スタート・ゼロ5
新聞社主催の今大会は由貴也にとってある種の因縁を持った大会となっている。
初出場の高二の時には当日に体調を崩し、百メートルは欠場した。そしてリレーを巴に見てもらった最初で最後の機会になっている。
去年の高三の時は、シーズン初めの小手調べとしてこの大会に出て優勝した。しかしその後は調子を崩し、インターハイまで全国の切符をつかめなかった。
三回目の今日、由貴也はディフェンディングチャンピオンとして出場する。とはいえ種目数の多い陸上ではそこまで前年の優勝者に注目が集まることはなく、由貴也はいたって気楽だった。競技以外のところで気を遣うのはまっぴらだ。
「デビュー戦や。せいぜい派手に暴れたろ」
バスから降りて、竜二が長身を存分に伸ばして体をほぐしている。それはどこか獣が狩りの前に舌なめずりをするのに似ていた。
バスからは他にも三人のクラブメンバーが下りてくる。院生がひとりに、高校生がふたりだ。やはり華耀子が直々に選んだ彼らは一癖も二癖もありそうな顔をしている。
最後に下りてきた華耀子はのりがよくきいていそうなシャツに、細かいストライプのパンツを履いている。競技場にはあるまじき姿だが、
練習のジャージ姿よりも不思議と気合いが入って見えた。
由貴也が言うのも何だが、コーチの華耀子といい、メンバーといい、異色のチームであることは間違えなかった。ここまで来るバスの中で華耀子はファッション誌を気のない様子で読み、院生はパソコンを持ち込んで論文を打ち、高校生は携帯のワンセグでテレビを見、竜二は持ち運び用の鏡を前に鼻歌を歌いながらツンツンと髪の毛を立てていた。まったくもって統一性のないチームである。
立志院の部活に所属していた時とずいぶん違う、と思いつつも、華耀子の型にはまらないクラブの在り方が楽だった。
――私の指導方針は古賀 由貴也という選手に合っていると思ったのよ。
華耀子の言葉が脳裏に浮かぶ。初めて彼女と会った春休みに聞いた台詞だ。由貴也は陸上の、もっと突き詰めて言えば走ること以外に労力を使うのは御免被りたい。先輩も後輩も、面倒な規則もなくただ走ることだけ考えていられる状況は自分に合っているのだと認めざるえなかった。
「由貴也。何さっきからそわそわしてんねん。トイレでも行きたいんか?」
隣を歩く竜二に呼びかけられて、顔を上げる。おもいおもいに過ごすバスの中で由貴也は窓の外を眺めながらずっと落ち着きなくそわそわしていた。
「……早く帰りたい」
由貴也がぼそっとつぶやくと、すぐさま竜二がぎょっと目を剥く。面倒な気配を察し、そっと彼から距離をとる。
「何言うとんねん! 俺とふたりでワンツーフィニッシュしたいって言うてたやん!!」
竜二は逃げようとする自分の前に回り込み、由貴也の両肩をつかんでまくしたてた。いつの間にか由貴也こそがワンツーフィニッシュしたいという言動をとったことになっている。
「……だって今日、『キラメキ☆青空はいすくーるスリー』の発売日だし」
言葉にした瞬間、すぐにゲーム屋に行きたくなってきた。胸がじりじりとうずく。バスの中からゲーム屋が見えるたび、由貴也はバスを止めて買いに行きたい衝動に駆られた。今日が大会でなければ、夜を徹してゲーム屋の前に並び、昼夜の区別なくプレイに没頭したはずだった。
「きらめき……? 何やそれ。そんな学校あるんかい」
竜二はなんのこっちゃ、と首をひねっている。あんな名作を知らないとは嘆かわしいことだ。
とにもかくにも、散漫になっている気持ちを走るためにひとつに集約させなければならない。とりあえず脳内でキラメキ☆青空はいすくーるスリーの主題歌をエンドレスリピートしながらモチベーションを上げようと試みた。ちなみにスリーの主題歌は先行配信でダウンロード済みだ。
競技場に入ると、一斉に視線がこちらに集まる。開会式前のトラックではウォーミングアップのために各々散らばって走っていたり、荷物を置いたり休憩のためのテントを張ったりしている。それらの動きが一瞬止まり、喧騒が弱まった。
隣で竜二が不遜に笑う気配がした。見る者を挑発するかのように口角をつり上げる。
竜二はインターハイ準優勝、院生は一昨年の全日本で入賞した。高校生たちはそれぞれ中学生の時に全中で活躍したと竜二から聞いている。いずれにしても県内レベルに留まらないくらいのビックネームであるのは間違えなかった。
それが若い女コーチに率いられてクラブチームに所属しているのだ。注目を集めないはずがない。あつらえたばかりの黒地に赤ラインのクラブジャージは青空の下、禍々しく映るのかもしれない。
「久しぶりにこないな視線受けたわ」
心底愉快そうに竜二は喉を鳴らして笑う。華耀子の連れてきたメンバーは自分以外誰をとっても華耀子に見いだされるまで不遇と呼ぶにふさわしい境遇にあった。院生は一昨年の全日本の後、ひどいスランプに陥り、竜二はケガ。高校生は入ったばかりの高校の陸上部で暴力事件が起こり、廃部の憂き目にあった。メンバー間での連帯意識というものは皆無だが、その代わり華耀子に救われた者ばかりなので彼女の言うことは伏して従う。そういう意味ではこれ以上統率のとれた集団もなかった。
「由貴也は注目受けてうれしないんか?」
おそらくまったく表情が変わっていないであろう自分の顔を竜二がのぞき込んでくる。人々の視線を快く感じる竜二の生態は由貴也には理解しかねるが、逆も然りなのだろう。彼は不思議そうにこちらを見ている。
その竜二に一瞥を返す。
「うっとうしい」
これまでの経験からディフェンディングチャンピオンなだけではたいした注目は受けないと思っていたのに、とんだ誤算だ。由貴也はこのわずらわしい状況から抜け出すべく、歩を進めた。もちろん竜二がついてくる。
「ほんま変わっとるなぁ、由貴也は。去年のインターハイではあないな凛々しい顔で走ってたのに、普段はこんなんやからな。オレ、クラブで実物と初めて会った時、あまりにふぬけてて驚いたわ」
よくよく聞いてみるとわりと失礼なことを言っているのだが、もう竜二の相手をするのも疲れてきた。口を貝のように閉ざしたまま、開けずにおく。
「由貴ちゃん!」
一刻も早く、クラブの補助員が準備したテントに逃げ込みたい由貴也だったが、不意に後ろから呼びかけられる。若い頃の華やぎをまったく失わず、かえってそれが不気味だと由貴也が常々思っていた声だった。
刹那、思考が止まったが、すぐにこのまま気づかないふりをして当初の予定通りテントに逃げ込むべきだという判断を下す。しかしその一瞬のタイムロスこそが命取りになった。声の主に媚びを含んだ仕草で腕をとられる。
「由貴ちゃん、全然連絡くれないんだもの。ママ調べて来ちゃったわ」
ふふふ、と花の香を含んだような甘さで笑うのは由貴也の母親だった。白髪のない艶やかな巻き毛に、ブランド物の仕立てのいい服を着て、わかりやすく“女”を演出している。
エステに美容院に習い事にランチに忙しくしている母は、気まぐれにしか由貴也のことを思いださない。だからまったく母が来ることを予期していなかったが、父は海外赴任に向けて忙しく、兄は留学していることを念頭に置いておくべきだった。そういうわけで相手をしてくれる家族がそばにおらず、母は暇を持て余している。今回の大会は新聞社主催だ。大方、昨日の新聞に大会の予告記事が載り、前年度優勝者として由貴也の名前が記されていたのだろう。それを母の友人の誰かがご親切にも彼女へ教えたのだ。母自身は新聞を始め、活字全般を読まない。
母の甘ったるい香水がただよってきて、由貴也は胸焼けを起こしそうになる。母につかまれている腕を振り払おうとするが、余計に力をこめられて拘束された。ラインストーンやらラメやらがくっついている母の爪が由貴也のジャージに食い込む。
「由貴也のお袋さんかいな。えろうキレイやなー」
竜二が手放しに誉めちぎる。大学時代、ミスコンで優勝したことのある母は確かに美しいのだろう。それを“過去の栄光”にしないべく、彼女は贅沢に金と手間をかけて今もまだ自分を磨いている。
だが、若い男から屈託のない称賛を受け、それにわずかな媚態を込めて「ありがとう」と答える母の姿は醜悪だった。
「昨日の新聞には由貴ちゃんが優勝候補だって書いてあったわ。そうだわ、こんどはお祖母さまと、巴ちゃんも呼びましょうよ。由貴ちゃんが走っている姿を見てもらいましょう」
まるで恋人のように腕をからませ、母が歌うようにまくしたてる。由貴也はたまらず、今度こそ渾身の力を込め、腕を振り払った。「きゃっ」と母が小さな悲鳴を上げる。よろめいた彼女を竜二が支えていた。
「……何しに来たの」
母を睥睨し、平坦に言い放つ。何か余分に感情を込めれば、そこをねっとりと母にからめとられる。
それが効を奏したのか、母は目に見えて狼狽した。
「何って応援よ。母親ですもの」
応援。その単語に由貴也は冷笑を浴びせかけた。大会ごとに定められた標準記録がまだ突破できなかった中学一年生の頃、記録を伸ばそうと地道に記録会にエントリーする由貴也には目もくれなかったというのに。
由貴也はひとしきり笑ってから表情を消し、母の横を通り過ぎた。後ろで何事か言っていたが、無視する。
――不意に、長い黒髪の幻が、前を横切った。
手を伸ばしたくなる衝動をやり過ごしてから、叫ぶように思う。だから嫌なのだ、母と接するのは。無理やり由貴也の心をこじ開けて、その中の巴を引っ張り出そうとするから。巴の存在は由貴也の奥底にしまいこまれている。だから由貴也の抱える巴を探して母はいろいろなものを――陸上などを無茶苦茶に踏み荒らす。
テントには華耀子も、院生も高校生たちもいない。母の愚痴でも聞かされているのか竜二も来ない。それをいいことに由貴也は開会式をサボってテントで転がっていた。なんだか全部がめんどくさい。
立志院を卒業し、一時的に家へ戻ってから続く母の“巴推し”にはほとほと辟易している。そのたびに由貴也は母によって引きずり出された巴に重しをつけ直して胸の奥底に沈める作業を行わなければいけない。それはとてつもなく由貴也を消耗させることだった。
“どこか悪いの?”
唐突に記憶の底から“彼女”の声が響いてくる。
いつのものかと、胸の中を探る。ああ、立志院の陸上部に入ったばかりの頃の練習試合だ。あの時もこうんなふうに昼休みにテントに転がっていた。
ベンチコートをかぶって目をつぶる。今頃、大学の方で忙しく動き回っているであろうその姿を思い浮かべる。アンタがここにいたら、自分はムダなダメージを受けてテントの隅でこんなふうになっていなくて済んだのに。
「由貴也、何しとんねん」
いつの間にか開会式が終わったのか、そばに竜二が立ち、寝転がる由貴也を見下ろしていた。
「お袋さん見に来て恥ずかしいのはわからへんこともないけど、あの態度はいかんでー」
腰に手を当て、竜二は頑是ない子供のように自分を叱る。母と接した男は例外なくその味方にまわるのだ。
「……あの人は?」
竜二のお小言を聞き流して、母親の所在だけを尋ねる。ここまで来られてはたまらない。幸い、体を起こして辺りを見ても、それらしい人物は見たらなかった。
「コーチと話してはったで。『ずいぶんお若くてお綺麗でいらっしゃるのね』て言うてたわ」
竜二は単純に由貴也の母の言葉を華耀子への誉め言葉だと受け取って誇らしげだが、実のところ称賛を装った嫌味に過ぎないだろう。母は自分より若くて綺麗な女に容赦がない。例外はお気に入りの巴だけだ。
「ええとこ見せてお袋さん喜ばせてやりや」
「いいとこねぇ……」
美しい親子愛推進委員会とでもテロップが流れそうな竜二の様子を横目で見つつ、適当に答えてアップするために小トラックへ向かう。エントリーしている百と二百の内、今日は百のみだ。ちなみに始めたばかりの二百は、春休みの内にごく小規模な記録会に出場して今大会の標準記録を破っておいた。
「注目浴びんのも嫌で、お袋さん喜ばすのも嫌やて、何のために由貴也は陸上やっとんのや」
由貴也の言うことは手応えのない答えばかりなのか、竜二が口をとがらせてついてくる。
竜二の何気ない一言の方に、意識をとられる。何のために陸上をやっているのか。
あの時、確かに失恋の痛手から立ち直るために必要だった陸上は、今やある種の手枷足枷となって由貴也を縛る。
「なあ、由貴也。あの子がお袋さんが言うてはった『巴』ちゃんいうんか?」
竜二のごく自然な問いかけに、まさか巴が来ているのかと、彼の視線の先を追う。
そこに風になびく黒髪はなかった。由貴也たちと正反対の白い大学の陸上部のジャージに身を包んだ香代子が小トラックの端で、哲士にテーピングを施している場面だった。
「あの子が由貴也の女なんやろ? 親公認なんか?」
どうやら竜二は香代子を母から聞いた『巴』と間違えている。いや、それよりも――。
ちょうど、視線を感じたのか香代子がこちらを向いた。目が合う。ひさしぶりに見る彼女の姿をじっと瞳に納める。向こうは目を見開いていた。
風が吹き抜け、競技場を駆け抜けた。木々の新緑が揺れる。視線がつながったのは一瞬だけで、すぐにそらされた。そのあわてたような目線の外し方は由貴也に向けてのものというより、隣の竜二を見てのもののように思えた。
「……何したの」
なぜ竜二が香代子を知っているのか。それに今の香代子の行動は何なのか。おそらく、ふたりはすでに面識があるのだ。そしてその繋がりは自分――由貴也は低く問いかけて、竜二に瞳を向けた。
竜二は失言に気づいたのかあからさまにしまった、と顔を歪めて「いや、たいしたことじゃないんや。ほんまにたいしたことじゃ……」と口の中でもごもごと言いわけをする。自ら香代子との繋がりを暴露して、本当にわかりやすく自滅してくれる男だ。
なおも視線を送り続けると、逡巡の後、竜二が重く口を開く。
「いやな、ちょーっと言っただけやよ。由貴也の邪魔せんといてやってって」
すっと竜二に向けた目線の温度が下がった気がした。どうしてこうもうっとうしいことだらけなのだろう。
「そ、そんなに怒らんといてや」
ごまかすように冷や汗をたらしながら竜二が笑っていたが、由貴也は無視してアップ用のシューズに履き替える。もう早く帰りたいという意識は吹き飛んで跡形もなくなっていた。
「由貴。あなたここにいたの」
ひもを結び終えたところで、華耀子が小トラックに現れた。春の陽光に、開襟シャツの胸元を彩るネックレスが光る。
「ちゃんと水分補給は怠らないようにしなさい……竜、何してるの」
いじけている竜二に向けて、華耀子がいぶかしげに問う。「何でもないんや、何でも」と竜二は明らかにダメージを受けて沈んでいた。
トラックを向いて立ち上がる。自分が陸上をし続ける意味はわからないが、少なくとも、彼女に視線をそらされるために走っているのではない、と思った。
「香代子ちゃん」
突然、耳になじみのない声で呼ばれて反射的に振り向く。大会後、撤収する人で競技場はせわしない雰囲気が流れていた。
そこに座る人物を認め、香代子は思いっきり顔をしかめる。先ほどの表彰式でもらったばかりの金メダルを首にぶら下げて、木陰で手招きする男――五十嵐 竜二だった。
「なんでアンタにちゃんづけで呼ばれないといけないのよ」
香代子は腰に手を当てて憮然として答える。ここ数年、ちゃんづけで呼ばれたことはない。それだけで鳥肌がたちそうになる。
けれども竜二は香代子の不快を意に介した様子もなく、むしろ何が悪いときょとんとしていた。
「女の子ちゃんづけで読んで何が悪いんや。アンタも一応女の子やろ?」
一応女の子と言われると、自分でも一応そうですと答えたくなってしまう。香代子は正真正銘どこから見ても“女の子”やってます、と自信満々には言えなかった。
「ともかく、ちゃんづけは止めて」
「じゃあ、なんて呼べっつうんや。オレ、女の子名字で呼ぶの嫌なんや。由貴也にはなんて呼ばれてるんかいな?」
この男と、なぜこんなところでこんな会話をしているかはともかく、竜二に問いかけられて、香代子はぐっと言葉に詰まった。改めて考えてみると由貴也に名前を呼ばれたことがない。たいてい『アンタ』か、ときどき『先輩』だ。
「……言っとくけどねえ、別に私と古賀 由貴也はつきあってるとかそういうんじゃないから!」
きっぱりと言いきって、なんだか自分が自分でむなしくなってきた。自分と由貴也の関係はただの先輩後輩と言ってしまえばそれまでだ。由貴也が部に顔を出していない最近では、その関係すら薄い。
一昨日、大会一日目の朝を思い出す。若い女コーチに率いられた、黒いジャージの一団。彼らは明らかに他とは違う雰囲気を放っていた。近寄り難く、畏怖を持って見られる対象としてそこに存在していた。
”エリート集団“。誰もが彼らのことをそう位置づけていたはずだ。そしてその意識を裏付けるかのように彼らは圧倒的な速さをこの大会で見せつけた。中でも圧巻だったのが、竜二の二百メートル・四百メートル走の二冠だ。
「何や、アンタんとこの根本っつうやつに聞いたら由貴也の女はアンタやって言うてたで」
大会史上初の二冠を打ち立てた竜二は、今はそこら辺にいるチャラい男と変わらない顔をして話す。彼も由貴也と同じく、走るときは何かが憑依したように人が変わるタイプのように見えた。それが才能というものなのかもしれない。
「別に私たちがつきあってようとなかろうと関係ないでしょ」
香代子はそっけなく言い放つ。どうしても竜二を邪険に扱ってしまう。それは彼が香代子の届かない“由貴也と同じところ”に立っていることからくる嫉妬なのかもしれなかった。
「そんなに言い方することないやろ。かわいくないで」
「なんでアンタにかわいくして見せなきゃならないのよ」
反射的に竜二に対する嫌みを放ってから、すぐに自己嫌悪に追いつかれる。かわいいかわいくないはともかく、人としてこの態度はないような気がする。
けれども、香代子の反省などお構いなしに、竜二は「まあええわ」と自己完結して笑う。
「オレ、今日はアンタに感謝したい気分なんや」
竜二は胸元の金メダルをもてあそびながら無邪気に笑う。今日は大会最終日、四百メートルで竜二は優勝した。
「私に感謝って……何にもしてないけど」
感謝される筋合いも何もない香代子がいぶかしげな視線を送ると、竜二は不敵に笑う。それでいて心底楽しそうでもあった。
「この前オレ、アンタのこといじめたやん」
いじめた、とは先日、大学のグラウンドで香代子と由貴也を引きはなしたことだろう。ここまで悪びれもせずに言われるといっそ清々しい。香代子はあきれつつも、竜二の言葉を待った。
「それが由貴也にバレてもうてな。そしたらアイツ、やっと本気出したんや」
竜二に言われて、改めて一昨日のことを思い出す。大会初日、百メートルで由貴也は優勝した。予選、準決勝ともに一位通過で、決勝でも自身が打ち立てた去年の大会記録こそ更新できなかったけれど、竜二を振り切り傑物じみた速さを発揮した。こちらも大会初の連覇だ。もっとも、去年は高校生の部、今年は一般の部で出場しているので、厳密には連覇ではないけれども。
「由貴也は体力があらへんやろ? だから無意識に体力温存しようとして自分の力をセーブするんや」
そういえば昔、哲士もそんなことを言っていた気がする。由貴也は確かにスタミナ不足で、予選・準決勝・決勝と三度走るとだいたい最後で疲れて自滅するのがお決まりのパターンだ。
「どないすれば本気出させられるのかなーと思って、いろいろ挑発したりしたんやけど、アンタのこと持ち出すのが一番みたいやな」
由貴也が百で優勝したことによって、竜二は三冠を果たせなかった。にもかかわらず、彼は上機嫌で笑ってる。三冠より、由貴也に本気を出させる方が彼にとって重要なのだ。
「別に、私のことどうこうじゃなくて、ただ単にアンタが気に食わなかったんじゃないの」
由貴也が自分のことで怒ったり、取り乱す姿など想像できない。
それにしてもこの減らず口はまたもや憎たらしいことを言う。香代子が後悔していると、竜二が気分を害した様子もなく「オレのことぶちのめしたいと思わせたんならそりゃ光栄やわ」と快活に笑った。
ご満悦といった様子の竜二に、香代子はずっと疑問に思っていたことを尋ねようと口を開く。
「ねえ、どうしてアンタはそんなに会って間もないチームメイトに固執するの?」
由貴也の受験が終わった後から一緒に練習しているにしても、彼らは知り合ってからまだ二ヶ月だ。今日のふたりの接し方を見る限り、竜二はともかく、由貴也は持ち前の人見知りと警戒心の強さを発揮しているのか、竜二に完全に打ち解けているとは言いがたかった。それなのに竜二は由貴也のことを異様に気にしている。それはチームメイトの域を越えているように思えた。
竜二は太陽が翳ったようにかすかに笑った。今までとは明らかに違う笑みだ。
こんなに競技場は人で溢れているのに、彼ひとりしかいないような孤独さが膜となって竜二を包んでいた。
「……なんでやろなあ。もうひとりで走んのはヤなだけかもしれへんなあ」
ひとりで走る。彼の言っていることがわからなくて答えを求めるように視線を向けると、竜二の膝のサポーターが目に入った。彼は怪我で長いこと低迷していたのだった。
香代子の視線に気づいたのか、竜二はサポーターに手を当てて苦笑する。
「まだ怖くて外せへんのや。こんなもん走るのに邪魔なだけやのにな」
愛しいのか、憎いのか、何とも言えない表情で竜二は膝をなでていた。かつて竜二を散々苦しめた体の一部。
「オレがいた大学は、三軍まであったんや」
竜二が静かに語り始める。彼が指す『大学』とは、今在籍している私大ではなく、かつていた関西一の陸上強豪大のことなのだろう。そこは華々しい実績とともに、大勢の部員を抱えることで有名だった。
「一軍はもちろん全天候型の、舗装がゴムでされとるグラウンド使えるんや。んで、二軍は練習場が郊外に移るんやけど、やっぱりゴムやな。お待ちかねの三軍はな“墓場”や」
竜二が一日の終わりを告げる夕日を浴びながら冗談を言うような軽さで笑みを深める。断末魔のように凶暴な最後の陽は、竜二の顔の陰影と金メダルの輝きを強める。その対照的なふたつが、今まで竜二がたどってきた道を暗示しているかのようだった。
「水はけの悪い、土のグラウンドでな、しかも周りは木に囲まれとる。じめじめしていつも水溜まりに落ちた葉っぱを掃除しとるような陰気なとこや。練習どころじゃあらへん」
三軍の説明から、にわかに竜二の口調に現実味が増した。怪我での長い不調を考えると、竜二は在部していたほとんどの時間を三軍で過ごしていたのではないだろうか。
どう考えても竜二の語る劣悪な環境では悪循環だ。土のグラウンドは反発性がない。痛めた膝をさらに悪化させてしまう。
「要は見せしめなんや、三軍つうのは。一軍と二軍のやつらにこんなんにはなるんやないぞ、ってな」
厳しい強豪校の現実に、香代子は少なからずショックを受けた。
同じチームなのに、三軍はまるで選手扱いをされていない。一軍と二軍を奮い立たせるためだけのずっと低い存在だ。
「練習試合にすら出してもらえへんで、ただ腐っていくのが三軍や。そんの中でまともな人間関係なんてできるわけあらへん。あるのは傷のなめ合いと、自分はこいつらとは違うっちゅう同族嫌悪や」
由貴也も、哲士も見てこなかった“地獄”を竜二は知っている。速さと栄光の裏にある、どこまでも残酷で深い闇。
竜二のいたところは蟻地獄のようだ、と思った。いくら這い上がろうともがいても、つかめるのは砂ばかりでずるずると落ちていく。穴から見える空にはどうしたって届かない。それが走れる環境を奪われ、人為的に最下層に閉じこめられている三軍だ。
「せやから今、ゴムのグラウンドで走れるだけでも楽しいし、ライバルってやつがいるのもうれしいんや」
この前、哲士が見せてくれた、陸上雑誌の誌面を飾っていた竜二の笑顔は、確実に今のものとは違っているのだろう。それでも竜二は陸上ができるよろこびを噛みしめて、屈託なく笑っていた。
竜二はおそらく、由貴也が“組織”に押しつぶされてしまうのを懸念している。自分がそうであったゆえに、由貴也を部活から引き離そうとするのだ。その竜二を非難することは香代子にはもうできなかった。
「オレ、どうしてもわからへん。由貴也はゴムのグラウンドも、クラブのバックアップも、優秀なコーチもいるやないか。やのに、“土”のグラウンドに戻ろうとするのが何かな……もどかしいんや」
“土”のグラウンド――大学のグラウンドは土だ。由貴也は最高の環境を捨てて、あえてこちらに来ようとする。大学の白いジャージよりも、クラブの黒いジャージの方がもうずっと似合っているのに。
「別にこんなこと話しにきたんやないんやった。辛気くさい話聞かせて堪忍な」
さっぱりとした様子で打ち切って、竜二は「よっ」と立ち上がる。夕方の風が、彼の金色の髪を揺らした。
「……嫌なこと思い出させてごめんね」
竜二が言葉を継ぐ前に、やっとの思いで言葉を挟んだ。竜二が嫌いでもなんでも、言っておかないといけない。
竜二は顔だけで振り向いて淡く笑む。
「ええよ。アンタも一応かわいいところあるんやな」
からかうように笑われ、香代子は渋面を作りつつも、顔が熱くなるのを感じた。素直になるとすぐこれだ。バカにされたようで少しおもしろくない。
「ところで、由貴也、夏苦手じゃあらへん?」
長い前置きが終わり、竜二はやっと本題に入ったようだった。
「夏……? 暑いのってこと?」
「うーん、まあそういうことやな」
竜二は何が聞きたいのだろう。意図がわからないけれど、香代子はありのままにわからないと答える。香代子は引退やら卒業やらで夏を過ごす由貴也を間近で見たことがないのだ。
「アンタでもわからへんか。オレが見た感じだと、わりと由貴也、大きな爆弾抱えてんで」
「え……」
呟いたっきり、言葉を失う。不穏すぎる言葉に、思考が止まる。スポーツ選手の“爆弾”とは故障などの致命傷を指す。
「何もそんな顔せんでもええよ。暑さ対策きちっとして、あとは気の持ちようや」
それだけ言って、ひらひらと手を振って竜二が「ほな、またな」とさっさと帰ろうとするので、香代子は思わず竜二の腕をつかんだ。ランニングからむき出しの腕は、筋肉質で固い。
「爆弾って何? ちゃんと説明して」
香代子の剣幕に気圧されたのか、竜二はあっけにとられた顔でこちらを見下ろしていた。
「言ったやろ、気の持ちようやって。下手に意識すると自分の体に恐怖心を抱くことになる。アンタに言うたらすぐ由貴也まで筒抜けや。香代子ちゃんは考えてることすぐ顔に出るタイプやろ?」
図星すぎてもう何も言えない。まったくもってその通りで言葉に詰まった。
「由貴也、明日からまた部活に戻るっつうんや。アンタしか頼めへん。由貴也のことよく見といてや」
そんなことを言われたらはいと答える他ない。香代子は黙ってうなずいた。
「にしても、由貴也はアンタに惚れとんのやなあ。百の時のえげつなさっつうたらないで。予選から決勝までオレに一回も先行させへんかった。よっぽどオレがアンタをいじめたこと怒っとんのや」
「止めて」
気がついた時には険しい声が喉を越えていた。由貴也が誰かのために何かをするということがもうあってはならない。自分のために自分を奮い立たせられなくてこの先どうするのだ。由貴也は思考を放棄している。彼は誰かのために身を捧げて、その結果自分が破滅しても構わないといまだに思っている。
自分がずっとやってきた陸上を、どうしてこんなことに使うのか。どうしてこんな理由でなければがんばれないのか。そう思うと苦々しさがあふれ、唇を噛んだ。
竜二が嘆息する気配がした。
「アンタらのことはよく知らんけど、由貴也はアンタのことになるとちょっと人が変わる。きっと良くも悪くもや。アンタのことでゴタゴタするとたぶん、走りの方にも響くで」
今度こそ、腕をつかんでいた香代子の手からすり抜けて、竜二は歩き出す。
「せいぜい『巴』ちゅう女に盗られへんようにな」
最後に、香代子のがかわいく思えるほどの特大の嫌みを放っていった。何で竜二が巴のことを知っているかはともかく、香代子は怒りなのか驚きなのかはっきりと区別がつかないまま、口をぱくぱくと動かした。
「あ、そうや」
竜二の足が突然止まり、もう一度香代子の方に体を向けた。
「香代子ちゃん、きらめきなんたらって知っとるか?」
「はあ?」
あまりに今までとかけはなれた問いかけに、香代子はまぬけな声をもらす。
「いやな、由貴也二日目の二百、準決落ちしてひどかったやろ。やから理由を聞いてみたら、その、きらめきなんたらを一晩中やってたつうねん」
「…………」
「オレ、そのきらめきなんたらって全然わからへんのやけど、そんなにええもんなのかと思ったんや」
「……それって『キラメキ☆青空はいすくーる』?」
「そう、それや!」
竜二の顔はぱっと輝いたけれど、香代子は脱力のあまりへたりこみそうになる。
由貴也の不等号式は香代子でも陸上でもなく、ゲームに口が開いているのかもしれなかった。