表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋の君へ  作者: ななえ
大学生編
66/127

スタート・ゼロ3

「由貴也。その髪どないしたん?」

 アップ用スパイクを結んでいると、背後から声をかけられた。振り向くと長身の男が壁のようにそびえ立ち、そのつんつんに尖った金髪が逆光で威圧的に光る。

「……竜」

 由貴也はその人物の名前を口に乗せる。襟足と揉み上げが長い髪に人懐っこそうな顔はいかにもチャラ男だ。ランニングシャツにジャージという練習着も赤と黒という配色で派手だ。

 五十嵐 竜二はこのクラブチームのチームメイトになる。由貴也と同じくスプリンターだが、百から四百まで走るオールラウンダーだった。百だけを走る由貴也を見て「ひとつの種目だけやっとると飽きひん? オレは移り気なんや」と軽く笑う。コーチである華耀子が直々にスカウトしてきた一人だった。

「自分で切った」

 由貴也は思わず首筋をさする。襟足をばっさりと切ったせいで寒い。そのくせ前髪は手を加えていないので相変わらず長い。

「めっちゃ個性的な髪型やな。オレが切り直してやろか? かっこよくしたるわ」

 嬉々としてすりよってくる竜二を無視して立ち上がる。竜二は由貴也がクラブに入会して以来、何かと構ってくるのだ。

 竜二は年齢上は由貴也のひとつ上にあたる。が、コーチである華耀子があの性格なので、『歳上とか歳下とか面倒なことはなしにしましょ。私のことも別に敬わなくていいわ』とざっくばらんに言われ、由貴也は遠慮なく竜二に敬語を取っ払って接している。

 カーペット敷きに暗証番号が入れられるロッカーを備え付けたロッカールームを後にする。ロビーからはガラス張りになったプールが見えた。

 由貴也は部活がない午後をこのクラブで過ごしている。このクラブは中規模ながらも少数精鋭をモットーとしたスイミングクラブの運営でオリンピックに選手を送り込むことを成功させている。陸上クラブはその少数精鋭作戦の栄えある第二号というわけだ。

 今、クラブにあるのは数ある種目がある陸上の中でも短距離セクションだけだ。駅伝で大々的な宣伝効果が狙える長距離は企業も大学が並々ならぬ力を入れている。おそらくこのクラブでは駅伝に必要なだけの人数を抱えて企業や大学に優るとも劣らない指導を施すのは難しい。そこで投擲や中距離ほどマイナーではない短距離で陸上界に殴りこみをかけようというのだ。

 現在、陸上セクションには大学生が竜二と由貴也、院生が一人、高校生が二人の計五人がいるのみだ。いずれも男子なのは華耀子が男子のみを揃えたからだ。男子と女子を同一チーム内で育てるのは難しい。コーチの特性もあるが、何より指導が一方に偏り過ぎてしまうのだ。

「なー、由貴也。どないして昨日の練習に来なかったん?」

 竜二がTシャツの裾を引っ張ってくる。それにあえて取り合わず、歩き続けるが、進もうとする由貴也と逆方向に留めようとする竜二の間でTシャツが伸びて動きが妨げられる。

「なー、由貴也。聞いとるんかい」

 彼は由貴也がまったく反応を見せなくともまったくへこたれない。なぜ自分のまわりにはこうも打たれ強くてしぶとい人物ばかりがいるのだろう。

「昨日は部活に行ってた」

 仕方なく必要最低限のことだけ答えて竜二の手を外させる。屋外に出ると、テニスコートからボールを打ち合う小気味いい音がした。

「部活? 大学のかいな?」

 竜二が怪訝そうに聞き返してきたので、それ以外何があるという目で見返してやる。とたんに竜二が整えられた眉をひそめた。

「んなもん行く必要あらへん。なんの意味があるんや」

 竜二は快活で単純な男だが、“部活”という単語には過剰反応を見せる。

 竜二は由貴也が入賞した前のインターハイで準優勝している。その実績をたずさえ揚々と私立の強豪校に入ったが、膝の故障が元で戦線を離脱し、復帰後も調子を落ち込ませた。低迷する竜二を大学の陸上部はいともあっさりと見捨てた。竜二のいた陸上部は部員百名を超える大所帯で内部の競争は激烈だったらしい。一度そのヒエラルキーから落ちた者に救済処置は与えられない。選手をモノのように扱う学校だったと竜二は言った。

 けっきょく竜二はスポーツ特待生の資格を失い、大学を自主退学し、今は根本のいる私立大の理学部に入り直した。もっとも籍だけを置いている状況であり、大会が近い今は陸上での再起をかけて昼夜問わず練習に打ち込んでいるようだ。

「部員だから」

 何で部活に行くのだ、と言われればこう答えるしかない。ちなみに竜二も一応は部員だ。彼の場合、部の名簿に名を連ねるだけで参加する気は微塵もないらしい。

「由貴也もオレみたいにせや。クラブの練習だけに精出したらええ」

「インカレの時だけ大学名を借りて?」

「そや」

 自嘲気味に由貴也が嫌味を返しても、竜二は悪びれもせずにうなずく。竜二が活動実態がないにも関わらず部に所属しているのはインカレ――正式名称・天皇賜杯に参加したいからだ。大学の大会の中で最も重要視されるインカレは各大学ごとに種々の競技の優勝者、または入賞者をポイント化したものの合計を争う。当然、大学の部活に在部していることが求められるのだ。

「由貴也、はよA記録突破せえよ。ふたりでインカレに出よや」

 竜二はただ単純に自分だけの望みを述べて笑う。竜二と由貴也はともに有効期間内でインカレの出場条件となる標準記録Bを突破しているが、B突破者は同一チーム内で一人しか出場できないとされている。だが十秒五のA記録を突破すれば、突破者三人まで出場権利を得られるのだ。

 由貴也と竜二はいい。ふたりで仲良くインカレに出場すればいい。しかし部の方はたまったものではないだろう。ロクに部活に参加しないクラブのふたりがこういうときだけ部の所属にしてインカレに出場するのだから。おまけに部内にもしかしたらB記録突破者がいるかもしれない。その場合自分たちはその人物の邪魔をするのだ。B記録保持者はあくまでA記録を突破者がいない時のみ出場できる。

 要するに大学の部活は由貴也と竜二に都合よく利用されているだけなのだ。とはいえ不義理なこととは思うが、部活一本にするほどの忠義心は由貴也になかった。

「由貴也。お前、部活に女でもおるんか?」

 インカレに行こうと言っても返事がない由貴也をいぶかしんでか、竜二が肩に手をかけて、耳に口を寄せてくる。口調にも表れているように、竜二は関西出身だ。やたらとテンションが高く、馴れ馴れしい。

「いたらなんだっていうの」

「おるんか?」

 意外そうに聞き返してきた竜二を由貴也は口を閉ざして黙殺した。これから先、部活に行くたびに何か言われるのだったら好きに思わせておいた方がいい。

「部内恋愛は良うないで。調子の良いときはええけど、ボロ負けにする姿も見られるんや。オレは耐えられへん」

 前のとこは部内恋愛禁止やったしな、と竜二はつけ加えた。

 いつもいいところだけを見せていたいというのは、派手好きの竜二に似合っていた。もっとも由貴也からすればボロ負けなどかわいいものだ。由貴也はすでにどん底まで落ちた自分を見られている。

「けど陸上やってへん女も辛かったで。けっきょく最後は二択になるんや。陸上とアタシとっちが好きなのって」

 竜二は首の後ろで手を組む。それからあくびをするような調子で「んなもん比べられへんのになあ」と言った。

 竜二の悩みはずいぶん幸せだ。香代子の場合は逆なのだ。私と陸上だったら陸上をとれっ。アンタなんか“陸上”にのしつけてくれてやる! と全力で言われたようなものだ。竜二のパターンだったら由貴也はおそらく急激に冷めることができるだろうが、逆パターンの方が過酷だ。逃げ場がない。由貴也は特に陸上で大成したいと思っているわけではないのだ。

「あ、コーチ。どうもー」

 そんなことを考えながら準備運動をやっていると、グラウンドにコーチの久世 華耀子が現れた。長い髪をいつも通りひとつにまとめ、黒いジャージに身を包んでいる。さっそうと歩く姿は女性的ではなかったが、男性的でもなかった。

「竜。膝の調子はどう?」

「悪うない」

 このやりとりは耳にタコができるほど聞いた。華耀子は必ず練習の始めに竜二に膝の具合を聞く。身一つで戦う陸上選手にとって怪我は最も恐ろしいことだ。

「由貴、あなたは?」

 いつも通りの問いかけに、いつも通り首を振るが、華耀子はしばしこちらを凝視した。おそらくこの人はすべてを見透かしている。その証拠に「今日はほどほどで上がりなさい」と言ってきた。

 午後のこの時間帯に華耀子の指導を受けるのは竜二と由貴也だけだ。午前は院生、午後は大学生、夕方は高校生というように指導時間は陸上セクション内でも細分化されている。だから由貴也は竜二以外のクラブ員をまともに見たことがなかった。

「コーチ。オレ、コーチに見て欲しいところがあるんや」

 竜二がすぐさま華耀子のところへ寄っていく。大型犬がしっぽを振っているように見え、竜二が華耀子になついているという表現がぴったりだった。

 あの人はオレの神さまや、と竜二は言う。あの人がオレんとこに来はらなかったらと思うとぞっとするわ、と竜二は笑っていた。けれども目が笑っていなかった。

 事実華耀子は竜二の不調を怪我に対する恐怖心の一言で片づけなかった。膝を庇ったことによって崩れたフォームを直し、フォーム崩れたことでついてしまった様々な癖を矯正した。前の学校ではコーチにもトレーナーにも見放され、一人で悩んでいた竜二は華耀子のコーチングによって立ち直りつつあった。

「じゃあタイムトライアルいきましょう」

 ジョギングや横向きになってハードルを跨ぎ越すハードルウォークをこなした後、華耀子が言った。タイムトライアルとは本番さながらにタイムを計って走ることをいい、クラブに入ってからこの練習が増えた。一本一本の走りに集中することが求められ、量より質の練習に移行しつつあるのだ。

 竜二は以前の感覚が戻りつつあるせいか、走りたくてうずうずしているようだ。待っていましたとばかりにスタートラインにつく。由貴也も遅れてスターティングブロックをセットし始めた。

 由貴也たちは練習には大小二種類ある内の大トラックの方を使っている。百メートルの直線コースは小トラックではとれないからだ。

 夕方からの一般向けの練習がクラブの高校生の練習とぶつかるときも、高校生の方に大トラックを使わせて小トラックに一般を押し込めているらしい。その辺りが、このスポーツクラブの自分たちに抱く並々ならぬ期待をうかがえさせる。

 準備をし終えて、竜二は軽く飛び跳ねながら、由貴也はぼーと突っ立って号令を待つ。クラブに雇われている練習のアシスタントスタッフがピストルを持ってやって来る。部員が大勢いる部活と違って二人きりではスターターの務めようがない。コーチの華耀子はコースの横からじっと見ている。

「On Your Mark」

 アシスタントスタッフが頃合いを見計らって呼びかける。On Your Mark――位置について、だ。

 数年前から世界選手権やオリンピックではスタート時の号令が英語に統一されているが、国内ではまだまだ少ない。あえてここで使うのはスプリント大国アメリカでコーチング技術を学んできた華耀子の影響でもあり、そのような国際大会に出ることを将来的に望んでいるという無言のプレッシャーにも感じる。

「Get Set」

 アシスタントスタッフの声がスピーカーで大トラックに反響する。いちいちスピーカーを使うことといい、ピストルを使うことといい、どこまでもこのクラブは本格志向だ。それだけ本番の感覚に近づけたいのかもしれない。

 競技場を囲む木々が風に揺れる。隣から竜二の熱気を感じたが、それもシャットアウトする。すべての感覚を体の主軸に集中させる。

 号砲が鳴ったとき、由貴也の体は反射に近い早さで出た。隣に影はない。由貴也がレースの始めに先行するのはいつものことだ。

 普段、由貴也はうっとうしいと思いつつも竜二を無視しきれない――後ろから足音が聞こえた。

 百八十の長身に伴う長い足。恵まれた体格を生かし、竜二は驚異的な歩幅で追いかけてくる。圧倒的な存在感を持って彼が隣に並ぶ。由貴也が竜二を黙殺しきれないのは、彼が由貴也を脅かすだけの速さを持っているからなのだ。

 由貴也は足の回転数を上げることを意識する。歩幅ではどうあがいても竜二には勝てない。前半型の由貴也は一度抜かされたら後半型の竜二を抜き返すことは至難の業だ。トップスピードをやり過ごして逃げ切るしかない。百メートル走は六、七十メートルでトップスピードに乗り、後は失速していくのみだ。ここをこらえれば逃げ切れる。

 しかし、体が急に重みを増した。並みの選手ならいざ知らず、ここを見逃してくれるほど竜二は甘くない。すぐさま脇を彼が抜けていった。由貴也に抜き返すほどのスタミナも技量もなければ、もうそれだけの距離も残っていなかった。ゴールの白線を越えた。

 足にブレーキをかけつつのろのろと歩く。いつも以上に疲れのもとになる乳酸が体にたまっている気がした。

「由貴。あなたはもういいわ。ウエイトして上がって。トレーナーにマッサージしてもらって」

 “もういいわ”の言葉が嘆息したかのように聞こえた。トラック外ではともかく、華耀子には走れば何でも一発でバレてしまう。

 反抗するのもバカバカしく、由貴也は「はい」とジャージを羽織って競技場を後にした。

 豊富なウエイトマシーンが置いてあるトレーニングルームでバランスボールに乗っていると、遅れて練習を終えた竜二がやって来た。

「何や、由貴也今日えろう調子悪かったなあ」

 竜二は軽々とベンチプレスの九十キロを上げている。六十キロも補助なしでは上げられない由貴也とは大違いだ。ベンチプレスは重量上げで用いられるバーベルをトレーニングに取り入れたものだ。由貴也はこういったウエイトトレーニングが大嫌いで高校時代は逃げて回っていたし、そもそも弱小部だったので肩身が狭く、器具がなかなか使わせてもらえなかった。

 高校生でも全国大会の常連選手はこういったウエイトトレーニングを日常的にしっかりやってきている。それに引き換え由貴也はシャフトの握り方すらわからず、コーチにも驚かれるほどウエイトトレーニングができなかった。

 唯一、バランスボールに乗るのだけは得意だ。

「どっか悪いんか?」

 心底心配そうな竜二の問いかけに由貴也は首を振った。それでもバランスボールから落ちないように首から下は動かさない。バランスボールは体幹を鍛えるのにぴったりなのだ。

「それならいいんやけど。由貴也が速ないとオレ、張り合いがないわ」

 かかか、と笑う竜二を尻目に、トレーナーにノルマの終了を告げ、トレーニングルームの出口に向かう。やはりウエイトトレーニングは性に合わない。

「由貴也」

 出ていく寸でのところで、竜二が背後から声をかけてきた。

「次の大会はワンツーフィニッシュしよや」

 ――今までとは明らかに声音が違った。

 ワンツーフィニッシュ。どちらが“ワン”でどちらが“ツー”なのかは聞かないでおく。

 由貴也が竜二を速いから無視できないように、自分たちは結局、ライバルなのだ。華耀子が由貴也に竜二を、竜二に由貴也をあてがったのは互いに切磋琢磨しろということなのだろう。二人しかいなければ否が応でも相手を意識せざる得ない。

 仲間より濃いライバルの意識。だからここは疲れるのだ。

 由貴也は答えずに、竜二に顔を向けもせずに部屋を出た。

 廊下を歩きながら少し、帰りたいと思った。彼女のそばに戻りたい、と。絶対に直接は口にしないけれども。







「アンタが由貴也の女か?」

 春らしいうららかな昼下がり、部活の用意をしていると、いきなり背中から無礼そのものの声で、ぶしつけ極まりないことを聞かれた。

 あまりのことに香代子は反射的に振り向いてハードルを持ったまま固まる。今は倉庫で用具の準備をしていたのだ。

 暗い倉庫の中で数回まばたきをする。向こうは明るい昼間の光を背負って入口に立っているので、逆光でよく見えないのだ。

「何アホ面さらしてんのや。由貴也の女かて聞いてるんや」

 聞きなれない大阪弁に、見上げるような長身。ガタイもよく、肌も焼け、おまけに金髪だ。どう見てもガラが悪い。わりと整った顔も相まってどこぞのホストのようだった。

 アホ面呼ばわりされてはっと我に帰る。瞬時に臨戦体勢をとった。

「アンタこそ何なのよ。どこのホストよ」

 このわけのわからない男を撃退してやろうと目に力を込めて睨みつける。私がアホ面ならアンタはホストだ、と反論が胸に渦巻いていた。

「オレのことホストやて。アンタ、陸上のこと何にも知らへんのやなあ」

 ホスト男がこちらをバカにするように笑う。ホスト顔なだけあって、嫌みな顔をすると心底腹が立つ。

「オレは由貴也のチームメイトで一番のライバルやねん。今日は由貴也の邪魔してるバカ女を見にきたっちゅうわけや」

 得意満面で由貴也との関係を強調する男に対し、香代子は顔が強ばるのを感じた。

「……由貴也の邪魔ってどういうこと?」

 男の肩書きなどどうでもいい。バカ女よりなによりも、その一言が気になった。彼が入部してもう十日ほど経つけれど、気まずさが手伝ってあれ以降ろくな会話を交わしていない。反比例して女子部員の由貴也に対しての盛り上がり方はすごく、部外者が練習を見に来ていることもあったほどだ。そんな時、香代子はポケットに入れっぱなしになっているハサミをそっと触れ、気にしていないふりを貫いた。

 そういう冷戦状態に由貴也が参っているとは思えない。由貴也は無口な質なので、会話がないことが当たり前なのだ。

 ホスト男は答えない。香代子の前でのんきにグラウンドの様子を見ている。そろそろ部員が集まってアップを始めているはずだった。

「皆、ひどいフォームやな。由貴也、掃き溜めに鶴や」

 香代子も外に出て、男の目の先を追う。短距離ブロッグがウォームアップのジョグをしているところだった。

 五人ほどの塊の中で、由貴也だけが別格だった。踊るように美しいフォームで走る由貴也だけ周囲から浮き上がって見える。悔しいが男の言う通りだ。

「由貴也は正直ここには場違いや。アンタもそう思わへんか?」

 香代子は答えることができず、拳を握った。自分だってそう思ったから言ったのだ。由貴也に陸上の強い私大に進学した方がよかった、と。

 ここには最高のコーチも、最高の環境も、最高のライバルもない。突出した由貴也をいつしか埋もれさせて腐らせてしまうかもしれない。それが怖かった。

「ここ最近由貴也の調子が目に見えて落ちとんのや。いろいろ考えてみたんやけど、部活のせいとしか思えへん」

 思わず香代子は「え」と聞き返す。部活は大抵一日ごとだが、由貴也はいつも他を圧倒する走りをしていたし、哲士や根本と話す姿も見られた。別段、高校の時と変わった姿は見せない。

 今だってジョグを終えて、根本とふざけてオープンコースで走っている。走るレーンが決められている短距離と違って、根本の走る中距離は途中からレーンの区切りがなくなる。そのためインコース争いが激しく、『走る格闘技』と呼ばれるのだ。

 今も『トゥーラップスに俺は青春をかけるぜ』と豪語する根本の肘鉄を食らい、由貴也がよろけるとことだった。トラックは一周四百メートル。これをラップという。すなわちトゥーラップスで八百メートル走のことを指すのだ。妨害、牽制なんでもありの陸上一過激な種目だ。

「由貴也はほんまならここであんなことしとる場合やないんや。アイツは体力があらへんから疲れてまう」

 男は苦々しげにおふざけ以外のなにものでもない由貴也と根本の様子を見ていた。

「由貴也は今、二百も練習しとる。体力をつけるためにや。二百にクラブに部活でしんどないはずがない。回復がおっつかないからアイツは調子を落としとるんや」

 香代子は呆然と由貴也の様子を見ていた。目を皿にして見ても、彼はいつもと変わらないように見える。

「だって、そんな様子まったく……」

 由貴也は何も言わなかったし、疲れているそぶりも見せなかった。いくら思い返してみても飄々とした顔でそこにあるだけだ。

 男が心底あきれた息をつく。

「だから部内恋愛は止めとけっつうたんや。惚れた女に弱味を見せられるわけあらへんやろ」

 香代子はハッとする。由貴也は男が言うように疲れた姿を見せられなかったわけではない。香代子がいつも目を背けていたのだ。気まずいだの何だのと思って見ないふり、聞かないふりをずっとしていた。小さなサインはあったかもしれないのに。

「由貴也は連れてくで。大会が近いんや。こんなところで遊ばせとく暇あらへん」

 男は思いがけず真剣な顔をしていた。彼は別に香代子に意地悪をしに来ているわけではないのだ。由貴也がただ必要だから連れ帰ろうとしている。純粋に彼のためを思ってのことだ。

「大会って、だって登録がまだ済んでないんでしょう?」

 香代子はかすかに疑問に思って尋ねる。男の言っていることはすべて香代子の痛いところをついていて、何も言えなくさせる。こういうことでなければ何も言えずに黙って由貴也を連れ去られてしまいそうだ。

「済んどる。ただしクラブの方の所属でやけどな。今回由貴也はクラブの選手として出るんや」

 男は「何や、由貴也から何も聞いとらへんのやなあ」と息をついた。

 二週間後に県内屈指の大規模な大会がある。この大会を皮切りに春の陸上シーズンが始まるので、シーズン入りの大会として重要視されていた。

 ただ、入部したばかりの一年生は春休みから来ている面々をのぞいて出場できない。大学所属の選手として陸上連盟に登録が済んでいないせいで出場資格が与えられないのだ。由貴也もてっきりそうだと思いこんでいた。クラブの方で出るからといって練習の比重を向こうへ傾けたりはしなかったのだ。

 陸上のこと何にも知らへんのやな。由貴也から何も聞いとらへんのやな。男の声がいやに耳の中で反響する。何も聞いていない。何も話されていない。何もわからない。

 男は香代子の動揺を見透かしたように続ける。

「アンタから言うてや。由貴也に部活は辞めろって。このままやと由貴也はす ぐダメんなる」

 混乱のうちに畳みかけられている。お前のせいだ、と責められている気分になる。

 言わなければいけないことはもうわかっていた。ぐっと奥歯を噛んでから口を開く。

「……それは、私が言うことじゃない。彼自身が決めることでしょう」

 気がついたときには違う言葉が喉を越えていた。低い声で言い放ったのは本当に自分なのか。本当に自分の口が動いて言ったことなのか、頭が真っ白になる。

 男はあっけにとられた顔を一瞬だけした。

「こんだけ言ってまだわからへんのか! ケガしてからじゃ遅いんやっ!!」

 あっけにとられたのはほんのわずかな間で、男はその間に助走をしたかのような勢いで怒鳴った。グラウンドの端といえども、男の声は部員たちに届いたらしく、数人がこちらの様子をうかがっている。彼らの中から哲士が出てくるのが見えた。

 注目を集めてしまったことが忌々しいのか、男が舌打ちをした。

「由貴也に必要なのはクラブチームと俺らのコーチや。アンタやない」

 香代子よりもずっと高いところにある男の瞳が、威圧的に見下ろしていた。頭がよく働かない。ぐじゃぐじゃに乱れた感情の上にショックが重くのしかかっていてどうすることもできない。

 男がきびすを返す。彼がどこに行くのかなど明白だ。由貴也のところへ行って、彼を連れてってしまう。それでも、香代子に言える言葉はなかった。

 ケガ。その単語をどれだけ選手たちが恐れているか香代子は知っている。傷ついた体と走りたいと叫ぶ心を切り離され、もがき苦しむのだ。

 高校時代、由貴也はケガをしなかった。だからこそあれだけの戦績を上げたのだ。今、ケガをしたらどうなるか考えるまでもない。ケガが元で調子を狂わせ、二度とレーンに立てなかった選手だってめずらしくはない。

 グラウンドの真ん中で、哲士と男が行き合う。先ほどの香代子に対する男の剣幕を見ていたのだろう。哲士が険しい顔で何事か言うのを男はつかみどころのない笑顔でかわしていた。

 そこからは早送りされているかのようだった。木陰でぼーっとしていた由貴也を男が連れていく。彼はあまり抵抗もしなかったから、本当に疲れていたのかもしれない。

 行かないで、連れていかないで、という言葉が喉まで出かかる。由貴也がクラブで練習した方がいいというのは誰の目にも明らかだというのに、自分はそれでもなお引き留めたいと思ってしまう。無意識に判断を由貴也に委ねる言葉を吐いた。

 矛盾している。私大に進学した方がよかったと本人に言いつつ、他人には由貴也の意思を尊重すると言う。それは由貴也が部活に留まることを確信していたからだ。

 でも今、由貴也はあっさりと背を向け、グラウンドを出ていく。何で行っちゃうのよ、そいつの言うことは何でそんなにあっさり聞くのよ。胸の中で不平不満の声が上がる。けれどもそれを現実の声にすることはできず、由貴也と男の姿を黙って見送るしかできなかった。由貴也に必要なのは――アンタやない。男の声が幾重にもこだまする。

 結局、由貴也は一度も振り向かず、大学のグラウンドを後にした。それから大会まで由貴也は戻ってこなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サイトに戻る
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ