スタート・ゼロ15
「じゃあ、行く」
県選手権の翌日、香代子は自分のアパートの部屋から出ていく由貴也を見送っていた。
「うん。気をつけてね」
昨日の暑さとはうって変わって、今朝は少し肌寒い。けれども暑くなりそうな予感を空気が秘めている。その中で香代子は靴を履いて玄関に立つ由貴也を見ていた。彼は今日、両親に陸上を続けさせてもらえるように頼みに行く。
失神するほどの熱中症を起こした昨日の今日だ。まだあまり顔色が良くない。昨日あの後、嫌がる彼を無理矢理引っ張って病院に行き、問題ないとの診断は受けていたものの、やはり心配だ。本音を言うと、今日一日ぐらいは安静にしていたらどうかと言いたい。
けれども彼がそれを聞き入れるとは思わなかった。少しでも早く両親の元へ行くことで、由貴也は陸上を続ける可能性を広げたいのだろう。
由貴也の親相手に、援護射撃でも、助太刀でも何でもしたい気分だったけれど、これは由貴也が主体となって戦わなければいけないのだ。香代子がしゃしゃり出る幕ではない。
自分は何ができるのだろう、と考える。
「何か好きなもの夕ご飯に作ろうか。何がいい?」
言ってから今日も当然に由貴也が帰ってくることを前提にしていることに気づく。昨日も彼をひとりでマンションに帰すのが不安で、なし崩し的にこの部屋へ連れてきて泊めてしまったけれど、年頃の男女という事態とは無縁だった。熱中症が後を引き、一晩中、由貴也は発熱していたからだ。けっこうな熱だったので、うちわで風を送ったりと、看病で夜の間中、忙しく動きまわっていて、危機感を抱いている余裕もなかった。
由貴也は体の不調を訴えはしないけれど、香代子が見る限り、今もまだ熱がありそうだった。八歳下の弟が外でよく病気をもらってくる子供だったので、病人の顔を見分けるのは得意なのだ。
何にしても白黒つけたい香代子は、けじめをつけないで流されるのが嫌いだ。けれども、嫁入り前の娘がつきあってもいない男を部屋に泊めてごめんなさいと母と義父に謝りつつ、流されることにした。由貴也の具合がまだ悪そうだから仕方ないと、自分自身に言い訳をする。
「どんな結果になっても、ちゃんと帰っておいで」
言いながら、すっかりほだされちゃったな、と思う。ついこの間までは由貴也がいない生活が普通だったのに、今はもう彼のいない生活なんて考えられない。
由貴也がまなざしをわずかにゆるめて、うん、とうなずいた。
「行ってきます」
意外にも礼儀正しくあいさつをして、今度こそ由貴也がドアを開けた。
朝の光の中へ踏み出す彼の背中はまだ香代子から言わせると頼りない。それでも自分の道を歩き出そうとしている姿だった。
香代子は由貴也がアパートの外廊下を歩いていくのをひとしきり見つめ、玄関のドアを閉める。それからキッチンを猛然と抜け、居間兼寝室の窓を開いた。ベランダに立つと、アパートの前を歩いていく由貴也が見える。
「負けないでよ!」
住宅地で許される最大限の声量で香代子は叫んだ。由貴也が振り向いて、こちらを見上げる。
「全力で戦ってきてよっ。アンタがボロボロになっても私が最後までそばにいる!」
彼が精一杯やった結果ならば、たとえ陸上が続けられなくなったとしても、香代子は何も言わないつもりだった。一生懸命やった人間にかける責めの言葉など持っていない。
まだ熱気を帯びていない早朝の空気の中で由貴也がわずかに微笑んだ。瞳がにじむようにゆるい弧を描いたと思えば、もうそのまま何も言わずに歩き出した。
水中を漂う、根無し草のようだった彼が、この世界に留まろうとしている。
どうか、彼が陸上を続けられますように、と祈りながら、香代子は長い間、ベランダで由貴也の去って行った道を見ていた。
庭の黄色い薔薇が朝露を含んで輝く。感動的なまでに美しい薔薇に、由貴也は何とも言えずに嫌な気分になった。この庭がよく手入れされていればいるほど、母の心に鬱屈した何かがたまっているということだ。他に夢中になれる何かがあれば、庭の薔薇など一番に後回しにされているからだ。
その薔薇を横目に、由貴也は玄関に続く鉄門扉を開く。その瞬間、ものすごい勢いで先のドアが開いた。
「由貴ちゃん!」
ドアの勢いそのままに、母が駆け寄ってきた。ぶらさがるように両腕をつかまれ、下から見上げられる。
「いったい昨夜はマンションじゃなくてどこにいたのっ? 体は大丈夫なの!?」
耳ざとく家の門扉が開かれる音を聞きつけた母は、おそらく由貴也が来るのをずっと耳をすませて待っていたのだろう。取り乱した様子でしがみつく母を、由貴也は冷静に見下ろす。
由貴也はずっと母がちらつかせる巴の影が怖かった。由貴也はどこにも根を下ろしていなく、常に流れているしかなかったからだ。母に誘導されるままに流されて、巴のところにたどり着いても、彼女に受け入れてもらえない由貴也はそこに留まれない。それを再認識するのが身を切るほどに痛かったし、行く場所がなくて途方に暮れるのもたまらなく恐ろしかった。
けれど今は、前ほどにはこの人を見ても、心が揺れなかった。母によって歪められた巴の影が見えなくなっていた。おそらく自分が、一か所で安定するようになったからだ。支点ができたから、揺らされても四方八方に転がらなくて済む。
自分の腕から手を離させ、由貴也は母の脇を抜ける。努めて淡々と玄関へ向かった。
昨夜、熱に浮かされながら考えていたのは、母よりも父を抑えこむことに重点を置いた方がいいということだった。今どき亭主関白な父は、家庭内に独裁を敷いている。母といえども内心はどうであれ、表向きは父に逆らうことはできない。
母は父に陸上を続けることが悪だと吹聴し、由貴也を競技から引き離そうとした。だから今度は自分がそれを利用し、反撃するまでだ。
玄関に入ると、父が仁王立ちしていた。昨日の気の抜けた走りと、ぶっ倒れるという情けない結末から予想はしてたが、ブリザードすらぬるいと感じるほど冷たい、父の佇まいだった。
「何しに来た」
「陸上を続けさせてくれるように頼みに」
由貴也は剣呑な父の問いかけに、間髪入れずに答えた。父は笑う。それはまぎれもなく嘲笑だった。
「昨日存分に見せてもらったがな。お前に陸上を続けさせる価値など一片もないということを」
靴を履いたまま、いまだ玄関先に立つ由貴也を上から押さえつけるように父は言う。
「昨日のどこをどう見てお前は自分に陸上を続ける価値がある人間だと言う。逆に私には見つからなさ過ぎて興味がわくほどだな」
由貴也はすばらしくよく回る口を持つ父に、感心すら抱いた。さすがに自分の父だ。この上なく辛辣で毒舌である。そして、痛いところを突いてくる。
「……昨日の姿は、確かに今の俺のありのままの姿です」
弁解のしようがなかった。弱くて、どうしようもない自分。考えることを放棄して誰かにすがりつく。巴の時と同じことを懲りずに繰り返す。父じゃなくても見限りたくなる。でも、たぶん――いや、必ず、見限らない人が一人はいるのだ。だからまだ走ることをあきらめない。
「一年、ください。俺に投資してください」
言葉を吐き出すと、父は「ほう?」と眉を上げた。由貴也を叩き潰そうとしている不穏な笑みだ。
「一年間、すべてをかけて陸上をやります。俺は、巴と婚姻するだけが唯一の利用価値ではない人間になります」
「そしてまた一年後には懇願するのか。陸上を続けさせてください、と」
容赦というものがまったく感じられない言葉が由貴也に傷をつけようと襲ってくる。由貴也が捨てた昨日一日はそれほどまでに重いものだった。あのやる気のなさを見て、今度は真面目にやるといって信用してくれる人間がどれほどいよう。
「二度は使えない手です」
由貴也はそう宣言してから、膝を折った。今、ここで行ってしまえば、一年後は絶対に使えない手。
三和土にじかに座りこみ、地面に手をついた。指先が汚れる。けれども、人が足で踏む地を這いつくばる屈辱は感じなかった。そして、頭を下げる。
「陸上を続けさせてください」
土下座し、地に伏す。場の雰囲気が変わったのが肌で感じられた。
「由貴ちゃん、止めてちょうだい!」
母が悲鳴のように叫び、駆け寄ってくる前に、父の手によって無理矢理上体を起こされ、胸ぐらをつかみあげられた。首元が締まり、息ができなくなったかと思えば、そのまま手を離され、突き飛ばされる。玄関のドアに背中をしたたかに打ちつける。
圧迫から逃れた由貴也は息の塊を吐き出すように軽く咳をする。それから父の方に目を向けると、怒りが明々とその目で燃えていた。
「どこまで堕ちれば気が済む、お前はっ!」
父の怒号が、玄関の吹き抜けにこだまする。今にも拳が飛んできそうな勢いだ。プライドの高い父にとって、息子が地面に膝をつく状態は耐えがたかったのだろう。
由貴也はそういった矜持が傷ついたという意識とは無縁で、父を見据えた。初めて正面から父の顔を見た気がする。自分の親として、父を認識し直した瞬間だった。
「堕ちるところなんてない」
由貴也は父と目線を合わせたまま、静かに続ける。
「俺は何もない。堕ちるだけのプライドも、何もかも巴に依存してなかった。今まで自分の未来のことなんて考えもしなかった」
由貴也に傷つけられる自尊心などないのだ。自分の人生を放棄し、誰かに背負われたいといつだって願う。自分の人生を生きるのは“自分”ではないようにして、傷つくのを避ける。
「でも、自分自身で考えた時、陸上が必要だと思った」
言葉を尽くして、陸上が大事だと訴える。今まで何かをこんな風に語ったことがあっただろうか。何もかもどうせ言葉にしたところで誰にもわかってもらえないと思っていた。自分の複雑なあり方を心底理解してもらうのは無理だとあきらめ、長い間言葉は由貴也の中で死んでいた。それにわかってもらえなくて傷つくのが怖くて嫌だった。だから本当の自分は表に出ないで、ずっと眠りについたままだったのだ。
でも、傷つけられても受け入れられなくとも、きっともう死にたくなるほど絶望したりはしない。帰る場所があるから、過剰なまでに臆病にならずに済む。今の由貴也には傷ついたら傷ついたままずっと生きていかずに休めるところがある。
だからこそ、もう一度陸上の戦いに身を投じようと思う。それ以外に自分の道だと断言できるものはなかった。
父は由貴也の言葉に口を挟まずに聞いていた。もう目に怒りの熱は感じない。揺らがぬ湖面のような瞳だ。
「……あの娘はどうするつもりだ」
重々しく父が切り出した、『あの娘』。それが巴を指すのだと理解するまでに少し時間がかかる。胸を探って、一番に浮かぶ顔がもう巴ではなくなっていたからだ。
「俺は何もしていない」
由貴也は前にも言った言葉を繰り返す。
「巴はただの従姉だ。いとこ同士として生きられないのなら――」
刹那、幼い頃の情景が脳裏によみがえる。巴と手をつないで歩く優しい思い出。かつて永遠にしたいと思っていたその瞬間から、由貴也は手を離す。急速に過去の一場面が遠ざかっていった。もう取り戻せない。
「もう二度と、一生会わない」
「由貴ちゃんっ!」
巴との完全なる決別を口にすると、母が悲鳴じみた声を上げ、腕にとりすがってきた。
「ねえ、由貴ちゃん。あんなに巴ちゃんと仲が良かったじゃないの。どうして今さら結婚が嫌なんて言うの?」
必死の形相の母を前に、由貴也は失笑しそうになる。『仲が良かった』。過去形だ。言うまでもなく、母はよくわかっているではないか。この二年の間に、“仲が良かった”巴と由貴也の関係が変化したことを。
「壮司さんに話した。だから巴たちは近いうちに結納するだろうね。俺はそれを止める気はまったくないよ」
由貴也はここに来る前に、巴の恋人で許婚である壮司に今回のことを洗いざらい話した。今春、家を出て一人暮らしを始めた彼を煩わせるのをひどく厭い、巴は彼へ話をしていなかったのだ。
巴がそうであるように、由貴也もまた巴に弱い。彼女が壮司に話をしたくなければそれを尊重したいと無意識のうちに思っていたのかもしれない。それに、かつての恋敵・壮司を頼るのが嫌だったせいもある。それゆえ由貴也もまた、壮司に言うという考えが頭から抜けていた。
とにもかくにも、巴を溺愛する彼は激昂し、将来の約束を磐石にするために正式に婚約すると言ってきた。そうなればもう、公の仲になったふたりを裂くことはできなくなる。
「もう今さらどうにもならないよ、俺も巴も」
その手を外させながら、由貴也は母を見据えた。もう、母の後ろに巴の影は見えなくなっていた。母のやろうとしていることは、不毛の野に花を咲かせようとすることだ。巴と自分の間にはもう、恋の始まる素地がない。
母はまるで知らない男を見るかのような驚愕の表情を由貴也に向けていた。
「由貴ちゃん、どうしちゃったの……?」
母は泣きそうな顔で由貴也を見上げる。“巴”という由貴也にいうことをきかせられる最後の道具をなくした母はひどく無力に見えた。
由貴也は陸上を続けようとするのなら、香代子の方を失うのだと思っていた。けれども今、由貴也が陸上を続けようとすることで失うのは巴なのかもしれない。壮司に連絡しなかったのは、巴と完全に隔絶するのを避けていたからかもしれなかった。
「……――お前が」
ややあって父が口を開いた。言葉が重く落ちて、足元に溜まるようだ。
「三歳の誕生日に言ったことを覚えているか」
いきなり幼少時のことを引き合いに出されて「いいえ」と答える。由貴也の記憶は断片的な巴との思い出の他は曖昧なのだ。
「欲しいものはないかと聞いた私にお前は言った。あの娘以外何もいらないと」
巴以外何もいらない。それは長い間、由貴也の最大で唯一の願いだった。由貴也は父の言葉の意図にたどり着いた途端、まさか、と信じられない思いにとらわれる。
由貴也が疑念を確信に変える前に、父が口を開く。
「一年、文句のつけようのないほどの援助はやる。陸上で身を立てていけるほどの技量を見せてみろ」
「あなたっ!」
由貴也の要求を受け入れる発言をした父に、母がすがりつく。
「巴ちゃんとの結婚は――」
「あの青二才をうちに来させないようにしろ。怒鳴りこみにこられた日には鬱陶しくてかなわんからな」
母を無視し、父の言葉は由貴也へ向いた。あの青二才――壮司だ。当然ながらこの結婚騒動に関して怒り心頭な壮司は間もなくここへ猛抗議にやってくるだろう。それを止めさせろということは、破談にするといっているも同然だった。さもなければ壮司は引き下がらない。
話は終わったと言わんばかりに父は背中を向けて家の奥へ足を向ける。そのまま奥の書斎に引っ込むのかと思いきや、父は歩みを止めた。
「……お前はあの娘を死ぬほど好いているのだと思っていたのだがな」
背中を向けたまま、父がとってつけ加えたようにつぶやき、書斎のドアノブに手をかけた。由貴也は些少の驚きをもって、その一連の動作を眺めていた。今まで父は、巴との婚姻を純粋な損得勘定に基づいて推し進めているのだと思っていた。無論、それがまったくないとは言いきれないのだろうが、それだけでもないようだ。由貴也のただ一度きりの、巴しかいらないという幼い願いを父なりに叶えようとしてたのだ。
父は由貴也のことを自身の子として、多少なりとも良いように計らいたいと願っている。今、この瞬間初めて知ったことだった。
「あなた、お待ちになって!」
母が、書斎に消えようとする父の腕に取りすがる。まるで、父の腕にすがらなければ終わりだとでもいうように。
その母を父は感情のこもらない目で見降ろした。
「出しゃばるな! お前が裏で由貴也に何かをやっているのを、私がまったく知らないとでも思ったか」
父から放たれた言葉に驚いたのは、自分だけではないはずだ。母もまた、目を見開き、驚愕の表情で体を硬直させているようだ。母の手のひらで踊らされていると思っていた父は、逆に母の行動を知っていて黙認していたようだ。父はお飾りに過ぎない家長ではなかったのだ。
母の目の前で、突き放すように書斎のドアは閉められる。書斎に入った父の決定をもう誰も覆せない。この家で父の裁定は絶対だ。それさえ得られれば、母におもねる必要などどこにもない。
由貴也はかつて、自身のすべてを懸けて願った巴への想いを叶えてもらう代わりに、陸上を手にした。もう一秒たりとも母と関わりあいになりたくなくて、由貴也はきびすを返す。
「……ねえ、由貴ちゃん」
父がダメだと悟ったのか、母は今度は由貴也の方へ歩を進めた。
「一年間、陸上をするのには短いと思うの。ママなら由貴ちゃんに――」
「いいよ」
ママなら由貴ちゃんに好きなだけ好きなことをさせてあげる。その代り、ママのそばにずっといてね。終いまで聞かなくともわかる母の言葉を遮った。いいとこのお嬢さんであった母にはそれだけの個人資産はあるだろう。
「一年で芽が出ないなら、俺もそれまでの選手だってことでしょ」
由貴也は今年で十九になる。二十代半ばでピークを迎える陸上選手としては決して若くはない。今、伸びる気配がないのなら、先は望めない。
それに、と由貴也は続ける。
「俺は人形じゃないよ。そっちの都合で動いたりしない」
兄の文弥がいるとき、由貴也はまったく顧みられない子供だった。この家の主役は兄で、由貴也は脇役ですらなかったのだ。それがいきなり主役のスポットライトを当てられても対応できないし、望んでもいない。
不意に、今まで気にしたこともなかった過去の記憶が脳裏によみがえった。部内で一番小柄で、遅かった中学生の由貴也。大会出場要件である標準記録が破れなくて、地道に記録会に参加する由貴也には、一度として母から弁当すら準備されたことはなかった。
文弥は留学という理由を利用して母のステージから降りた。かといって自分が彼の代わりをする義理などどこにもない。
「由貴ちゃ……」
裏切られたかのごとく、傷ついた顔でこちらを見上げる母に、由貴也は奇妙な血のつながりを感じた。自分もこういう顔で香代子を見たのだろうか。
自分の人生に他の人を担ぎ出そうとする、依存体質な母と自分。わきあがる不快感は同族嫌悪というものだろう。吐き気すら感じて、早く帰ろうと改めて思う。巴の由貴也への影響力を使っての脅しはもはや意味をなさず、陸上の続行は父によって保障された。切れるカードがない母に、もう用などあるはずもなかった。
母に背を向けると、後ろから「由貴ちゃん!」という狂気じみた声が飛んできた。幼い自分はもしかしたら暖かい家庭というものに少しは関心を持っていて、父や母の気を出来のいい兄以上に惹きたいと無意識に思ったのかもしれない。だからこそ全力で巴を愛した。そうすれば少なくとも両親は由貴也に。巴との婚姻に使える駒という利用価値を見出す。
でも、もうそんな価値はいらない。由貴也は巴に恋したことで生まれた価値ではなく。自分自身で自らの価値を作り出していく。
追いすがろうとする母の手を振り払う。今は拒絶という行動しかとれないが、いつかは母に対して違う形で接せられるかもしれない。
そう思いながら、由貴也は外へ踏み出す。
夏の日を浴びて前を向いた瞬間、今日一番の驚きに足を止める。いったいなぜ、彼女がここにいるのだろう。
ああ来ちゃったよ、と香代子は胸の中でつぶやいて、目の前の大きな家を見上げた。
いなかで、全体的に交通網があまり発達していないこの地域において、この家は駅にほど近く、よく整備された住宅地にあった。それだけでも充分贅沢な環境といえる。
悪目立ちするほど華美すぎず、けれども分譲とは一線を画している立派な家の敷地には、ガレージに車が二台も止まり、庭では黄色い薔薇が初夏の風に揺れる。裕福で、幸せで、満ち足りた家とでもタイトルがつきそうな一軒家だ。
母子家庭で、六畳二間生活だった香代子の、あこがれを具現化したような家は、由貴也の実家だった。
家でおとなしく待っているつもりだったのに、何も手につかず、気がついたらここに来ていた。ちなみに、ここの住所はマネージャー権限を行使して、部員名簿から調べたのだった。
私が来たって何の役に立つのよ、と声に出さずに思う。それでも、彼がまた殴られるような事態になったらと思うといてもたってもいられなかったのだ。
手持ちぶさたな状況に、香代子は意味もなく家の門扉の前をうろうろとしてしまった。由貴也の戦いを邪魔するわけにいかないので、殴り込みもかけられない。祈って待っていることも性にあわないけれども、これでは住宅地をうろつく不審者になってしまう。
勢いで来てしまったけれど、冷静になってくると少し恥ずかしい。これではストーカーだ。
自らの姿を客観的に判断して、ちょっと離れたところで様子をうかがおうかと思った瞬間、玄関のドアが開かれる音がした。玄関から門扉までは一直線に伸びていて、香代子は逃げようもなく硬直する。
門扉の前に立つ自分と、ドアを開いた人物との間で何ともいえない空気が流れる。幸か不幸かドアを開いたのは由貴也だった。
驚く由貴也という若干レアな状況の中、彼の後ろから誰かが顔を出す。香代子は由貴也との邂逅をはるかに上回る驚きに、意味のない声をあげそうになった。
由貴也の後ろから顔を出した女性は一目で由貴也と血のつながりがあるのだとわかった。由貴也と同じ色彩を持つやわらかそうな髪は波打ち、艶めきを放っている。少女でいて、成熟した女性のような雰囲気は、年齢不詳ぎみな雰囲気を与え、一層女性から生活感を奪っている。加えて垢抜けた身なりは華やかさに拍車をかけていた。
容姿に頓着していない由貴也でさえ、見とれるほどの美形なのだ。その優れたベースに磨きをかけると後光の差すほどに美しくなるという好例を、目の前の女性は示していた。
香代子はその女性が由貴也を不当に扱っている彼の母親だとすぐに察した。けれども、あまりの綺麗さにしばらく口をぽかんと開けたまま見とれてしまった。巴といい、この女性といい、おそろしき古賀家DNAだ。
その女性――由貴也の母親は立ちすくむ香代子と由貴也の間に流れる妙な空気を察したのか、不意にあでやかに微笑んだ。香代子は我に帰る。
「あなた、由貴ちゃんのお友達かしら?」
音楽のように美しい声だった。けれどもたとえようもなく嫌な気配を感じる。まるで眼前で舌なめずりされているようで、香代子は気を引きしめる。その変化を知ってか知らずが、由貴也の母親はさらに笑みを深めた。
「昔から由貴ちゃんにはたくさん女の子のお友だちがいるの。中学校の時も、お人形のようにかわいらしい女の子がバレンタインにチョコを持ってきてくれたわ」
花のような笑みにくるまれた、べたりとはりつくような物言いに、香代子は自分が当てこすりを言われているのだと理解した。お人形のようにかわいらしい女の子とは、平々凡々の容姿しか持たない香代子に対する嫌みだ。
でも、と由貴也の母親は笑みを崩さずに続けた。
「そういう女の子にはお帰り願ってるのよ。由貴ちゃんにはもうそういうお相手はいるからって」
だって、変な期待させたらかわいそうでしょう? と由貴也の母親は軽やかに笑った。
由貴也の母親は香代子と由貴也の間にそれ相応の関係があることを見抜いて、攻撃をしかけてきた。香代子は落ち着くために一拍おき、口を開く。
「私は大学の陸上部でマネージャーをしている新野 香代子と申します。古賀くんにご両親の推す相手がいるのは存じています」
香代子は巴の存在を知っていると暗に匂わす。そして、顔を上げてまっすぐ彼の母親を見据えた。
「それでも、私は彼のことが好きです」
つま先に力をこめ、地面をつかむように立つ。きっぱりと言い切り、由貴也をがんじがらめにする元凶を見つめた。
負けるもんか、と自らを奮い立たせる。由貴也が望むのなら、何が何でもそばにいてやる。たとえお人形のようにかわいくなくとも、自分はチョコの中身で勝負してやる。誰よりも一番おいしいチョコを作ってみせる。
香代子の燃え盛る闘志に、由貴也の母親は一瞬あっけにとられた顔をし、気をとり直したように微笑んだ。何を言っているのかしら、という香代子をまったく相手にしない笑みだ。今までにも美形の由貴也と見比べられて理解できないという表情をされてきたけれど、彼の母親はより一層顕著な反応だった。香代子の存在すら否定する。
不穏な空気に、香代子は身構える。言いたいことがあれば言え、と開き直って言葉の攻撃を待った。
けれども、言葉のつぶてを食らう前に、目の前が暗くなった。影に覆われる。由貴也の背中が香代子と彼の母親の間の壁となっていたからだ。
「帰る」
由貴也は短くいって、香代子の手をつかんだ。その言葉も、行動も、いつも輪郭がぼやけている由貴也らしくない強さがあって、香代子は目を瞬かせた。
「もう用はないから」
さらに追い打ちをかけるように、本当に心底どうでもよさそうに由貴也は言い放つ。それはただ単にこの場での用事が済んだというよりも、母親に対して用なしの烙印を押しているかのようだ。
さっきまで自分の方が彼の母親との対決姿勢を見せていたにも関わらず、由貴也の言動に、そんなこと言って大丈夫なのかとはらはらする。香代子はおそるおそる彼の母親の顔色をうかがった。
由貴也の母親は何かを言おうとして、気圧されたように口をつぐむ。香代子もまた、同じような反応をすることになる。背中ごしでもわかるほど、由貴也が異様な迫力を醸し出していたからだ。
由貴也は今、刃のような鋭さで、母親を見ているのだろう。見えない刃先を母親の喉元に突きつけている。
これは牽制――?
これは由貴也なりの意思表示か。自分の、いや自分たちの関係に口を出すな、という。
そう気づいた瞬間、何らしくないことしてんのよ、と香代子は猛烈に怒りたくなった。母親と面だって対峙するのは香代子だけでいい。息子が自分でない女の味方をしたらおもしろくないのが母親というものだ。
けれども、香代子が何か行動を起こす前に由貴也が言葉を発した。
「一年後に」
平坦な声は先ほどまでの相手の背筋を冷たくするような固さはなかった。『一年後』が何の期間だか香代子にはわからなかったけれど、そのセリフの中に一年間会わないという意思と、この場のやりとりを終わりにしようという意図が込められているのがわかった。
由貴也が母親を置いて歩き出す。由貴也に手をつかまれている香代子も進むしかなかった。
速いペースで歩く由貴也に、転びそうになりながら香代子はついていく。一度だけ距離が完全に開ききる前に後ろを向くと、彼の母親がこちらを睨みつけていた。自分の親世代の、しかも絶世の美女から睨みつけられたことなどない香代子にとって、衝撃的な光景ではあったけれど、それだけではなかった。自分の倍ほども歳上の女性であるのに、自分よりも幼くも頼りなくも見えて、その表情に彼女の息子である由貴也との相似を見た。
息子が彼女の寄る辺だったのだろう。見た目はもう大人なのに、内面にどこか未熟な部分を抱えるのは彼ら親子の共通項なのか。
「ねえ、由――」
「なんで来たのさ」
彼の母親の表情に、見るに見かねて由貴也に声をかけたものの、彼からは責める言葉が返ってきた。
ここへ来たことを責められると、香代子はうなだれるしかない。明らかに香代子は余計なことをしてしまった。自分自身でもその自覚がある。
足を止めた由貴也はこちらに向き直った。夏の風がさらさらと流れる。
「何のために俺が昨日アンタに冷たい態度をとったと思ってんの」
「え……」
香代子は顔を上げる。大会開催中の昨日、確かに顔を見たくないだのなんだのと言われたけれど、それは純粋に由貴也の抱えるもろもろの事情を香代子に悟られないためだと思っていた。
「あの人は俺が誰を連れてきたって、巴以外は攻撃するよ」
由貴也は香代子が母親に何かをキツいことを言われる、ということをすでに予知していたのだろう。だから極力由貴也と香代子の関係性を悟られないようにしていた。
それは由貴也なりの気遣いで、自分は由貴也に庇ってもらったのに、少しもうれしくなかった。
「……私はアンタと関係ないって思われる方が嫌。何も知らないの方が嫌」
言い始めたら止まらなくなった。それでも、止める気はなかった。腹に不満を溜めていても、いいことは何もないとわかったからだ。
「よくも知らない人から何かを言われるよりも、アンタに嘘でも顔を見たくないって言われる方が……」
悲しい、と言おうとして、照れくさくなって止めた。それより、今の姿勢の方が落ち着かない。由貴也に手を引かれていた時のまま、互いの手をつないで向き合っている状態だ。
いつもはどっちかというと由貴也は体温が低いのに、今の彼の手は熱かった。熱があるせいだろう。その熱さが、由貴也という存在をよけいに感じさせ、香代子は手を離そうと反射的に体を引く。けれども逆に、強く由貴也につかまれた。香代子は驚いてまじまじと由貴也を見つめる。
その力が強くて、伝わる体温が熱くて、由貴也とつないでいる手が痛い。
「……俺はアンタに言わなきゃいけないことがあるんだと思う」
まわりくどい言い方をしておきながらも、由貴也の口調からはいつもの他人事のようななげやりな響きが消えていた。
由貴也の言う、言わなきゃいけないことがわからなくて、香代子は答えを求めるように由貴也を見る。その視線の中、由貴也は口を開いた。
「今はアンタの想いに応えられない」
由貴也の瞳がまっすぐ香代子に向いていた。そこで香代子は彼の母親に由貴也のことが好きだと宣言していたことに気づく。由貴也がその告白に対しての答えを言っているのだと今になってやっとわかった。
フラレた、とよく理解する前に、由貴也がさらなる言葉を継ぐ。
「自分のすべてを懸けて一年、陸上をやると親に言った。俺はふたつのことを両立できない。口に出したらたぶん、アンタの方に引きずられる」
ふたつのこと――恋愛と陸上。口に出したら香代子の方へ引きずられるというのは、恋愛にのめりこむということなのか。かつて、自らのすべてをかけて恋愛をしていた由貴也。由貴也を支配するのは恋だけで、他のものに充てる余地など少しもないように見えた。
けれども、香代子は思う。さみしがりやの由貴也が何も考える余裕もないほど恋に溺れるとしたら、それは本望なのではないかと。そして、やっと飢えた由貴也は満たされるのではないかと思うのだ。それでも今、手が届きそうなその道を絶つと彼は言う。
「もう少し、しっかりする。両立できるようになる。そしたら言う。一年後に、必ず」
由貴也の手が離れてく。手を離したら、ただのマネージャーと選手だ。
これが今、由貴也ができる最大限の告白なのだとわかった。楽な方へ流れてきた由貴也が、あえてそちらへは行かないと言った。自分も覚悟を決めるべきだった。
「これから一年、私も古賀 由貴也っていう陸上選手を支えられるだけの存在になる」
もうマネージャーでも、由貴也を外から見るファンの一人でもダメなのだ。人を支えるということは、生半可なことではない。ましてや自分はまだ若い。由貴也と限りなく近い視点でものを見ている。おそらく、このままでは由貴也に何かあった時、確実に共倒れする。そうならないように、自分はもう揺らいではいけない。迷ってはいけないのだ。
まわり道をする自分たちを、人は馬鹿だと言うかもしれない。香代子のことを都合のいい女だと言うかもしれない。それでも、このままあいまいな関係でいることを選ぶ。
ずっと続く道の途中で、おそらく必要なこの一年の恋人未満の猶予。湿気のない初夏の風が、前髪をくすぐった。
「帰ろっか」
香代子が微笑むと、由貴也がうなずく。そのまま並んで歩き出す。
今はまだ手をつながない。けれども一年後には手をつないでいたいと思った。