07
欠けたところに何を埋めるべきかわからなかった。
十年来の幼なじみでいとこでもある巴を由貴也はずっと想ってきた。息をするように自然に巴が好きだった。
由貴也の喜怒哀楽すべては巴が与えた。自分の根幹を成す部分はひとつ残らず彼女につながっていた。
しかし人の気持ちはうまくいかない。長い間、由貴也は変わりばえのしない三角関係の一辺に組みこまれていた。巴はもうひとりの幼なじみでいとこの壮司がずっと好きだったのだ。
だが壮司は巴に情はあっても恋はしていなかった。
陳腐で安っぽい恋物語だ。我ながら笑ってしまう。おまけについに壮司は巴にほだされて、三角関係は由貴也だけを残して破綻した。
巴を壮司にかっさらわれた今、自分の大事な部分まで根こそぎ持ってかれてしまったように思った。
だからバランスがとれない。空いたところに何を入れていいかわからない。巴がいることによって由貴也は完全体だった。
例え壮司は巴がいなくても生きていけるだろう。あの人にはやらねばいけないことがたくさんある。しかし由貴也には何もない。存在するのは十何年も巴にしつこく執着し続けたた気持ちだけだ。それ以外を別に欲しいと思ったこともなかった。
今の状態は悲しくも苦しくもない。だが何か足りないことが気持ち悪い。それは遠からず自分を破綻させる。
そうはわかっていても何をすべきかわからず、また何もしないままだった。
誰か失恋した者のすべき行動をマニュアルにまとめてくれればいい。そしたら素直にそれに従うのに――。
体が浮遊感に襲われる。深海から水面へ上がっていくようだ。
まぶたを通してもなお感じる光に、目を開けた。蜘蛛の巣がつりさがっている天井で、無骨な白熱灯がまたたいている。
全身が重い。湿気をふんだんに含んだ真夏のような熱が体でくすぶっている。
だるさに任せてまた寝てしまおうかと思ったが、喉が乾いていてうまく呼吸できない。何回か軽く咳をした。
「あ、起きた?」
巴じゃない声がした。右足に誰かに触れられている感覚を察知して足をひっこめる。肌に残る他人の体温が気持ち悪い。
「足つってたから勝手にマッサージしたけど……嫌だった?」
由貴也の顔をのぞきこんだのはマネージャーの香代子だった。機能的なボブヘアーが重力に従って垂れている。
由貴也は香代子の言葉には答えず、顔を背ける。
どうやらここは陸上部の部室のようだ。一体自分がなぜこんなところで寝かされているかわからない。思い出そうとしても記憶にもやがかかっている。練習に出たのかさえ定かではない。
しかし現実に窓から見える外はどっぷり日が暮れている。部室棟に残っている生徒はいないのか、あたりは静まりかえっていた。
「……俺、何かあったわけ?」
思ったままのことを口に出す。具合がすこぶるよくないのはここのところずっとだ。由貴也は環境が変わるとすぐ体調を崩す。今回は陸上部に入ったことが引き金となった。
しかし倒れるほどではなかった気がする。なんとかやりすごせる程度の不調だった。
「『何かあったわけ』じゃないよ! ふらっふらになるまで走るし、止めなよっていっても聞かないし……」
香代子の怒った声が頭に響く。おかげで断片的にだが思い出してきた。
陸上部活動計画を持っていった生徒会室で憎き恋敵、壮司と会った。壮司は生徒会長をやっているのだ。 いまだ巴の転校のことに気づかないあの人に、自分はわざわざ言ってやったのだ。取り返しがつかなくなる、と。巴は壮司への想いを断ち切ろうと遠い地に転校しようとしていた。壮司が態度をはっきりさせないせいで、巴の気力は限界まで達していたのだ。
転校――それは由貴也からも離れていくということだった。
由貴也では巴を引き止めることはできない。由貴也がどんなに言葉を尽くしても、壮司のたった一言にかなわない。
巴がいなくなることなど考えられなかった。だから敵である壮司に塩を送るような真似をせざるえなかった。壮司に引き留めさせるしか巴を行かさない方法がなかったのだ。
乾燥した空気に喉がチリチリと痛む。背中も痛くなってきた。下に何か引いてあるものの、部室の床にじかに寝かされているためだ。
焦点が定まらずに視界がぶれるが、お構いなしに体を起こそうと床に手をつく。
「待って! 起き上がらないで!!」
ちょっと上体を起こしただけで、香代子は血相を変えた。具合が悪いときに彼女のキンキン声は勘弁してほしい。
由貴也は体の力を抜いて、もう一度上体を倒した。力を抜きすぎたのか、頭が床に叩きつけられてシャレにならない音が鳴った。
また香代子に何やってんの! と怒鳴られるかと思ったが、彼女は赤くなって顔を背けているだけだった。
「あの……その、悪いと思ったんだけど、汗だくだったから余計に具合悪くなっちゃうと思って……えっとTシャツとか……」
普段のやかましさはなりをひそめ、香代子はしどろもどろに言葉を発する。自分の体にかけられているベンチコートをめくると、下着しか身につけてなかった。
一体全体どういう状況なのかと考える。行き当たった結論に妙に納得した。
「……アンタそういう趣味だったんですか?」
「何言ってんの! アンタが汗だくだったから脱がせただけっ!!」
力いっぱい否定され、香代子痴女説は消えていく。
なんだ、と息をつき、今度こそ体を起こす。
「だから起きるなって言ってんでしょっ!!」
香代子が悲鳴に近い声を上げたが、それを無視して立ち上がる。パンツ一丁で部室内をペタペタと歩いた。
「俺は気にしないから」
「私は気にするっ!!」
香代子の声を意図的に意識の外へと出し、自分のロッカーから制服をとりだす。スラックスに片足突っ込んだところで、唐突にめんどくさくなった。
ここにいるのが巴ならばすかさず甘えてみるところだが、香代子相手にそれをしても何の意味もない。重たい体を動かしてスラックスにもう片足突っ込んだ。
ワイシャツをはおり、ボタンを適当に閉める。掛け違えている気がしないこともなかったが、気にしないことにする。
淡々とやるべきことをこなす。おかしかった。巴を世界の中心にして回っていたはずなのに、こうして何の支障もなく日々が流れていく。
唯一イレギュラーなことといえば、陸上くらいだ。なぜか自分は巴にふられた後、もう一度陸上をしてもいいと思った。
軽い気持ちで始めたのに今、走らなければいけないと思う。強迫観念のように由貴也の内側から攻撃してくる。
そのくせ走っている間はいつも霧の中を走っているようで記憶がはっきりしない。
自分はどこへ向かって走っているのか。中学のときは考えもしなかったことを今は考える。
答えは出ない。出すのも億劫だ。
「……ねぇ、大丈夫?」
一応由貴也が身なりを整えると、香代子がらしからぬためらった様子で尋ねてきた。
その表情には体調の心配だけでないものが含まれている。
――ああ、この人もか。
冷めた気持ちでアタリをつけ、感情をこめずに言い放つ。
「知らない人が俺たちのこと知ってるって気持ち悪いよね」
巴とのことが噂されているのは知っている。それは別にいい。由貴也にとってそれは塀の外側で起こっていることだ。
由貴也が嫌悪するのは、塀を無神経によじのぼり、同情の手をさしのべてくる存在だ。
その同情の手を百人分集めれば巴がこっちを向いてくれるというのであれば、由貴也は迷わずやった。しかしそうではないことは痛いほどよく知っている。巴が壮司しか眼中にないということは身に染みて痛感していた。
今の由貴也は巴の残り香で自分を保っている。誰の同情もいらない。余分な感情は巴の面影を汚す不純物に他ならない。
由貴也に“知らない人”と位置づけられた香代子が固まっていた。
香代子のショックなんてどうでもいい。巴の手以外いらない。
由貴也の世界は巴とそれ以外で構築される。これまでもこれからも。
香代子を思いきり拒絶し、由貴也は彼女に背を向けた。
由貴也に他人の介入する隙間はまったくない。
香代子に一瞥も与えず、由貴也は部室を後にした。