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初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
67/127

スタート・ゼロ4

「ありがとうございましたー!」

 香代子はガソリンスタンドを出ていく車にキャップを外して頭を下げる。時刻はすでに深夜。今日最後の給油車だった。

 哲士が働いているガソリンスタンドでバイトを始めて数日。いろいろわからないなりにも慣れ始めていた。何せ三回目の転職なのだ。それに何より――。

「マネージャー、おつかれ」

 軽く肩を叩かれて振り向くと、哲士が六時間のバイトを終えた後とは思えないほどさわやかな笑みを浮かべて立っていた。バイトの制服である青地に黒のラインが入ったつなぎが何とも良く似合っている。全国にチェーン展開しているこのガソリンスタンドの代表としてコマーシャルに出ても何ら問題はないように思えた。

「部長もおつかれ」

 バイト後に哲士を見ると癒される。哲士が口添えをしてくれたおかげですんなりと採用され、仕事も細かく丁寧に教えてくれるので、香代子はずいぶん早くこのガソリンスタンドになじむことができた。

「おーい。閉めるぞー! 早く着替えろー」

 店長がレジ閉め業務をしながらこちらに声をかけてくる。このスタンドは朝の六時から二十四時までだ。先ほど出ていった客がぎりぎりに飛び込んできたので、もう二十四時十分を過ぎていた。

 店長に「はーい」と答えて、哲士と各自更衣室へ引っ込む。チュニックとスキニーという簡単な格好に着替えて外に出ると、哲士が外で待っていた。

「部長……」

 香代子は灯りの消えたガソリンスタンドに、哲士の姿を認めて息をつく。同じ大学に通っていて、同じ部活をしていれば必然的に哲士と生活リズムが似てくる。よってシフトが重なることも多かった。

「部長。あの、何度も言うようだけど待ってなくてもいいよ。私自転車だし、大丈夫だから」

 哲士と香代子がシフトに入れるのは授業が終わった十八時から二十四時になる。当然帰りは深夜になる。哲士は香代子が入ったその日から当たり前のように帰りを送ってくれた。

「いや、俺が好きでやってることだから、マネージャーは気にしなくていいよ」

 哲士は毎回こう言い、やんわりと、けれども強固に香代子の言葉を退ける。気にするな、と言われても気にしてしまう。それでも哲士は存外頑固で、こうと自分が決めたら絶対にひるがえさないのだった。

 結局哲士の微笑に押しきられ、歩道を香代子は赤いママチャリ、哲士は黒いバイクを押して歩く。香代子のアパートはガソリンスタンドから歩いて十分ほどのところにあった。

「あ、そういえば藤井さんにお茶もらったんだけど、マネージャー飲んでくれる? 俺、甘いもの苦手で」

 哲士が自身のメッセンジャーバックから缶のミルクティーを取り出す。藤井さんというのは昼勤のパートのおばちゃんで、いつも目をハートマークにして哲士を見ている。哲士は総じてパートのおばちゃんたちに受けがよく、そのせいか香代子は彼女たちから目の敵にされていた。

 その藤井さんの念がたっぷりつまった缶を受けとるのは恐ろしくも申し訳なくもあり、香代子は「妹さんにでもあげて」と断った。

 哲士は店長にも気に入られていて、まだ卒業には三年近くあるにも関わらず、「卒業後はうちのスタンドに!!」と猛プッシュを受けている。部活だけでなく、彼はどこに行っても頼られる存在なのだと香代子はしみじみと感じ、同時に誇らしくもあった。

 街灯が赤い自転車を青白く染める。深夜の国道は時おりスピードを出した車が通りすぎる以外は静かだった。春のやわらかい闇を感じる。

 哲士との会話は自然とバイトのことになる。早朝のシフトに入っていた大学生が無断欠勤をし、シフトに穴が開きそうだと店長が嘆いているらしい。

 香代子はそれを聞いて少し考え込む。

「……じゃあ私、そこのシフト入ろうかな」

 まだ業務に不馴れとはいえ、いつまでも哲士と同じシフトだけに入っているわけにもいかない。けれどもそのつぶやきを聞くと哲士が妙な間をもって顔をこちらに向けた。

「……今の時間は辞めて?」

 なんだか言い知れぬ不穏さを感じたけれど、どうしてだかわからない。それは気のせいと押し込むことができるほど微少のものだったので、そうだと納得させる。

「そうじゃなくて、シフト増やしたくて。前のところでは深夜二時まで働いてたから」

 前のファミレスでは週五でラストまで入っていた。今のガソリンスタンドでは入ったばかりで仕方ないけれど、週三で六時間だ。今の方が時給はいいけれど、それでも収入が落ちていた。

「マネージャー、そんなにバイト入れて大丈夫?」

 哲士の声が今度は明らかに曇り、香代子は慌ててつけ加える。ちょうど外灯の影になっていて、哲士の顔は夜の暗さに沈んでいた。

「まだ仕事は頼りないかも知れないけど、すぐにちゃんと覚えるから! 部長に聞かなくていいように早く一人前になるよ」

 改めて気合いを入れ直した香代子に、哲士が「いや、違くて」と口を挟む。

「仕事面じゃなくて、体がキツいんじゃないかと思って」

 思わってもみなかった気遣いの言葉に香代子は目を丸くした。こうして夜送ってくれることといい、香代子のことを丁重に扱ってくれるのが哲士だけだ。根本だと「マネージャーなら変質者くらい撃退できんだろ? 平気平気」と笑いながら言うに決まっている。自分でもそう思うし、そういう扱いの方が気楽でもある。

 真剣に気遣ってくれている哲士に面映ゆさを感じながら、香代子は照れ隠しに笑った。

「大丈夫。体力には自信あるし、少しでも今のうちに稼いでおきたいから」

「今のうちにって、どうして……」

 哲士が心底心配そうな顔で尋ねてくる。何かただならない事情があるのかと勘ぐっているのようだ。香代子はすぐにそれを否定する。

「ただ三年生から実習が始まるからそれまでに貯めときたいだけ。助産師の資格もできればとりたいし。そんな部長が考えているようなことじゃないって」

 奨学金や苦学生という単語が哲士の頭には浮かんでいたのだろう。他学科である哲士にはわからなくても当然だけれども、香代子の在籍する看護学部は数ある学部の中でも指折りの忙しさだ。授業は当然朝から晩までみっちり入っているし、勉強も予習復習をやらないとついていけない。卒業時には国家試験も控えている。

「そっか。マネージャーは相変わらずしっかりしてるな」

 そんなことないって、と答えようとして、香代子はぼんやりと哲士を見上げた。そういえば哲士の将来の夢を聞いたことがない。そう見るせいか、哲士の笑顔にはどこか翳りがあるように見えた。

 就職できればなんでもいい! と言っている根本と違い、哲士は将来についてよく考えていそうなのに、欠片も彼からそんな話が出たこともない。別に何もかも話さなければいけないわけではないけれど、三年もいっしょにいて何も知らないのは少し悲しかった。

 とはいえ、話題が話題なだけに気軽には聞けない。ただ香代子は景色の一部として哲士を見つめていた。朧月に彼のシャープな顔の輪郭が照らされている。

「そういえば古賀を連れてったやつ、誰だか思い出したよ。何か見覚えあると思ってた」

 えっ、と思わず聞き返す。由貴也があの失礼極まりない男に連れていかれてから数日が経っている。彼はあれから部活に顔を出しておらず、音信不通――由貴也と連絡がとれないのはいつものことだけれども――になっていた。

「あいつ、俺らの年のインターハイの準優勝者だよ。五十嵐 竜二」

 言いながら、準備しておいたのか哲士がジーンズのポケットから畳まれた雑誌の切りぬきを取り出した。香代子は哲士からそれを受けとり、外灯の下で開く。

 それは二年前の陸上雑誌のインターハイ特集号だった。準優勝者としての竜二のインタビュー記事で、今よりも若干線が細く、髪が黒い彼の写真が載っていた。

 当時からやはり軟派そうなイメージは変わらない。それでも所属は全国屈指の陸上の名門校になっており、戦績も輝かしいものだ。すでに高二の時点で国体少年Aの部にて百メートルと四百メートルで入賞していると書いてある。何より百から四百までを全国レベルで走りこなすことが信じられない。とんでもないスタミナだ。

 香代子ですら由貴也と走らせたらどちらが速いだろうと考えてしまう。竜二本人がそう思わないはずがなく、そう思うと彼が由貴也を取り返しに来たのも当然のように思えてきた。陸上競技自体において毛ほども役に立たない香代子のそばに彼を置いておくよりもどんなに有意義だろう。自分はどんなにがんばっても由貴也と走ることは不可能だし、永遠に競技を見る側だ。

「……この五十嵐 竜二、この前入部届け持ってうちに来たんだよ」

 ええっ、と今度はより大きな声で香代子は聞き返した。あれほど部活を軽視していたというのにどういう風の吹きまわしだ。

 その理由は次の哲士の言葉でわかることとなった。

「インカレだけ大学の所属で出して欲しいって」

 なるほど、と香代子は腑に落ちた。陸上連盟に登録していれば所属団体を問わないオープン戦とは違い、インカレは大学の在部が求められる。クラブの所属のままでは出られない。

 大学時の実績を見るときに最も重視されるのがインカレの成績であるため、竜二がかりそめの身分を手に入れてまで出たいと思うのは当然のことだった。

 由貴也もそうなのだろうか、とふと思う。彼も竜二と同じようにインカレの出場資格が欲しいから入部したのだろうか。だからあんなにあっさりと竜二についてクラブに帰ってしまったのだろうか。

 由貴也の考えていることがわからず、頭の中で考えた可能性に答えを出せなかった。

「部長はどう思う?」

 代わりに哲士に聞くと、彼は眉を下げて微笑する。苦笑に近い笑い方だった。

「複雑だな。活動実態のないやつをインカレに出場させる便宜をはかる必要はないんだろうけど、かといって五十嵐 竜二が本気で入部してきたところでもてあますだけかな」

 哲士は竜二に筋を通させようと部で活動させたとしても、彼に見合う練習は提供できないと言っているのだ。この平和な地方国立大の陸上部において、竜二の存在が異物として扱われることは容易に想像できた。

「正直、古賀だけでももてあましてる。古賀とともに練習するのは向こうにとっても俺たちにとってもマイナスにしかならない。ジョグをしてるとき、タイムトライアルをするとき、どうしても古賀の速いペースに引っ張られる。自分のペースを維持できない。陸上は自分と戦う競技なのにな」

 痛いように笑う哲士を前に、香代子は食いしばるように奥歯を噛んだ。ずっと考えていた不安を哲士に言い当てられた気がした。

 由貴也はここに相応しくない。そして、彼をそうしているのは――。

「俺はインカレに出たい」

 香代子の思考を遮るように、哲士が強い言葉を発した。

「それには五十嵐 竜二を部から遠ざけるようではだめだと思う。どこかで戦わなくちゃならないからな」

 インカレに出るにはA、B記録の突破か、地区インカレの優勝が条件だ。いづれにせよ哲士はインカレに出場するには竜二と同等か 、それ以上の実力が必要だと考えているのだ。

 香代子はそっと哲士を見上げる。いつもは争い事など皆無の穏やかな表情でそこにあるのに、今の哲士は競技者の顔をしている。同じフィールドに立つ彼らがうらやましく香代子には感じられた。

 競技者としての由貴也はどんどん香代子から遠ざかっていく。かといって陸上選手であることは由貴也と切っては切り離せないものとなり、平時の彼との境界は薄れ、競技者としての側面は広がりつつある。

 一年前より、半年前より、近くにいるのにずっと遠い。竜二の言葉でそれを思い知らされた。

 俺のことホストやて。竜二のバカにしたような声がよみがえる。彼がこんなにすごい選手だとは思わなかった。彼の姿には自分こそが由貴也に必要だという自負があった。由貴也の隣に並び立つことができる男。

「これ……」

 香代子はなんともなしに見ていた記事に気になる箇所を見つけ、思わず声に出した。

「五十嵐 竜二、関西の大学に進学するってここに……」

 インタビューの今後の進路についての質問に、竜二は西の陸上名門校の大学名を上げていた。それなのに今、彼はそこから遠く離れたここにいる。しかもこの前陸上部の入部届けを持ってきたことを考えると、竜二は香代子たちと同い年でありながらまだ一回生である可能性が高い。

 空白の一年間。哲士は知っているのか「ああ」と声を漏らした。

「いったんは関西の大学に入ったらしいんだけど、去年はケガで鳴かず飛ばずだったらしい。たぶんそっちの大学は辞めたんだと思う。入部届けを出しに来たとき、根本の大学の理学部の所属になってたからな」

 哲士の言葉を聞きながら、香代子は竜二の剣幕を思い出していた。『ケガしてからじゃ遅いんや!』と火がついたように怒鳴ったのは自身のつらい体験に基づいてのことだったのだ。

「……マネージャー、五十嵐 竜二に何かこの前言われた?」

 知らないうちに顔が曇っていたのか、香代子は我に帰って哲士を見上げた。哲士を見ると何でも話したくなってしまうけれど、そうはいかない。

「ううん。別にたいしたことは話してないよ」

 冗談めかして「『由貴也は人見知りやから部の方で上手くやってんのか心配やねん』って言ってた。大阪弁生で初めて聞いたよ」と続ける。こうして哲士の追及を笑顔の壁を作って退けるのだ。

 以前は――立志院で由貴也が入部したばかりの頃は何でも哲士に話せていたのに、今は一番由貴也のことを話せない相手になっている。

 いけないと思いつつ、あの時が一番幸せだったと考えてしまう。立志院で、同じ部活で、小さな世界で部活をやっていた頃が一番幸せだったと。

 もう一度、雑誌の竜二の写真を見る。過去の彼は大学で低迷するとは知らずに未来に希望を馳せて笑っていて、香代子を切なくさせる。彼に比べれば自分の過去に対する感傷などささいなものなのだろう。

 あの時に戻りたいと願うことは不毛だ。一分一秒たりとも時間は止まってくれはしない。前に進むしかないのなら、自分も由貴也も立ち止まって後ろを向くようではいけない。自分の存在が彼を縛るようではいけないのだ。だからこそさみしいとか悲しいとか思うわけにはいかない。

 アパートの前まで来て、哲士に礼を言って別れる。二階の自分の部屋に上がってふと

誰かの気配を感じた気がして振り向く。階段の下にはいつも通り哲士がいるだけで他には誰もいなかった。

 いつも彼は香代子が部屋に入るまで見守ってくれる。それがありがたくも申し訳なくもあり、香代子が彼をあまり待たせないように早く部屋に入った。

 部屋の電気をつけたとき、もう誰かの気配は跡形もなく消えて、気のせいだったのかと安堵した。けれどもなぜか一抹の不安が胸の中には残っていた。







「由貴也ぁ、そんなに怒らへんでもええやろ」

 クラブでの練習後、ロッカールームに向かって歩く由貴也を竜二が後ろから弱りきった声で追いかけてきた。

「ほんまにオレが悪かったって言うてるやん」

 視界の端で彼が手を合わせ、謝りたおすのが見えたが、由貴也は取り合わず歩を進める。

 竜二が大学のグラウンドに現れたのは数日前。いきなり「大変やで由貴也! コーチが危篤や」と、あまりにもひどすぎる嘘をついて由貴也を部から連れ出した。もちろん華耀子はぴんぴんしており、竜二が由貴也をクラブに戻すために下手な芝居をうったのだった。

 竜二はいまだに由貴也が騙されたことについて怒っているため、こうして口数が少ないのだと思っている。

「……別に怒ってないし」

 由貴也はロッカーを開け、ぞんざいに汗に濡れたTシャツを放り込む。元から竜二の子供でもつかないような嘘など信じていないし、彼に自分のことを理解してもらおうとも思っていない。

 華耀子や竜二は由貴也のことを競技者としてしか見ていない。それはわかりきっていたことだし、別にかまわない。けれども由貴也のテリトリーである“部活”にまで踏み込んで来るのは耐えられなかった。

 怒っていないと聞いてぱっと竜二が顔を明るくしたが、由貴也は彼に背を向けてシャワーブースに入る。カーテンを閉め、蛇口をひねって湯の飛沫を浴びながらふくらはぎの裏側に手のひらを当てた。筋肉の感触を確かめながら、入念に異常がないかをチェックする。幸い、数日前に感じた熱は今はもうまったくなかった。

 竜二によって強引に部から引き離されても文句が言えないのは、あの時由貴也はふくらはぎにかすかな違和感を感じていたからだ。部に固執するあまり由貴也はそれを気のせいだと思い込もうとしていたが、迎えにきた竜二の姿を見た瞬間そうではなかったのだと悟った。少なくとも彼は由貴也の変調を察知していた。

 ケガをしては元も子もない。そんな事態になってはますます彼女によって由貴也は部活から遠ざけられてしまう。クラブに戻って、専属トレーナーの指示を仰ぎ、ケガを未然に防ぐ他なかった。

 由貴也は壁に手をつき、頭からシャワーを浴びる。髪の毛先から雫が垂れて床に落ちた。

 今回の大会で優勝しなければいけない。次も、その次も、ずっと。誰にも強豪校に進学した方がよかったなどとは言わせない。部に在籍していることが由貴也のベストなのだと知らしめてやる。走らなくては、上へ昇らなくては。インターハイの四位ではまだ足りない。誰も何も言わなくなる高みまで到達しなければならない。いや、極端に言えば由貴也はまわりなどどうでもいい。彼女が気にするだけで――。

 加速していく思考を止まるように、シャワーを止めた。シャワーヘッドの先から水滴が落ち、二の腕の筋肉が盛り上がった部分に当たり弾けた。

 適当に体と髪を洗って、シャワーブースを出る。同時に隣のブースから竜二が顔を出した。いつもは危険物ばりにとがっている竜二の髪は濡れ、さすがに重力に従って垂れていた。

「由貴也、髪切ったるわ」

 唐突な申し出に、由貴也は目でなぜ、と問う。由貴也は自分ではさみを入れて以来、ふぞろいな髪を放置しっぱなしだが、竜二も一度切ってやろうかと言って断られてからは特に無理強いはしなかった。

「だって明日は大会やん。二人で表彰台上るんやからかっこようしてけや」

 当たり前のように三位以内に入る話をされ、これが復帰第一戦だというのに竜二の自信はどこから来るのか、と思う。もっとも自分も表彰台の天辺しか考えていないのだから同類だ。彼と自分の間には確実に同じ血が流れている。競技者の、もっと言えばスプリンターの血が。

「別にいいよ、このままで」

 どうして他人に触れられてまで髪を切ってもらわないのかと由貴也はそっけなく言い放ったが、その瞬間、脳裏にある光景が浮かぶ。途端にこの上なくなげやりな気分になる。

「……いいや、切って」

 勝手にしろという風につぶやくと、耳ざとく聞きつけた竜二が「ほんまか!?」と身を乗り出してきた。竜二は『オレ、陸上選手やなかったら、美容師か服屋の店長になりたいねん』と言っていたほどで、髪形と服に並々ならぬこだわりがあるようだ。

「まかしとき! うんとかっこよくしたるわ」

 拳を握って張り切る竜二を尻目に、彼に任せたら自分もホストヘアにされてしまうのだろうかとぼんやり考えた。

 ぞんざいに髪を拭きながら、体脂肪計に乗る。すぐさま存外体重は重いが、体脂肪率は極端に低い数値をデジタルで伝えてくる。体脂肪率は一桁だが、筋肉があるので体重は重い。由貴也はそれを携帯で打って、特定のアドレス宛てに送った。

 自分たちの体重、体脂肪率はもちろん、足の可動域から歩幅の長さからピッチ数まで、何から何まで専門のトレーナーによって管理されている。こういったことを細かく管理することはケガの発見にいち早く繋がるのだが、何とも自分が飼育動物にでもなった気分になる。

 中高一貫の陸上強豪校に所属し、関西屈指の陸上名門大に進んだいわゆる“エリート”であった竜二はこういったことに別段抵抗を感じないらしく、当然のように体脂肪計に乗ってメールを送っている。

 まわりに一から十までお膳立てをしてもらい、すべてが数値化され、自分はその上を走るだけ。何か制約をつけられて走るのが嫌いな由貴也はタイム重視のやり方に漠とした物足りなさを感じる。

 結果、好き勝手走るために夜のランニングに出かけ、見たくはないものを見るはめになったのだ。

「じゃあ切るでー」

 いつの間にか由貴也の髪をある程度乾かし、どこから持ってきたのか髪切り用ハサミを持った竜二が後ろに立っていた。ふんふんふんと鼻歌を歌いながら由貴也の髪を一房切り落とす。

 他人の手の感覚に、止めてと言いかけて口をつぐんだ。夜のランニングで二人で夜道を歩く香代子と哲士を見た。月に照らされながら隠れていた疲労が顕在化し、口を開くのも何か行動を起こすのも億劫になり、強い倦怠感が由貴也にのしかかった。歯車を狂わすのは自分ばかりで、彼女の日常は普通に回っている。

 何もかもどうでもいいと思っていたのに、いざこうして違う誰かに触れられると不快さを感じる。それをやり過ごそうと由貴也は目を伏せた。思わずずっと考えないようにしてきたことが不意打ちのように胸をつく。

 どうしてこの手がアンタじゃないんだろう――。

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