はじまりのエピローグ
『君のヒーロー』後日譚。
竜二はそれから順調に回復した。
華耀子とワンツーマンの練習は竜二を恐怖心を抱かせずにのびのびと走らせ、怪我で崩れたフォームを徹底的に直す濃密な指導を可能にした。それに優れたトレーナーが怪我をした部分の強化にあたり、充分なアフターケアを施した。
思えば、もっとも幸せな時だったかもしれない。傷ついた心と体を癒しながら、華耀子とふたりで前へ進む日々。たとえそれが戦いの前のつかの間の一時だとわかってはいても竜二は満ち足りていた。
ここに居続けるにはもう戦わなければならないとわかっていた。このクラブは走りを純粋に趣味として楽しむ場所ではない。走って戦って、高みを目指すための所だ。だから立ち直った竜二は戦わなければならなかった。
三月の初旬、竜二は記録会に出場した。実業団や大学生ランナーだけでなく、広く一般ランナーにまで参加者を募る記録会で、県のスポーツ促進事業とでもいうような平和な記録会だった。スポーツエリートだった以前の竜二なら目にも留めないようなものだ。竜二にとって記録会とは自校開催の強豪校との合同定期記録会だけだったのだ。
また、一から陸上選手としてのキャリアを積み重ねていく。正式な大会に出場するには大会ごとに定められた標準記録を破る必要がある。竜二は大学に入ってから大会にも記録会にも出場していない。必然的に持っている最新の記録は高三の時のものになり、標準記録として使用するには有効期限が切れていた。記録会に出場して、持ちタイムが標準記録を破れるまで地道に上げていくしかない。
記録会で出したタイムは全国レベルで活躍していた高校時代のものには遠く及ばない。けれども、グラウンドで座りこんでいた日々を思えば大きな一歩だった。
だが、竜二が大きな充足感を感じているのに対し、華耀子はこれといったよろこびを見せず、淡々と今日の走りへのアドバイスをするだけだった。
「何かつまらへんなぁ……」
竜二はクラブの建物の廊下を歩いていた。記録会終了後、華耀子の運転する車でこのスポーツクラブまで帰ってきて、そこで解散となった。
竜二は打ち上げということで夕食にでも誘おうと、前日から練りに練ったセリフを口にしようとした時にはもう、華耀子はそこにいなかった。彼女は何の感慨もなく、「じゃあ、お疲れさま」と言って、すばやく去っていってしまっていたのである。
竜二は正式に競技人生を再開する始めの一歩を、今日踏み出した。それなのにずっとふたりでやってきても、感動しているのは竜二だけのようだ。竜二の脳裏にはいつも冷静な顔をした華耀子しか浮かばず、なんとも言えず、少し寂しい気分になった。
帰りがたく、スポーツクラブの中をあてどなく歩いていた。夕方のクラブはフル稼働だ。学校帰りの若いアスリートたちを飲み込んで、そちらこちらで指導する声が上がっている。
竜二は陸上のみならず、大学までもドロップアウトしかけていた。だから学生たちを他人事のように見ていたが、この間いきなり華耀子に「入学手続きしておいたから」と、書類の束を渡された。なんのこっちゃと思って見ると、近くの私大の入学案内だった。もちろん竜二は入試を受けていない。だが、書類の一番上には竜二の顔写真と名前が載った学生証があり、『右、本学理学部に在籍することを証明する』と書いてあった。
このスポーツクラブは水泳の名門だ。クラブに所属する水泳選手は例外なくその私立大学に入学し、形ばかりの水泳部に在部する。大学所属の選手として活躍することで校名の価値を上げ、代わりに大学側は彼らに大学生という身分とそれなりの支援を与える。つまり、私大とクラブは持ちつ持たれつの関係なのだ。その縁あって、竜二ひとり裏口入学生として押しこめたのだろう。
竜二はこれを機に、籍がまだ残っているの向こうの大学に退学届けを出そうと思っていた。もう、向こうに未練はない。そしてこちらに来てからまだまったく連絡をとっていない家族にも会いに行こうと思っていた。
それを華耀子に伝えると、「そう。本格的にシーズンが始まる前に行ってらっしゃい。ご両親によろしくね」とあっさり言われ、竜二は明日から三日間が休みになっていた。
華耀子は竜二が立ち直り、クラブに馴染めば馴染むほど、内面を見せなくなっていく。自分を語らない華耀子は、その経歴すら謎で、かろうじでアメリカの大学院を卒業したということがわかっているだけだった。
――私は、あなたをひとりで走らせはしない。華耀子のその言葉を疑うつもりは微塵もない。竜二がまた倒れたとき、華耀子は行動でその言葉を真実として示すだろう。彼女はコーチとして申し分ない働きをする。けれどもその働きの裏の心情まで感じたいと思うのは竜二の勝手だろうか。よろこびを分かち合いたい。
オレはアンタに一番によろこんで欲しいと思ってんやけどな、と竜二は胸の中でつぶやいた。
いつの間にか竜二はクラブの最奥にまで踏み込んでいた。西陽が差す絨毯敷きの廊下は、コーチ室や事務室、給湯室の並びだ。コーチやインストラクターは出払い、会社帰りの客が来るにはまだ早いせいか、事務室は静かだ。一般会員が見ることのないクラブの裏側を、竜二はゆったりと歩いていた。
先を見ると、突き当たりの部屋の扉が開いていた。マルチメディアルームと無機質な書体で記されたプレートが下がっているそこは、平たくいえばビデオ鑑賞のための部屋だ。スポーツ選手はしばし自分の競技中の姿を撮って、フォームなどをチェックする。竜二も怪我で崩れたフォームを直すために録画手法には何度もお世話になった。
そのマルチメディアルームから音が聞こえて、竜二は何気なく室内をのぞく。こんな中途半端な時間に、どこの競技のクラブ員が使っているのか純粋に興味がわいたからだ。スポーツ好きの竜二は陸上のみならず、他の競技を見るのも好きだ。
ひょいっと戸口から無防備にドアが開いたままの部屋をのぞいた瞬間、竜二は目を見開いた。目をまたたく。壁にかかるスクリーンに映し出されていたのは、他の誰でもない自分だった。
忘れはしない。あの冬の日、華耀子に走れと言われ、しかしそれができずに倒れた竜二が、プロジェクターの光の粒で作られ、こちらを見ていた。
誰が見ているのか。このクラブで竜二と深く関係があるのはひとりだけだ。考えるまでもない。スクリーンの前で立っているのは華耀子だった。
竜二は言葉が出ずに立ちすくむ。戸口にいる竜二からは華耀子の顔は見えない。ただ、その後ろ姿をじっと見つめる。
動かない自分たちを現実に戻したのは、開けっぱなしだった扉が、風によって音を立てて閉まったからだった。その勢いのよさに、華耀子がこちらを向く。当然、ドア付近に立っている竜二にも気づく。
「竜二……」
彼女の深いブラックの瞳が、わずかに驚きの形を作る。竜二は言いわけを探したが、うまく出てこない。何でそんなもの見てんのや、というささいな言葉すらも出てこない。後ろのドアは閉まり、出ていくこともできなかった。
竜二の姿を認めた後、華耀子の顔はまた、正面のスクリーンに戻る。ちょうど竜二が絶叫し、陸上を辞めさせてくれと懇願し始めたあたりだった。
改めて考えると、竜二はこの時、目が覚めたのだった。強いショックを与えられたことによって、自己防衛の暗示が解け、現実を見ないふりができなくなった。
「……グラウンドに倒れたあなたを見て、正直もうだめだと思ったわ」
前を向いたまま、ぽつりと華耀子がひとりごとのように漏らす。初めて聞く華耀子の本音に、竜二は素直に驚く。
「……だってアンタ、そんな様子まったく見せなかったやん」
華耀子はあの時ですら強気で、竜二に陸上を続ける道以外を示さなかった。
「私が倒れるわけにはいかないでしょう。私が倒れたらあなたも必ず倒れる。だからはったりでも強く見せなくてはいけないの」
それがコーチよ、と彼女は言った。
録画が最後までいったのか、映像が途切れた。スクリーンが青一色に染まる。その海の中のような光の中で、ゆっくりと華耀子はこちらを向いた。彼女の瞳が竜二をとらえたとき、溶けるように弧を描く。酸いも甘いも知った淡い笑顔。
「あの時、あきらめなくてよかった」
今日のあなたが走る姿を見てそう思ったわ、と華耀子は言った。
竜二の胸にはまたよろこびとはちがったものが去来する。華耀子がよろこんでくれるのはもちろんうれしい。けれども、ここを起点に離れていくようなさみしさがある。華耀子が親身だったのは、竜二が傷ついて立ち直れなくてぼろぼろだったからだ。竜二を救うには、華耀子もなりふりかまわない必死さで手を伸ばすしかなかったのだ。
立ち上がったならば、歩き出したならば、走り出したならば、いつまでも華耀子に寄りかかっていてはならない。自分は今きっと、つないでいた手を離された。
ここからが本当の正念場かもしれない。この二人きりの青い光の中で、竜二はそう思った。
クラブの陸上セクションは次々と新しい選手を迎えていた。暴力事件で入ったばかりの部活が廃部になった高校生ふたり、スランプに陥った全日本出場選手の院生――彼らは皆、ここへ来たばかりの竜二のように生気がなく、走ること、ひいては生きることをあきらめていた。ランナーである自分たちにとって、走ることと生きることは同義だ。華耀子は陸上が人としての生そのものに食い込んでいる選手ばかりを手元に連れてきている気がした。
同じクラブで、同じコーチに師事していながらも、彼らと竜二の練習時間はわかれている。個々の選手の精神状態が良くないゆえの配慮だろう。だから竜二は他の選手と華耀子がどのように接し、どのように練習しているのかがわからなかった。
それでも、華耀子が院生を立ち直らせるのに苦戦しているのは何となく見てとれた。彼は竜二や高校生たちと違って、いっぱしのアスリートだ。練習ひとつとっても顧問やコーチの方針に左右される中高生とは違い、自分自身のスタイルというものが確立している。それを今から変えさせるのは至難の業だろう。
指導する華耀子も大人なら、指導される院生ももう立派な大人だ。大人同士のぶつありあいは子供同士よりはるかに深く、激しい。
竜二は院生と華耀子の取り合わせを見るたびにもやもやとした。ここではきちんと選手がコーチに指導を受けるための時間が平等に確保されており、コーチの関心をひくための争いとは無縁だ。とすると、竜二は選手としてではなく、単純に人間として院生に嫉妬を抱いていることになる。
コーチング技術を学びにアメリカに留学していたという華耀子は、ストレートに大学院を出たとしても二十五歳だ。院生はおそらく二十三で、二歳差ならば隣に並ぶのに不自然ではない。それに引き替え、竜二はといえば十九で成人すらしていない。陸上選手として確固たる信念があり、日本の陸上界でそれなりの実績を挙げている院生とは、社会的な面でも競技の面でも到底敵わないのだった。
弱ったところを救われて、いつ院生に華耀子をコーチではなく異性として見る視点が生まれてもおかしくはない――竜二がそうであったように。
けれども竜二にはどうしようもないのだ。華耀子はコーチだ。竜二だけのものではない。院生にも竜二と同じように華耀子に救われる権利がある。
コーチと選手。竜二が走るかぎりはこの関係は不変で、動かしようがない。ほんまに参るわ、と竜二は困惑していた。
竜二の恋愛観は古風だと自身でも自覚している。かっこ悪いところや弱っているところは見せたくないし、彼女は断然守ってやりたい派だ。事実、今まで付き合ってきたのは歳下で、おっとりした女の子が多かった。
けれども、竜二が大学に入って怪我をして荒れ、自分で自分の手がつけられなくなったとき、彼女は怯えるだけだった。そして荒れた後、気力が尽きて、竜二があの暗いグラウンドで座りこんだとき、彼女はもういなかった。
彼女が悪いのではない。自分を制御できなかった竜二に彼女を責める資格はない。
華耀子と出会って、竜二はスポーツ選手に姉さん女房が多いわけを知った。スポーツ選手には高い山と深い谷がある。綺麗事だけでは支えていけないから、全身で寄りかかっても倒れない女性が求められるのだ。
とはいっても、醜態という醜態すべてを見られている竜二は男のメンツやプライドなどないに等しく、しかも六歳上の華耀子にどんなアプローチをかけていいかまったくわからず、とにかく途方に暮れた。
空気が温んで春を感じるようになってきた頃、また唐突に華耀子が言った。
「大学生コースにも新しい選手を迎えることにしたわ。あなたにもライバルが要るでしょう?」
新しい選手。それは竜二と華耀子のワンツーマン指導ではなくなるということだった。
「……オレはアンタとふたりっきりでも構わへんけど」
思いきってぼそりと言って、華耀子の様子をうかがうが、「そう?」と軽く流された。完全に相手にされていない。竜二は肩を落とす。この人はきっと全部わかっていて、わからないふりをしているのだろう。
「はいDVD。今年急に速くなった選手だからあなたは知らないと思うわ」
DVDには『インターハイ』と書いてある。その選手が走っているところが収められているのだろう。
どんな選手だろうか。負けたくないと思い、DVDをつかむ手の力が強まった瞬間、ふっと記憶がよみがえる。赤い頬をした、クラス一かわいい女の子。一番初めに負けたくないと思ったのは――。
不意に笑いがこみ上げてきた。何だ。昔も今も、自分はちっとも変わっていない。
陸上を始めたのは、運動会の時、陸上クラブのコーチに見いだされたからではない。運動会のリレーで、
好きな子にかっこいいところを見せたかったからだった。小三の竜二は小六の生徒に学年選抜リレーで負けて、それが悔しくて悔しくて、陸上を始めたのだった。
「何を笑っているの」
いぶかしげな顔を向けてくる華耀子に「いや、何でもないんや」と返す。
「ただ、またがんばるしかないと思っただけや」
まずは陸上選手として満足のいく走りができるようになって、一人前の男になって、華耀子と対等になるのだ。
オレはアンタがそこにいてくれるなら、また“ヒーロー”になれる気がするんや。そしていつか、彼女のヒーローになるのだ。
自分がヒーローになるための場所、走路を見つめ、竜二は決意を新たにする。
追い風が吹いていた。