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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
74/127

スタート・ゼロ11

 華耀子の説得が功を奏したのか、父親が次の県選手権を観に行くと言ってきた。

『陸上を続けたいのならば、こちらが納得できるような結果を出してみろ』

 由貴也が別にいいと言う間もなく、相変わらず一方的に電話は切れた。

 由貴也は歯車が止まる前のような惰性で、あれからを走っていた。いつでも止まりたいと願っていたし、いつでも止まってもいいと思ってきた。それでもまだ止まれない。

 華耀子はいつも通り理性的かつ熱心に由貴也を指導した。あの父に県選手権までとはいえ陸上を続けることを認めさせたのだ。彼女の交渉術はたいしたものだ。

 竜二は――。

「由貴也、勝負やで! 負けた方がジュース奢りや」

 直線コースのスタートで、竜二が仁王立ちして由貴也を指差した。由貴也は無視して、スターティングブロックをセットし続ける。

「何や。オレと勝負すんのは嫌なんか? 恐れをなしたんか!」

 腰に手を当て、高らかに竜二が笑う。由貴也はまたしてもそれを黙殺した。そもそも今は練習中だ。いちいち勝負だ何だと言っていたら、もうきりがない。

 竜二はあのロッカールームでの言い争い以降、由貴也の闘争心を煽ることに心血を注いでいる。いい加減、タイムトライアルのごとに勝負だ何だと言われるのがうっとうしくなってきて、由貴也はスターティングブロックを調整する手を休め、地面にしゃがみこんだまま立っている竜二に視線を向けた。

「俺のことより自分のことやったら。アンタがスタブロをセットしてくんなきゃスタートできないんだけど」

 竜二は虚をつかれた顔になり「……そやな。そりゃそうやわ」と素直にスターティングブロックをセットし始めた。といっても、竜二のセットの仕方は大ざっぱで、目算だけを頼りに前足と後足を勢いよくはめ込む。「よっしゃっ!」とつぶやいたっきり細かく直そうともしない。スタート重視の選手でないせいか、あまりスターティングブロックのセットに頓着しないようだ。

 人のことより自分のこと――。もちろん竜二も県選手権に出場する。おそらく百メートル走では由貴也の最大の好敵手になるだろう。しかも冷静に考えると、敗着が濃厚だ。竜二は竹のような勢いで成長している。対する由貴也は夏に弱く、気温の上昇とともにタイムを落としていた。けっきょく、その日のタイムトライアルでも竜二に負けた。

「……何でアンタは俺にそんなに走らせようとするわけ」

 負けたついでに、ゴール付近で息を整えている竜二に聞いてみた。決して自分は竜二に嫌われているわけではなと思うが、彼はコーチの華耀子の方を熱烈に愛している。となると二人で練習するよりも、ひとりで華耀子を独占したいはずだ。どう考えても、由貴也が辞めた方が彼にとって都合が良さそうに思える。

 竜二はこちらを向いた後、また視線を遠くに投げた。ぬるい風が金色の髪を揺らし、小麦畑のような豊かな輝きを放つ。

「……オレなあ、たぶん陸上選手としてはあんま息の長い方じゃないと思うねん」

 息の長い――おそらく選手生命がということだ。

「今はよくてもいつまた膝が壊れるかわからへん。無理もたぶんきかへんと思うんや」

 悲観も諦感もなく、竜二は彼方を見つめたままで淡々と話す。同情をひこうとしているわけでもなさそうだ。それは竜二の中ですでに受け入れられた事実なのだろう。膝の故障は癖になる。おそらく医者にも再発の可能性は告げられているはずだ。

「だから何も心配せんでいい足を持っとる由貴也がうらやましくて、それでも辞めるちゅうのが腹立つだけや」

『だけ』にしては深い感情がそこにはあった。竜二の表に出ている快活な顔だけが彼のすべてではないことはすでにわかっている。

「アンタはいつでも自分が中心だね」

 暗に“自分勝手”だという意味をこめて由貴也は言った。竜二は自分自身の感情のみに基づいて由貴也を走らせようとする。嫌みを言われたにも関わらず、竜二は口角を上げて笑ってみせる。

「あのなあ、短距離選手っちゅうもんは自己チューじゃないとやっていけへんのや」

 竜二は軽い調子で笑う。自己中であることを恥じ入るそぶりはまるでない。

「陸上選手だけやない。何でも上に行こうと思ったら自己中でないとやってけへんよ。自分を上に押し上げられんのは自分自身しかおらへん。だから自分を一番大事にすんのや」

 そこで、おもむろに竜二は由貴也に焦点を合わせてきた。彼の笑みが変わる。瞳の奥の光が強さを増す。不敵さが全面に出る。

「オレが見る限りだと、由貴也もこっち側の人間や」

 そう思わへんか、とつけ加えた竜二からは先程の剣呑さが消えた。由貴也から言わせると、その時折見せる鋭さこそアスリートの証しに思える。

 由貴也は答えることなく竜二に背を向けた。自分には帰る場所があって、そこで満たされる。だから何も陸上で埋めなくともいい。そっち側の人間ではない。

 思考を凍結させて、自分の中での“陸上”の役割を考えないようにする。大事なものが増えるほど、手のひらからこぼれ落ちてしまうから、誰かに奪われてしまうから、身軽な方がいい。

 携帯に溜まる母親からの着信に気づかないふりをし、由貴也はまっすぐ香代子のアパートへ帰った。由貴也にとって繭のようなあの部屋へ今宵も帰る。








 全日本陸上選手権。

 毎年夏に開催されるトラックアンドフィールドの祭典。日本陸上と様々な感情を含んで呼ばれるその大会は、オリンピックや世界陸上の選考会を兼ねている。世界へつながる扉であるのだ。

 この大会へ出場する方法はいくつかあるが、もっとも一般的なのは所定の期間内に公式大会・記録会で参加標準記録Aを破ること。そして参加標準記録Bを突破し、かつ県選手権、地区大会を勝ち抜くことだ。

 クリアすれば無条件で全日本選手権の切符を手にする参加標準記録Aは、国内レベルのプロですら到底破れないタイムとなっている。関東、東北などの地区選手権の優勝タイムですらこの標準記録Aを越えていないことを考えれば、真っ向からこの標準記録に挑むことがどんなに無謀かわかるだろう。日本陸上初出場を目指すために現実的なのは、県・地区と勝ち抜くことなのだった。

 県選手権当日。雲ひとつない快晴で、朝から気温の上昇を感じさせる日だった。

 今回、由貴也は部活の方でエントリーしており、クラブの黒いウェアではない。体にフィットする白のジップシャツに、黒いショートスパッツだ。スパイクのヒモを結び、胸元のジッパーを上げた。

 同じユニフォームを着た哲士がじっとこちらを見ていた。由貴也は何、と目で尋ねる。小トラックはアップする選手であふれかえっており、ざわめきの中では声よりもしぐさの方が伝わりやすい。

「……何で今回、部活の方で出ようと思ったんだよ」

 哲士が少しの間を置いてから口を開いた。聞きようによれば、由貴也を邪魔者扱いしているようだが、哲士は純粋に問いかけているだけのようだった。

 由貴也は陸上連盟にクラブの選手としてのみならず、部活の選手としても登録が済んだ後は、極力部活の選手として大会に出場した。しかし、本当に重要な大会はクラブの選手として出た。やはりクラブはトレーナー、コーチなど走ることのみに専念できる環境が整っており、結果を出すには少しの負担も避けたかったからだ。一年生という理由で課される部活の下級生としての仕事は正直うっとうしかった。

 まぎれもなく、“重要な大会”といえる県選手権を、部活の選手として出るのを由貴也は強く望んだ。陸上選手としての終わりをここで迎えたかったからだ。

 由貴也は結果を出しても出さなくても、クラブを辞める気でいた。ここでたとえ優勝したとしても、陸上を本気で続けるのならば自分は両親の意に沿って動かなければいけない。華耀子にはよく考えろと言われたが、考えたところで家の呪縛から逃れるすべはないのだった。

 短距離走はゴールしても急には止まれない。あれから今までゆっくりと止まる準備をしてきた。だから今日こそ完全に止まれるはずだ。止まったところに彼女がいればそれでいい。

 由貴也が哲士の問いに答えるよりも早く、根本が「よぉ」と手をあげて練習用の小トラックにやって来た。中距離の出番は午前の末なので、開会前の今はまだ時間の余裕があるはずだ。

 根本は由貴也たちと違って、グレーのランニングとランパンだ。コンマ一秒を争う短距離組は空気抵抗を抑えるため体にフィットしたウェアを身につけるが、中距離の根本は通気性の方を重視する。今日の根本の出場種目は中距離の中でも距離が長い三千メートル競争なので、余計にだろう。

「古賀、緊張してそうじゃん」

 ぎこちなく笑って、根本がランニングからむき出しの腕を由貴也の首に巻きつけてきた。

「アンタこそ緊張してるんじゃないですか」

 厳密には根本だけが緊張しているといってもいい。彼は本番に弱い選手の代名詞となっている。記録会や、普段の練習で驚くほどいいタイムを出すのに、本番では見ていて憐れになるほど体が固くなってしまうのだ。

「今回の俺はひと味違うぜ。まあ見てくれよ」

 口角を上げて不気味に笑った根本は、ランパンの中に手をつっこんだ。途端に哲士がぎょっと眉を上げた。

「根本! 止めろ、脱ぐなっ」

 脈絡もなく、ランパンに手をかけた根本に、哲士は彼の露出狂になる酒癖を思い出したのだろう。緊張をほぐすために一杯やってきて、その勢いで脱ぐかと思ったらしい。

 だがいくらなんでもそれは違ったようで、根本は手を入れたまま、頭に疑問符をつけて首を傾げた。

「脱ぐってなんだよ? 部長、そんなに俺の自慢のボデーを見たいのかよ。いや、マジ困るから」

 根本の悪癖は酒に酔うと脱ぐだけではなく、正気に戻るとそれをきれいさっぱり忘れているということだ。今もそういう趣味はないといわんばかりに身をよじって胸元を押さえている。

「…………いや、もういい。何でもない」

 哲士が一気に歳を百もとったような疲れ方をしていた。

「落とさないようにここにポケット作って縫いつけてあんの……ほら」

 風によって粉塵と化しそうな哲士とは対照的に、こぼれんばかりの笑みで根本が見せてきたのは手作りのお守りだった。緑のフェルト生地に『一走入魂』と黄色のビタミンカラーで刺繍してある。

「真美ちゃんからもらったんだよ。いいだろー」

 どうやら立志院時代の五歳下の後輩、小野 真美と根本の間にはいまだ交流と呼べる者が存在しているらしい。得意満面で見せびらかした後は、早くもいそいそとしまい始めた。よほど大事なのだろう。

「ところで根本と小野さんってどこまでいってんの?」

 哲士が何気なさを装って尋ねる。根本にこの問いかけをするのにはかなりの勇気と覚悟が必要だというのが陸上部の一致した見解だ。なぜなら、以前同じことを聞いた時、根本がゴツいなりをして、ポエムのようなメールをしていることが発覚したからだ。一同は笑いをこらえるという拷問にも等しい苦行を課された。

 今回、根本は初心な乙女もかくやといった様子で頬を染めてみせた。即座に全身に鳥肌が立つ。

「……デートした」

「デートぉっ!?」

 哲士にしてはめずらしくすっとんきょうな声を上げる。無理もない。根本と真美の仲が進展するなど地球外生物が攻め込んでくるよりもあり得ないと思っていたのだ。

「いったいいつ、どんなデートしたんだよ」

 哲士が崩れた感情を立て直して尋ねるが、根本はもじもじと胸の前で手をすりあわせている。盛り上がる二の腕の筋肉と、繊細な指先の動きがなんともいえないシュールさを醸し出す。

 試合前だというのに何という地雷を踏むのだ。多少の非難を込めて哲士を見ると、彼は視線だけで“ごめん”と謝ってきた。

「あのな……」

 最初はためらいがちに、次第に情感たっぷりになっていた根本の話をまとめるとこうだ。真美はあるアイドルのコンサートに行きたいけれど、立志院に帰るバスが時間的にないという話を根本にしたそうだ。そこで根本は勇んで大学の友人に借りた車を真美のために出した。そのついでに真美と男性アイドルコンサートを楽しんだらしい。

「……それって、ただ単に足に――」

「とにかくよかったよ。小野さんとどうなってるのかって気になってたから」

 ありのままの感想を言おうとした由貴也の口はふさがれ、代わりに哲士がひきつった笑みとともにつくろいの言葉を口にする。由貴也が思うに、根本はただの交通手段に使われただけではないだろうか。

「俺さ、アイドルなんてチャラチャラしやがってって思ってたんだけど、意外とコンサート楽しくてさ。ほら、真美ちゃんとおそろいのストラップ!」

 哲士と由貴也に激震が走る。根本が手にした携帯から下がるストラップは、ハート型に固められたアクリル樹脂の中に、アイドルの写真が入っているものだった。アイドルの名前とおぼしき『Ryo』というピンク色の文字が痛々しい。

 何がうれしくて、好きな娘と他の男の顔写真のストラップをつけなければいけないのだろう。後ろで哲士がこらえるように目頭を押さえていた。

 ちょうどそこで開会式を始めるとの放送が入った。開会式後早々に出場種目を控えている哲士と由貴也は式には出ず、引き続き小トラックでアップする。根本は「じゃーなー」と開会式の集合場所であるスタジアムの方へ向かった。

 根本というショッキングピンク色の爆弾が去って、哲士と由貴也は肩の力を抜く。

「あの人、結局何しに来たわけ」

「いろいろ見せびらかしに、かな」

 哲士が肩をすくめて苦笑する。

「俺は根本が幸せならそれでいいと思うことにするよ」

 口ではそういいながらも、哲士のセリフには自分にそう言い聞かせるという役割も過分に含まれているように思える。彼も根本がどこか間違っている方向に“幸せ”になっている気がしてならないのだろう。その証拠に視線が明後日の、遠い方向を向いている。

 小さくなっていく根本の背中を見ながら、どうして自分はこんなにも平和な気分なのかと思った。今日で陸上選手としての道を閉ざされ、後はもうお遊びのような部活しか残されていないというのに。

 けれども自分はその“部活“の彼らと話しているときに言い知れない安らぎを感じているのだろう。走っていない時でも、竜二からはいつだって少しの戦いの匂いがした。あのクラブは“そういう”場所で、それが自分をいつも落ち着かせなくした。

 たぶん竜二はためらいなく、由貴也の敵になるだろう。対して哲士は敵である前に“先輩”だった。哲士がきっと肝心なところで由貴也に対し、非情になれないところに、自分は安堵しているのかもしれない。そしてつけこんでいるのかもしれない。

 開会式中のため、ぐんと人が減ったトラックを走ると、とたんに汗が体を濡らす。あごの先からしたたり落ちる汗を拳でぬぐった。赤いタータン舗装の地面に強い陽が反射する。むき出しの肌がやける。暑い。人の熱気と相まって、競技場に陽炎がたっているように思える。

 軽く走っている最中、ふくらはぎに微少の電流のような痛みが走った。足を止める。

 惰性で歩きながら、局所に触れる。クラブに入った頃から少しずつ感じてきた違和感だ。この小さな不安から以前、竜二に部活から引き離されても抵抗ができなかったのだ。万が一の際、クラブには一流のトレーナーがいる。

 しかし、そのトレーナーですらも、筋肉が疲労している以外は異常はないと言っていた。あの頃は部活にクラブで練習のしすぎだという自覚はあったから、トレーナーの言うことを鵜呑みにして、疑わなかったのだ。

 たいした痛みでもなく、持続するものでもないので、無視してきた。加えて由貴也の勘がこれは怪我ではなく、トレーナーの言う通り、疲労だろうといっていた。

 アップを終えて、サブトラックを出たところで、由貴也は“彼女”に出会った。意外な感を受けたと同時に、ここで会うのが当然だとも思えた。

「巴……」

 名前を口に乗せると、彼女はストライプの日傘を閉じる。紺色のワンピースが目に鮮やかだ。

「先に行ってる」

 隣の哲士が気を回して、巴とふたりにしてくれた。彼の姿が完全に消えてから、巴が口を開く。由貴也が父親に玄関先で殴られてから、会うのはこれが初めてだ。

「今のは部長さんか? あいさつぐらいしなくてはいけなかったな」

 哲士は皆に部長と呼ばれているが、厳密には彼よりも上級生がいるので部長ではない。けれどもそれを巴に説明したところであまり意味のあることだとは思えなかった。彼女がそう言ったのは、会話の口火を切るためのものに過ぎないのだ。

「今日、どうしたの」

 巴が観戦しに来たという事実に、由貴也は問いを投げかける。巴は由貴也にむやみやたらに近づくべきではないことを理解している。ことさら、由貴也だけの領域である“部活”に踏み込むべきではないと思っているのか、こちらが頼んだ最初の一度以外は大会を観に来ることはなかった。

「叔父さまに連れてきていただいたんだ」

 叔父――由貴也の父だ。父と行動をともにしているということは、巴もおそらく、今の由貴也の状況を知っているのだろう。その証拠に、彼女は痛ましげに目を伏せる。長いまつげが憂いた影を作る。

「お前には本当に悪いことをした。あの日私がマンションを訪ねなければこんなことにならなかった」

 巴は客観的に見れば、由貴也の母にはめられただけだが、それを言ったところで彼女の気が済むわけではないので黙っていた。

「こちらのことは何とかするから、お前は何も気にせずに走ってくれ」

 陸上を続けたいんだろう、と続けられ、由貴也はしばしの沈黙を待ってから言った。

「今回で辞めるよ、クラブは」

「何を言って――」

「母に飼い殺されるのは性に合わない」

 巴はわずかに目を見開き、驚きとまどった表情をした後、何かを言いかけて口をつぐんだ。言うべきことを探している。その隙に、由貴也は話の方向転換を図る。

「……今日、あの人来てる?」

「叔母さまなら一緒にいらしてる」

 “あの人”でわかるので、巴との会話は楽だ。母も来ているのなら、香代子との接触は避けなければならない。由貴也に巴以外の女子が近づくことを母はおそらくよしとしない。何をしでかすかわかったものではない。

 そして、巴ともこうして話すべきではなかった。

「もう行った方がいいんじゃない」

 唐突な拒絶に巴が瞠目する。それに構わず由貴也は続けた。

「俺とどうこうなる気はないんでしょ。だったらふたりでいるべきじゃない」

 ふたりでいたら、母がまたどんなことを仕掛けて嵌めてくるかわかりはしない。過ぎるほどの用心を重ねるべきだ。

 由貴也は今でも巴の存在が大事だ。自分の一番始めを思う時、そこに巴がいるのは変えられない。だからこそ、誰かが自分と巴との関係に踏み込んで来るのが耐えがたかった。

 あの日あの時、一度死んだような思いで彼女への恋心を沈めて鍵をかけて忘れたというのに、どうして今さら思い出させようとするのか。どうしてただのいとこになるのを許してくれないのか。

 大事なものは大事ではないふりをしないと守れない。つけこまれる。だから由貴也は陸上を犠牲にして、“大事なもの”を誰にも触れさせないように守りたかった。

「……お前の言う通りだ。軽率な行いをして悪かった」

 謝ると同時に、わずかにうつむいた巴の肩から、艶のある長い髪がこぼれ落ちる。さらさらと透明の音をたてるそれに、昔の記憶がよみがえりそうになって目を反らす。

 その拍子に、巴が哀願めいた表情で、顔を上げる。

「ただ、お前だけが我慢する必要はないんだ。結婚のことはこちらで何とか――」

「何ともならないよ」

 こちらで何とかするから、気にするな、という巴のセリフを正確に察して、由貴也は先回りして遮った。

「巴が俺の父親に“お願い”して、今回の結婚が回避できたところで、またすぐ同じことが起きるよ。それに壮司さんのためにも弱味は作りたくないんじゃないの」

 巴がこの結婚を破談にするためにどこに頭を下げたところで、彼女は結局どこかしらに貸しを作ることになる。それはいまだ一族の中で立場が弱い壮司と結婚したい巴にとってはマイナスに働くことになるだろう。

「大人にいいようにされないようには、俺らのどちらかが身軽じゃないといけない。違う?」

 由貴也がクラブを辞めるのは、クラブの高額な指導料だけは親の援助がないとどうしようもないからだ。あとはどうにでもなる。部活も大学もアルバイトを掛け持ちすれば続けられないこともないだろう。

 独力ではどうにもできないことをしているうちは、そこが弱点になる。巴の方には捨てられないしがらみが多くあるが、由貴也はクラブだけを辞めれば親に振り回されずに済む。

 言葉をつまらせた巴に、由貴也はさらにたたみかける。

「走ることはクラブじゃなくても続けられる」

 無理やり心にもないことを言う。確かに部活は由貴也の心のよりどころではあるかもしれないが、それだけでは速く走れないだろう。陸上選手としてこの先を歩むなら“心”だけではどうにもできない域がある。

「そういう問題じゃない。お前が自分自身で決めたことを不当な理由で辞めさせる権利は誰にもないんだ」

 巴は強い瞳で、由貴也を射た。その強さの裏に由貴也は思う。巴はいつも由貴也へ気にするな、と言う。問題の目隠しをして、彼女自身のみで何とかしようとする。由貴也を庇護しようとする。それで例え彼女自身が窮地に立たされようとも。

 この従姉は由貴也が望めばたいていのことは無理をしてでも叶えようとするだろう。けれどもそれではもういけないのだ。巴に依存し、何も考えずに済んでしまっていた過去の自分を思う。それは甘く幸福で、同時に由貴也にとっては毒でもあった。

 甘美な回顧を断ち切って、言葉を発するために息を吸う。

「クラブを辞めることこそ自分自身の“決めたこと”だ」

 巴の視線をはね返すように、由貴也もまた巴を見た。彼女にも、由貴也の決心は変えられないのだということを明らかにする。

『競技開始時刻をお知らせいたします。競技は十時より――……』

 メインスタジアムから、風にのって放送が流れてくる。自由になる時間はもう少なかった。

「もう行くから」

 由貴也は会話に無理やり区切りをつける。新緑の影の下、巴の顔はやりきれない表情を写して暗かった。

「……どうか後悔する選択だけはしないでくれ」

 振り絞るように苦々しい巴の声をを背に受け、由貴也は歩き出す。由貴也は背後に感じる巴の存在に気をとられないように、意図的に歩みを速めた。

 向かう先はひとつ。母の手前、接するのを避けようと決めていたそばから、それを破ってしまいそうだ。けれどもそうしなければ“何か”に追いつかれてしまうように感じる。

「あ、いたっ!」

 間近で声をかけられて、反射的に顔を上げる。

「もうすぐ百メートルの招集かかるよ。こんなとこでふらふらしてないで行くよ」

 巴の残像が点描が崩れるように由貴也の脳裏から消えていく。代わりに眼前の現実を認識する。その風景の中に香代子がいることに安堵する。

 自分の今、見ている光景から香代子が消えること。それが由貴也が本気で陸上を続けるということだ。

「ぼーっとしないで! 遅れちゃうよ」

 動かずにじっとしていた由貴也に業を煮やした香代子がこちらの腕を引こうとする。由貴也はそれを最小限の動きで避けた。四方八方どこからでも母に見られていると思うべきだ。

 香代子はそれを拒絶ととったらしかった。無理もない。香代子には出会ったばかりの頃、香代子を全身で拒否し、遠ざけた由貴也の記憶があるのだろう。にもかかわらず、由貴也は自分の都合の悪い時だけ彼女を欲する。竜二の指摘した通り、自分もたいがい自分勝手な人間だ。

 由貴也は表情ひとつ変えずに手を伸ばした。香代子の無造作に下がった手に触れる。そっとその指先を握る。おそらく傍からはただ向かい合っているだけにしか見えないだろう。驚いて硬直した香代子の反応が、つながった手の先から伝わる。

  ――どうか後悔する選択だけはしないでくれ。

 よみがえった巴の声に、後悔などしない、と胸の中で答える。今、手の中にあるぬくもりこそ、幸福というものではないのか。だからもう、余分なものは何もいらない。

 わずかなふれあいの後、由貴也は何事もなかったように歩き出す。

 陸上選手としての最後の大会が始まる。足が何かを訴えるように、かすかに痛んだ。 

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