで読んでいた雑誌をとらえた。取り寄せたのか、英語の雑誌だ。タイトルは『The world's assort sweets』。『世界のお菓子詰め合わせ』だ。
香代子はずっと疑問に思っていたことを聞いた。
「ねえ、どうして英語そんな得意なの?」
由貴也は留学していたから当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけれど、おそらく英語がぺらぺらだ。けれども由貴也の英語力はただ日常会話に不自由しない以上のものがあるように思えた。
英語圏のアメリカに留学している彼の兄の存在といい、由貴也の両親は英語に関して子供に英才教育を施したのかと思ったのだ。けれども由貴也から返ってきたのはその上をいく答えだった。
「だって俺、帰国子女だもん。日本語覚える前に英語覚えた」
「帰国子女ぉ!? どこのっ?」
「イギリス」
「なんで?」
「父親の仕事で」
「何年くらいいたの?」
「……三年ちょっと?」
何だか、会話というより、詰問の様相を呈してきた。しかも最後にはどちらも疑問文になっているというおかしな有り様だ。
それにしても、帰国子女だったとは。彼の父親は世界を股にかけて働くビジネスマンのようだ。由貴也のかつかつしていない雰囲気から、裕福な家なんだろうな、と思ってはいたけれども、ここまでハイソだとは思わなかった。母親が再婚するまで六畳二間のアパート暮らしだった自分を恥ずかしくは思わないけれど、やはり差のようなものを感じてしまう。
その後、由貴也は喋り疲れたのか、めっきり話さなくなり、ゲームをして、静かに床に寝転がっていたりした。ちなみに、以前香代子が寝ているのかと思って、タオルケットを掛けようとしたら、いきなり至近距離で目が開いて驚かされた。由貴也いわく、長く昼寝をすると体内時計のリズムが狂い、翌日の練習に支障がでるそうだ。だからただ横たわって“安静”にして、体を休めている。これからの練習のために休日を使う。そういうところはきちんと“陸上選手”なのだ。
寝ているように見せかけて起きている由貴也と同じ空間で、香代子はパソコンを開いてレポートをし、少し彼と一緒にうとうとし、夜ご飯を作ったりしていた。これがここ最近の休日の過ごし方だ。といっても、バイト三昧の香代子と、スケジュールが練習で網羅されている由貴也とでは休みが重なる日は少ない。今日は貴重な一日だった。
香代子が作ったオムライスを食べ終わったところで、由貴也が「……帰る」と言ってきた。香代子はそろそろかな、と思っていたので「うん」と応じる。由貴也はいつも、九時を回る前に帰っていく。彼と同棲も同居もする気がない香代子としては、由貴也が帰っていくのはわかりきっていることなのだけれど、やはり見送るときは少しさみしい。
「じゃあ……」
「うん」
「またね」
「うん」
“うん”という言葉しか知らないかのように、由貴也はそれしか言わない。その返事からは、何の感情も感じられず、離れがたく思っているのは自分だけのようで悔しくなる。
由貴也は猫のように香代子の生活に違和感なく溶け込んだけれど、それだけにいつふらっといなくなってもおかしくはないように思えるのだ。だから、何となく彼を帰す時、不安になる。
気がついたら、部屋から出ていこうとする由貴也の、シャツの裾をつかんでいた。出ていくのをはばまれた由貴也と、我に帰った香代子との間に何ともいえない間が空いた。
自分でもどういう感情と意思が働いて、こんなことをしでかしたのかわからなくてただひたすら驚く。「ご、ごめん! 帰っていいよ」と、自分でも情けないくらいうろたえて由貴也の服を離した。
由貴也は外に向けていた体をゆっくりとこちらに戻し、真正面から香代子を見ていた。大抵、歳を重ねるごとに相手と目を合わせるのを避けるようになっていくのに、由貴也はそういった遠慮がなく、こちらを見てくる。彼の瞳の前に何もかもが見透かされているようで、落ち着かない。
にらみ合いならば目をそらさない自信があるけれど、由貴也の物言わぬ視線は苦手だ。心臓が破裂しそうになる。
香代子の心拍数が極限に達する前に、由貴也が視線を伏せ、体をひるがえし、出ていった。ドアが閉まり、遠ざかる足音が響く。
ひとりになって、香代子はその場の玄関マットの上に座り込む。落ち着くために、膝を抱えて座り直して息を吐く。ほてっていた体が冷えていく。
攻略本にまぎれこんでいたミニアルバムには、由貴也の隣にいつも巴が写っていた。和風の古典的な美しい顔をした巴と由貴也が並ぶと、まるで対で作られたもののようにしっくりきていた。
そして何より、写真の中でさえも小さな由貴也は巴が大好きだったということが伝わってきた。幼い時の写真は手を繋ぎ、時に由貴也は巴に抱きつき、ある程度成長してからは恋人のように寄り添い――他の写真とは違って、巴と写っているときだけは由貴也にきちんと色がついているように見えた。
自分が知らない二人の長い“歴史”がそこにはあって、それはどうあがいても香代子が手に入れられないものだった。
嫉妬深い自分が嫌になって、抱えた足の膝に、額をつけた。今日届いた荷物の、差出人も巴になっていて、彼女は由貴也の実家の部屋に出入りを許されているのだ。そして、彼らはいまだに何かを頼んだり、頼まれたりし合う関係なのだ。
こういう、ドロドロとした感情を由貴也に見透かされている気がしてならない。由貴也は潔癖なところがあるから、自分を軽蔑するのではないだろうか。
それでも、不安なのだ。由貴也との生活には確かなことなど何ひとつとしてない。行動を積み重ねて、それをなぞるような毎日。昨日も来たから、今日も来る、といったような不安定な憶測だけで過ごしている。陸上にすべてを傾ける彼に何かを求めてはいけないと思いつつも、感情を抑えきることは難しい。
「あー、もうっ!」
鬱々と沈んでいく非生産的な思考を打ち切って、香代子は勢いよく立ち上がる。『自立したい』と彼に言ったばかりではないか。由貴也がいないときまで、彼の存在で頭がいっぱいでどうする。由貴也を支えるには自分自身がしっかりしていなくてはいけないのに。
香代子はものすごい勢いで、明日のお弁当の下ごしらえをし始めた。彼の存在を追い出すために没頭していたので、ムダに豪華なお弁当ができたのは言うまでもない。
風邪をひいた。
ここ最近、ものすごく忙しかったのだ。バイト先で子供が入院するために少しの間休みたいというパートの人のシフトを肩代わりし、運悪くとっているほとんどの授業でレポートが課されてしまった。平日の五日間、すべて合わせても十時間は超えない睡眠時間に、梅雨冷えの気候が拍車をかけ、数年ぶりに体調を崩した。
なんとなく、だるいなと思いつつも、だましだまし使っていた体に限界が来たのは今日。朝、目が覚めたら起き上がれなくて、何とか哲士に部活を休むとメールをして、ベットに潜っていた。
喉が痛い。水が飲みたい。頭が痛い。気持ち悪い。朦朧とする意識の中で、ぐるぐると頭をめぐる欲求や感情をすべて抱え込んで、香代子は布団の中で丸くなっていた。
“アンタっていかにも長女だよね”
由貴也の言葉がエコーがかかってよみがえる。そう、長女だから香代子は全部自分の中に抱え込む癖ができていた。わがままの言い方なんて、とっくの昔に忘れた。
彼の台詞とともに、由貴也のことを思い出していた。彼は今日は来ないはずだ。部活の後、クラブでウェイトトレーニングをすると言っていた。よかった、と安堵する。風邪をうつしてしまっては大変だ。
確かに彼が来なくてほっとしているのに、心の奥から声がする――“本当に?”
苦しくて閉じることしかできないまぶたの裏で、ベットの縁に背を預け、雑誌を読んでいる彼の姿が浮かぶ。何もしてくれなくてもいい。ただそこにいて欲しい。
いや、とかぶりを振る代わりに、香代子はきつく目を閉じて、眼裏の由貴也の姿を消した。昔より、今の方がずっと楽だ。中学生の頃は、熱があっても風邪を引いても休めなかった。一日中働いているシングルマザーの母の代わりに香代子が幼い弟たちの面倒を見なくてはいけなかったからだ。それを思えば、今は一日中寝ていられる。これ以上の贅沢は言ってはいけない。でも、『ねーちゃん、だいじょうぶ?』という言葉すらない室内は、ひどく寒々しく感じた。
どれくらい布団の中でじっとしていたのか。おそらく高い熱が出ている。狭間に浅い眠りに落ちながら、苦痛をやり過ごしていた。
由貴也や、他の人の世話は焼いても、香代子はあまり自分自身の世話を焼くことはしない。自分の体だけに大丈夫だと過信して、あまり自身をいとうことをしないのだった。
熱は香代子に夢を見せた。
夢の中の光景は、“夢”ではなかった。この前アルバムで見た、学生服を着た由貴也が立っていた。今よりも幼い顔をした中学生の由貴也は、ある一点に視線を向けている。誰が見てもわかる。由貴也が一心に見つめる先の人物をどうしようもなく愛しているということを。そしてそれが彼の一世一代の恋だということを。これは単なる夢ではなく、かつて現実として存在した場面であることを、香代子はわかっていた。
由貴也はたぶん、一生自分をあんな風に見つめたりしない。あれは彼の生の中で一度きり許された、身を滅ぼすような恋なのだ。
そんな生涯一度の恋を自分に捧げて欲しいなどと、大それたことは望まない。ただ、そこにいてくれるだけでいい。けれども香代子には誰かが自分のためだけに時間を使ってくれることが、この上なく身勝手な願いに思えて、言葉にしようとは思わなかった。その気になれば電話一本で繋がれるというのに。
このままだと、どんどん暗い方向に思考が進んでいきそうで、香代子は起き上がる。荒い呼吸を繰り返しながら、ベットから下りる。熱のせいで気弱になっている自分をどうにかしたくて、何か別のことをしようと思ったのだ。
とにかく何か口に入れなくては、とふらふらとキッチンに向かい、昨日の残りの冷飯と水を適当に鍋に入れた。
ぐつぐつと小さな泡をたてながら、米が煮たっていく。その様子が何重にもぶれて見える。
もう、火を止めなきゃと思って、コンロへ伸ばした手がなぜか宙をかき、目に見える世界が回った。粥が噴きこぼれる音を聞きながら、香代子はそのまま意識を失った。
目が覚めたのは、玄関のチャイムが断続的に鳴っていたからだった。
床の冷たさを感じる。けれども、意識の上澄みだけが覚醒している状態で、香代子はすぐには起きれなかった。
はっきりと意識が戻ったのは、鍵が開錠されて、玄関が開く音がしてからだった。危機感が身の内を駆けめぐり、無理やり立ち上がる。泥棒にでも入られたのかと思ったからだ。
霞のかかった頭と体で何か武器になるようなもの、と緩慢な動作でキッチンを見回す香代子の前に現れたのは 、泥棒などではなかった。
「何起き上がってんのさ」
夢かと思った。けれども彼は何度も夢の中で見た学生服ではなく、シャツにジーンズという私服だった。まだ円かさを残していた少年の面差しではなく、鋭角的な“男”の顔がそこにはあった。
「具合悪いんじゃなかったの」
まだ彼がそこにいるのが信じられなくて、香代子は呆然としたまま、「お粥、食べようと思って……」と答えた。
「お粥?」
わずかに彼が顔をしかめる。鼻がきかなくなっていた香代子にはわからなかったけれども、この時部屋には焦げ臭いにおいが充満していた。
彼はガスコンロにかかっている鍋に目を向けた。そこで初めて香代子はお粥を火にかけっぱなしだったことに気づく。当然真っ黒焦げで、危うく火災をおこすところだった。
行動が鈍くなっている香代子の代わりに、由貴也がコンロの火を消し、鍋を流しに置いて、水を注ぎ込む。熱い鍋に触れて、水が蒸発していくけたたましい音がする。
夢にしては鍋が焦げているなど現実味があり、しかも芸が細かくて、どうやらこれは本当のことらしいと理解する。
「……どうやって入ったの」
目の前にいる由貴也を本物だと確かめるために、香代子は問いかけた。彼にこの部屋の鍵は渡していないし、そもそも由貴也は基本的に情に厚くはなく、自発的に他人のことを気にかけるとは思えなかったのだ。
由貴也はおもむろに手を頭に伸ばし、何かを抜く。それは今まで由貴也の前髪をとめていたピンで、どうやら由貴也はそれでピッキングをしたと言いたいようだ。呼鈴に応答できなかった自分も悪いけれど、不法侵入という犯罪行為を堂々とやらかす由貴也も由貴也だった。
けれどもそれがかえって由貴也らしくて、彼がそこにいるという実感がやっとわいてきた。それと同時に、どこかのネジがバカになってしまったように涙が出る。止めようとか、隠そうとか、そういう羞恥心が熱で麻痺して働かず、子供のように突っ立ったままぼろぼろと泣いてしまった。彼が来てうれしいのか、悲しいのか、切ないのかよくわからないけれど、一番は安心して、気が抜けた。
「何泣いてんの」
由貴也は相変わらず抑揚なく言って、「わ、わかんない……」と答えた香代子の顔を、伸ばした袖でこすってきた。綿の袖口が顔に擦れて痛い。泣き痕がヒリヒリする。けれども、由貴也にしては破格の優しさを感じた。
「……お鍋、洗わなくちゃ」
彼に涙をぬぐわれながら、焦げついた鍋が気になった。今、洗ってかないと焦げがとりづらくなる。
「そんなのいいから」
けれども、流しに向かおうとしていた体が浮く。気がついた時には、由貴也に抱き上げられていた。彼の胸にほど近いところに自分の頭はもたれかかっていて、由貴也の鼓動が聞こえる。
男で、日々鍛えているだけあって、女としては並の身長と体重の香代子を由貴也は軽々と運んでいた。キッチンを抜け、居間兼寝室のドアをくぐり、壁際のベットの上に下ろされる。
「アンタが一番しなきゃいけないのは、泣くことでも、鍋洗うことでもなくて、寝ることなんじゃないの」
由貴也は言うなり、彼らしくない行動に驚くばかりの香代子に布団をかけた。あまり丁寧とはいえないかけ方をされ、視界が布団に覆われる。もがいて、何とか顔を出した。
由貴也がベットの縁に背を預けて座っていて、香代子からは彼の頭と背中がよく見える。それは自分が望んでいた光景そのもので、先ほどから驚くばかりで止まっていた涙がまたにじむ。それを止めようと、香代子はまた口を開いた。
「今日、学校は……?」
外は相変わらず梅雨空で、日中にも関わらず薄暗いけれども、いくらなんでもまだ授業がある時間だというのがわかる。一回生の彼は隙間なく授業が入っているはずだ。
「さぼった」
彼は淡々と口にする。試合やら大会やら練習やらでわりと授業を休みがちだというのに、いいのだろうか。
「だって、出席とる授業とか……」
「どうでもいい」
ためらいがちに発した香代子の言葉はすかさず一蹴される。それから、彼の後ろ姿がかすかに息をついたように見えた。呆れ、だろうか。自分は何か呆れられることをしただろうか。
「アンタは、部長じゃなくて間違って俺にメールを送ったんだよ」
えっ、と思いもよらない展開に、言葉を漏らした。声量が下がっている今は、吐息のようにしかならない。そういえば自分は電話帳からではなく、手っ取り早く送信履歴から哲士のアドレスを呼び出したかもしれない。あまりメールをしない香代子の送信履歴は、部活やバイトの連絡を頻繁にとるため、ほぼ哲士で埋まっている。けれども一昨日、由貴也に晩ご飯いるの、とメールした気がする。だから最新履歴が由貴也になっていたのだ。
「アンタは――……」
由貴也がゆっくりと、こちらを向く。彼の体と絨毯が擦れる音がした。
「部長には言っても、俺には言わないんだ?」
真正面から見られて、息がつまる。その鋭い眼差しから逃れたい一心で、香代子は「だって、」と反論する。部長である哲士に連絡するのは当たり前のことであるはずだ。
「今日、部活あるし、部長にはちゃんと休むって言っておかないと。迷惑かけるんだから」
「へえー。俺はアンタの中で“部長”とか、そういう役割がないから知らせなくていいわけだ」
やけに今日はからんでくる。何なのだ、由貴也は一体。風邪をうつしたらいけないという自分の配慮はそんなに的外れなものなのか。香代子は思考がよく回らなくて、ただ黙っていた。
「アンタは、自分は巴に嫉妬するくせに、俺のことは考えてくれないんだね」
挑発するような由貴也の言葉に、即座にカッと顔が赤くなるのがわかった。醜い嫉妬を見抜かれた羞恥と、情けなさと、さっきからよくわからないままに香代子を責めてくる由貴也への怒りがごちゃ混ぜになる。香代子はたまらず、上半身を起こした。感情の抑えがきかない。
「だって……だって、そうでしょ。ずっと古賀さんと一緒にいたんでしょっ? 大事でしょう、一生特別でしょうっ!?」
言いたくないのに止まらない。いつも自分といる時は、由貴也に気持ちよく過ごしてもらいたいのに、それができない。
「古賀さんこと、これから先もずっと好きでしょう……っ!」
自分で言っておきながら痛かった。香代子が一生かかっても、おそらく巴のように由貴也と以心伝心にはなれない。同じものを見て、育ってきた者同士の同じ価値観がそこにはあって、香代子はどんなにがんばってもそこに到達できない気がする。
肩で息をするほど、呼吸が苦しい。涙腺が弱くなっていて、すぐに目が潤む。由貴也の顔がまともに見れなかった。
「……――俺が」
やがて、長い沈黙の後、由貴也が口を開いた。
「アンタがそうやって嫉妬するのと同じ強さで、同じ風に思っていたとは考えないの?」
香代子が嫉妬するのと同じ強さで同じ風に――。由貴也の台詞は迂遠で、今の思考能力が減退している香代子にはすぐに理解できない。それがもどかしくて、布団を握って泣くしかできない。しゃくりあげるたび、体の中の嫌な熱が燃える。
「……アンタもう寝たら?」
おそらく、自分でも自覚している通り、泣いたことによって具合がさらに悪化したのが目に見えて由貴也にもわかったのだろう。それだけのことであるのに、由貴也の一言が嘆息したように聞こえてあせる。
「かっ、帰らないで……」
体調の悪さは元より、もう恥も外聞も胸の奥でぐずぐずとくすぶっているだけで、何の抑止力にもならなかった。香代子はただ、むきだしの不安のままにベットから手を伸ばして由貴也のシャツをつかむ。
シーズン中の今、大会が連なっている由貴也を今すぐにでも帰した方がいいのに、風邪を引いて弱っている自分は、どこまでも望みに忠実だった。
「いいから寝てたら?」
由貴也の言葉は輪をかけてそっけなくて、自分の服から香代子の手をはずそうとする。香代子は抵抗して、逆に由貴也の手をつかんだ。
「何でそんなに怒ってるの?」
ここがすっきりしないことには、眠ろうにも落ち着いて眠れない。答えを聞くまで離すものかと、香代子は力を込めて、由貴也の手を握った。
由貴也は一瞬、舌打ちでもしそうなほどに苦々しげに顔を歪めた。こんな崩れた表情をする由貴也は初めてだ。
「何でこんなに言ってるのにわかんないわけ、アンタは」
まるで香代子が悪いと言わんばかりの物言いをされ、すかさずわかんないよ、と反論しようとして、止まった。止められた。ベットが軋む。
由貴也が、香代子が上体を起こしているベットに上がってきて、膝で歩を進めてきた。獣が獲物を追い詰めるような構図になっていた。
「ゆ、由貴也……?」
彼から異様な迫力を感じて、後ずさる。つかんだままだった由貴也の手を離そうとして、逆にどうしようもない状態に陥ることになる。指をからめられ、つなぎ止められる。
下がるところまで下がって、壁に背をつける。やっとそこで由貴也の侵攻が止まった。次に由貴也がどんな行動をとるのかと、柄にもなくびくびくしてしまう。だから由貴也の手が自分に伸ばされ、頬に触れたとき、思わずびくりと肩を跳ね上がらせてしまった。
けれども、彼の手のひらに狂暴さはまったくなかった。“触れ方”が、今までまったく違ったのだ。由貴也を“男”だと強く感じさせる。
これまでだって、抱き合ったり、頭をなでたりと、頬に触れる以上のことをしてきたはずだ。けれども、それとは百八十度違う。
振り返ってみれば、由貴也と自分が体温を共有するときは、いつも彼の方に切羽詰まった切実さがあった。それが今、目の前にいる彼にはない。香代子が由貴也に触れているのではない。由貴也が香代子に触れているのだ。
感触を確かめるように由貴也の手が頬に当てられていた。この状況を十二分に香代子が認識したのがわかったのか、その手がすべり、頬から耳へ、髪へと差し入れられる。それは目をそらしがちな香代子の頭を固定させておくための移動のように感じた。
「何で目、そらすわけ?」
「……だって、近い」
今日の自分はだってだってと言いすぎだ。言い訳が嫌いな香代子は滅多にこの言葉を使わない。それでも使わざるえないほど、由貴也の顔は至近距離にあった。
「こうでもしなきゃ、アンタは部長を見る」
それってどういうこと、とこの期に及んで香代子が尋ねようとした時、由貴也が小首を傾げた。それは感情を表すためのものではなく、角度を合わせるようなもので、その動作の意味を考えたときには、もう由貴也の顔が間近に迫る。
彼の吐息が、香代子の唇をなめる――。
……――ピンポーン。
いつもよりもずっと間が抜けて聞こえる、玄関の呼び鈴が部屋に響いた。とたんにものすごい勢いで正気に戻った。今日、朝起きてから一番、頭がクリアになった瞬間だったかもしれない。この状況を正確に把握した瞬間、猛烈にすぐに逃げ出したくなった。
由貴也はといえば、互いの顔に相手の顔の影がかかるほどの近さのままで、玄関に視線だけ向けて見せた。彼に取り乱した様子はない。スイッチが切り替わったとでもいえばいいのか、あくまでも冷静に思考を巡らせているようだった。
どんな結論が出されたのか、軽く合図をするかのように、額をくっつかせてから、由貴也は立ち上がって玄関へ歩いていく。先ほどまでの余韻も感じさせない確かな足どりだった。
由貴也の後ろ姿を見送ってから、香代子は口を両手で押さえる。何だったのだ、今のは一体。鏡を見なくても、顔の異常な熱さから、盛大に赤面しているのがわかる。早鐘を打つ心臓が壊れそうだ。
玄関のチャイムが鳴らなければ、そう考えそうになって、あわててうち消す。想像を頭の中で描くだけでも、自分の中の何かが致死量に達する。
ゆっくり悶えてばかりもいられなかった。来客の対応をし終えて、由貴也がこちらへ戻ってくる足音がする。このまま窓から逃亡してしまいたい香代子だったけれども、かろうじで二階のこの部屋からではそれが無理だと判断できた。代わりに壁を向いて布団を頭からかぶる。息を押し殺した。
由貴也がすぐそばで立っている気配がする。香代子はひたすら死んだふりに徹した。部屋には耳が痛くなるほどの沈黙が流れている。
「――寝たふり?」
ベットが沈み、スプリングが鳴る。由貴也が腰かけたのだとわかったときには、反射で体が跳ねる。陸に打ち上げられた魚よりも高く飛んだ自信があった。これで香代子が起きてないことを気づかないアホはいないだろう。
それでも、今の自分は硬直して指一本も動かせない。布団を亀の甲羅のようにして、じっとしているほかなかった。
由貴也がそこで笑っている気配がする。それは楽しいから、うれしいからという正の笑い方ではなく、どことなく黒さを感じさせるものだった。
「好きなだけ寝たふりしたら。見逃してあげるよ――今回はね」
最後の一言に、気管が塞き止められたかのような感覚に襲われる。今度、しかも頭が正常に働く時にこんなことがあったら間違えなく救急車のお世話になる。
そこで意地悪な顔をして笑っている由貴也をうっかり想像してしまい、熱の塊のように体が熱くなった。彼の存在を感じるだけで、もうとても平静ではいられない。
その後、熱がさらに上がった香代子は一日中苦しむはめになった。