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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
8/127

08

 まさか一ヶ月ちょっと毎日のように顔をつきあわせていた相手から、『知らない人』扱いされるとは思わなかった。

 古賀 由貴也とはまったくもって失礼を素で行く男だ。しかも次の日には何事もなかったかのようにしているのだから余計に腹が立つ。

 香代子はいらだちのままにユニフォームをカゴにつっこんだ。

 カゴから盛り上がっているユニフォームで前が見えない。危ない足どりで水道を目指す。

 しかし急に何かが足に強く当たった。膝がカクンと折れる。ぎりぎりで保っていたバランスが崩れる。

「……やっ」

 そのまま体が前に傾く。手をつこうとカゴを手放した。目の前でユニフォームが舞う。

 目をきつく閉じる。一瞬すべての音が飛んでから、香代子の体は地面に倒れた。

 倒れたプラスチックのカゴと、散らばったユニフォームの先でサッカーボールが転がっていた。あれが足に当たったのだろう。

 うつぶせになっている体を起こす。ろくに受け身もとれなかったせいで身体中至るところが痛い。膝がすりむけて血が出ていた。

 急激に頭の血が下がっていく。何をこんなにイライラしているのだろう。下降する気分に任せてため息をついた。

 由貴也のあの目が記憶に鮮明に焼きついている。

『知らない人が俺たちのこと知ってるって気持ち悪いよね』

 そう言って由貴也は他人を見るかのような温度がない瞳を香代子に向けた。

 香代子は由貴也が失恋で相当参っていると思っていた。限界まで走りこんだのも、失恋の痛手を紛らわしたいがための行動だと思った。それをすべてひっくるめて『大丈夫?』と聞いたのだ。

 由貴也はすばやくそれを察し、お前には関係ないと言外に示したのだ。彼が使った気持ち悪いという言葉は一片の感情すらこめられていない無機質なものだった。

 香代子もそこに転がっているサッカーボールも、由貴也の瞳には変わらず映っているのだろう。彼にとっては人も物も大差ないのだ。

 永遠に続きそうな思考を遮って、地面に落ちたユニフォームを手早くかきあつめる。今度こそ水道まで無事に持っていって、たっぷりの水で洗い始めた。

 洗濯機は部室棟の一番端の部屋にある。名目上どの部活も使えることになっているが、やはりそれは建前だ。実際は強豪といわれる野球部や、急成長中のバスケ部、名門の武道系の部活の方に優先権がある。弱小の陸上部は優先順位が低いのだった。

 陸上部の順番が回ってくるまで待っていたら日が暮れてしまう。だから香代子はいつも手洗いしていた。

 冷たさで感覚がない手をひたすらに動かし、ユニフォームを洗い終えた。

 ラッキーなことに、まだ野球部の洗濯が終えていなくて、乾燥機が空いていた。洗いたてのユニフォームをそこにつっこむ。『スピーディー』の設定にし、香代子は生徒会室に向かった。遠征費の申請に行かなくてはならないからだ。

 グラウンドの練習風景を見ながら校舎へ入る。本館の隅に忘れられたようにある生徒会室からは明かりが漏れていた。よかった誰かいるようだ。

「失礼します」

 目の前のドアを開ける。夕闇には明るすぎる光が目に入ってくる。まばゆい蛍光灯に照らされた室内にいたのは、生徒会副会長・古賀 巴だった。由貴也の想い人だ。

 香代子の存在に気づき、彼女は腰を上げる。何ともいえないきれいな立ち上がり方だった。

 由貴也と同じ姓を持つ彼女を、今初めてまじまじと眺める。

 由貴也が住んでいるのが抽象画だとすれば、こちらは日本画か。まったくクセのない艶やかな黒髪が小造りの顔を縁取って流れている。白い肌に漆黒の瞳、紅い唇。純和風の顔立ちだ。

 さすが電波王子のいとこだけある。向こうが王子ならこちらは絵巻の姫君か。古賀一族は美形の遺伝子を持っているのかと本気で思った。

「陸上部です。今月の遠征費を持ってきました」

 マネージャーとしての顔に戻し、ファイルに入れられた申請書を手渡す。しなやかな白い手がそれを受けとった。

「ごくろうさまです」

 凛とした声が香代子をねぎらう。由貴也とは違って、巴はたいそうまともそうだった。由貴也のような人物がふたりといてはたまらない。香代子は心中ため息をついた。

「巴」

 突然第三者の声がした。その方向を見ると、生徒会室とも続き部屋になっている給湯室から男子生徒が現れた。そのいかにも武道やってますという固い顔立ちには見覚えがある。名前は思い出せないが、生徒会長だ。

 予想していなかったのか香代子の姿を見て彼は一瞬身を退いた。

「あ、失礼しました」

 なんだか逆にこちらがふたりの空間に入ってしまったような気がする。用事は済んだので、香代子はさっさと立ち去る。

 扉を閉める瞬間に巴の控えめな笑顔が見えた。その視線の先には生徒会長がいる。

 ああ、これはダメだと思った。これでは由貴也に勝ち目はない。

 巴と生徒会長が想いあっているのは一目瞭然で、由貴也の入る隙は微塵もないように思えた。

 あの人ってあんな顔もできたのか、と少し驚く。壇上に立ってあいさつするときも表情ひとつ変えない巴が、生徒会長にはやわらかいまなざしを向けている。

 正真正銘恋人にしか見せない視線なのだろう。確かに好きな娘にあんな瞳を間近で見せつけられたらどうしようもなくなる。由貴也に少し同情した。

 生徒会室から帰る途中、なんとなく近くの教室からグラウンドへ視線を向けた。陸上部の練習風景が見える。

 彼のことを考えていたせいか、直線コースを走る由貴也についつい目が行った。

 彼は一応百・二百メートルの短距離を専門に走るショートスプリント選手だ。しかし百メートルしか走っているのを見たことがない。

 部長が百メートルでいいタイムを持っているのだから、二百にも挑戦してみたらどうだ、と控えめに勧めてみたそうだが、一も二もなく断られたらしい。なんでも長い距離を走るのが嫌なそうだ。由貴也らしすぎる。

 彼が入部して十数日。良くも悪くも由貴也は部員に影響を及ぼしていた。

 中学と高校は違う。部活全加入の中学とは違い、高校では本当に陸上を好きな者だけが部活に入る。よって選手や練習の質は中学時よりも格段に上がる。中学のやり方は高校では通用しない。

 それでも由貴也の中学陸上界の有名選手という肩書きは無視できないものだった。その肩書きに負けないくらいに由貴也は速かったし、フォームも洗練されていた。

 しかし由貴也には強い選手には必ずといっていいほど存在する、勝敗に対する執念、勝負に対する汚さがなかった。勝っても負けても由貴也は多分何も感じていない。

 それが香代子には理解できなかった。おそらく部員たちもそう思っている。部活の仲間として一番に共感できる気持ちがない。だから皆、由貴也を遠巻きにしているのだ。

 リレーのメンバーが足りないという危機的状況なのに、誰も由貴也に話を回そうとしないのはそのせいなのだろう。温度のない走りをする彼にリレーの一翼を任せるのは不安なのだ。

 どうしたもんかな、と香代子はため息をついた。どうせマネージャーだからと問題を放り出したくはないが、こればかりは選手たちの問題だ。

 とにかく練習へ戻ろうと視線を外す。夕暮れの教室に目線を滑らすと、唐突に既視感に襲われた。

 夕方の教室。少し前にもこの光景を見たことがある。

 思い出そうとひっかかる記憶を探っていると、視界の端で残像が瞬いた。

 机の上で座り、缶コーヒーを飲む由貴也。彼が陸上部の入部を決めた次の日、由貴也は教師に説教されそうなところを敵前逃亡した。そのとき逃げた先がこの教室だった。

 ドアから下がるプレートは二のA。まさかと思い、教室へ踏み入れる。記憶を頼りに由貴也が座っていた机を探す。

 窓際の後ろから一番目。その机の持ち主を確認したとき、間違えなくこの机だと確信した。

 古賀 巴。彼女の机の上に由貴也はあのとき座っていた。

 無頓着そうな由貴也がわざわざこの机を選んだ。いまだ由貴也の中で彼女は根強く影響しているのだ。

 もう一度グラウンドへ目を向ける。相変わらず由貴也は無造作な走り方をしている。情熱のかけらもない走りだ。

 いついかなるときでも彼の心を動かすのは古賀 巴だけなのだと、そう思った。

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