スタート・ゼロ14
心配で不安で、暴走しそうな身の内をなだめつつ、観客席下の救護室に向かうと、ちょうど竜二が出てきたところだった。
「香代子ちゃん、根本」
こちらの名前を呼んだ竜二の顔からは由貴也の状態はうかがえない。彼の表情に走る際の鋭さはなくとも、代わりにいつもの快活さもなかった。
「古賀は?」
低く尋ねた根本に、竜二ががりがりと頭をかいた。
「んー、心配ないっちゃあ心配ないねん」
「何だよ、はっきりしろよ」
あいまいな竜二に、根本の声が角ばる。そんな根本を意に介すことなく竜二は首裏に手を当てて、息をついた。
「あんなあ、由貴也の足は熱中症が原因の痙攣や。ようはつったんや」
「つったぁ!?」
「そや。まぁランナーにはよくあるこっちゃな」
すっとんきょうな声を上げる根本とは対称的に、竜二はいたって淡々としていた。
暑い時期に足がつるというのは頻繁におこることだ。暑さで体力が奪われ、筋肉が疲労するゆえだ。
香代子は安堵で腰が抜けそうになった。怪我ではなかった。由貴也の場合、痙攣は暑さに誘発された一時的なものだろう。休めばよくなる。
根本もこの上なく安心したようで、はーと大きな息を吐き出した。
「何だよびっくりさせんなよー」
「部長さんと入れ違いやな、アンタら。部長さんが伝えに行ったんやけど」
「じゃあ俺、部長んとこ行ってくるわ。探してるかもしれねえし」
あと頼むなー、と言い残して、根本が救護室の前から去っていく。救護室前の廊下は他に人影もなく、竜二と香代子だけだ。強い日の指す外とは対照的に、ここは暗くひんやりとしている。
「……あんなぁ、香代子ちゃん」
壁に背を預けて、竜二がおもむろに口を開く。遠い出口から差す、外の明るさだけが唯一の光源のこの場で、竜二の顔には深い影が指していた。
彼の口調に何だか嫌なものを感じる。胸がざわめく。手のひらに冷たい汗をかいていた。
「由貴也はな、今回の大会でいい成績を残さなあかんかったのや」
その先を聞きたいような聞きたくないような気がして、香代子は唾を飲み下した。
「やっぱりその顔は由貴也から何も聞いてへんのか」
竜二は眉を下げて困ったように笑う。香代子は黙りこくってうつむくしかなかった。拳を握り、奥歯を噛む。また竜二は知っていて、香代子は知らないことのようだ。純粋に悔しい。
「由貴也は親父さんに陸上をやることを反対されとんのや。今日、いい結果出せへんやったらクラブは強制的に辞めさすってな」
香代子は絶句した。そんなことはまったくもって香代子は知らなかったし、察せなかった。
「じゃあ、あの殴られた痕って……」
「親父さんとガチンコバトルやろ」
竜二から明かされる真実で、由貴也の不審な行動が次々と一本の線につながっていく。香代子のアパートの部屋の前に座り込んでいたあの夜、頬をはらしてあんなにもふらふらになっていたのは、父親とやりあった後だったからなのか。
思案する香代子は、竜二からの鋭い視線を感じ、顔を上げた。途端に探るような竜二のまなざしは収められる。けれども感じた不快感はぬぐえなかった。香代子は先ほどの竜二に負けないくらい剣呑な視線を向けてやる。
「何?」
「いや何でも……と言いたいとこやけど、アンタを観察してたんや。由貴也はな、アンタのためにクラブを辞めるって言うてんねん」
「アンタって……私っ!?」
「そや」
軽く肯定され、香代子は事態を把握するために何度か瞬く。自分の預かり知らぬところでいったい何が起きているのだ。
「アンタが由貴也に何か……そやな、部活の方を優先させてくれとか言ったのかと思ったんや」
「そんなこと言うはずないでしょ! 逆にクラブの方を優先しろって言ったらキレられたんだからっ」
何だか猛烈に腹がたってきて、救護室の前だというのに、香代子は声を荒げていた。いつだって自分の知らないことばかりだ。なぜ毎度、竜二に由貴也に関する知らなかったことを教えてもらわないといけないのか。そんなに香代子は由貴也にとって何も話せないほど信用に足らない人物なのか。
「何で……何で何も話さないのよ、由貴也もアンタもっ!」
「オレ?」
いきなり怒りの矛先が向いて、竜二が目を丸くした。
「だって知ってたんでしょ! この前の大会の時、言ってたじゃない。由貴也はわりと大きな爆弾を抱えてるって」
竜二が二冠を達成した新聞社主催の大会で、帰り際に彼は言ったのだ。由貴也は夏が苦手ではないかと聞いた上で『わりと由貴也、大きな爆弾抱えてんで』と。竜二はおそらくこの事態をある程度予想していた。痙攣は怪我ではないが、癖になる。いくらしばらくすれば治るといっても、足が痙攣すればそのレースは棄権するほかない。痙攣癖に悩まされている選手は多かった。
竜二は由貴也が抱える危険な可能性を知っていながら黙っていた。しかも、今大会で好成績を求められているという状況を知っていて尚も口をつぐんでいた。もし、教えてくれていれば、こうなる前に何か対処できたかもしれないのに、と考えてしまう。
「香代子ちゃん、アンタ勘違いしとるわ。オレはこれでも由貴也に親切すぎるぐらい親切にしてるつもりやで」
肩をいからせ、床をにらみつける香代子へ、上から竜二の声が落ちてくる。反射的に顔を上げる。いつもと同じようでいて、竜二の声が違ったからだ。彼の声に含まれる色という色が取り除かれた、硬質な声音。
「オレが由貴也に何も言わへんかったのは、痙攣はな、緊張が引き起こすこともある。だから可能性の段階で余計な心配をさせたくなかったんや」
それに、と竜二は続ける。
「何でオレがライバルの世話やかなあかんのや。由貴也の保護者はあの部長さんひとりで充分やろ」
失笑に近い笑みが竜二の口元には刻まれていた。それは酷薄ともいえる冷たい表情で、背筋が寒くなる。まるでまったく知らない人を見るような感覚が植えつけられる。
「誰かをあてにする時点でとんでもない甘ったれや。自分の体のことぐらいきちっとできなくてどうすんのや。走る時に頼れんのは自分自身だけやっていうのに」
呆然と竜二を見上げる香代子に、次々と容赦ない言葉が降りそそぐ。笑みを消した竜二はただひたすら厳しい顔をしていた。そして、その表情のままで香代子に止めを刺す。
「オレらはそんなに甘い場所にいるんやないで!」
なめるな、見くびるな、侮るな――香代子を見下ろす竜二の目はそう言っていた。一喝と一瞥を残して、竜二は香代子の前を通り過ぎる。もうそんな甘すぎる香代子には付き合っている暇もないというように。
顔が熱くなる。わきあがってきたのは猛烈な羞恥だ。竜二の言っていることは正しい。由貴也の今の状態に対して竜二を責めることははなはだ筋違いだ。
これから陸上選手としての道を歩むなら、孤独の道を歩まなくてはならない。どんなにまわりがサポートしても、最終的には由貴也ひとりで彼の内面と戦い、進んでいかなければいけない。あのスタートからゴールまでの細い一本道に他者が立ち入ることはできないのだから。
自律と克己心が要求されるこの世界にあって、由貴也はあまりに無頓着すぎたし、香代子はその厳しさを心底理解していなかった。父親の反対はあくまで由貴也だけの問題で、他の選手には関係ない。むしろ由貴也の事情を慮って、普段と違う行動をすることこそ勝負への冒涜だ。
硬直している体を叱咤して動かし、香代子はそっと医務室のドアを開けた。ベットに横たわる由貴也の他には中に人気はない。
夕日がブラインドを通して室内に細く射し込む。そのもとで白いベットと寝具に包まれて由貴也が眠っていた。
その色を失った顔を見たら、唐突に涙がこみ上げてきた。口を両手で覆っても、止めることができなくて、あごの先を涙がつたう。立っている床がやわらかくなったかのように足元がおぼつかなくなり、その場に膝をついた。
いったいこれは何の涙なのか。由貴也の危機的状況に気づけなかった後悔か、それとも自分だけ何もしらなかった悔しさか、竜二に現実を突きつけられたショックか、それとも目の前の由貴也の痛々しさか。すべてがごちゃ混ぜになって、香代子はひたすら泣いた。泣いている間に少しでも行動を起こした方がよほど建設的だとわかっているのに、動けない。夕闇が迫っている室内に香代子の嗚咽だけが響く。懸命に涙をこらえようとすればするほど、後から後からあふれ出てくる。
アイツが気持ちよく走れるように支えてやれよ――。不意に根本の言葉がよみがえってきた。自分にも由貴也にも覚悟が足りない。だから、今このような状況になっているのは当然のことのように思えた。由貴也は運動選手にしてはメンタルが脆い。そして香代子は由貴也を支えるには甘い。
まだ、香代子は由貴也の走るところを見ていたい。まだ、間に合うだろうか。まだ彼から走りを取り上げないで欲しいと願う。もう迷わずに、今度は全力で彼を支えるから――。
香代子の願いに応えるように、何かが頭の上を軽く触れる。香代子は突っ伏していた顔を上げた。無意識のうちにベットの枕元に顔を押しつけ泣いていた。
「……ゆ、きや」
泣いてかすれた声で、弱く彼の名前を呼ぶ。かすかに目を開けた由貴也が、自分の腕を重そうに持ち上げて、香代子の頭の上に手のひらをのせていた。
「……アンタが泣いてるから」
つぶやきのように小さな声で、由貴也は何とか言葉を発していた。わずかにしんどそうな様子がうかがえる。
これはなぐさめのつもりなのだろうか。この手は、香代子をなだめるためのものなのか。香代子は思わず「バカッ!」と罵った。
「私のことよりも、自分のことでしょうが! アンタのとこ今どうなってんのよ。洗いざらい話しなさいっ」
泣いている場合ではない。涙を拳でぬぐって、由貴也を問いつめる。事態を把握しないことには始まらない。
由貴也は緩慢な動きで上体を起こそうとする。シーツと彼が着ているジャージがこすれて、軽い衣擦れの音を立てた。その音がやけに室内の静寂を際立たせる。
ベットの上で体を起こした由貴也は、こめかみを押さえていた。頭痛は脱水症状のサインだ。ずっとジャージのポケットに入れっぱなしだったスポーツドリンクを彼に手渡す。この部屋に誰もいないということは、一応の処置は施した後なのだろうけれど、由貴也の顔色はやはり悪かった。
「大丈夫?」
そろりと問いかけると、由貴也は「……ん」と吐息に近いような返事をし、スポーツドリンクを口に含んだ。彼が具合がよくないのは明らかで、無理矢理に今話をさせることにためらいを感じた。けれども、今この時でないと由貴也は話さないかもしれないとも思う。この、判断力の鈍っている今でないときっと彼の固く閉ざされた口は開かない。
由貴也が香代子に話さないと決めていることならば、彼の意思を尊重すべきだと思うけれども、今回は別だ。竜二は由貴也がクラブを辞めると決めたことに香代子が関わっていると言った。むしろ香代子が理由だと。自分に責任の一端がある以上、見過ごせなかった。
「最近様子が変だと思ったけど……全部話して。五十嵐 竜二から聞いたんだから」
由貴也がスポーツドリンクをサイドテーブルに置いたのを見計らって、香代子は口火を切る。竜二から聞いたと言い、彼の言い逃れも防いだ。
なおも由貴也はかすかに眉根をよせ、話渋る様子を見せたけれども、香代子が「私が関係してるんでしょう」と固い声音で言うと覚悟を決めたようだった。いや、覚悟を決めたというよりも、香代子に隠しておくことをあきらめたようだ。
由貴也はゆっくりと話し始めた。父親に陸上を続けることを反対されていること。母親が異常な執着を見せ、その果てに巴との婚姻を望んでいること。父親が陸上を続けるために出した条件は、今回の県選手権でいい結果を出すこと。自分のことを話すのに慣れていないせいか、由貴也はひどく話しづらそうだった。
由貴也から話を聞き終えた香代子は、肩をいからせ立ち上がった。体の両脇に下がる手は拳を作って震えている。
「ア、アンタんち、どうなってんのよ!」
由貴也の家の内情は、香代子の理解の範疇を大きく超えている。由貴也のマンションで巴と密会――しかも現実は男女としての実体はないにも関わらず、結婚するしないの責任問題に発展し、加えてそれが家の遺産分与という相続関係にまで発展するとは、自分の常識とは違いすぎる世界に激しくめまいがしそうだ。
親が子供を嵌める、理不尽な世界。親といっても聖人君子ではないことを香代子はよく知っているけれども、由貴也の家庭は温度がない世界のように思えた。由貴也もそこでは親に愛されるべき息子ではなく、冷たい世界の構成員のようだ。
「結婚って、陸上辞めるって……何アンタ受け入れてんのよ! そんなぶっ飛んだ話に何納得してんの。少しは抵抗しなさいよ!」
香代子は仁王立ちになって、睨みつけるのに近い強さで由貴也を見下ろした。
「このままでいいのっ!?」
救護室の隅々まで香代子の声は響き渡り、反響する。それをやり過ごしながら、荒くなった息をつくと、やけにその吐息が大きく聞こえる。部屋は静かで、由貴也は伏し目がちに、軽く体の前に手を置き、視線を下に落としていた。シーツには夕方の濃い影が落ち、一方、由貴也の顔を白く際立たせている。その様子は憂いに満ちていて、はっとするほど綺麗だった。
「……俺は」
やがて由貴也が口を開く。夕闇に同化するような静かな声だった。
「アンタを失うのが嫌だ」
それは、ありのままの由貴也の声だった。気だるさも皮肉もない、青年というよりも少年に近い素の声だ。由貴也らしからぬストレートな物言いに、彼にもうつくろうだけの余裕が残されていないのだとわかった。由貴也は疲れている。すべてをあきらめることで終わらそうとしている。
彼が取り返しのつかない方向に行っている気がして、香代子は焦りのままに由貴也へ手を伸ばし――彼の胸ぐらをつかみあげた。
「アンタは古賀さんと結婚したいの?」
自分の奥で炎が燃えているのがわかる。片膝をベットの上に乗せ、由貴也につめよる。その顔を間近に感じながら、香代子は殊更冴々とした声で問いかけた。由貴也は下から香代子を静か見上げ、最低限の動きで首を振る。
「しない。したくない」
「だったら、何が問題なの」
由貴也の胸ぐらをつかんだまま、香代子は固く問いかける。出会ったばかりの頃の無気力な彼に今の由貴也は近い。それをこちら側の正気に戻したかった。
「私にこんなんにされて、ちょっとは抵抗しなさいよ、アンタはっ!」
いきなり胸ぐらをつかまれて、上に着たジャージが伸びるぐらい揺さぶられても、由貴也は無抵抗だ。なされるがままになっている。手応えがないお人形のようだ。
「しっかりしなさいよ! 私がいつ、アンタから離れるって言ったのよっ」
具合の悪さに構うことなく、香代子は気絶した人を起こすように、由貴屋を揺さぶり、大声で怒鳴った。彼を乱暴に扱いながら、ずっとその瞳を見ていた。もう一度、その目に光が灯る瞬間を、祈るように待っていた。
薄闇の中、もはや香代子は由貴也に馬乗りになって、由貴也のジャージの胸元を握っていた。互いの息遣いだけが部屋に満ちる。由貴也は動かない。何も言ってももうあきらめた由貴也に届かないのか。もう間に合わないのか。香代子はあふれてきそうな涙を飲み込んで、再び声を出すために息を吸う。
「古賀さんとの結婚が何だっていうのよ! アンタが望んで、私がそうしたいと思うなら、意地でもそばにいてやるっ!」
言葉が止まらない。坂から雪玉が転げ落ちていくように、どんどん想いが加速し、巨大化していく。それがあふれて、口からほとばしる。
「アンタがねえ、アンタがたとえ親に勘当されても、夢に破れても、私がアンタひとりぐらい何としても担いで生きて見せるっ!!」
自分でも恐ろしいほど気持ちがヒートアップしていて、収拾がつかない。気がつくと、横たわる由貴也をまたいでベットの上で立ち上がり、由貴也の顔めがけて指をさしていた。
「だからアンタはやりたいことやりなさいよ! 簡単にあきらめないでよ」
あまりに語気を荒げたせいか、肩で息をしていた。由貴也を指差したまま、香代子ははっと我に返る。いったいこの突き出した指をどこに納めればいいのか。病人相手に何をしているのか。香代子はこの状況に大いにあわてたけれど、今さら出してしまった指も言葉も、立ち上がってしまった足もひっこめようがない。香代子はその体勢のまま、硬直していた。
あまりの気まずさに由貴也から目をそらしそうになり、それをすんでのところでこらえた。このとんでもない状況はともかく、決して生半可な気持ちで言ったのではない。本気だ。だから目をそらしてはいけない。
部屋の暗さが恨めしい。うつむき加減の由貴也の顔は日没の暗さと前髪が作る影でよく見えない。早く顔を上げてよ。なんでいつまでも無言なのよ、香代子は心中で由貴也を責める。
――私の言葉はもう届かないの?
いくら今、香代子が覚悟を決めたところで、由貴也にとっては遅すぎたのかもしれない。由貴也は自分の人生を生きることをあきらめたのかもしれない。
それでも今、あきらめるわけにはいかなかった。ここであきらめてしまったら、由貴也を引き上げるのはもっと難しくなる。奥歯を噛み、瞳に力を込めて、香代子は由貴也から目をそらさなかった。
「――……アンタは」
どのぐらい長い時が経ったのか。完全に暮れなずんでいた空が完全に夜の色になった頃、やっと由貴也が口を開いた。由貴也の髪が一房、さらりと透明な音をたててこぼれる。
「いつだって俺にはよくわからない理由で離れてこうとする」
俺の想いは錯覚だとか、陸上のためだとか。由貴也はそうつけ加えてまた押し黙った。続きを言わなくても、由貴也の言いたいことが香代子にはわかった。香代子に由貴也が考えていることがわからないように、由貴也にも香代子が考えていることがわからなかったのだ。だから由貴也は香代子が彼から離れる理由になりそうなものすべてを排そうとした。それが陸上だ。
竜二が言っていた『香代子のためにクラブを辞める』というのはこういう意味だったのか、と納得した瞬間、由貴也がゆっくりと顔を上げた。濃度の深くない闇から由貴也の白い面が浮かび上がってくる。
由貴也の表情を見て、香代子は驚くとともに、どこかで腑に落ちた感覚にもとらわれた。立ち上がっていた足の膝を折り、そっとベットの上に座りこむ。先ほどまでの凶暴さをすべて消し、香代子は由貴也を覆うように抱きしめた。そうせずにはいられなかった。
こんなに大きな体をしているのに、見た目はもう大人なのに、どうして由貴也はいつもこんなにも愛に飢えたような子供の顔をしているのだろう。
由貴也の背中に手をまわすと、その体がびくりと震える。それをなだめるように数回背を叩いてから、香代子は口を開いた。
「もっといろいろ話そう。ちゃんと思ってること聞かせてよ。私も言うから」
棘のない声音を心がけて由貴也に語りかける。自分たちは絶対的に言葉を交わすことが不足している。互いが互いのことを憶測のベールで覆い、それが実像と食い違っていたために今回の状況は作り出されたのだ。他の人が彼のことを教えてくれ、それは一面ではとても合っているけれど、相手がこの上なく複雑で繊細な由貴也だ。一面では間違っていたりする。だから彼自身に聞くべきなのだ。
だって、こんなにも触れるほどに近くにいるのだから。
由貴也の手がさまようように動き、香代子の背中にたどりつく。存外強い力でTシャツの生地をにぎられる。抱きつかれているというよりは、しがみつかれている姿勢に、反射的にあ、やばい、と思う。
今までいろいろ考えて由貴也から離れるべきだとも思ったこともあったけれど、もう無理かもしれない。彼が愛おしくて、目が離せなくて、一番近くにいたいと思ってしまう。自分でも知らない内に恋に溺れているのかもしれない。
――由貴也はアンタのことになるとちょっと人が変わる。ゴタゴタするとたぶん、走りの方にも響くで
竜二の言葉が胸の奥から響いてくる。香代子が思っている以上に、由貴也に自分は大きな影響を与えているようだ。そして、そのことに自分は目を向けなさ過ぎた。もともと巴のこと然りで、由貴也は自分の欲するものに関してはやり方が極端なのだ。常識にとらわれない分、犯罪すら躊躇なく行いそうだ。
危なっかしい由貴也。今までおごりだと思っていたことを、今は決意として口に出す。
「私がアンタを支えたい」
今まで、相当な覚悟を要すると思っていた言葉は、自然と喉を越えた。
「こうしているのは心地がいいけど、それだけじゃもうだめなんだよ。ちゃんと、アンタはアンタだけの人生を歩んで」
暗がりの中で、ふたりきりで、互いの熱だけを感じて抱き合っているのは、とてつもなく安心するけれど、くっついたままでは前には進めない。
香代子と由貴也の人生は、沿うことはあっても、同じではない。別々の人間である以上、どうしようもないことなのだ。由貴也は、自分の人生を、他の誰かのものと同一にしたがっている。ひとりきりで先の見えない道を歩いていくのが恐ろしいのだろう。
同じ人間になれない以上、由貴也と自分を同化して、まったく同じところを歩くわけにはいかない。由貴也の人生は由貴也のためにあるし、香代子の人生もまた然りだ。だからこそ、このままともに同じ道を歩き続けることは、どこかで必ず歪みが生じる。それはたぶん、彼もわかっている。由貴也にはすべてを捧げようとした巴の時の前科がある。けれでもわかっていながらもそうせずにはいられないのだ。
「ちゃんといるから。アンタに見えるところにいつでもいるから」
誰だって、どんな人間だって、日々を歩いていくのは、大変な苦労を伴う。そんな時に、そばにいる存在でありたかった。まったく同一の道を歩けなくても、由貴也の人生の近くにいることはできるだろう。
「……陸上を」
やがて、由貴也が言葉を発する。
「走りを、永久に失うと思ったら、どうしようもなく怖くて。たぶん、もう、辞められないんだと思った」
自分の内面を語ることが苦手な由貴也のセリフは、ひどくたどたどしくて、それだけに本当の彼の言葉なのだと実感させる。
「親に、言う。それしか道がないのなら、陸上を続けさせて欲しいって、言う」
親に頼む。欲しいものに関してはなりふり構わない由貴也にしては正攻法のやり方だった。けれども、革命が起こったに等しい出来事だ。誰かに恃むくらいなら、すべてを捨ててきた由貴也が、それを曲げてまで何かを手に入れようとしている。その執着が、由貴也とこの世界との結びつきを強くしていくような気がした。
不意に、香代子の背中のTシャツをつかむ由貴也の力がさらに強まった。Tシャツはずっと握りこまれているので、盛大に伸びているだろうけれど、そんなささいなことを気にしていたら、由貴也の相手などしていられない。
どうしたの、と問いかけようとした香代子に先んじて、由貴也が言う。
「……俺、アンタの顔なんて見たくないとか言った」
そのセリフを聞いて、香代子は目を丸くする。言った方の彼が気にしているとは思わなかった。
「そんなことアンタ相手にいちいち気にしてたら身が持たないよ。驚いたけどね」
由貴也が刃物のような鋭さを内包していることは嫌というほどわかっている。出会ったばかりの頃は触れようとしては傷つけられてきた。だから、衝撃を受けないと言えば嘘になるけれども、もう慣れっこだ。
いや、由貴也が求めている答えはこれではない。香代子はつけ加える。
「アンタの嘘ならちゃんと見破るよ。これぐらいのことで離れたりしないから」
由貴也は、基本的に相手から向けられる好意というものを信用していない。わりと彼が体のふれあいの方を求めるのは、そちらの方が目に見えてわかりやすいからだろう。
だから、これからはふれあう他にもきちんと歪みなく伝わりやすい言葉を尽くそうと香代子は思った。
香代子の腕の中で、由貴也が体の力を抜くのがわかった。これは安堵か。
「……ちゃんと、自分の足で歩くから」
だから、もう少しこのままで、と日暮れの部屋に溶けるようなつぶやきを発して、由貴也がよりいっそうこちらに体を預けてくる。
「うん……」
この静けさを壊さないように、かすかな声で答えて、香代子は抱えこむように由貴也の頭を抱く。
今、この瞬間のこのふれあいが、明日を歩くための原動力となって、彼の中に満ちればいいと思った。
帰るために荷物をとりに行こうと救護室から出ると、ドアのわきに竜二がうずくまっていた。香代子は驚きのあまり立ちすくむ。先ほどのやり取りで完全に竜二を呆れさせて去っていかせたと思っていたのに、彼はまたここにいる。
条件反射で彼の姿を見ると、身構えてしまう。けれども、そんな香代子とは裏腹に、竜二は肩を震わせて丸くなっている。泣いているのかとぎょっとしたのもつかの間、どうやら笑っているようだ。
「……何してんの」
低く香代子が問いかけると、竜二が顔を上げて、うっすらと涙が浮かんだ目を指でぬぐった。もちろん笑いすぎによるものだ。
「いやな、盗み聞きするつもりはなかったんやで」
大きく息を吸って、幾分か状態を立て直してから彼が続ける。
「表彰式終わってコーチと一緒に様子見に来たら、ちょうどアンタが啖呵切るとこでな。コーチは『終わったら知らせて』って涼しい顔して去って行ってまうし。そう言われたらオレがここにいて終わるの待ってるしかないやん」
「待ってるしかないって……聞いてたの、全部っ!?」
香代子が逆毛の立ちそうな勢いで追及すると、竜二は至極あっさりと「しゃーないやん。アンタの声でかくて外まで聞こえるんやもん」と盗み聞きを認めた。いや、盗み聞きではなく、彼の耳に自分のセリフを届けたのは、まぎれもなく香代子の声の大きさゆえだ。つまりは自分のせいだ。
あれを他人に聞かれていたかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしい。あの時はこれ以上なく熱くなっていて、平静になった今ではすごいことをやらかしてしまったと気恥ずかしさばかりが募る。けれども後悔は不思議なほどしていない。むしろすっきりした。
「オレ、アンタをなめてたわ。香代子ちゃん、アンタ由貴也より男らしいで」
「……褒めてるの、けなしてるの?」
「褒めてんのや。しかもこれ以上なくな。アンタが由貴也よりしっかりしてそうなのは充分にわかった」
まあ、由貴也がふらふらしすぎなんやけどな、と竜二はさりげなくきついことをつけ加えた。
しっかりしている。それは長女気質の香代子にとっては聞きなれた言葉だけれど、竜二に言われるともっと重いもののように感じた。
由貴也といると、たいていの人は、美形の彼と香代子を見比べて、理解できないという顔をする。凡庸で、由貴也と見た目のつり合いがとれていない香代子がなぜ彼の隣にいるのか、と考えているのが如実に読み取れるのだ。けれども、竜二は思い返してみると、そういったリアクションをしたことがただの一度もない。彼はおそらく、容姿ではない他のところに重きを置いている。そして竜二が価値を見出すところを、香代子はおぼろげながらに理解し始めていた。
頭一つ分大きい竜二を見上げると、目が合う。その途端に彼が表情を崩した。目を瞬かせて、視線を泳がせたその様子は、うろたえているとか、ひるんでいるといった風だ。大の男がこういう顔をしているかと思うと、哀れやら痛快やらだ。
「……あんな、さっきは――」
「謝んないで」
竜二のセリフを遮って、香代子はきっぱりと断じる。
「アンタが言ったこと間違ってないから謝らないで」
さっきは言い過ぎた、と竜二が謝ってくる気配を察し、先回りしてそれを防ぐ。由貴也よりも陸上選手として先にいる竜二。彼の言葉はこれからの由貴也に――自分たちに必要なことだった。
中途半端に謝罪を止められてしまった竜二は、口を開けたまま数秒固まり、それから相好を崩した。初めて見る竜二の幼い笑顔だった。
「アンタなかなかいい子やな」
ひとしきり笑って、彼はまた笑いなおす。今度は実年齢よりもずっと歳上に見える大人びた笑みだ。その落差に、いい子と言われた微妙な気分を飲み込んで、黙る。
「香代子ちゃん。誰かを支えるちゅうのは言葉で言うほど楽じゃないで」
長くないセリフなのに、この言葉が彼の経験に基づいて発せられているものだとわかった。だから、反発を覚えない。覚えられない。
「オレらは薄情や。いくらアンタのこと好きでもな、怪我したり不調になったりしたらすぐそんなこと忘れてまう。自分の持ってるもん全部陸上に食われてしまうんや」
それに、と竜二は続ける。
「由貴也がこれから活躍していこうと思うんなら、アンタだけのもんじゃなくなるで。県のもん、地区のもん、国のもん、陸上界のもんになって、個人としてのアイツは消えてく」
個人としての由貴也と、陸上選手の由貴也。その二面の両立は今でさえも難しさを感じている。香代子は由貴也にクラブの方を優先させろと言い、個人としての由貴也を蔑ろにしたし、由貴也は彼の両親からの罠をかいくぐろうとして陸上選手としての側面を捨てようとした。
竜二は完璧に陸上選手の顔をしていて、ものの見方がそもそも香代子とは違う。たぶん、由貴也が竜二のように、陸上選手としての視点を拡大させていったなら、いつか一般人の香代子が彼とのギャップを感じずにはいられないだろう。
「わかってる。けど、だからってそれを恐れて何もしないでいいってわけではないと思う」
香代子はこれからもずっと競技を見る側で、スタートラインに立つ由貴也の本質までもは理解できないだろう。それでも、自分にできる何かをしたかった。由貴也が自分を必要としているなら、今はそれに全力で応えたい。
「……何か由貴也に妬けてしまいそうやな」
軽く笑って、竜二が救護室の前から伸びる、細い廊下の先を見た。外はもうすっかり暗いようで、夏の濃度の高くない闇が見える。
竜二が夜の暗さに目を向けたままで、口を開く。
「陸上選手は――運動選手はな、引退するときに、一遍死ぬんや。少なくともオレは一度目の人生が終わるんやと思ってる」
だから、と言葉を継いで、竜二がこちらを向いた。静かな闘志に満ちた笑みが淡く浮かぶ。
「だから、今が一度目の人生の真ん中や」
人生の真ん中。その言葉が妙に胸に染みる。
普通も人よりも数倍早い世界で生きる由貴也とともに、歩いていきたいと強く思う。そして、彼の一度目の人生が終える時には、側にいたかった。