スタート・ゼロ7
竜二が言っていた通り、由貴也は午後の授業にふらりと現れた。
必須科目の英語の授業で、五十人が入る講堂は出席をとるせいか、ほどよく埋まっている。五月の湿り気のない陽は、昼の教室を睡魔に誘うように射し込んでいた。
香代子はすっと教室の前のドアから入ってきた由貴也と目が合う。履修登録後、二回ほどもう授業をしているけれど、由貴也を見たことはなかった。
目が合ったのだから、由貴也も香代子に気づいている。彼はこちらに向かって歩いてくる。その靴が音を立てるたびに、まわりの視線を集めている。にわかに教室内の女子の様子が浮き足立つ。こざっぱりして垢抜けた髪型と、均整のとれたスポーツ選手の体格、何より人間臭さがあまり感じられないほどの整った顔はここでもまわりの目をひく。ただ歩いているだけで由貴也は絵になるのだ。
由貴也は白いシャツにグレーのチェックのベストを合わせて、黒いパンツを履いている。いつもジャージがランニングウェア姿しか見ていないので、私服だと新鮮だ。
と、そんなことをのんきに思っていると、由貴也が香代子の座っている机の横に立って一拍後、無言で端の席に座った。教室内には三人掛けの机が縦三列に置いてあり、学生たちはだいたい真ん中の席を開けてふたりで座っている。香代子は知り合いのいないこの授業ではひとりで壁側に寄って座っていた。
香代子はひとつ空けた隣に、さも当然のように座っている由貴也を見やる。大学では学年による履修制限のある科目の他は一年から四年まで一緒の教室で受ける。由貴也と学年が違っても、同じ授業をとっていれば同じ場所で受講するのは当たり前なわけで――高校までそんなことはなかったので、そんな当然のことも失念していた。
熱気のように、由貴也の存在感がただよってくる。自分の格好は変ではないだろうかとにわかに落ち着かなくなる。ストライプのチュニックにスキニージーンズという動きやすい格好はいつものことだけれど、今日は放課後、バイトがあるのできちんと薄く化粧をしている。二十歳を過ぎたので、身だしなみのひとつとして接客業をするときは必要最低限のメイクをしていた。
「……この授業、とってるの?」
自分の身なりを確認してから、香代子は少し緊張しながら尋ねる。大学はびっくりするほど華やかな女子が多いし、自分の容姿が十人並みなことは承知しているけれど、せめて向こうにがっかりされるような格好はしていたくなかった。何せ、お互い私服で会うのは初めてなのだ。
それにこんなに近くに由貴也がいるのは久しぶりだ。部活初日に『私大に進学した方がよかった』と言って以来かもしれない。そう思うと気まずさに緊張感が増す。
由貴也が瞳だけでこちらを見た。必要最低限の動き、平和な午後に似合わない青白い顔。
「……適当にとったら、この授業になってた」
今日は輪をかけて由貴也は気だるそうに話す。
話すことは多くあるような気がするのに、その憂いた横顔を壁のように感じて言葉を阻まれる。それでも香代子は意を決して声を出すべく息を吸った。
「ねえ、ゆ――……」
“由貴也”。その三文字が喉につかえてどうしても言えない。巴や竜二、クラブのコーチでさえも、気負いなく由貴也の名前を呼ぶのに。
呼び方にこだわるなんてくだらない。下の名前を呼ぶからといって、別に親愛の度合いが高いわけではないとわかっている。それでも呼んでみたいと思ってしまうのだ。
中途半端な呼びかけをしてしまったことが気恥ずかしくて、こっそり由貴也の様子をうかがうと、机に肘をついて、その手のひらに大儀そうに顎をのせていた。伏せたまつげが長い影を作って、一層周囲に対して気のない雰囲気を作り出している。香代子はもう教授が来るまで黙っていた。
授業はシェイクスピアの和訳で、学籍番号順に当てられる。香代子は番号が遅い二回生なのでまだ余裕があるけれど、由貴也はそろそろではないだろうか。と、思っていたら案の定、由貴也は開始早々指された。
鼻の下にちょっとした髭を蓄え、スーツと同素材のベストを着た教授が名簿を見ながら由貴也の名を呼んだ。
明らかに予習をやっていないどころか、テキストすら持ってきていない由貴也に香代子の方があわてる。まったく今までの話を聞いていなかったのか、由貴也はゆったりと香代子の方を向き、眠そうな顔で小首を傾げた。
「ここ。和訳」
思わずテキストを由貴也の方へ滑らせ、該当箇所を指で指す。それから予習して和訳が書いてあるノートも由貴也の前に置いた。
由貴也は英文のみのテキストだけをじっと見る。
「『私はこうして愚か者を我が財布とするのだ。ロドリーゴが去るとイアーゴは嘲って言った』」
次の瞬間、よどみなく由貴也は訳して見せた。シェイクスピアは中世に使われていた古典英語なので、翻訳は相当な苦労を要する。わかりませんと答えて教授をあきれさせる学生が多い中、「はい結構」と由貴也の番はスムーズに終えた。
由貴也はよくよく考えてみれば、文学部英文科の学生なのだった。シェイクスピアは英文科の十八番だ。それに留学経験のある彼は香代子よりもずっと英語が堪能だろう。
彼に比べれば稚拙な英語が恥ずかしくなって、由貴也の前に置いたノートを引っ込めた。彼が必要としたのはテキストだけで、香代子の予習ノートではない。
自分の番が終わった由貴也は香代子にテキストを返してさっそく寝始めた。それはうとうとと船を漕ぐというより、思いっきり睡眠を貪るようなもので、切実に彼が休眠を必要としているのが見てとれた。
竜二の言葉がよみがえる。――アイツは体力があらへんから疲れてまう。回復がおっつかないから調子を落としとるんや。
由貴也は大会後、部活に復帰した。やはり部活とクラブで疲れ果てているのだろうか。あまりよくない顔色のせいか、いつもより陰影が深く、やつれて見えた。
自分は彼に何ができるだろう。トレーナーのように疲れを癒す専門的なマッサージも、コーチのように疲労を軽減させる練習法も彼にもたらすことができない自分はどうすればいいのだろうか。
昏々と眠る彼に手を伸ばしたくなる衝動をこらえた。授業終了のチャイムが鳴る。けれども由貴也は起きない。
「起きて。授業終わったよ」
声をかけると由貴也は机に突っ伏した体を緩慢な動きで起こした。由貴也がすぐ目を覚ましたことに落胆してしまう。今日は部活がない。由貴也はこの後、クラブへ行くのだろう。そう考えると、隣に座っているだけでもいい。まだもう少しだけでいい。この時間が続いて欲しかった。
けれども次の授業に向かって、あるいは別の場所へ向かって講堂を後にする学生たちの波は忙しく、授業中のまどろみはもう霧散してここに留まっていることを許さない。香代子も学生の流れに乗って次の授業に行かなくてはならなかった。
講堂から出て、後ろを見ると、由貴也が走るときの俊敏さが嘘のように覇気のない足どりでのそのそとついてくるところだった。知らず知らずの内に顔を歪めてしまう。疲れている由貴也を見るのが忍びなかった。
彼にとって何が余分か、わかっている。『古賀だけでももてあましてる』『由貴也に必要なのはクラブチームと俺らのコーチや』哲士と竜二の言葉がそれを示す。
香代子は由貴也の元ある道へ戻す――せめてその近くに軌道修正させるのに躍起になっていた。由貴也が近くに来たとき、その目を捕らえる。自分本位な感情は捨てろ、と自身を叱咤した。
「ずっと考えてたんだけど、アンタは部活じゃなくて、クラブ一本にした方がいいと思う」
言い終わる前にはもう驚きが香代子を支配していた。言葉半ばで、香代子の言いたいことの全貌を察したのか、由貴也はまとわりついていた眠気をきれいに払拭していたからだった。
まぶたを落としているのは先ほどと同じなのに、ぼんやりとした気配とは無縁だった。目を伏せていてもなお伝わってくる鋭さに、香代子は息を飲んだ。
部活動とクラブの掛け持ちでは体がきついだろうから。向こうの方がきちんと指導してくれる人がいるから。そんなことを続けたかったのに、由貴也の威圧感が場を圧迫して声が出なかった。
由貴也が視線を上げる。コーティングされたようなその無表情は香代子に対してもう一生、由貴也が感情に基づいて表情を動かすことがないかのような冷たさを持っていた。香代子はにわかに戦慄する。
「アンタにとって俺は走ってないと価値がないの?」
――失望。
一分たりとも表情は変わらないのに、由貴也の言葉には香代子に対する落胆を雄弁に語っていた。
「そんなこと……っ」
香代子は必死になって由貴也につかみかからんばかりの勢いで反論を試みるけれども、実際に彼の胸ぐらをつかんだところで凍った。
完全なる無がそこにはあった。怒りも威圧感ももうない。何も香代子には期待しない目で、由貴也はこちらを見下ろしていた。無関心ゆえの強い拒絶が触れたところから伝わる。
自分は由貴也に”失格“の烙印を押された――。
動けない。遠近感が狂って、由貴也の顔が遠くに見える。声が出ない。膝が震える。
早く、走ってなくても価値があると言わなくては。でも、由貴也が走っていないところなど自分は想像できる――?
香代子がその疑問に到達した瞬間、由貴也はこちらから視線をそらし、体をひるがえすことで彼の胸元をつかむこちらの手を外させた。香代子の心の内を読み、もう話すことなどないと判断したかのようだった。
由貴也が去っていく。不可視であるはずの心が、実際の歩みの何倍ものスピードで離れていくのがわかった。
めまいがする。視界がぶれてよろけると、肩に壁が当たった。そのままずるずると廊下の端に座りこむ。往来の激しくないところだけれども、授業の間の移動時間である今はそれなりの人通りがある。しゃがみこんだ香代子の体に、誰かの足が何度か当たる。邪魔になっている。どかないととわかっているのに、頭の動きが減退していく。
「マネージャー、何やってんの? おーい。聞こえてるー?」
すぐそばで誰かの声がする。誰だろうと考えようとするそばから、思考が形を作る前に霧散する。
どれぐらいそうしていたのだろう。学生の性でチャイムの音にハッとする。間近に人の気配を感じて反射的に横を向くと、根本が香代子の真横に同じくしゃがみこんでいた。
「よお」
軽く手を上げてから根本が立ち上がる。なぜ根本がいるのだろうという香代子の疑問をよそに、彼は体をほぐすように手を突き上げ伸びをした。
「さっ、食堂にラーメン食いに行こうぜ」
根本がくわしい説明もなく、香代子のトートバックの持ち手を引く。こちらが事態が飲み込めないのもお構いなしに、「今日の日替わり麺、麻婆ラーメンなんだよ。食わねえと」と言っている。
「私、お昼もう……」
何とか言葉を吐き出して、腕時計に目を向ける。十四時四十分。昼食には遅い。さっきのチャイムは四限の開始を知らせるものだったらしい。
「まあいいじゃん。俺が奢るし」
香代子は信じられないセリフを聞いた気がして根本をまじまじと見る。年がら年中口を開けば金がないと言っている根本が奢ると言った。明日は槍でも降りそうだ。
根本に半ば引きずられて連れてこられた食堂は、優に二百人は座れるテーブルにぽつぽつと暇そうな学生や外回りのサラリーマンとおぼしき男性が座っているのみだった。根本が食券を買って、トレーに二杯の麻婆ラーメンを乗せてくるまで、香代子はぼうっと座っていた。
「起きたら二時でさ、三限また自主休講だし」
根本が向かいに座ってばつの悪そうに笑う。根本は住んでいる寮が大学に近すぎるゆえに、時間にルーズになり、去年留年しかけたのだった。
こちらの様子を観察するような間が空いた後、根本が箸をとる。
「……まずは腹ごしらえすっか。麺、伸びるし」
そう言って、根本が若い男らしい旺盛な食欲で麺をすすり始める。もちろんつい二時間前に食べたばかりだった香代子は空腹ではなかったけれど、食べ物を残すことは自身の信条に反する。のろのろと食べ始めた。
ラーメンはほどよい温かさで、口に入れると、強ばっていた体がほどけていく。それだけに気を抜くと涙が出そうになってこらえた。香代子はとにかくラーメンを食べることに集中する。由貴也の氷のまなざしとこのラーメンの温かさの落差を感じないように、一心不乱に麺をすすった。
意外なことに、ラーメンを腹に収めると、いくぶんか頭が動くようになっていた。ともすれば震えそうだった体にもきちんと血がめぐっている感じがする。
「で、何があったんだよ」
香代子が食べ終わるのを見計らって、根本が頬杖をついて尋ねてきた。香代子はとっさに「別に何もないよ」と答える。
根本は唐突に今まで手の中でもてあそんでいた箸を置いた。
「部長やマネージャーは何でもないっていつも言うよな。んで、絶対に何でもなくねえの」
根本の口調に普段の軽さはなかった。憮然とした表情の下に怒りが見える。
「何でもないって言われると、突き放されたみたいな気持ちになんだけど」
香代子は虚を突かれた気分になる。何でもないと言って、相手に心配をかけないようにしていたのに、それは裏目に出ていた。相手に頼る価値もない、相談してもムダだと言ってるも同じだったのだ。
誰かに悩みを打ち明けるのが苦手な香代子は、ためらいがちに「あのね……」と切り出す。
「私が間違ってるの? よりよい環境で走って欲しいと思うことはいけないことなの? 体に負担がかかるからクラブ一本に絞れって言ったことはおかしなことなの?」
“誰に”ということを省いて言っても、十二分に根本には伝わったらしい。もしかしたら、根本は先ほどの由貴也と香代子のやりとりを見ていたのかもしれない。
根本が息を吐き出してから、口を開く。
「アイツ自身がプロの陸上選手になりたいってはっきりそう言ったのかよ」
根本は頬杖をついたままで、じっとラーメンのスープの表面を見ていた。
「アイツが本気で陸上で食ってこうって言うんなら、マネージャーの言う通り、部活やってる場合じゃないんだろうけど。俺はアイツの望んでることは違う気すんだよ」
「だって、プロを目指すクラブチームにいるじゃない!」
香代子がいきりたって言葉を返すと、根本はどんぶりから視線を上げた。
「それはマネージャーが勝手に考えてることだろ? それにたとえばそうだとしても、マネージャーがあれこれ先回りしてアイツの進む道を決めんのは何か違うんじゃねえの」
反論したい気持ちはあっても、どう言っていいかわからない。それは胸にわだかまるものはあっても、根本が言っていることが正しいからなのだろう。
「子供じゃねえんだから、どうするかはアイツが決めるべきだろ。それでどうなろうとも、それは古賀自身が負うべき責任だと俺は思うけどな」
いつになくしっかりした根本の意見に、香代子はうつむくしかなかった。それなら、自分が由貴也にやってやれることなどない。彼のライバルにも、指導者にもなれない自分は何の役にも立てない。
「……何かそれって、冷たいよ」
由貴也が疲れて、すり減っていくのを黙って見ていろというのか。あまりにそれは冷淡な仕打ちに思えてならなかった。
「俺はそうは思わないね」
根本は間を入れずに返してくる。香代子には今の根本が巨大な質量を持って目の前に鎮座しているように思えてくる。
「マネージャーがこの先全部のアイツの人生に責任持てんのかよ」
「人生って、そんな……」
「そうだろ? マネージャーはアイツにプロの陸上選手になって欲しいんだろ。クラブ一本でやれってそういうことじゃね?」
言葉に詰まる。自分はただ由貴也により良い環境で走ってもらいたくて、ただそれだけで、それ以上のことを考えていなかった。
「人のやることに口出すってそういうことだろ。それだけの覚悟を持てよ。それにアイツの決めたことは尊重してやるべきだろ」
「だって、何も決めてないじゃない! 大学だって自分で選んだわけじゃないし」
前に根本だって言っていた。由貴也がこの大学に入ったのはひとえに香代子がいるからだと。由貴也は受動的で、自分の基準で選んだものがない。
「それでも、古賀自身が選択して、古賀自身がそれが間違ってることに気づかねえと意味がないんだよ。誰にどんなに言われたってアイツ自身が納得しないと同じこと何回も繰り返すぜ」
根本の言葉に、冷水を浴びせかけられたような気分なる。静かにこれまでの自分を省みると、由貴也は部活に現れた初日といい、今日といい、香代子に軌道修正させられそうになるたび、激しい怒りを示した。自分は躍起になって対話すらなしに、それをねじ伏せることばかり考えていた。それで余計にこじれているではないか。由貴也にマイナスの影響ばかりを与えているではないか。
由貴也の邪魔をしているのはほかの誰でもない自分だ。目の前が真っ暗になる。
「走る理由なんてそんなに固く考えなくていいんじゃねえの。古賀のこと否定ばっかすんじゃなくて、アイツが気持ちよく走れるように支えてやれよ」
根本が語調をやわらげて、諭すように言った。とたんに自分の中で何かが切れた。そう思ったらもうダメだった。
「私、呼び方とか、髪の毛とか、自分の格好とか、他の女の子より見劣りしないかとか、そういうことばっかり気になって……」
堰をきったように言葉が口をつく。外見よりも、もっと大切なものがあるのだと今、後悔とともに思い出した。
「私も、肩書きが大事だったのかな。インターハイの入賞者で、プロを目指してる陸上選手っていう、みんなが認めるような道を歩いている“古賀 由貴也”をブランドものみたいに思ってたのかもしれない」
言いながら視界がぼやけた。涙とともに、どこか過熱しすぎていた気持ちが冷めて落ち着くのを感じていた。由貴也を正しい道に戻らせないとという思いがずっと強迫観念となって自分を締め上げていた。由貴也の人生にとって自分が少しでも価値ある人間でありたかった。自分は彼を救った“あの時”みたいな役割を望んでいた。
「陸上だけが彼が自分自身で決めて続けてるものだと思ってた。だからそれをちゃんとやって欲しくて、粗末にしないで欲しくて……」
一息に言って、しゃくりあげるのを抑えるように机に突っ伏した。根本は何も言わずに、ただ黙って座っていた。自分の嗚咽だけがあたりに響く。
根本のくせに、今日はやけに大人で、かっこいい。自分だけが子供でみっともない。愚かで情けなくて、間違ってばかりで嫌になる。
やがて涙を出しきっておそるおそるひどいありさまだろう顔を上げると、根本は「最高にブサイクなってんぞ」と余計な一言以外の何物でもないセリフを発した。
「俺さ、古賀が入部したばっかりの頃はアイツが何考えてっかわかんなくて、それが気持ち悪くて嫌いだったんだけど、最近はああコイツも普通の男なんだなって思うんだよ。んで、親近感とかわいちゃったワケ」
次のセリフに移る前に、またもや根本は「まあ、マネージャーも普通の女なんだなって思ったけど」と余計な一言を吐いた。
「古賀は、ただ単にマネージャーの前でかっこよく走りてえんだよ。アイツは陸上を粗末に扱ってんじゃなくて、自分の一番いいように使ってんの」
おかしそうに根本は笑う。
「アイツはすました顔して大真面目にそれをやろうとしてんだよ。俺、何か古賀がかわいそうに見えてきてさ。マネージャーがあんまりクラブの方に行け行けオーラ出してっから」
香代子は赤面して言葉を失う。他の誰かから教えられる由貴也の愛情表現は、ことのほか素直でまっすぐだ。自分だけがぴんとこないけれど。
浮かれた気持ちもすぐにしぼんでいく。香代子は顔の赤みを抑えて、眉根を寄せる。
「でも、もうさすがに嫌になったかも。すごい冷たい目で見られたし」
「そんなの気にすんなよ。俺なんて時々虫ケラを見るようなまなざしを古賀から向けられてんぞ」
由貴也のあの冷たい目と、根本が言う『虫ケラを見るようなまなざし』が同じだとは思えないけれど、香代子は笑った。
「根本、どうもありがとう。なんか元気出たし、見直した」
「見直すって、俺のことなんだと思ってたんだよ」
「真美にも今日みたいにかっこよく接すればいいのに」
「………………俺はいつでもかっこいいだろ」
軽いやりとりをしながら、食堂を後にする。自動ドアをくぐったところで根本があっと声を発する。
「どうしたの?」
「今日ジャンプの発売日だ!」
さも重大なことのように言って、根本はそっとジーンズのポケットから財布を取り出して、中味を確認した。とたんに彼の顔が青くなる。
「マネージャー……」
ぎこちない動きで、根本の顔がこちらを向く。顔には力ない笑みが浮かんでいた。
「金貸して!」
両肩に根本の手が乗せられる。逃げられず、なおかつ断りづらい状況が作られていた。
ちょっと見直したと思ったら、やはり根本は根本だ。「先週、ちょーいいとこで終わっててさー。どーしても読みてえんだよ!」とわめき散らしている。
「……いいよ。さっきのラーメン代払うから」
息をつきつつ香代子が言うと、根本はすぐさま「それはいい」と強い調子で返してくる。
「一度奢ったのに返してもらうなんてそんなカッコ悪いこと、俺はしねえ!」
よくわからない根元の持論に、「借りるのだって充分カッコ悪いでしょうが」と言ってやる。
「だってジャンプ読みてえんだよー」
大きな子供という様相の根本に香代子は苦笑して、あげるつもりで五百円玉を財布から出す。
五百円以上のものを、今日はもらったよ、と胸の中で言って、根本の手のひらに乗せた。
眠っている時間が増えた。それだけ体が休息を欲しているということだろうか。
いや、自分のマンションの部屋が落ち着ける場所ではなくなったからだろう。夜間の睡眠が細切れになったからだ。
母親はあの後、足繁く由貴也の部屋を訪れるようになった。由貴也がいるときはかいがいしくこちらの世話をやき、いないときには部屋の中をあさっているようだ。由貴也が巴のことをちらつかせても食いついてこないことをいぶかしんでいる。他に彼女でもできたのかと思い、その痕跡を探しているようだった。
クラブの練習は間近になってきた県選手権に向けて、質量ともに増えつつあった。一回一回の練習が戦争のような激しさだ。
戦闘状態を解除して、体を引きずるようにしてマンションに帰ると母がいる。新妻のような細やかさとはた迷惑な一途さで由貴也の身の回りを整え、そして幼少期の巴との思い出を延々と語る。無理やり過去を思い出させられ、暗示にかけられているような日々だった。巴の白いたおやかな腕が後ろから伸びてきて、由貴也の体にゆるゆると巻きつくような感覚が日ごと由貴也を支配していく。母の作る巴の気配が、香のように部屋にただよっている。
防ごうにも防げない。母は由貴也の部屋のスペアキーを持っているし、言うことを聞かないのなら陸上を辞めさせるという無言の圧力が発せられていた。
逃げなくてはいけない。母はやっと見つけた自分の弱点である“陸上”をとことん使って、由貴也を巴という麻薬に漬けようとしている。そして自分はその酩酊状態が心地よいことを知っている。母を何としてでも追い返さないのは、その酩酊状態に浸りかけているからだ。巴との優しい過去は由貴也を傷つけない。感覚を甘く麻痺させる。だからなおさら早急に逃げなくてはいけなかった。
でも、一体どこに、何を頼りに逃げればいいのだろう――。
体が何かに引っ張られるように痙攣して、由貴也は目を覚ました。
白すぎない、クリーム色の天井が夕日で赤く染まっている。マンションの自室だ。今日は日曜日だが、普通に練習があり、帰ってきてすぐに気絶するようにベットに倒れこんだ。イベントの集中する日曜日に母はこない。気が抜ける。
目を閉じると、意識の奥から声が響く。――“由貴也”と。
思い出したくない。あの日、自分を殺すかのようにその存在を、声を、想いを忘れたというのに、どうして今になってもう一度特別なものとして思い出させようとするのか。自分が巴のことを触れられるとまだ均衡を崩すなどとは思いたくなかった。
助けて、と手を伸ばしても、求める姿が背を向けているとわかっていた。由貴也が差し出せるのはこの前とった金メダルしかない。インターハイ入賞の実績はもう賞状をあげたことで使ってしまったから。それでもこの金メッキのメダルでは足りないと言う。由貴也をなおも遠ざける。
大学生になって、速くなった姿を見せれば、彼女は認めてくれるとどこかで思っていた。だからクラブにも入ったのだ。速さを維持するために。
でも、まだ足りなかった。次もその次も、ずっと勝ち続けて――人間らしい由貴也の弱さは許されない。走らない自分に価値はないのだ。
疲労がまた、意識をまどろみに沈めていく。その浅い眠りを破ったのは、来客を伝えるチャイムの音だった。由貴也は肩を反射的に揺らす。少し考えれば、このチャイムは母の来訪を告げるものではないとわかるのに、体は拒絶反応を示す。母はもうチャイムすら鳴らさずに合鍵を使って当然のように入ってくるのだ。
緩慢な動きで体を起こし、居室の壁に備え付けてあるモニターをのぞいた。そこに写っている人物に、由貴也は言葉を失った。幻かと思った。
靴をかかとを潰して突っ掛けて、部屋を出る。階下へ急ぐ。このマンションは、一度来客は一階のエントランスで部屋番号をセキュリティ装置に打ち込み、住人を呼び出す。住人は部屋のモニターで来訪者を確認してから、エントランスと居住部分を繋ぐ扉を開くのだ。由貴也はその過程をすっとばして、自ら一階へ駆けつけた。
自動ドアのガラス越し、一階のエントランスで立っていたのは、美しい黒髪を持つ従姉――鮮明な実体の巴だった。
「由貴也」
二ヶ月ぶりに会う巴は由貴也の心の中の姿と寸分の違いもなかった。ただ、今はその顔に驚きの色を刻んでいる。
「叔母さまに頼まれたんだ。知り合いのお宅に荷物を届けて欲しいと。お前にだと思わなかったよ」
若草色の紬を着ている巴の手には、風呂敷包みがあった。どうせ中身はどうでもいいものなのだろう。これは母の仕組んだ罠だ。巴に関心のないふりを貫く由貴也にしびれをきらした母が彼女を遣わしたのだ。巴への想いを遂げろと。
「とにかく、何はともあれお前に会えてよかった。大学はどうだ? 一人暮らしできちんと食べているのか?」
気遣う優しい巴の声。彼女は由貴也を決してもう傷つけない。由貴也を振ったことに強い罪悪感を抱いているからだ。何でも許してくれる。由貴也を二度と否定しない。
由貴也が答えずに、じっとその姿を見ていると、にわかに巴は表情を曇らせた。
「……何かあったのか」
それは問いかけの形をとっていながらも、確信しているという響きがあった。巴は何も言わなくてもすぐに由貴也の変化を察してくれる。心のどこかが通じているようで、楽だった。
心が揺れた。巴のそばにいれば、走らなくとも、勝ち続けなくとも許してくれる。巴は無条件で自分を受け入れてくれる。
母の罠だとわかっていた。それでも由貴也は疲れていた。どうしようもなく上手くいかない現実に、勝ちを積み重ねていくことに疲れていた。
救いを求めるように、手を伸ばす。着物の袖から出た巴の手をつかむ。懐かしい感触。巴が驚いた顔でこちらを見ていた。それに構わず由貴也は一層、その細い手首をつかむ手に力をこめる。エントランスには二人っきりで、巴の存在が胸に満ちていく。
目の前の存在をこの瞬間、自分は希求している。
今は愛していない。けれど昔、確かに愛してた――。