スタート・ゼロ12
田舎の小都市にはにせず、立派な造りのスタジアムは、中途半端に丸くなったダンゴムシのような形をしていた。そのダンゴムシの背中は開かれ、快晴の空をのぞかせる。
由貴也はスタジアムの底からその空を見ていた。視界の端でフィールドで進行している投擲種目の円盤が飛んでいく。
強い日射しにあぶられ、汗が止まらない。とにかく暑く、由貴也は予選のタイム速報を見ることなく、スタジアムから出て、外の水道で頭から水をかぶった。
由貴也の出場する百メートル走は予選と準決勝、決勝と最高で三回走ることができる。今、走ってきたのは開会式終了直後に行われた予選だった。
準決勝へ進むためには八人で走る組の中でとりあえず二着以内になる必要がある。その二着以内に漏れても各組三着以下の中で、タイムが良い者から順に八人が追加で拾ってもらえる。
由貴也は今の組で二着だったので、タイム速報を見るまでもなく準決勝に駒を進めた。
かがめた頭の上から水を垂れ流す蛇口を止め、雑念と水滴を払うべく頭を振る。由貴也はこの期に及んでも、“今日”をどう走ればいいかわからなかった。
予選では体力温存のため、実力のある選手はたいてい後半を“流す”。二着以内に入れるとわかった時点で後続に抜かれない程度に力を抜いて走るのだ。
暑さが苦手で、スタミナの面でも自信がない由貴也もまた、例にもれず早々に流しにかかった。前半型の由貴也は初めの方でだいたいの勝負を決してしまうことができる。
ところが今回、流しにかかったところで、自分が思ったよりも大きくスピードを落としてしまった。ある程度のペースを維持することができなかったのだ。
それまで一位を独走状態だった由貴也は、後ろを走っていた次点の選手に抜かれ、その次の選手にも抜かされそうになったところで辛くも逃げきった。
自分の状況と、判断を誤るなど今までなかったことだった。由貴也は体力に不安を抱えている。だから予選、準決でいかに体力を失わずにいられるかが重要だ。由貴也は自らの問題点をカバーするため、“流す”ことにかけては今までも神経を使ってきたし、その中で培ってきた“流し”のタイミングも自負するところであった。
それが初戦からこのざまだ。異常な暑さのせいで体力がいつも以上に削り取られている。それに暑さに体がまだ慣れていないのだ。
自分の状態をまじめに考えて、とたんにすべてに投げやりな気分になる。優勝候補と目されていても、この大会で結果を出す気はない。それに先もない。
「由貴也」
スタジアムの歓声に背を向け、ぼうっと遠くを見ていた由貴也を、誰かの声が呼んだ。髪から雫を垂らしながら、由貴也は緩慢な動きで声の方へ顔を向ける。走り終わったばかりの熱気をまとった竜二だった。彼は由貴也の後の組で走ったのだ。
「お前、気が抜けた走りしよって。もう少ししゃんとせんかい!」
「……ああ、見てたの」
体にフィットする黒地に赤いラインのクラブのユニフォームを着た竜二は、腰に手を当て、異様な迫力を醸し出している。由貴也が間の抜けた対応をすると、彼はさらに表情を険しくした。
「『ああ、見てたの』やないっ。お前、そんなんやとケガするで。きちんとせい!」
由貴也はうんざりと声を荒げる竜二から目をそらした。ただでさえも暑いのに、さらに人的要因で暑くなりたくない。
由貴也、聞いとんのかっ、とつめよってきた竜二の後ろに、由貴也は新たな人影を見る。今度は哲士と根本だった。由貴也の視線が自分を飛び越えていることを察したのか、竜二もまた後ろを向く。
「部長さんに……アンタは根本やったっけか?」
「お前、呼び捨てにすんなよ。一応後輩だろ」
ぞんざいに存在を認識された根本が気色ばんで竜二に食ってかかる。竜二はインカレ出場資格を得るため、一応部活に籍だけ置いているのだ。そして根本は活動実態のない竜二を快く思っていない。その上、竜二は大学を一度中退しているため、年齢上は根本と同じでも、学年はひとつ下――つまり後輩なのだった。
竜二は思いもよらぬことを言われたのか、大きな体に似つかわしくなくきょとんとし、やがて合点がいったのかそのあどけない表情を納めた。
「ああ、そやった。すんません、先輩」
今度は根本が目を丸くする番だった。思いがけす素直に謝られて驚いているらしい。竜二は体育会系の気質が骨の髄まで染みこんでいるらしく、先輩というものには基本的に逆らわないようにできているようだ。
「……いや、わかったんならいいけどよ」
根本があらぬ方向を向いて、もごもごと言う。彼はこの上なく単純にできているので、負の感情を持続させることが難しいのだ。
その根本の後ろで、哲士はずっと無言だった。その哲士を見て、竜二が苦笑する。
「部長さん。そんなに怖い顔せんでも、今日は何にもしてないで、オレ」
いつの間に面識があったのか、竜二が親しげに哲士に話しかける。対する哲士は理性的な彼にはめずらしく、固い表情をして竜二の友好さを受け入れなかった。
「女の子いじめるのはもともと趣味やないんや。それにアンタと由貴也っちゅう番犬がおるのがわかっとんのに、ちょっかい出す気にはならんわ」
いきなり自分が引き合いに出され、由貴也は目で竜二に事情を問いかけた。が、彼は由貴也にとりあわず、手に持っていた携帯をいじり始めた。
「オレと香代子ちゃん、メル友やもん。ほら、見てみ」
どうして香代子の名前が出てきたのかはさておき、哲士と由貴也、根本までも突きつけられた竜二のスマートフォンをのぞきこんだ。
「…………アンタ、何撮ってんの」
宛先は香代子。題名は『今日の由貴也』。
「よく撮れとるやろ。ベストショットや」
誇らしげに胸を張って、竜二は携帯を見せびらかしている。その画面上ではクラブでの練習後、シャワーを浴びている最中、シャンプーで頭がバブルのアフロになっている由貴也が写っていた。
こんなのもあるで、と竜二はシャンプーまみれの頭を二本の角にした由貴也や、七三分けにした由貴也の写メを披露した。しかも宛先は全部香代子だ。
先日、「美容室ごっこしようで!」と言って、強引に由貴也の頭を洗い始めたのにはこういう裏があったのか。竜二を睨みつけるのに近い強さで凝視すると、「いい感じに写っとるやろ。オレの携帯を防水なんや」と、いまいち噛み合わない答えが返ってきた。
うひゃうひゃとひたすら笑い続けていた根本がおもむろに竜二の肩に手を置く。あやしい炎がその目で揺れた。
「この写メ、俺にも送れよ」
「何でや」
「売るんだよ。こいつ、練習に女の子がいっぱい見に来るくらい女の子に人気あんの」
竜二と顔をつきあわせて密談を交わす根本の手は、指が輪を作り、金マークになっている。
「ひとりだけ儲けんのはずるいで。オレには何割や」
「お前の取り分はねえよ。先輩命令だっつうの」
「じゃあ送らんでー」
なんというやりとりをしているのだ。竜二だけでも根本だけでも充分にうっとうしいというのに、二人集まるとやっかいさが二倍どころか相乗される。だが、由貴也はこの気温にやられ、彼らを相手にする気もなかった。アホな二人を捨て置くことこそ“流す”以上に効果のある体力温存法だ。
『ただいまトラックで行われました、男子百メートルの結果をお知らせいたします。第一組――……』
単細胞ぶりが似ているのか、しょうもないやりとりをしていた竜二と根本が即座に口をつぐむ。放送では、百メートル走の予選の結果と、準決勝の組み合わせが発表された。
「部長さん。同じ組やなあ」
アナウンスの反響が鳴り終わった後、竜二は場違いなほどのんびりとした口調で言った。呑気そのものな竜二には、哲士と対決する緊張感など微塵も感じさせない。自分が敗北する可能性を万に一つも考えていないからだろう。
「部長さんと走りたいと思ってたんや。部活まで行こかと思ってたんやけど手間がはぶけたわ」
そうは言っても、哲士と走るということが竜二にとって戯れの延長に過ぎないのだということがわかった。華耀子を挟んだ私情が多々あるにしても、これがクラブの院生との直接対決だとしたら、竜二は敵意を露にしただろう。今、この瞬間、友好的すぎるほど気さくな竜二はおそらくまったく哲士を自身の脅威とはみなしていない。
「それはわざわざ来てもらわなくて済んでよかったよ」
哲士がセリフの内容とは裏腹に、低い剣呑な声音で応じた。それを痛くもかゆくもないように受け流して竜二は屈託なく笑う。
「コーチんとこアドバイスもらいに行くわ。部長さん、また後でな」
能天気に去りぎわに手を振った竜二は最後まで陸上選手としての鋭さを鞘に納めたままだった。長身の金髪の派手な後ろ姿を見ながら根本は「何アイツ。余裕綽々ってやつ?」とおもしろくなさそうに吐き捨てた。
無理もない。もしも竜二が大学入学後につまずかなかったら、日本選手権ぐらいにはもう間違えなく出ていたはずだ。そもそもインターハイでなく全日本に照準を合わせて調整していれば、高校生の時にはすでに全日本に出るだけの実力はあっただろう。
二十歳という年齢柄、竜二には下を見ている暇がない。一年のブランクを取り戻すべく上ばかり見ている。だから哲士が“見えて“おらず、歯牙にもかけない。それは高水準の中で育ってきた“エリート”ならではの傲慢さかもしれなかった。
かすかに拳を握った哲士に気づかないふりをし、由貴也は部活のテントに戻る。その途中、突き刺さるような視線を感じ、上を向く。顔を上げた瞬間、後悔した。観客席から射るようなまなざしを向けていたのは父親だったからだ。
ここからでは観客など豆粒のようにしか見えないのに、異様な眼光の強さではっきりと父親だとわかる。殺傷力すらありそうなまなざしで由貴也を蔑んでいた。
竜二の言う通り、あのふぬけた走りをもう一度すれば、父に競技場から引きずり出されそうだ。
それにしても暑い。自分が蒸されて蒸発していくように感じる。頭が煮たって、思考が形を作る前に霧散する。すべてがどうでもよくなる。
あの父の隣では、きっと母が薄く笑ってる。巴が心配した顔をしている。そのすべてがうとましく、背を向けたかった。無にしたい。
部のテントに戻っても、今日は母の目がどこにあるのかわからない。香代子との接触を徹底的に避けた。根本に「お前らケンカしてんの?」と言われたほどだ。しかし香代子は、個人の感情よりもマネージャーとしての責務を優先させたらしく、由貴也にそういう態度をとられても、試合前の選手を問い質すことはしてこなかった。
後刻、根本の三千メートルの予選が終わった後、百メートルの準決勝が始まった。
ここまで来ると、県内の有名どころはだいたいそろってくる。県選手権に出場する時点で、標準記録のふるいにかけられ、なおかつ予選を勝ち抜いてきた者たちだ。レベルがぐんと上がる。
哲士、竜二、自分の三人の中で、一番早い組の走者だったのは由貴也だった。
日は上天にあり、直線的に地上に熱をもたらす。スタートラインに立った時点で赤いタータン舗装の地面が揺らいで見える。思考が暑さに支配される。
いつもなら、スタートの号砲を待つ瞬間、音も温度も感じなくなるのに、観客席の歓声にたまらなく集中を乱される。汗が顔をつたってレーンに落ちる。その瞬間、ピストルが鳴った。
そのすべてを切り裂くような音は、スタジアム内を覚醒させる。由貴也もまたはっとする。反射で地面を蹴るが、遅い。ピストルが鳴ってから反応するなど陸上選手失格だ。
前半型の由貴也はスタートの遅れが致命傷になる。そのまま挽回できず、三位で準決勝を終えた。
「お前どーすんだよっ。三位じゃねえか!」
レーンを後にした由貴也を迎えたのは根本だ。哲士は招集用テントの中で自分の番を待っているのだろう。
「……大丈夫。たぶんタイムで拾ってもらえる」
極力口を動かさずにもごもごと答える。重力が三倍かかっているかのように体が重くて、だるい。
「タイムで拾ってもらえるって、何を根拠に――……」
由貴也の分まで生気を吸いとったかのように、根本が元気よくわめく。その口を途中でつぐんだのは、まわりの空気が変わったことを陸上選手らしい感性で察したからだろう。
ここでまわりに強い影響を及ぼす要因など競技のこと以外にはない。由貴也はトラックを見た。
「五十嵐 竜二が走るぞ」
「次、五十嵐だって」
さざなみのように、竜二の名前があたりに伝播していく。その中心で抜群の存在感を放っているのは竜二本人だ。
十年以上のキャリアがそうさせるのか。竜二はまわりの注目を自らの原動力に変えてより一層輝く。夏の強い太陽の元、スタートラインに立つ彼は、かつて西の高校陸上界で無敗を誇っていた貫禄を感じさせた。
対する哲士は静かに集中を高めていくタイプに見えた。竜二のような派手さはないが、彼の隣のレーンが与えられていることから、予選ではかなりいいタイムを出したのではないだろうか。準決勝からは予選タイムが良い順に中央のレーンから割り振られていくのだ。
さすがの根本も黙ってグラウンドを見ている。彼自身は真美のくれたお守りのせいか、無事に予選を通過したのだった。
「……お前が走る時も、いっつもこうなってんぞ」
「こう?」
「『古賀が走るぞ』『次、古賀だって』って」
根本に言われて初めて気づく。短距離はトラックアンドフィールドの花形だ。加えて、百メートルはスプリンターの王だ。“最速”の称号を誰が冠するのかを興味津々で見守っているのだった。
「うちの県、陸上強くないからね」
そういったいろいろな要素はあっても、竜二や由貴也が過剰に注目される一番の原因はそれだった。この県は大学が少なく、選手自体がいない。したがってスター選手の出現率も低い。
『位置について』
根本と話している内に、スターターの号令がスタジアムに響き渡る。その瞬間、スタートラインに並ぶ選手たちの表情が変わった。竜二は特に顕著だ。別人のように鋭くなる。逆にゆっくりと自らを高めていた哲士にはこれといった変化はない。
『用意』
刹那の空白の後、ピストル音とともに、八人の選手が飛び出した。スタジアムに歓声の突風がわき起こる。
由貴也は冷静にレース展開を予想していた。哲士も竜二もチームメイトであるため、その走りを熟知している。
半分を過ぎた辺りから後半型の竜二が突出してくる。驚異的な歩幅を持つ彼は、レースの中盤から後半にかけて爆発的な勢いで伸びる。由貴也はこれまでに後ろからものすごい勢いで追いかけてくる竜二の足音に、調子を崩した選手――自分を含めて、を大勢見てきた。
哲士も後半型とはいえ、今のところは竜二よりも先行していた。だが、予想通り五十メートルを過ぎたあたりで竜二が軽やかに哲士を抜き去り、ついでに“流し”の体勢に入る。
そのままあっさりと竜二が哲士を下して終わるかと思ったが、哲士が竜二に再び食らいついた。二人が並ぶ。
これは予想外だった。竜二もそうであっただろう。その思いもよらぬ事態が竜二の闘争心に火をつけたのかもしれない。このまま哲士に勝ちを譲っても、決勝には行けるというのに、竜二が二度目の加速をはかった。
しかし、竜二の弱点は身長が高いゆえに体が重いことだ。よってスピードに乗るのに時間がかかる。結局、哲士を抜ききることはできないまま、デットヒートの末、ゴールに転がり込む。
決勝さながらの速いレースを繰り広げてしまったため、後続は距離が空いている。三位の選手は二人がゴールしてからずいぶん後にゴールラインを越えた。その頃には電光掲示板に一位のタイム速報が出ていた。
十秒八八――八十五番。竜二の番号だ。
正面の電光掲示板から視線を下ろし、ゴール付近を見る。哲士と竜二が肩で息をしながら、無言で向かい合っているところだった。おそらく今、竜二は初めて哲士を“選手”として認識したのではないだろうか。もう、その顔に準決勝前の軽薄な笑顔はなかった。
その一種の膠着状態を破ったのは竜二だ。不敵に笑って、哲士に何かを言う。由貴也と根本のいるここからでは遠くて何を言っているか聞こえない。ただ、もう竜二は哲士の前で無害な一般人でいられなくなってしまったのだろう。完璧に陸上選手としての顔で哲士と対峙している。
それにしても、と由貴也は思う。竜二はともかくとして、無茶をしない哲士が体力の配分も考えずに竜二に本気で戦いを挑んだ。準決勝前のやりとりでもずいぶん竜二に対し剣呑だったことも加え、ずいぶん彼は感情的になっているように見えた。
竜二と哲士の面識など、自分つながり以外考えられないのだが、心当たりなどない。
“そんなに怖い顔せんでも、今日は何にもしてないで”
“オレと香代子ちゃん、メル友やもん”
ふと竜二が哲士に向けた言葉の数々を思い出す。――なぜかはわからないが、彼らには香代子つながりがある。
そう理解すると、おもしろくない気分だ。いったいどういう経緯で彼らが香代子のことを話しているかは知らないが、自分の預かり知らぬところで彼女のことが取り沙汰されているのが気に食わない。
由貴也はそこで急に強い疲労感を自覚した。彼女と同じ大学に入れば、そこで息がつけると思っていた。だから由貴也にその先のビジョンはなかったのだ。こんな風に、心を揺らし続けるなど考えもしなかった。
感情の動きに一番自分がついていけない。現実は由貴也の困惑になどとりあってくれずに容赦なく進む。少し止まりたい。この先の長い陸上選手としての道を考えられなかった。
不意にめまいがして後ろにたたらを踏む。「おいっ!?」とあわてた根本の声が妙な反響を帯びる。そのまま尻餅をつきそうになった自分を支えたのは、彼ではなかった。腕を引っ張りあげられる。
「由貴也。しっかりしなさい」
大きな声ではないのに、まわりの雰囲気を一変させるような声に呼びかけられ、にわかに視界が明瞭になる。五分袖のサックスのブラウスにグレーのスーツパンツという格好の華耀子がそこに立っていた。根本が目をまたたかせて彼女の姿を見ている。
華耀子はそのまま由貴也の腕をとり、脈を確かめ始めた。それからおもむろに「舌を出して」と言ってくる。由貴也が怪訝な顔をすると、「いいから」と再度うながされた。
言われた通りに舌を出し、頃合いを見計らってしまう。この行為にどんな意味があるのかは不明だが、少なくとも華耀子にとっては何かがわかったらしい。由貴也の手を離し、ひたとこちらを見据えてきた。
「クラブのテントに来て休む気は?」
「……今日は部活の方で出ているので」
由貴也が短く固辞すると、華耀子はあっさり「そう」と言う。彼女は由貴也が部活の選手としての出場するのに反対したことはなく、何かを自分の意思を曲げさせてまでやらせるといったことがないのだった。
「あなた、由貴也の部活の人かしら?」
次いで華耀子の視線を受けたのはかたわらの根本だった。急に言葉を向けられた驚きか、それとも歳上の女性に対する緊張か、根本は「はははははははははい」と盛大に、そして器用にどもった。ここまで同一の言葉を連ねて発音する方が難しい。
「マネージャーさんか監督にお伝えてくれる? 脱水症状をおこしてるから、気をつけて様子を見ててやってくれって。水分採らせて、涼しいところで休ませてやって」
根本が熱に浮かされたようにうなずいた。あまりに勢いよく何度も頭を縦に振るので、由貴也は彼の頭の中身がどうにかなってしまうのではないかと本気で思った。
根本の大仰な反応を見届け、華耀子は再び由貴也を見る。
「あなた、熱中症になってるわよ。自分が暑さに弱いの自覚してるでしょう」
「熱中症っ?」
即座に反応を示したのは根本だ。
「だってまだ六月じゃないっすか」
「熱中症にかかるのは真夏だけではないわ。むしろ体が暑さに慣れていない初夏が一番多いのよ」
懇切丁寧に華耀子が説明すると、根本が「ほぉー」と感心していた。どうやら先ほど、舌を出させたり、脈を図ったりしたのは熱中症の罹患度を診ていたらしい。
「由貴也について何か気になることがあったら、いつでも私に言ってちょうだい」
ごめんなさいね、あなたも競技があるのでしょう、と言った華耀子に根本は使命感にあふれた瞳で「大丈夫ですっ。任せてください!」と請け負っていた。
もう先がない由貴也にも、華耀子のコーチとしての責任感は働き続けるようだ。由貴也がぱっとしないやる気のない走りをしているのはわかっているだろうに。
それでもこの人は由貴也に見切りをつけようとしない。それは由貴也がしょせん陸上を辞められないと思っているようで、由貴也はその認識を覆してやりたくなった。誰かの思惑に沿って生きるなど、もうまっぴらごめんだ。
そういった由貴也の物騒な思考を理解しているのか、華耀子は根本と数言交わした後去っていった。もともと彼女は由貴也が部活の選手として出場している時は必要最小限の接触しかしてこない。由貴也が部活という自分のテリトリーに入られるのを嫌がっているのがわかっているからだろう。
「お前、大丈夫かよ。なんか飲んだ方がいいんじゃねえの。買ってきてやるから」
根本は真剣に心配して、こちらの顔をのぞきこんでくる。その彼の声すらエコーがかかって耳障りに聞こえて、由貴也はすぐそばの観客席下の日陰に隠れて座った。
根本があれこれ言っていたが、なおもそれを右から左へと聞き流していると、哲士がゆっくりとした足どりで帰ってきた。ぼんやりと霞がかる視界で見てもわかる。いつもは自身を鉄壁の理性で制御する哲士が、走った後だけは触れれば指先がしびれるような微少の電流をまとっている。スプリンターとしての本能が解けきらない姿だ。
「あ、部長! コイツ――」
さっそく、哲士に報告しようとする根本のランパンの裾をひっぱって制す。何事かと地べたに座る由貴也を見下ろしてくる根本に目で言うなと脅しをかけた。
よほど自分はただならぬ雰囲気で威圧していたのか、気圧されたように根本が口をつぐむ。幸運にも、普段の哲士なら気づいたであろうこの自分たちの無言のやりとりも、走り終えたばかりの状態では見落としてくれたようだ。期を逸した根本が不本意そうに舌打ちする。
哲士とはこの後、決勝戦という同じ舞台に立つ。弱みをさらしたくない。それが無意識の内に現れた。
自分はこの期に及んでも、古賀 由貴也という人格とは別次元にある陸上選手としての側面と、本来の自分自身という二つの領域を行ったり来たりしている。
「さっき竜二に何言われたんですか」
間を埋めるために、由貴也は根本が行動を起こすのに先んじて哲士に問いかけた。ここから逃げるために立ち去るのにも、めまいが収まらないことには動けない。
哲士は由貴也の問いを受けて苦笑してみせる。
「『冷や汗かいたわ』って」
「何だよその超上から目線っ!」
根本が即座に憤慨する。こちらからすれば先輩だからと大いばりで由貴也にあれこれ指示する根本も、竜二と大して変わらない。
竜二はただ上から目線で失礼な態度ではない。これは竜二が持ち得る好敵手に対する最高の態度だ。つまり宣戦布告だ。決勝戦はこうはいかない、と言っているのだ。準決勝は彼はまだ本気で走っていない。
そこで、哲士が決勝ではなく準決勝で竜二に勝負を挑んだわけを理解した。哲士が、天分に恵まれた選手である竜二に噛みつく最後のチャンス。それが準決勝だったのだろう。哲士は決勝戦で、レーンに並ぶ八人のうちの一人ではなく、竜二のライバルとして走るために、準決勝で自分を印象づけたかったのだろう。
根本が火を吹く怪獣のように怒っているのを尻目に、由貴也は立ち上がってその場から消えようとする。が、スタジアムを出ようとするところで気づかれてしまった。
「古賀、待てよ! どこ行くんだよ」
あわてて追いかけてきた根本に肩をつかまれる。足元がおぼつかなくてよろけた。
「マネージャーには言うからな!」
由貴也の答えを待たずに、根本は拳を握ってわめく。それを由貴也はねじ伏せるように見つめた。
「そ、そんな顔したって、俺は言うったら言う! ぜってえ言う! ダメだっていうんなら、マネージャーに、お前があの綺麗なコーチとにまにまして話してたって言ってやるっ」
「言えば」
由貴也は冷たく応じた。
「何でも好きに言えば。俺、今はマネージャーに会いたくない」
ここまで強く拒絶しておけば根本でも香代子を由貴也に関わらせようとしないだろう。このまま部のテントに帰らず、決勝戦までどこかで時間をつぶそうと決意する。
香代子、哲士と続き、部内のおせっかい三号である根本のことだから、「お前らどうしたんだよ」とでもわめきたてると思っていた。けれども彼はこの暑い中、凍りついてしまったように硬直していた。由貴也の肩ごしに、後ろを呆然と見ている。
嫌な予感がして、由貴也も根本の目線の先へ体を向けた。
「あの、三千メートルの準決勝の組合せ出たから、伝えようと思って……」
言いわけのように、この場をつくろう言葉を発したのは、Tシャツにジャージ姿の香代子だった。言葉が途切れた後には、重たい沈黙が落ちる。
「い、今のはな、本心じゃないよなっ。俺があれこれ言ったから場の流れっつうやつだよな。な、古賀っ?」
根本が滝のような汗を流しながら、不自然な笑みで場を取り持つ。彼女の表情から、どうやら運悪く最後のセリフを聞かれてしまったらしい。
「いいから。ふたりとも競技に集中してよ」
香代子がいつも通りを装って、笑顔を作ろうとして、失敗した。笑みがしぼむ。彼女にしてはわけがわからないだろう。昨日まで散々甘えていた男が今日になったら手の平を返したように冷たくなったのだ。
笑えていない香代子に、根本が一層うろたえたのがわかった。
「いやいや。コイツはマネージャーのこと大好きだって俺がよく知ってっから。俺のお墨付きだぜ。これはもう間違えねえだろ!」
根本が大仰な身ぶり手振りで香代子を励ます。その隙に、由貴也の背中を叩いて、小声で耳打ちした。
「お前、弁解しろよっ!!」
“必死”という文字を貼りつけて、根本が由貴也に詰めよってきた。由貴也は毛穴という毛穴から汗が吹き出している根本を無言で見下ろしてから、香代子を見る。
香代子は気丈にも、真正面から由貴也の視線を受けとめた。その目には由貴也の態度の豹変に対する困惑が見てとれるが、一番はこちらの真意を知りたいと思っている真剣な色があった。
その彼女に、言う。
「俺の前に顔出さないで。アンタの顔なんて見たくない」
暑さですべての感覚が――痛覚も鈍くなっていて、愕然とする彼女にも、冷たい言葉を浴びせかけられた。
「お、おい。古賀……?」
根本が香代子と由貴也を見比べておろおろとしている。その根本に背を向ける。目を見開いて何も言えない香代子にも。
水分補給をしろという華耀子の言葉を思い出して、自販機に向かう。だが、当然のことながら財布は部のテントに置きっぱなしだった。仕方なく水道の水を飲む。
カルキのきいた水は重要な部分にうるおいが届かず、余計に渇いていく感じがする。飢えていく、さらに。
由貴也は近くの木陰の芝の上に寝転ぶ。強い太陽を遮るように目をつむると、眼裏の闇がまわっている錯覚に陥る。その奥に、彼女の姿を見た。
――大事なものは隠して、遠ざけておかなければならない。誰かに踏み荒らされないように。
何も傷ついたり、悲しんだりしなくていい、と由貴也は意識の中の彼女に目を向ける。もうすぐそこへ帰れる。
明日になればすべてが終わっているはずだから。