地上の風
「なー。マネージャって何でマネージャーなわけ?」
二限と三限の間の昼休み。大学の食堂は一日で最も忙しい時間を迎えていた。その中で他の学生と同じく、根本と香代子は昼食をとっていた。例のごとく、構内で行き合い、いつもの流れで香代子は自作のお弁当を、根本はラーメンを食べていた。
香代子は根本の問いかけの意味が分からず、「どういう意味?」と、問い返す。根本は麺に息を吹きかけながら答えた。
「だってさ、マネージャーってどう考えても『みんなの支えになれればアタシはそれで充分なの』ってタイプじゃないだろ? 自分で相手を殴りに行きたいタイプじゃん」
「殴りにって……私を何だと思ってんのよ」
根本にかかると、香代子は並みの男よりも男らしく、強い女だ。けれども全否定できないのが辛いところだ。
何でマネージャーなのか。そこは香代子には聞かれたくない領域で、話を変えられないかと根本の様子をうかがう。けれども、彼の目は答えを促していた。香代子は話題の転換をあきらめ、往生際悪くぼそぼそと答える。
「えっ、何つった? いつものマネージャーみてえにデカい声で言えよ」
根本にからかわれ、香代子はむきになって「デカい声で悪かったね」と答える。こういうところが強い女と言われる由縁かもしれない。
香代子は覚悟を決めて、マネージャーであり続ける理由を話すことにする。
「運動音痴なのっ! 何度も言わせないでよ、もうっ」
勢いそのままに言い切ると、根本がすぐさま「まじでぇー」と腹を抱えて笑い始めた。ラーメンのスープが揺れる。まったくもっていつもながらデリカシーがない男だ。
「マネージャーいっつもえらそうにしてんのに、運動音痴なのかよ! なさけねー」
ケタケタと笑い続ける根本に、アンタほど無意味にえらそうじゃない、と心の中で反論しておく。香代子はすべきことを率先してやろうとするとえらそうになるのだ。根本とちがって、意味もなくいばっているわけではない。
「いつまで笑ってんのよ!」
部を裏で牛耳っている香代子が運動音痴だということがよっぽど予想外でおもしろかったのか、根本は目尻に涙を浮かべて笑っている。マラソン大会では万年ビリで、かなづち。球技はいつも顔面でボールをキャッチし、バットやラケットを握れば必ず何かを壊す。生まれてこの方体育の評定はニしかとったことがない香代子は筋金入りの運動音痴である。マネージャーといえども、運動部において運動音痴だというのは肩身が狭い。
「よしっ。じゃあマネージャーの運動音痴ぶりを見物……じゃなかった。直しにいこうぜ!」
やっと笑い終わったかと思いきや、根本はいったいどこがどういう流れでそうなったのかわからない提案をしてきた。
「別にそんなのとっくにあきらめてるからいい……じゃなくて、見物って言った?」
「いいからいいから」
ただ理由をつけて遊びたいだけの根本に押し切られ、香代子は午後の授業をさぼってボウリングに行くハメになってしまった。根本は勉強はさっぱりのくせに、遊びの段取りをするのはじつに手際がいい。気がついた時には由貴也と哲士まで呼ばれ、大学を出たところでばったりと会った竜二まで加え、『香代子の運動音痴を鑑賞する会』が始まっていた。
「何でこんな展開に……」
香代子はボウリング場で靴を借り、ボールを持っている現状に大きくため息をついた。
「ええやん。授業をさぼって遊ぶのも大学生の醍醐味っつうやつや」
竜二に軽く肩を叩かれ、「香代子ちゃんの音痴っぷり楽しみにしてるでー」と言われた。今の言葉もさることながら、根本に『香代子の運動音痴を鑑賞する会』の開催を告げられ、嬉々としてついてきた男どももどうなのかと思い、香代子は竜二を睨みつけた。
「まあまあ、マネージャー。せっかくだから楽しくいこう」
かたわらにいた哲士に穏やかになだめられ、一気に癒される。やはり哲士は優しくて、常識人で、と胸の中で哲士への賛美を並べていると、はたっと気づく。哲士も『香代子の運動音痴を鑑賞する会』にほいほいついてきた一人なのだ。気分が急降下する。
とはいえ、哲士が言う通り、いつまでも怒って楽しまないのももったいない。いつもはジャージでグラウンドにいる彼らと遊びに来ているというのは、こうなった経緯すら考えなければ、なかなか心躍るものなのだった。
香代子は気持ちを切り替えて楽しむことにした。
「よしっ! がんがん打つぞー!!」
香代子は開き直って、ボールを手にレーンに向かう。
「さっ、誰から投げる?」
努めて明るく彼らに向き直ると、男性陣の間に微妙な空気が流れた。さきほどまでノリノリだったのに、どうしたのか。まるでお互いの様子をうかがっているようだ。
香代子が怪訝に思ったのもつかの間、根本が「古賀っ!」とひたすらジュースを飲んでいた由貴也を名指しした。
「お前がトップバッターだ。行けっ」
根本に唐突に指名されても、由貴也は至極あっさりと「わかりました」と応じ、ボールをとった。香代子は知らず知らずのうちに息を飲む。何だか嫌な予感がした。
彼は光沢のあるボールをまじまじと見つめると、おもむろに表面に空いた穴に指を突っ込む。意外にまっとうな行動だと思った次の瞬間、由貴也は予想を裏切らず、とんでもない行動をとった。
穴に指をつっこんだまま、野球のピッチャーのように思い切り腕を振りかぶったのだ。高々とボールが持ち上がり、照明を受けて光る。そのままボールをまさにピンめがけて投げようとするので、香代子は血相をかえて止めた。
「アアアアンタねえっ、何やってんのよ! ボウリング場破壊するつもりなの!?」
「だってあの立ってるやつを倒せばいいんでしょ」
「ピンは球を転がして倒すの!」
由貴也はそこで初めてボウリングとは何たるかを知ったのか、「ふーん。めんどくさいね」と言った。香代子はあっけにとられる。
「めんどくさいって……まさかボウリングしたことないの?」
香代子は由貴也に問いかけたつもりだったのに、男性陣は皆で顔を見合わせ、全員で子供のように素直にこくんと頷いた。香代子は度肝を抜かれ、胸中でえええええーっと叫んだ。
「何でっ!? 根本アンタやったことあるからボウリングに連れてきたんじゃないの?」
田舎に住んでいた香代子ですらボウリングはしたことがあるのに、四人のうちそろいもそろって皆したことがないというのはあまりにも奇妙すぎた。国民的遊戯だというのに。
「だって球技苦手なんやもん」
香代子の疑問に答えたのは竜二だった。
「オレら皆、陸上選手やん。いっつも走んとき重心を上に持ってこようと意識してやってるから、球技は苦手なんや。ほら、球技は腰を落とすもんが多いやろ?」
竜二の説明を聞いて、ああなるほどと納得してしまった。ボウリングなど体勢を低くする最たるものだ。そういえば高校の時、定番のカラオケが苦手な香代子は、陸上部の面々に遊びに行くならボウリングにしない? と提案したことがあったけれど、すかさず却下された。彼らは自分たちと球技の相性が良くないのを、体育の授業などで自覚していたのだろう。
「じゃあ根本、何で今日ボウリングなのよ」
球技は嫌いなんじゃないの、と付け加えると、根本は「や、えっと」ととりあえず答えて、先を言いよどむ様子を見せた。
「そのさ、ボウリングっつうもんを一度はやってみてもいいかと思ったんだよ。でもほら陸上部だとまわりにボウリング行ったやついねえし、だけど陸上部以外のやつには大学生にもなってやったことねえって言いづれえし……」
そこは彼らなりの葛藤があるらしい。根本の言葉に他の三人――由貴也はジュースのストローを食わえたままでうんうんと頷いて、大いに賛同している。香代子はどうやら自分の存在がダシに使われていたことを知った。今日は『香代子の運動音痴を鑑賞する会』ではなく『ウキウキドキドキ! ボウリングに初挑戦!!』といったタイトルの方がふさわしい。
彼らはどうやらわくわくしてボウリング場に来たものの、やり方がわからなくて困惑していたらしい。そう思うとおかしくて、香代子は「いい? 今からボールの投げ方を説明するからよく聞いて」とボウリングの楽しみ方を教授した。
さすがに体育会系なだけあり、真面目かつ熱心に彼らは香代子の説明を聞いていた。しかも陸上選手の性というべきか、説明が終わると空手でボールを投げる動作をし、フォームを確認しあっていた。つねに走る姿勢に気を配っている彼らゆえに、こういう場面でも気になってしまうのだろう。徹底している。
やがて香代子が待ちくたびれた頃、「完璧だぜ!」と自信満々な根本一行がやってきた。彼らは初めてのボウリングに興奮しきっているようだ。
「マネージャー! 勝負しようぜ」とはやる根本を「まずは投げてみなよ」となだめる。
「ふんっ。恐れをなしたのかよ、マネージャー」
「負けて泣いても知らんでー」
「そうだ、負けた方の言うこと聞くってことにしようぜ」
口々に出所のわからない自信を振りかざしている根本と竜二を「はいはい」と受け流す。
なおも鼻息荒く出て行った根本はアプローチでボールを持って目をつぶる。どうやら精神統一しているらしい。大げさな、と思ったけれど、こんなに真剣にやれば一ゲーム四百五十円のボウリング代は十二分に元が取れるだろう。
根本がカッと目を見開き、流れるような動きで投げる体勢に入る。さすがに練習しただけあり、美しいフォームだった。
けれども――。
「おわっ!」
体勢を低くしようと意識しすぎたのか、足を開きすぎ、すべって転んだ。当然ボールの軌道は大幅にずれ、まもなくガーターに乗った。
「下手っぴやな根本。選手交代や」
無様に床に這いつくばる根本の肩を後ろから叩き、次いで竜二が登場する。その目には自信がみなぎっていた。
「ストライクもらったるで!」
勇ましい掛け声とともに、アプローチに立つ竜二が勢いよくボールを持った手を振る。けれども、次はタイミングの問題だった。
ボールが宙を飛んでいく。ありえない軌跡を描くボールに、一同の瞳のみならず顔までボールと同じように動いた。
竜二は勢いよく腕を振りすぎ、ボールがいいタイミングで手から離れなかったのだ。空中でやっと竜二の手から離れたボールは隣のレーンまで飛んでいき、けたたましい音を立てて着地した。
「………………」
香代子は呆然としてしまった。普通にボウリングをやっていれば、隣のレーンまでボールが飛んでいくことはまずない。彼らはいまいち事の重大さをわかっていないのか、「失敗してもうたわ」「選手交代だな」と、相変わらずボウリングを楽しんでいた。
続いての選手は哲士で、香代子は心の底から安堵した。男子四人の中で一番の常識人である哲士ならば、型破りボウリングは披露されないだろう。陸上部の良心・哲士がいることにこれほどまでに救われたことはなかったかもしれない。
哲士が固いボールを持ってアプローチに立つ。その立ち姿はまともで、ボウリング経験者と比べても遜色ない。
香代子はこの時、この上なく油断していた。哲士に対する絶対の信頼が、他の男子三人にしたような不安な事態の予想をさせなかったのだ。
けれども、香代子は考慮しておくべきだった。彼は常識人であるけれど、初めてのボウリングに浮かれているということを。そして、球技が苦手な陸上選手だということを――。
哲士がボールを打つために腕を振る。なめらかな動きで、根本のような気負いも、竜二のような力任せの雑さも感じない。
けれども順調にボールが床につこうかというところで哲士が腕を止めた。
「――どうしたの?」
一同がまばたきをして哲士を見守る中、香代子は恐る恐る哲士に問いかけた。なぜか心臓が早い鼓動を打つ。まるで哲士ならまともなボウリングをしてくれると思っていた香代子を嘲笑うかのようだ。
哲士がボールを持ったまま、自分の手を持ち上げ、まじまじと見た。そして、一言。
「ハマった」
「えっ?」
「指がボールの穴にハマった」
指が、ボールの、穴に、ハマった。あまりのことに頭の中にすんなりと言葉が入っていかない。長い時間をかけて認めたくない事実を理解した香代子は「ええええええーっ!」と、今度こそ現実に絶叫した。
「指がハマるって何なのっ! 聞いたことないよ!!」
あわてる香代子をよそに、男性陣はここにいたってものんきだった。「そうなんか? 指ってハマらないんか?」「何かハマりそうだけどなぁ」とのんびりと話し、自分の手を見ている。
「アンタたちの感想はいいから! 指抜くの手伝ってよっ」
ああもう、何なのよこの集団はっ! と心中悪態をつきながら、男子たちに協力を求めると、やはり事態の深刻さをわかっていない彼らは呆けた顔でのそのそと哲士のまわりに集まった。
ボールを引っ張って指を抜こうと全力を尽くすけれど、つかみどころがない球体ゆえ手が滑る。竜二が短絡的に、しかもどことなくわくわくして「もうボール破壊するしかないんやん?」と言い始めたので、「何バカなこと言ってんの!」と怒鳴り返した。
最終的にはボールを床に置き、そのボールを全員で押さえ、哲士が全力で引っ張るという形をとった。力みすぎて皆の顔が真っ赤になった頃、やっと抜けた。たたらを踏んだ哲士が勢いよく尻餅をつく。
「部長、大丈夫?」
うなだれている哲士に問いかけると、「ごめん、迷惑かけた」と答えながら彼は立ち上がる。その姿に根本と竜二が「ボウリングってスゲー大変な競技なんだな」「そやな」としみじみとうなずいている。由貴也は相変わらずアイスを食べていた。
「……アンタたちの実力はわかった。もう四対一でいいよ」
香代子が脱力して宣言すると、一斉に非難を浴びた。
「マネージャー、俺らのことナメてんのかよ!」
「そや! いくら初心者っつうても、見くびってもらってはこまるで」
根本と竜二からは口々に、哲士や由貴也からは無言ながらも四対一はあんまりだという目で責められた。いい加減この根拠のない自信の源泉を知りたい。
「もう何でもいいよ。負けたら言うこと聞くから」
香代子は一刻も早くボウリング場から去るべく提案する。この救いようがないまでに下手な彼らをここに留まらせておいたら、ボウリング場をメチャクチャにするに違いない。
「へっ。俺らにぼこぼこにされても知らねえよ」
「後でぜったい後悔すんで!」
妙に息の合っている根本と竜二に捨て台詞を吐かれたけれど、香代子は痛くもかゆくもなかった。運動音痴とはいえ、ボールをレーンに乗せられる自分は彼らよりずっとましだ。
何を話すことがあるのか、彼らは彼らはこそこそと作戦会議を始め、時おり敵意に満ちた目で香代子を見た。作戦会議以前の問題だということにどうして誰も気づかないのだろう。
案の条、勝負にもならなかった。ボールをなぜか後ろに飛ばし、勢いあまって脱げた靴がピンを倒した。そして一度も彼らのボールがピンに届くことはなかった。
ここまでくると、ランナーだから球技が苦手だというよりも、絶望的に球技の下手な四人が集まったように思える。
香代子は今日何度感じたかわからない疲労をこらえつつ、足元に転がっているボールをとった。常識人だと思っていた哲士にすら期待を裏切られ、そしてこの万事につけて無邪気でのほほんとしている男子たちに振り回された怒りをこめて、ボールを思いっきり投げた。
香代子の投げたボールはかつてないほどの速さでレーンをまっすぐ進んでいく。今までで最高の投球である。やはり自分は怒りがもっともエネルギーになる質らしい。ボールのあまりの勢いの良さに、男子たちが息を飲む。
「これは……っ!」
「まさかの……っ!」
竜二と根本のあおるうちに、香代子のボールはレーンの奥に吸い込まれていく。一拍遅れてピンが倒れる音が響き渡った。
「「ストライク~ッ!!」」
竜二と根本が絶望という名の雷に打たれたように、膝をつき、頭を抱えた。レーンの先はぽっかりと口を開けている。視界を遮るピンはない。
うぅーとか、あぁーとかうめいている根本たちをよそに、哲士がまじまじと香代子を見る。彼の顔にはマネージャーって意外とすごいんだな、と大きく書いてあった。由貴也は相変わらずアイスを食べていた。
哲士の露骨な驚きにも香代子は腹がたたなかった。運動音痴、機械音痴、さらに歌も音痴というあらゆる音痴を兼ね備えた自分がストライクを叩き出す日がくるとは思ってもいなかった。
「何だよ、マネージャーどこが運動音痴だよ」
だまされたと言わんばかりに根本が香代子を責める。やはり彼らは自分がボウリングが下手だとは夢にも思っていないらしい。香代子が上手いだけだけで、せいぜい自分たちは普通程度の腕前だと思っているようだ。
香代子は全力でボールを打ったため、非常にすっきりしていた。そのせいか、彼らの身の程知らずさにも腹が立たず、むしろあまりに下手すぎて哀れに感じられてくる。そう思うと、彼らの誤解を解き、正しく実力を伝えることができなくなった。真実はフォローのしようがないほど痛ましい。
「マネージャー、早く言えよー。俺ら覚悟できてんぞ」
「情け無用やでー」
根本と竜二の言葉に、香代子はどきりとする。下手だという事実を包み隠さず伝えろと言われているのかと思ったのだ。けれども哲士が「負けたら何でも言うこときくって言ってただろ」と説明した。
そんな約束をしてたんだっけ、と香代子は思い出す。さっさと勝負を始めるためだけに言った言葉だったので本気で実行する気はなかったのだ。
だから別にいいよ、と断ろうと口を開く。けれども香代子はその途中で声を発するのを止めた。ひとつだけある。彼らに叶えて欲しい願いが。彼ら四人に対して香代子が言うには贅沢すぎる願いだ。でも、今この時を逃したら一生言えないだろう。そう思い、香代子は長い逡巡の末、口を開いた。
「……走りを教えて欲しい」
言ったそばから恥ずかしくなってきた。彼らが目をまたたかせている気配を感じる。
「ずっとアンタたちみたいに走れたらいいだろうなぁっていつも思ってて……少しでもいいから今よりも速く走ってみたい」
顔が熱い。マネージャーの仕事は好きだし、使命感に燃えてもいる。けれど長い間、一番近くで彼らの走る姿を見てきて、その風のような姿にどうしようもなくあこがれた。
県内でもトップレベルの選手たちに何を言っているのだろう、とこんな望みを口に出したことを後悔していると、「マネージャー」と哲士の声が上から降ってきた。
「走りたいと思っている人を俺は歓迎するよ」
哲士は香代子に向かって手を差し伸べるように微笑んでいた。
「走るのは楽しいで」
竜二が心底うれしそうに微笑む。
「そんな走りたいんだったら早く言えよ」
俺が存分教えてやるからよ、と根本が不敵に口の端を上げた。彼は日頃香代子に怒られまくっている鬱憤を晴らすつもりに違いない。そう思うと、根本にだけは教えてもらうのを遠慮したくなった。
由貴也は――。
「いいんじゃない。走れば。アンタは勝負事に向いてると思うけど」
由貴也の言葉に香代子はぎょっとする。
「勝負って、そんな大げさなことじゃないから! ちょっと早く走りたいだけで……」
「いいじゃん。そのまま入部すれば」
根本が事もなげに言う。厳密に言えば香代子はもうマネージャーとして部に在籍しているので、入部ではない。
「私が選手になったら、マネージャーは誰がやるのよ!」
「なんとかなんだろ」
どこまでも楽天的な根本である。
「こいつにやらせればいいやん?」
その根本を指さしたのは竜二だ。悪気がないながらも、言ってることとやってることは失礼極まりなく、根本が気色ばむ。
「お前こそやれよ。お前、一応後輩だろっ?」
根本が言う通り、竜二はインカレに出場する資格を得るためだけに部に在籍している。年齢は香代子たちと同じだけれども、学年はひとつ下なので、後輩なのだった。
このふたりは仲が良いやら悪いやらだ。先程までピッタリ息を合わせてリアクションをしていたかと思えば、このざまだ。
「ああもうっ! 根本もすぐ熱くなんないでよ! アンタたちがそんなうちはとてもじゃないけどマネージャー業から離れらんないからっ」
香代子が根本と竜二の顔を順番に見て叱ると、ふたりして素直に「はい」と言い、うなだれた。まったくやることなすこと小学生並みだ。
「まあ、まかせとけって。マネージャーなんて俺にかかればすぐに速くなっから」
根本がわざとらしく咳払いをし、次いで得意気に言い始めた。すかさず竜二が「止めとき」と横から割り込む。
「こいつ大雑把そうやん。香代子ちゃんにはオレが親切丁寧に……」
根本を指さしながら、けれども根本と同じように得意気な顔で言う。その竜二の前にいそいそと進み出てきたのが哲士だった。
「いや、でも五十嵐は関東選手権で忙しいだろ? 代わりに俺が……」
口調は控えめながらも、竜二の前に立ち、立ちふさがる壁になっている哲士からはいつもの彼らしからぬ幼さが見てとれた。由貴也はというと、この騒動には加わらず、少し離れたところで何個目かになるアイスを食べていたけれど、心なしかその顔には最後に香代子に選ばれるのは自分だという妙な自信が浮かんでいるように見えた。
そんな彼らが可愛らしく思え、香代子は吹き出しそうになるのをこらえた。陸上をやりたいということは、彼らをこんなにも浮かれさせるのだ。マネージャーゆえの疎外感は今まで感じたことはなかったけれど、やはり実際に走りたいと言ったことで、彼らと本当の仲間になった気がした。
「ありがとう。みんなに教えてもら――」
「そうや! 誰が香代子ちゃんに教えるかボウリングで勝負しようで!」
香代子が感激して微笑みながら礼を言おうとしたところで、竜二がとんでもない提案をした。笑顔が凍る。
「うん。いいじゃんそれ。もう一戦しようぜ」
「今度は上手くできそうだしな」
誰も反対せずに、むしろ嬉々としてボウリング二戦目に向かおうとしている姿に、香代子はぶるぶると握った手を震わせた。
「打倒マネージャー!」
根本の掛け声に呼応して「おー!」と拳が突き上がる。その瞬間、香代子の中で何かが切れた。
「いい加減にしなさい! この下手くそどもがーっ!!」
火山が噴火するような香代子の叫びがボーリング場の隅々にまで響き渡った。
その後、香代子が四人の首根っこをつかんで、ボーリング場から引きずり出したのは言うまでもない。
どうやらまだまだマネージャーでいなくてはいけないようだった。