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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
72/127

スタート・ゼロ9

 夕方から雨が降りだし、日中の異常な暑さが嘘のように、五月にしては冷え込んだ夜になった。

 そのせいか、バイト先のガソリンスタンドに出入りする車は少なく、十二時きっかりに店を閉め、雨に濡れる道を歩いて帰ってきた。愛用のママチャリは哲士のバイクとともにガソリンスタンドにお泊まりだ。

 今朝、天気予報を見て、上に羽織るパーカーを持参していたけれども、それを着込んでもなお肌寒い五月の夜だ。寒さに身を縮ませながら、自分のアパートの階段を上がる。深夜なので足音に気をつけてゆっくりだ。上がりきって、ポケットから鍵のついているキーホルダーを取り出したところで香代子は固まった。自分の部屋の前に、誰かが座りこんでいる。外階段からつながる通路は、張り出したひさしも意味をなさないほど濡れている。その濡れたコンクリートの外廊下に、古びた照明の光とその人物の姿が映りこんでいる。

 香代子は固まったまま、地べたに直に座っている人物をそっと観察した。体育座りをして、膝と膝の間に頭を埋めているため、肝心な顔がわからない。けれども、服装や雰囲気から、若い男だと知れた。

 このアパートの二階には四室ある。そのうち埋まっているのは香代子の部屋と、角部屋に住んでいる大学院生の部屋だけだ。その部屋にも在室の気配はなく、二階は静まり返っていた。

 家を間違えた酔っぱらいか、変質者か、どちらかは知れないけれど、香代子は気を引き締めて、不審者に近寄る。とにかく彼を撃退しないと部屋には入れないのだ。どちらにせよ、こんなところで座りこんでいるとは間抜けな人物だとしか思えない。

 香代子がその人物の前に立ち、声をかけようとした瞬間、気配を察したのか、若い男が弾かれたように顔を上げた。玄関の灯りに照らされたのは、血の気が失せた蒼い顔だった。

「ゆ――……」

 つい最近まで名前を呼びたくて、由貴也由貴也と胸の中で繰り返し唱えていたので、無意識にするりと最初の一文字が口から出た。香代子の部屋の前に座っていたのは、いつも以上に表情がない由貴也だった。

「ちょっ、どうし、いつから……」

 ちょっと、どうしたの。いつからいたの。香代子の動転ぶりなど見えていないように、由貴也が動く。不穏な夢の中で、確かな実体をつかもうとしているような、生気のないけれど心に迫るような動きで、由貴也の手が伸びてくる。

 動く音すらしないような動作だったので、香代子はとっさに体を退くことすらできなかった。気がついた時には、由貴也の腕が自分の胴にまわっていた。

 膝立ちになった由貴也が、立っている香代子にすがりつくように、抱きついていた。

 香代子は事態が飲み込めなくて、呆然と突っ立ったまま由貴也のつむじを見る。彼の髪の毛は濡れていて、かなり前からここで待っていたのだと知れた。

 どうして由貴也が香代子のアパートの場所を知っていたのか、そもそもどうしてここにいるのか。この前、彼の逆鱗に触れ、そう簡単には許してもらえないと思っていたのに、向こうから来るなんて、どういう風の吹きまわしなのか。何より一番、どうしてこんなにも弱々しいのか。聞きたいことはたくさんあるけれど、とにかく香代子は焦燥感にかられて、とまどって宙に浮いていた手で由貴也の頭を抱いた。今宵の彼は、存在自体が青白くて薄くて、何か言葉をかけたら霧散してしまいそうに思えたからだ。

 由貴也の体は冷えきっていて、温もりを求めるかのように、彼の香代子を抱く腕の力が強まる。骨がきしむほど強い力に、立っていることができなくなる。今度は香代子が膝立ちになって、完全に座りこんだ由貴也を抱いた。

「……名前、呼んで」

 香代子の腕の中で由貴也が、かすかな声で言った。え、と香代子が聞き返す前に、今にも消え入りそうな声で「あの人が呼ぶから……」とつけ加えられた。

 香代子には由貴也の事情がさっぱり飲み込めない。それでも、由貴也のために今は心のすべてを彼に傾けようと思った。

「……由貴也」

 頭をなでて、背をさすって、名前を呼ぶ。明らかにどこかおかしい由貴也を心配する感情が心の多くを占めている。けれども、自分はこうして彼が自分の腕の中に帰ってきたことに安堵し、それを愛おしく思ってもいる。心が満ちて、ずっとこうしていたくなる。

 由貴也は弱っているというのに、ここに彼が戻ってきてくれたことをよろこぶ自分は間違っている。それでも、離したくなかった。

 強ばっていた由貴也の体から余分な力が抜けていく。由貴也からも自分からも必死さが抜けて、ただお互いの体温が溶けあった心地よさが残る。

「ねえ……」

 名残惜しさを感じつつ、このやわらかい空気を破る。由貴也の服や髪は濡れていたし、頬が痛々しく腫れているのに気づいたからだ。

 体を離そうとしたけれど、由貴也が抵抗してきた。彼の腕に再び力が入り、離れることを許してくれない。

「ねえ、風邪ひいちゃうよ。頬ももっとよく冷やさなくちゃ」

 子供に語りかけるように、ゆっくりとした口調で由貴也に言う。けれども、由貴也はまさしく頑是ない子供のように香代子を抱きしめたまま動かなかった。

 仕方ないので、そのまま由貴也の背をなでていた。今の由貴也は香代子にしがみついて、懸命に息をしているようで、無理に引き離すのは忍びなかったのだ。

 どのくらいそうしていたのか。体をそっと退いたのは由貴也の方だった。

 やっと解放され、お風呂を沸かして、温かいものを飲ませて、頬の手当てをして、と頭の中で忙しなく考えていた香代子に、由貴也はもはや色という色をなくした顔色で言ってきた。

「……気持ち悪い。吐きそう」

 思いもよらないセリフに動転して、「えっ、待って! 今、部屋の鍵開けるから。えっと洗面所! 

あっでもトイレの方がっ」と余韻も感じる暇もなく、由貴也を部屋の中に押し込んだのだった。






 

 

 大きなてるてる坊主がいる、と思った。

 香代子は由貴也の濡れた服を脱がせ、バスタオルでは小さいので、タオルケットを渡した。雫がたれる髪を拭くためのタオルを頭に被り、タオルケットにくるまっている由貴也はまさしく大きなてるてる坊主だった。

 その格好もさることながら、自分の部屋に由貴也がいるということが何とも香代子を変な気分にさせる。

「ちゃんと頭拭いた?」

 由貴也に飲ませようとキッチンで作ってきた熱いココアを持って居間兼寝室に入る。由貴也は吐いたことにより、かえってすっきりしたのか、顔色が少しマシになっていた。

 相変わらず芯の入っていないようなぼんやりとした動きで、彼は香代子をじっと見て、それから頭を垂れた。どうやら拭いてくれということらしい。

 香代子は息をついて、由貴也のそばに腰を下ろす。湯気を立てている砂糖とミルクたっぷりのココアをミニテーブルに置き、タオルがかかった彼の頭に手を伸ばした。どうして今日はこんなにも甘えんぼうなのか。

 香代子が髪を拭いて、ドライヤーで乾かしている間、由貴也はおとなしくココアをすすっていた。自分も大概、彼に甘い。日頃から彼の糖分過多が気になっているというのに、今日のココアには砂糖が大量に入っている。少しでも元気になればと思ったからだ。

 由貴也のやわらかい髪を乾かし終えて、ドライヤーのスイッチを切る。床にドライヤーを置いてから、そっと由貴也の頬に触れた。両手で壊れ物を扱うように彼の顔を包み込む。

「頬、どうしたの……?」

 ずっと気になっていた。由貴也の頬は赤く腫れていて、まるで殴られた後のようだ。触れるとまだ熱を持っていて、こうなってからあまり時間が経っていないことが知れた。

「……別に。何でもない」

 長い沈黙の後、由貴也はぼそっと平坦な声音で言った。感情を混ぜないべく、抑揚を消したその声こそが彼に何事かあったのだと香代子に知らせる。けれども、それを無理やり聞き出すべきかどうか迷った。

 アイツの決めたことは尊重してやるべきだろ――根本の言葉が脳裏によみがえる。彼が話したくないというのなら、自分もしつこく追及してはいけないのかもしれない。意に沿わないことをさせるというのは、好ましくない結果をもたらす。それをここ最近よく思い知った。香代子は由貴也の頬から手を離した。

「服、乾くまで少し寝てたら? ベット使っていいから」

 由貴也の雨に濡れた服は今現在、洗濯機の中で回っている。春のファイナルセールで買った香代子の服とはものが違う気がして、おしゃれ着洗いモードで洗濯していた。

 血色がよくなってきたとはいえ、由貴也の顔色は具合がいい人のそれではなく、横になって休んでいた方がよさそうに思えた。

 香代子はカーテンを閉めようと立ち上がろうとして、つんのめった。後ろから服を引っ張られたのだ。

「何? どうかした?」

 大きなてるてる坊主が、さらにぐいぐいと香代子のパーカーの裾を引っ張ってくる。仕方ないので、立つのをあきらめて床に座り直す。その途端に、由貴也がのそのそと膝立ちで歩を進め、目的地にたどり着いて寝転がる。香代子はひたすら目を白黒とさせてそれを眺めていた。

 今、この瞬間、由貴也の頭は香代子の太股の上にあって――つまり膝枕をしている状況なのだった。

 目をさかんにまたたかせて、事態を一刻も早く認識するように努めるけれども、まったくもって信じられない。由貴也はといえば、こちらの驚きなど介した様子もなく、すでに眠りの体勢に入っていた。

 しだいに、動揺より心配の方が大きくなってくる。ここにいる大きな子供をかわいいと思う以上に、由貴也はぐったりと力尽きたように横たわっていて、香代子から言葉を奪った。

 一体どうしたのか、と香代子は疲れきっている由貴也を見下げた。由貴也は巴への失恋から立ち直ってからは、香代子にあまり弱みを見せようとしなかった。由貴也は自分の心の内を誰かに見られるのをひどく嫌うのだ。

 四月に彼が目の前に現れてからというもの、由貴也が何を考えているかわからなかった香代子にとって、今宵その心の一部を見せてくれたことがうれしかった。とはいえ、のんきにうれしいなどと言っていられない。髪をくしけずるように、由貴也の頭をゆったりとした動きでなでた。

 由貴也の嘔吐は心因性のものではないかと香代子は疑っていた。出会った頃よりはマシになってきたとはいえ、たいてい無表情な由貴也は、どうやら感情の発散の仕方がひどく下手なようなのだ。感情との折り合いがつかず、消化できずにそのまま溜め込んで、ついには体の方に変調が現れるらしい。

 ずっと後ろ手に本心を隠してきた由貴也が、それがもうできないほどに余裕がなくなっている。それに――香代子は由貴也の顔にかかる髪をそっとかきあげた。口の端が切れ、頬が赤く盛り上がっているのがあらわになる。

 この殴られた痕は看過することができない。由貴也の交遊関係はひどく狭い。日常的に付き合いがあるのは哲士に根本、竜二とクラブのコーチぐらいだろう。けれども、その誰もが由貴也に拳を振るうことなど想像できなかった。

 とすれば、これは誰に殴られた痕なのか。香代子がそこまで踏み込んでいいのか。尊重する、見守る。それはひどく難しいことで、根本アンタ手本見せなさいよ、と香代子は心の中で悪態をついた。

 しばらくすると、由貴也は寝息を立てて眠り始めた。その寝顔が意外にも険しくなく、無防備だったので、香代子は安心する。

 由貴也の頭を床に下ろし、ベットから布団を下ろす。さすがに由貴也を持ち上げて、ベットで寝かせるのは不可能だったので、彼の体を転がし、床に敷いた布団に何とか寝かせる。濡れたタオルをその頬にのせ、カーテンを閉めて、香代子は極力音を立てないように部屋を出た。

 自分の城であるキッチンにやって来て、さてどうしようかと考える。なし崩し的に由貴也を泊めるはめになってしまった。こういうとき、居間兼寝室の他にキッチンがある間取りに感謝する。

 とはいえ、ここで眠る気にはならないし、由貴也がいる手前普段通りに入浴してというのもはばかられる。今夜の彼には、甘い恋愛のときめきよりも、母性本能の方が勝っているのか、由貴也が男だからどうこうとは思っていない。けれど、やはりどこか落ち着かなかった。

 時刻は午前一時。夜明けまで四時間はある。香代子はおもむろに冷蔵庫を開けた。もっぱら自炊で外食をしない香代子の冷蔵庫には食材がたくさん入っている。

 バターと牛乳、小麦粉もある。卵も充分、食パンも六枚切りのを昨日の昼に買ったばっかりだ。ヨーグルトにフルーツミックスの缶詰、野菜も一通りそろっている。そして時間もある。

 今から作ればきっと、これ以上なく手の込んだ、おいしい朝ごはんができるだろう。香代子は由貴也の好きなものを思い浮かべ、真夜中のキッチンでホワイトソース作りを始めた。








 見慣れない天井に、ここはどこだと思う。マンションの部屋、実家の自室、立志院の部屋、いろいろな天井を思い浮かべて見るが、どの天井とも違った。

 淡いオレンジのカーテンを透かして同じ色に染まった日が部屋に差し込んでいる。明度が高い日は、まだそう遅くない時間であることを由貴也に告げた。早朝と呼べる時刻だろう。

 ふかふかで、よく日に干された布団から上体を起こすと、上半身裸だった。そんな自分に首をかしげつつも、今いる部屋を見回す。

 生成り色を基調とした、落ち着いた色彩でまとめられた室内。華美なものはなく、デザインよりも実用性重視のものばかりが置いてある。それでもよく整頓されていて、清潔だった。

 よく整えられているというのに、古賀家のような隙のない冷たさがない。居心地がよく、きっと日当たりもいい。

 自分が今、別に嫌な場所にいるわけではないと理解し、由貴也は改めてここにいる経緯を考える。巴から電話があって、家に帰って、それ以降を思い出したくなくて由貴也は思考を切った。

 家から出た後の記憶が曖昧で、よく覚えていない。それよりも由貴也は二度寝しようと布団にもう一度潜る。布団の丈が若干短いのが気になるが、それ以上にここは心地よい。

 瞳を閉じて、体の感覚のすべてを眠りに沈めようとしたが、嗅覚だけが活発に動き始めた。いいにおいがする。由貴也は本能的な動きで起き上がった。

 そういえば、まともな食事をとったのはいつだったか思い出せない。どうせ数時間も体内に留まってないのだから、食べなくても同じだと思っていたのだ。

 寝起きのよく働かない頭を持てあましつつ、布団から出てのっそりと立ち上がる。部屋のドアに向かおうとして足を踏み出した時、何か床に敷いてあるカーペット以外のものを踏み、視線を下へ向けたらストライプのシャツにブラックジーンズという自分の服がきちんとたたんで枕元に置いてあった。それに袖を通して、あまり深く考えずにドアへ向かった。

 ドアノブに手をかけたとき、由貴也はここが誰の部屋なのかを知った。ドアにはごくシンプルな装飾のすりガラスがはめ込まれていて、彼女の姿がドアの向こうに映っていたからだ。

 なんとなく腑に落ちた。この部屋でこんなにも息がしやすいのはだからなのか、と。彼女の部屋だからだ。由貴也はドアを開けた。

「ああ、起きたの。おはよう。具合は?」

 赤いチェックのエプロンをした香代子が、いつも通りの表情で戸口に立つ由貴也を見た。後ろから朝の明るい陽光が彼女に射し込む。

 徐々に、昨夜のことが思い出されてきた。またもや自分は弱いということを証明する羽目になってしまった。すがったらまた振り出しだ。彼女に依存していると思われて、また遠ざけられるのではないかと思って耐えてきた。

 それなのに今、弱さを香代子の前でさらけ出してしまったというのに、昨日よりずっと呼吸がしやすくなった。

 香代子が手際よくフライパンの上の何かをひっくり返す。いいにおいの正体はそれだ。ふんわりとした黄色のパンにきつね色の焼き目がついているフレンチトーストだった。

 他にもいい具合に焦げ目がついたグラタン、フルーツたっぷりのヨーグルト、具だくさんのミネストローネがそれぞれ器に盛られていた――二つずつ。

 由貴也の視線に気づいたのか、香代子がかすかに微笑んだ。朝に相応しい、清潔な笑み。

「ご飯、食べよ」

 由貴也はなぜだかひどく安らいだ気持ちで、その言葉に「うん」と答えた。

 


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