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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
71/127

スタート・ゼロ8

番外編『助走』読了推奨。

 夏の色を帯びてきた太陽は、グラウンドにいる由貴也を容赦なく照らした。

 まだ五月だというのに、気温は止まるところを知らずに上がり続ける。この分だと今年は記録的な猛暑になるだろう。

 暑さに弱い由貴也は精彩を欠いた走りをし、華耀子に存分に叱られて練習を終えた。

 来月の頭に県選手権を控えている。この大会で入賞すれば上の地域大会に出場でき、そこで三位以内かつ参加標準記録Bを突破していれば日本選手権に出られる。国内の中核で戦うためには避けて通れない重要な大会だった。

 竜二は県選手権で頭がいっぱいらしく、とにかく走っている時以外はこの話をしたがる。現に今もグラウンドからロッカールームに戻る道中、由貴也の隣でずっと話していた。

「オレは絶対に日本選手権に出るで!」

 暑いのは空気だけで十分だというのに、竜二は拳を握ってめらめらと燃えている。暑苦しいことこの上ない。

 県内レベルの大会で優勝したところで、まだ由貴也たちは国内の第一線の遥か後方にいる。竜二はプロの陸上選手になると常日頃から公言しており、陸上で身を立てようと思うなら、日本選手権ぐらい出場できないと話にならないのだった。

 もっとも、竜二の場合、私怨に近いものがあるのだが。

「あの人には死んでも負けへんっ!!」

 闘志の炎を燃やした竜二の指す『あの人』とは、同陸上セクションの院生だ。アスリートというよりは、文学青年という容貌をした大人しそうな青年だが、それなりの陸上選手である以上、ただ柳のように風にそよぐだけ人物であるはずがない。竜二によると、彼は勝利よりも、自らの走りを完成させることに執念を燃やす芸術家タイプで、完璧主義なそうだ。スプリンターの手本ともいえる美しいフォームは驚くべき速さを発揮する。だが、彼は二十四だ。そろそろ教本から抜け出たような走りではなく、自身に合わせた走りを作り上げていかなくてはならない。彼が今一歩のところで国際大会への出場を逃すのは、その頑なさと完璧主義ゆえのメンタルの脆さなのだろう。

「この前はちょーっと油断しただけや。油断さえせえへんかったら負けへん」

 自分に言い聞かせるように、明らかに強がりな言葉を竜二は吐く。顔がひきつっている。

 時たま、院生の精神状態が良いときに三人で合同練習をすることがあるが、院生の計算され尽くした精緻な走りは、後半を力と気力で雑に押し通しがちな竜二を凌駕する。もっとも、竜二の気合いが空回りして無駄に力が入っているというのが一番の敗因だが。院生はもっとも華耀子が手を焼いている選手なのだ。

「日本陸上に出て、次はアジア大会、したら世界選手権や」

 なあ由貴也、と竜二は笑う。迷わずプロの陸上選手になると公言している竜二に対して、由貴也にはそこまで将来に対する明白なビジョンはない。

 失恋の痛手をまぎらわすために始めた陸上だが、今は由貴也唯一の“自身の価値”となっている。しかも由貴也の人間関係のつながりは血族以外、すべて陸上がらみである。陸上は世界と由貴也をつなぐもので、自分の存在を誇示するためのものだ。竜二といい、自分といい、陸上選手の弊害で、誰かに認めてもらえるのは走りだけだと思っており、それ以外の手段がわからないのだった。

 それでも、陸上を好きかと聞かれると首をひねるし、陸上を職業とする決心もない。

「織田記念、インカレ、学生選手権、サマーゲームぅ~」

 竜二は気分よさそうに主だった国内大会を歌詞に歌いながら、カーペット敷きのロッカールームに入っていく。

 竜二はここのところ驚異的な勢いで記録を伸ばしている。一年のブランクを取り戻すかのようだ。竜二は普段は忘れがちだが、由貴也の一歳上で今年二十歳だ。大学在学中に国際大会の出場や、オリンピックに選出される選手はめずらしくない。短距離選手のピークは二十五前後だということを考えると、竜二は一刻も早く大舞台で経験を積みたいのだろう。

 成長期の遅かった由貴也と違い、竜二は体が完成されつつあり、スポーツ選手として成熟期に入っている。この分だと充分に全国規模の大会での好成績を狙えるだろう。

 シャワーブースに向かう竜二を尻目に、自分のロッカーを開けると、めったに着信などない自分の携帯が光っていた。この前、新商品のチョコを食べまくってイメージキャラクター・チョコっとちゃん抱き枕プレゼントに応募したので、それが当たったのかと電話をとる。

『由貴也……?』

 電話口から放たれた声は、チョコっとちゃんの間の抜けた平和な顔を由貴也の脳裏から吹き飛ばすには十二分な効力を持っていた。彼女の声は由貴也の体の中で熱と冷気を一度きに発生させる。

「巴……」

 言ったっきり、次の言葉が継げない。それでも彼女の困惑した声の調子から何か良からぬことがあったのだと知れる。由貴也は具体的な言葉がなくとも巴のことがわかるし、向こうもそうだ。

『急に電話してごめん。今、いいか?』

「うん」

 幾分か心の準備をしてから答える。巴は何もなしに電話したりなどしない。それなりの理由があると考えてしかるべきだろう。

 竜二はご機嫌に鼻唄を歌ってシャワーを浴びている。水音に混じってこちらの声は聞こえない。

『さっき、叔母さまがお見えになってな』

 叔母――由貴也の母だ。巴は間をおく。ためらいが電話口の向こうから伝わる。

『この前、私がお前のマンションを訪ねただろう』

「うん」

 由貴也はなるべく何も考えずに聞いているという意思表示に返事をする。努めて冷静たろうとする。

『その時にお前が、私に不埒な真似を働いたから、と謝るんだ』

 不埒な、真似――。

「……誰が何?」

 事態が飲み込めなくて、思わず聞き返す。巴はまた逡巡したのか、一拍おいてからひどく話しづらそうに言う。

『……その、お前が私を傷物にしたから、責任はとらせると叔母さまはおっしゃるんだ』

 数日前の光景が脳裏によみがえる。夕暮れのエントランスには二人っきりで、由貴也は巴の手首をつかんでいた。巴は驚いた顔で由貴也を見上げていた。ふたつの影が長く伸びる。

 由貴也の方から巴に直接的なふれあいを求めるのはもう年単位でなかったことだ。巴に触れて、制御がきかなくなってしまうのが恐ろしく、ずっと避けてきたのだ。その禁忌をあえて犯した。

 正直に言えば、心は揺れたし、強烈な飢餓が由貴也の中にはあった。巴の心までは自分のものにならなくとも、一時のつながりを欲した。

 後には空虚さしか残らないと知っていても、それをあえて犯してしまうような自暴自棄さがあの時はあった。母の罠だと知っていても、あの状態は魅惑的だったし、一線を越えても巴なら許してくれそうに思えた。例えそうでなくとも両親が上手くまとめるだろうとしびれた頭で考えたのだった。

 罠に自ら飛び込もう、と思ったのに、いざとなったらできなかった。常識も、世間体も由貴也を縛らない。それなのに、ただ一言が、由貴也を止めたのだ。

“ここに戻ってきてよ”

 自分自身が納得するように走ってきて、それでちゃんとここに戻ってきてよ――。自分でも知らないような心の最奥から、光の軌跡を描いてその言葉が流れてきた。二年前、巴との決別のために、由貴也は走ろうとしていた。その自分にかけられた言葉だった。

 戻ってきてと言ったのは向こうだったのに、無責任にも引退して、さらには卒業して――それから由貴也はずっと走り続けてきた。“自分自身が納得するように”走ってきたつもりだ。

 ずっとそこに戻りたかった。だからそのために走ってきたのに。怒りとやるせなさが由貴也を突き動かす。戻ってきてと言ったのは向こうなのに、ここまできてもそこに戻るのを許してくれないではないか。

 負の感情のままに、巴を引き寄せようとして――できなかった。もう一度腕に命令しても同じだった。動かない。由貴也はあきらめて巴の腕を離した。

 夕日がまぶしい。由貴也は何だか疲れて、じっと大理石の床を見ていた。白く、やわらかい石に西日が静かに落ちる。

 こうして、自分にストッパーがかかることをどこかでわかっていた気がする。巴と事を起こしてしまったら、後戻りできないどころか、きっともう二度と本当に戻りたいところに帰れはしない。そう思ったら苦しかった。

 由貴也の中の嵐が去ったのを知ったのか、巴が顔を上げて微笑もう、として失敗したのがわかった。笑みの形を作る途中で、彼女が吹き出したからだ。あはは、と軽やかに笑う。エントランスの静寂は跡形もなく霧散した。

「ごめん、由貴也。なんかお前がご主人さまに怒られた犬みたいに見えてな」

 目じりの涙をぬぐいながら、巴は笑いを納める。黙って由貴也の感情の振り子が止まるまでつきあって、それから屈託なく笑って見せた。巴といるのは確かに楽なのだ。楽だが、たぶんどこまで行ってもただ楽なだけだ。

「犬? 俺が?」

「反省したみたいにうなだれていたぞ。それにしてもずいぶん表情豊かになったな。見違えた」

 前半はいたずらっぽく言って、後半は感慨深げに言って、巴は先ほどまでの危うい雰囲気を吹き飛ばした。あの彼女にしてはめずらしいほどの笑いようは、すべてがすべて演技ではないかもしれないが、純粋な爆笑だけだとも思えなかった。ムードを壊し、由貴也を正気に戻らせるための行動であるなら、やはりこの歳上の従姉にはなんでもお見通しなのだった。

「もう、しない」

 巴にというよりは、自分自身に誓って言うと、巴はおだやかに笑ってうなずいた。

 ただそれだけだった。巴はすぐに母から預かったという荷物を渡して帰った。

「俺は何もしてない」

 自身の潔白を確かめるための追憶から立ち返り、由貴也は電話の向こうの巴に言った。

『わかっている。だから私も叔母さまにそう申し上げたんだ。でも……』

 巴が言葉を濁した先が由貴也には容易に想像できた。母は巴の言うことなど聞かず、浮かれはしゃいでいたに違いない。年長者に従順であることを第一に育てられた巴に、母をどうこうすることは不可能だろう。

「お祖母さまはどう言ってんのさ」

 由貴也は母に嵌められた今の状況を、あまり悲観していなかった。巴には婿養子になって家を継ぐことが約束されている許婚の壮司がいる。彼らの間に由貴也を割り込ませようとする母の暴走は、巴と壮司を言い名付けた祖母が許さないと思ったのだ。

『お祖母さまは今、体調を崩して臥せっていてな。この話は耳に入れていないんだ』

 夫に先立たれてから数十年間、女手ひとつであの巨大な家を切り盛りしてきた古賀家の支配者・祖母も、忍び寄る老いと、この異常気象には勝てないということか。

 すべてが母の巧妙に仕組まれた罠だと知る。視線ひとつで家を動かすことのできる祖母が病で臥せっている内に、由貴也と巴の間に既成事実を作って、外堀を固めてしまおうというのだ。巴の恋人である壮司は今春、家を出ていたし、巴に母はなく、父は俗世間に興味がない、ある意味とても僧侶らしい人物で頼りにできなかった。

 そろそろ自分にふりかかる火の粉がまわりに延焼してぼやに発展しそうだ。放っておくわけにはさすかにいかず、母親の暴走をどう対処すべきかと由貴也は携帯を持ったまま考えた。

 そのとき、電話口に新たな着信を告げる音が、由貴也と巴の無言に割り込んできた。いつもは着信などめったにないのに、今日は忙しいことだ。

「着信きたから後でかけ直す」

 すこし考える時間が欲しかったので、着信を理由に巴に断りをいれる。彼女が『ああ、わかった』と答えたのを確認してから、とりあえず新しい着信に出る。

『今すぐ帰ってこい。いいな』

 もしもしと相手を確認する前にそれだけ言われて、切られた。途絶音がツーツーと機械的に響く。

 携帯を耳に当てたままで、凶悪な突風のようだった今の出来事を考える。今、一方的にまくしたてた壮年の男が父親だと気づくまで結構な時間を必要とした。

 さらに面倒なことになったな、と思いながらも、由貴也にはどうやらいったん家に帰るという選択肢しか残されていないようだと悟った。







 駅から程近い住宅地の、そこそこ広めな一軒家。それが由貴也の実家だ。

 庭には母が植えた薔薇が、五月にしては強すぎる日射しの中で力なく頭を垂らしていた。母は何でもかんでも後先考えずに買ってきて、興味が薄れると放置するのだった。

 由貴也は三月に家を出てから帰っていない。第一、母がしょっちゅう来るので、帰る必要性も感じず、休日にはクラブの練習があってそんな暇もなかったのだった。

 もっとも、暇があったところで帰らないだろうな、と思いながら、モデルハウスのような、優美な曲線を描くドアの引き手に触れた。

 ドアを開ききらないうちに、視界がぶれた。息が大げさではなく止まって、そこで初めて自分の胸ぐらが誰かに強い力でつかまれているのだと気がつく。

 そう気づいたところで、次の瞬間には頬に衝撃を受け、吹き飛ばされていた。家の敷地をまたがせないとはまさにこのことか、と由貴也はこの期に及んでもどこか噛み合わない思考でものを考える。

「この恥知らずが」

 シワひとつないワイシャツと、なめらかな光沢を放つネクタイ。年齢による体のたるみはまったくなく、黒々とした髪を乱れなく後ろになでつけている。彫像のように整った顔に、怜悧な瞳。玄関を上がったところで父親が、後ろに手をつき靴脱ぎ場に倒れた自分をこの上なく酷薄に睥倪していた。母はただ「あなた……」と困惑ぎみに、まったく抑止力にはならない手を父の腕に添えていた。

 思いっきり拳で殴られた。口腔に血の味がにじむ。頬が熱を持ってしびれた。

 世界を飛び回っているはずの父がここにいる。それはタイミングのせいもあれど、母が呼び戻したのだろう。息子が他所の未婚の娘を手籠めにしたと聞いては、面子が何より大事な父が黙っていられるわけがない。

「俺は何もやってない」

 衝撃にふらつく頭を何とか支えながら、由貴也は父に向かって言う。もっとも、母から事態を曲解されて伝えられているだろうから、自分の言い分など聞いてもらえはしないだろう。案の定、父は鼻を鳴らし、指先で何かをはじいた。薄い、紙状のそれは、ひらひらと由貴也のところへ舞い落ちてくる。

 それは写真だった。若草色の紬と、ごく簡単な部屋着の自分。この前、巴がマンションを訪ねてきたときのものだ。アングルとタイミングがこの上なく最悪だ。夕日の中、ピントが甘い写真の中で自分はがっちりと巴の手首をつかみ、彼女は顔に影が落ち、嫌がっているように見える。ちょうど巴の手首をつかんだ瞬間だったのだろう。巴の体はわずかに前傾し、意思に反して由貴也に引きずられているようにも見える。

 この写真を撮ったのは母だろうが、その腕は素直に感心してしまうものだった。何もないところに誤解を生み、信じこませるには充分な一枚だ。

 いや、父にとっては由貴也が巴と本当に事に及んだかということは問題ではなく、ただふたりでこそこそ会っているのが気にくわないのだろう。散々父は巴と由貴也が添い遂げるようにとお膳立てをしてきたのだ。それを全部無視してきた息子が今になって自分の預かり知らぬところで巴にちょっかいを出している、と腹立たしく思っているのだろう。

「この畜生が。お前は盛りのついた犬か」

 父が冷たい端正な顔に侮蔑の表情を浮かべ、吐き捨てる。母の罠と知りながら、巴の手首をつかんだのは確かに自分の弱さだった。過去には義弟と同じ倉に悪意か事故かは知らないが、閉じ込められたことで離縁させられた嫁もいるという古賀家だ。前時代を生きる、この時代錯誤な一族の中で自分は迂闊極まりなかった。

 すんでのところで罠から逃れた気がしていたのに、しっかりとらえられていたようだ。

「母に知れぬうちに話をまとめるぞ」

 女中でも相手にしているかのごとく、父が母に言い捨てる。現実離れした展開に、思考がついていかなかったが、話をまとめる――それが巴との縁談だとかろうじでわかり、由貴也は口を開いた。

「俺は巴とは結婚しない。巴はただの従姉だ」

 下から父の目を見つめ、言い放つ。とたんに、父のまとう空気がより一層冷たくなったのがわかった。この家の中では父が絶対だ。逆らったらそれこそ生きていけない。

 父をとらえ続ける視界の中で、その足が、振り上がるのを見た。

「お止めくださいっ、叔父さま!」

 無感動に父の足が自分の体に落ちてくるのを待っていた由貴也に、誰かが覆い被さった。

「私が軽率だったのです! 近くに寄ったついでに、と。他意はありませんでした」

 巴がほとんど叫ぶような様相で、父に顔を向けていた。由貴也の姿を隠すように、こちらの肩に手を乗せ、父からの盾になっている。

 何で巴がいるのだろう、と考えたが、おそらく父は、由貴也に一方的な電話をかけた後、彼女にも一方的な意思を伝えたのだろう。祖母に知れないうちに形式を整えるべく婚姻を結ばせると。それで巴があわてて駆けつけたようだ。

 さすがの父も、巴を蹴ることはできなかったようで、足をもとの位置に戻している。

「誓って私たちは人から後ろ指を指されるようなことはいたしておりません」

 由貴也を庇ったまま、巴がきっぱりと断言する。しかし、彼女がそう言ったところで、焼け石に水だとわかっていた。巴のような小娘の意見を聞き入れるような父ではないし、世間の常識など通用しない世界がここにはある。どんなに時代遅れだろうが、あり得なかろうが、ここでは古賀家の価値観が不文律だ。

「由貴也。お前は結婚しなかったところでこの先どうやって生きていくつもりだ。陸上選手にでもなるつもりか」

 父がいくぶんか声の尖りを納めて問いかけてきた。由貴也は答えられない。将来なんて、考えたこともない。数年前まですべてを巴に依存してきた由貴也はまだ毎日過ごしていくのが精一杯で、世界が目まぐるしく見えて仕方なかった。

「このまま陸上を続けたところで、お前がものになるとは俺には思えん。即刻辞めろ」

「叔父さま! それではあまりに――……」

「黙りなさい。陸上選手になるとすぐに答えられないような生半可な気持ちで続けて身を立てられるはずがないだろう」

 父は横柄に巴に口をつぐませたが、今回ばかりはいたって正論だった。つまり、自分には覚悟がないと言いたいのだ。

 由貴也は反論する気力をすっかり失っていた。ここに至って陸上は、由貴也の首に縄をつけるものになってしまった。走るには綺麗事だけではやっていけない。先立つものは金銭だ。今回、陸上を辞めることを避けられたとしても、この先競技を続けていく限り、自分は金の出所である父には逆らえないのだ。例え、理不尽に巴との婚姻を突きつけられても。

 どんなに言っても、言葉は死んでいくだけだ。口と心を閉ざす。

「まあ、あなた。とりあえず中で話しましょう。巴ちゃんも上がってちょうだいな。由貴ちゃんは洗面所にいらっしゃい。顔を冷やさないと」

 母のとりなしによって、場の空気がやわらぐ。それを有り難くは思わなかった。巴も同様だろう。そもそもの元凶は母なのだ。巴がすべて由貴也の母が仕組んだことだと言わないのは、それを信じてもらえるぐらいだったらこんな騒動になっていないとわかっているからだろう。母はどうあっても自らが巴を由貴也のところに遣わしたとは言わない。

「……上がらせていただきます」

 巴の苦々しい声とともに、一同が動き出す。由貴也と母は洗面所へ、巴と父は一足早くリビングへ向かう。

 痛みには鈍感な由貴也だが、さすがに拳で殴られたところの腫れが気になってきた。顔に感じる違和感が気持ち悪い。顔面の右半分に熱を感じるが、父の柔道四段の腕前を考えれば、歯が折れなかっただけマシなのだろう。

 バスルームの続きになっている洗面所に着いて、戸口に突っ立ったままの由貴也に濡らしたタオルが渡される。どこぞのデパートの何とかというメーカーのタオルは頼りないほどやわらかく、柔軟剤の人工的な臭いが鼻についた。

「もう。綺麗な顔が台なしだわ」

 わざとらしく頬を膨らませ、母が由貴也の患部に手を伸ばす。由貴也は体の向きを変え、それを避けた。

 午後の日が射す洗面所は、どこか気だるげで、洗面台や、壁の白さがくすんで見える。そう思ったら急激な疲労が体にのしかかってきた。

「……ねえ、由貴ちゃん」

 母から顔をそらしていた自分の体をからめとるように、二本の腕が胴にまわる。あまりの冷たさに、その腕がまるで闇の中から出てきたもののようで、由貴也は生理的な反応で体を強ばらせた。

 母に後ろから抱きつかれているのだとわかったときには、もう動けなくなっていた。強烈な寒気を感じる。

「ママが由貴ちゃんに陸上を続けさせてあげる。お金のことなら心配しなくていいの」

 睦言をささやくような密やかさで、母が話す。その手が由貴也の体を下から上に滑り、あごに触れた。

「だから巴ちゃんと結婚してずっとママのそばにいてちょうだい。文ちゃんが留学してしまって、寂しくて寂しくて……」

 悄然とした声を出す一方、由貴也の顔を愛撫する母の手つきは、所有物に対するような無遠慮なものだった。

 答えが、由貴也の中で灯る。先ほど母は父が由貴也に「陸上を辞めさせる」と言うのを待っていたのだとこの時知った。すべてが、父までもが母の手のひらで踊る。

 母は家の利害とか、遺産とか、そんなことはどうでもいいのだ。ただこの人は由貴也を自分のいいように扱いたいだけだ。巴を与えて家に縛りつけて、陸上という餌で繋いで、由貴也を完全に自分の“所有物”としてしまいたいのだ。

 自分が物に変質していく感覚に、由貴也の中の何かが壊れて割れた。

 その後、どのような話を父と巴として、どのように帰路に着いたのか覚えていない。ただ壊れたステレオのように、母の自分の名前を呼ぶ声が頭の中で絶えず再生され、強い日が射すアスファルトに、歩く自分の影がゆらゆらと揺れていた。

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