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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
62/127

君のヒーロー・後編

 案の定、夜半から熱を出し、竜二は動けなくなった。

 竜二は自他ともに認める頑健さを持っている。幼い頃から風邪ひとつひいたことがなく、病の方が竜二を避けていくと言われていたほどだった。だからこの高熱をどう対処していいかわからず、そもそもそんな気力もなく、フローリングの床に荒い息をつきながらただ横たわっていた。

 意識が朦朧として、体が動かない。それでもこのままでいようと思った。闇の底にいるような感覚。ここにいればゆっくりと朽ちていけるに違いない。

 それからどれぐらいの時間が経ったのか。突然気配もなく冷たい手が額に触れた。でももう目すら開けられない。額からその手のひらが移動し、労るようにひとつ頭をなでられる。

 これは夢なのだろうか。家族ですら竜二は怪我から続く不調を隠していたために距離をとって接していた。この一年、自分自身ですら支えられなかったのに彼女など作れるはずがない。こんな直接的な温もりに触れたのは、前が思い出せないほどに久しぶりだった。

 冷たい手。氷のようなその奥に、確かな人の体温を感じた。それは竜二を闇の底からすくい出し、ほどなく安楽ではない眠りに誘われた。

 浅い眠りは波のように悪夢と現実を連れてくる。膝を壊される夢と目が覚めても走れない現実。そのどちらも竜二に絶望をもたらすだけだった。

 やっと自分が起きていると認識できるようになったとき、カーテンの隙間から白んだ空が見えた。天井が遠いと思いきや、竜二はベットではなく、床に布団を敷かれ、そこで寝かされていた。竜二の首裏にはアイスノンが、脇の下は氷嚢で冷やされ、安易に額を冷やしがちな素人の処置とは異なっていた。

 誰が自分を寝かせ、治療を施したのか。そんなことすら熱に冒された頭では考えられず、単純な欲求から竜二は水分を求めて枕元に手を伸ばした。

 寝返りをうった瞬間、竜二の瞳は室内に第三者の存在をとらえる。華耀子が背中を向けて薄暗い部屋の中で座っていた。

 竜二の体は硬直した。また彼女は懲りずに自分を走らせに来たのか。そう考えたとたんに竜二の体は嫌な熱に包まれる。竜二は気分の悪さに耐えつつ華耀子の動向をうかがった。

 彼女は小さな折り畳み式の机を引っ張り出し、パソコンを乗せてその画面を凝視していた。一応、病人の竜二に慮ってか、ヘッドホンをしている。

 自分の看病の退屈しのぎに映画のDVDでも観ているのかと思いきや、違った。パソコンの小さな画面で動いていたのは数時間前の竜二だった。

 いったいどこから撮っていたのか、どこにカメラを仕掛けていたのか、鮮明な画像の中ではみぞれが降っていた。その中を竜二は走り出す。すぐさま病とは違う熱が竜二の体を激流となって駆けめぐる。華耀子は自分の無様な姿を実際に観ただけでは飽き足らず、形あるものに残して更に貶めようというのか。

 パソコンをめちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られて、這うようにして体を華耀子の方へ前進させる。みっともない姿だが、今立ち上がったら確実に目眩に襲われて転ぶ。

 やっとの思いでパソコンのコードに届きそうなところまで来て、竜二は再び、胸に衝撃が襲い、動けなくなった。

 ここから、華耀子の顔が見える。彼女はどんな細かい動作の一瞬すら見落とさないように、食い入るように画面の竜二を見ていた。どん底まで落ちてもなお浮上できない竜二を、引き上げようとその糸口を探していた。それはごみ置き場から宝石を探すような、途方もない労力と根気を必要とする作業のように思えた。

 華耀子は画面の竜二が、過去の記憶に捕らわれ走れなくなり、辞めさせてくれと懇願をし始めても早送りをしなかった。むしろ動画を再生すると同時に自分の記憶にも焼きつけておこうとするように、まばたきすらせずに見ていた。まるで、自分の犯した罪を確認し、忘れまいとするように。

 熱くたぎった気分が萎えていく。この人はあんなにも情けない姿を見てもなお、竜二をあきらめようとしないのだ。

 そっと床に戻り、布団をかぶる。華耀子の姿を視界から追い出す。このままでは勘違いしてしまう。華耀子の見つめる視線の先の自分は、価値がある存在なのだと。あんなにも踏みにじられ、部活という組織に否定され続けた自分の“可能性”をまた信じてしまう。

 もう、走りを忘れたい。思い出したくない。たとえ、この先に希望が待っていたとしても、もういらない。

 すべてを逃避するように、竜二は眠りに就いた。その後、何度目覚めても華耀子はそこにいて、飽きることなく画面を凝視していた。その背中を見るのがたまらなく嫌だった。

けれども、いつ意識が戻っても、汗で濡れた不快なTシャツを着ていることもなく、氷嚢はいつでも冷たかった。

 ようやく起きあがれるようになったのは三日目で、外の木枯らしが窓を揺らす音を聞きながら、華耀子が買い込んできたカップスープを無言ですすった。大量のレトルト食品に頼り、華耀子は決して台所に立つということをしなかった。

「……アンタ、料理作れへんの?」

 竜二は単純な興味から尋ねた。もっとも華耀子はバリバリのキャリアウーマンといった鋭角的な雰囲気を持っており、家庭的といった円かさとは無縁のように見えた。それに竜二の看病などパソコンの画面を見る片手間に行っていたに違いなく、手料理を披露するほどの熱意もないのだろう、と言った後に思った。そのパソコンは最初からなかったかのごとく、今は見当たらなく、華耀子もあの真剣な表情を納めている。

 湯気を立てるコーヒーカップから華耀子が顔を上げる。竜二が彼女の顔を認識したのはこれが初めてだったかもしれない。美人だった。

「あなたと同じよ。私も走ってしかこなかったから、それ以外のことはできないの」

 華耀子の名前は歳が離れているから、女子だからというのもあるが、竜二は選手として耳にしたことがない。そう考えると華耀子はさほど速い選手ではなかったのだろう。

 それでも、まぎれもなく彼女は自分と同じ人種なのだと竜二はぼんやりと思った。







 竜二は体が回復しても、もう練習には行かなかった。華耀子が訪ねて来る前に行くあてもなく部屋を出て、真冬の街をさまよう毎日を過ごす。

 ずっと思考を放棄してきたのに、竜二は考えてしまった。走ることを。固く蓋をして、もう思い出さないようにしなければいけない。だからもう二度と走らないとする竜二をなおも走らせようとする華耀子を遠ざける必要があった。

 竜二がこの街に来てからもう一ヶ月以上経つ。それでも目を開いていながらも何も見えていない竜二にとってはどこもかしこも知らない場所だらけだった。

 竜二は知らない街の中に、あの記憶にこびりついている湿ったグラウンドを探した。自分のすべてを凍らせて、あのグラウンドの隅でもう一度座りこめば、もう何も考えずに済む。

 ふらふらと探し歩いていつの間にか一日が経過していることもよくあった。見知らぬ街は竜二によそよそしく、なかなか居場所が見つけられなかったのだ。

 ある朝、公園で目を覚ますと、ベンチの上で寝ていた竜二を子供たちがのぞきこんでいた。さすがにこれには面食らう。けれども、竜二が何かしらの反応を起こす前に、向こうが歓声を上げて走り去っていく。この田舎の地方都市では、ホームレスという言葉は知っていても、実際に見たことがない子供が多いのかもしれない。今の竜二はまさしく“ホームレス”だ。帰る場所が、ないのだ。

 公園には親子連れやカップルが多く、どうやら今日は日曜日らしい。数日間、浮浪者よろしくふらふらと歩き回っていただけだったので、曜日の感覚がなかった。もっともずっと前から時の流れなど気にしていなかったが。

 冬にしては暖かな日で、薄い色をした陽が公園の木々を透かして竜二に降り注ぐ。世の中のいいところばかりを集めてできた休日の公園は、竜二が探していた場所ではなかった。

 行かなくては。ここから離れて、早くあの陰気なグラウンドに戻らなくては。気持ちは急ぐのに、体が動かない。動こうにもろくに寝ずに何も食べずにこの数日を過ごしてきたのだ。そろそろ疲労がピークに達していた。

 日だまりに、木漏れ日。笑い合い腕を組む恋人たちに、赤ん坊を気にしながらベビーカーを押して歩く母親。息子とキャッチボールをする父親。見るともなしにそれらの光景が竜二の視界に入ってくる。

 自分は陸上と出会わなければこの公園にいるうちの“誰か”になっていたかもしれない。平凡で穏やかな日常を、数珠のようにつなげて満ち足りて、痛みも苦しみも――走るよろこびすら知らずに生きていたのかもしれない。けれども、もう走りたくもないのに、走らない自分をうまく想像することができなかった。

 子犬がもつれあうように、防寒具でもこもこに着ぶくれた子供たちが目の前を走っていく。その中に、竜二は過去の自分の残像を見る。

 焼けた肌に、真冬でも半袖のTシャツを着て、同級生たちの先頭を走る幼い自分。誰も竜二に追いつけない。早く来いやー、と歯を見せて笑う。

 不意にあどけないその顔がこちらを向いた。白い体操服に、徒競走の一位の旗を持った姿に変わっていて、ガキ大将から少し成長していた。

 ああ、と思い出す。小学三年生の時の運動会で、徒競走の一位になった自分を、陸上クラブの監督が見初めたのだった。それで本格的に陸上を始めたのだ。

 小学生の時は、足が速いというだけでクラスの人気者だった。その無敵のヒーローだった自分が、じっとベンチに座る今の竜二を見つめていた。

 竜二は知らず知らずのうちに顔を歪める。見ないでくれ、と叫びだしそうになる。十年前の自分は、この情けない姿を見たらさぞかしがっかりするだろう。ヒーローになるための足も、心も失ったこの姿を。

 自分自身が作り出した虚構であるはずの小学生の竜二は、予想外の行動をとった。唐突に手を伸ばして、ベンチに座る竜二の腕をとったのだ。そのまま、腕を引かれて、ベンチから立たされる。

 疲れのあまり、自身が見せた幻影であるのに、小さな竜二はぐいぐいとこちらを引っ張って進んでいく。やがて連れていかれたのは、小さなグラウンドだった。土の、まわりを木々に囲まれたそこは、竜二がつい一ヶ月前までいた墓場のようなあそことよく似ている。けれど、そこにいるのは陰鬱な顔をした部員たちではなかった。陸上のクラブチームの小学生が練習に励んでいた。

 あそこと同じようなグラウンドなのに、どうしてここはこんなにも輝いているのだろう。明るくて、今の竜二にはたまらなくまぶしかった。

 衣服を引っ張られて下を向く。幼い竜二がくりくりとした目を輝かせてこちらを見上げている。『オレと勝負しよや』とその口が動いた。

 陸上クラブに入ったばかりの頃、竜二は速そうな上級生を捕まえてはそうやって勝負を挑んでいた。隣に立つ無垢な目をした“竜二”には、今の走ることを辞めて久しい自分も、速そうな上級生に見えるのだろうか。

 ごめんな、と心の中で謝って走れないと首を横に振る。オレはもうずっと前からヒーローじゃないんや、と幼い竜二に罪悪感の薄い笑みを向けた。

 一瞬アーモンド形の瞳を丸くし、きょとんとした表情をした後、なんでや、と心底不思議そうに小さな竜二は言う。そして、欠けた歯を見せて笑う。

 だってアンタは走る人やろ――。

「五十嵐くん」

 自分を呼ぶ現実の声に、過去の竜二が霧散した。自分に決定的な一言を残して。

 振り向くと華耀子が綺麗に整えられた眉を寄せてそこに立っていた。自分は何日も練習を無断欠席し、あまつさえ連絡を絶っていたのだ。華耀子が怒り、竜二を破門したとしても当然の事態だった。

 竜二が見捨てるなら見捨てろ、と華耀子に対して身構えた瞬間、何かやわらかいものが竜二を包んだ。カシミアの黒いストールが竜二の肩を覆っていた。

「そんな薄着で何日もふらふら出歩かないで」

 かけられたセリフは陸上選手である竜二に最後通牒を渡すものではなく、世間並みの女のものだった。部屋着のスウェットにゴム製のサンダルという自分の格好を省みて、竜二は笑う。ただ単にまぬけな姿の自分を笑う幸せな笑みではない。

「オレがどんな格好してようとアンタには関係ないやろ」

 お前の絶望はそんなに浅いものじゃないやろ、と自分の中のどこかから声がする。膝がまた腐り落ちるように痛み始める。

 竜二は痛みをこらえて叫んだ。

「この前わかったやろ! オレは陸上選手としてはもう終わっとるんやっ!!」

 激情に任せて、竜二はカシミアのストールを華耀子に投げつけた。華耀子はそれを甘んじて受ける。

「今さら優しくして、オレをどうするつもりやっ。また走らせるつもりなんか! もうアンタに付き合うのはまっぴらや!!」

 優しさを、竜二はもうゆがんでしか受けとれない。陸上選手でない自分に向けられる純粋な優しさなど、ひとつもないと思っている。竜二が有望な選手であったとき、あんなにも親切にしてくれた人々は、怪我をした途端、手のひらを返したように冷たくなったではないか。

 ――だってアンタは走る人やろ。

 耳の奥で幼い声が響く。そうだ、走る人だからこそ、走らない自分に価値はない。

「……頼むから、もう放っておいてくれや」

 竜二は地面に落ちたストールをじっと見ていた。幼い竜二と過去をたどったところで、結局は同じ場所に行き着くのだ。走れなければ意味がない。もう嫌だった。どうにもならない気持ちを持てあまして誰かを傷つけることがたまらなく嫌だった。

 華耀子は無言でストールを拾う。見事なまでのポーカーフェイスで、悔しいほど表情を崩さない。

 それからゆっくりと華耀子は顔を上げ、竜二を見上げた。

「……最後に、ひとつだけ私の言うことを聞いてくれない? そしたらあなたの好きにしていいわ。約束する」

 反発心が即座にわき上がる。自由になるのにどうして華耀子の許可が必要なのか。

「何でアンタに従わなきゃなら――」

「私はご両親からあなたのことをお預かりしてるの。私の言うこと聞いてくれたら、ご両親にもきちんと納得していただけるように陸上を辞めることを説明するし、あなたがしろというのなら就職先も斡旋するわ」

『両親』。竜二はこの言葉を出されると逆らえない。それをわかってこの女はやっているのだ。卑怯だった。

 しょせん竜二の生殺与奪は華耀子が握っている。未成年で何の力も持っていない竜二は何ひとつとして自身の満足いくようにはできない。

 だらりと下げた腕の先でこぶしを握った。

「……何を企んどるんや」

「とにかく帰りましょう。話はそれからよ」

 どこに帰るのかと反射的に思ったが、華耀子に手首をつかまれる。そのまま華耀子の車に押し込まれ、クラブのグラウンドへ連れていかれた。

「ここで少し待っていて」

 どこから買ってきたのか、華耀子は竜二に紙コップに入ったコーヒーを渡して屋外のベンチに座らせた。

彼女がクラブの建物に入っていく姿を見ながら、コーヒーに口をつける。ほとんど数日間何も口にしていなかった身にはその温かさが染みた。

 ぴちち、と竜二の頭上の枝で、小鳥がさえずる声がする。さっきの公園といいここといい、どうして自分はこんなに明るい場所に出てしまったのか。ここは、竜二の帰る場所ではない。

 華耀子のいうことがなんであれ、それさえ済めば自分は“帰れる”。ここではなく、あの暗いところへ。

「五十嵐くん」

 呼ばれて顔を上げると、華耀子がすぐそばに立っていた。その格好に竜二は目を丸くする。彼女は肌もあらわに、ショートスパッツにタンクトップという“陸上選手”のウェアを着ていた。いつものコーチとしてのジャージ姿ではない。

 すんなりと伸びる腕や足には無駄なく筋肉がついており、そのつき方は短距離走選手としてのものだった。

「アンタ、走れるんか」

 あっけにとられて竜二は問いかける。

 華耀子はせいぜい二十代半ばで十二分に若い。一般的に短距離走者としてのピークは二十五歳前後と言われているのだから、今が一番選手としては脂がのっている時期である。その時期に選手ではなくコーチをやっているのだから、華耀子は怪我をして選手生命が絶たれた元アスリートだと思っていたのだ。

 けれども、走ることに何のてらいも見せないその姿から、体に故障は抱えていないように見えた。

「走ってるわ。今でも、毎日」

 華耀子はそれだけを簡潔に答えて、体を温め始める。形容しがたい感情が竜二を突き動かす。傷ついていない体。毎日走れる体。陰惨な感情がわき上がる。

 狂暴な気持ちが、竜二を内側から刺激する。吐き出さないとどうにかなってしまいそうだった。

「だったらアンタが自分自身で走ればええやろ。その健康な足で走れやっ」

 止めたいのに、止まらない。自分のものではないように口が動く。

「アンタの事情なんか知らへんけど、アンタは逃げたんや。走れるのに逃げて、代わりにオレを走らせようとしているだけや。オレはアンタの身代わりじゃあらへん!!」

 叩きつけるように攻撃的に一息で言いきって、これで華耀子を失った、という自覚が胸に下りてきた。身代わりでもなんでも、自分を“走る人”だとまだ見なしてくれるのは幼い竜二と、華耀子だけだった。それすら自分はなくした。

 顔が上げられない。いい加減華耀子も自分を見限るだろうに、自分は楽になったとは思えないのだ。

「私はあなたを私の代わりに選手として活躍させたいとか、立ち直らせたいと思ったことはないわ」

 上から華耀子の声が降ってきて、つい顔を上げた。その横顔は竜二を見ていなかった。

 彼方のグラウンドを見つめて、華耀子は言う。おそらく、かつて選手だった華耀子が何らかの理由で、一度は去った場所。そこに竜二を戻らせようとするのは自分のエゴではないと彼女は言う。

「だって、あなたに過去の私を重ねていたら言うもの。辞めていいって」

 自嘲気味に彼女は笑ってこちらを向いた。陽に雲がかかり、にわかに暗くなる。

「つらかったわね。もうがんばらなくていいわ。何も考えなくていいのよ、そう言ってあなたを甘やかすわ。だって一番欲しい言葉でしょうから」

 ゆっくりと華耀子がこちらを向く。伏せた目にもう笑みの色はなく、ただ竜二を見下ろしている。

「陸上以外の人生もあるわなんて、最もらしいこと言って……ねえ、陸上以外の人生なんてどこにあるのかしらね」

 日射しの温もりを失った冬の風が華耀子の髪を吹き上げる。乾いた音を立てて落葉が足元で舞う。流れが速い雲を背景に、異様な迫力が華耀子を包んでいた。

「そんなものなかったから言うのよ、あなたに。足で生きてきた私たちに他で生きるすべはないの」

 それは、大学にもう一度入って、何かを学び直してというようなありきたりな人生のやり直し方ではない。自分たちは致死性の病にかかっている。走らないことでゆっくりと死に至る。

「就職先を斡旋して、あなたは陸上とは関係のない日々を過ごして……そんなもの“再生”じゃないわ。ただの余生よ」

 ものすごく、残酷なことを言われていた。みじめさと情けなさの塊になった竜二にまだ走れと、苦しめと華耀子は言うのだ。それ以外に生きる道はないと。

 それでもなお、反論できないのは自分だってわかっているからだ。走らない自分をどうしても想像できない。それはもはや自分ではない。

「そんなら、オレにどうしろって言うんや……!」

 叫びながら、やがて行き場のない怒り、やるせなさ、苦しさがひとつの言葉に集約していく。

「オレやて、本当は……っ」

 本当は? と心の奥底から聞き返す声がする。目の前を幼い竜二が裸足で走っていく。少し離れたところで、振り返って無邪気に笑う。

 本当は、本当は、本当は――胸の中で叫びを繰り返して高まっていく。ずっと意図的に沈めてきた言葉が堰を越えた。

「オレやて、走りたいんや……!」

 それは、心の底からの叫びだった。ずたずたに心を切り裂かれ、傷口に絶望を塗られてもまだ消えない、竜二の望み。口にしたらその強い思いにひきずられ、狂うほどに苦しむのがわかっていたからずっと閉じこめていた。

「走りたいんや……」

 余韻のようにそう言って、すべてをさらけだした気分になる。無気力の鎧で外界の一切をたっていたけれど、それもなくなり、むき出しの自分はひどく弱い。

 華耀子は何も言わない。無言の時が過ぎる。竜二はベンチに座ってうなだれたまま、華耀子は立ち尽くしたまま、長い沈黙が流れた。

 それを打破したのは華耀子の方だった。膝を折り、竜二の足に手を伸ばす。彼女が竜二の怪我をした方の膝に触れようとしているのだとわかった瞬間、竜二の体は動いていた。

「触んなっ!」

 華耀子を振り払った手が、勢い余って彼女の顔にかすった。伸びた爪がその頬に赤い筋をつける。竜二はうろたえる。対する華耀子は微塵も表情を動かさなかった。

 自分だけが揺れる。自分だけがみっともない。

「……思い出すんや、足を壊された時のこと。だから触らんといてや」

 言い訳のようにつけ加え、竜二は膝の上に組んだ手に、額を乗せた。今でもはっきりと覚えている。膝裏に当てられた相手の膝頭の固さ。嫌な熱が伝わる。次に来る過去の衝撃を回避するように、竜二は目をつむった。

「あなたの膝は治ってるわ」

「それでも走れんのはオレが弱いせいだってアンタも言うんやろ?」

 精神論のはびこるあの部の中で、怪我をするのも、怪我を治せないのも、怪我から立ち直れないのも、すべては心が弱いせいだと教えられてきた。

「ええそうね。あなたは弱いわね」

 どこまでも華耀子は冷静で、感情に流されない。少しの慰めも、竜二に与えない。

 そして、その冷酷とすら言える表情のまま、けれど冷酷だけではない顔で言った。

「だから、私が助けるの」

 包みこむように、両手で膝に触れられた。びくりと体を震わせて顔を上げると、膝をついた華耀子の顔がすぐそこにあった。あの明け方の竜二の部屋で見た、真剣な瞳が、自分に一心に注がれる。息が、止まる。

「怪我をしたばかりのあなたも、リハビリに苦しんだあなたも、部活の中で心を閉ざしていくあなたも救えなかったけど、今のあなたは私が助けるわ」

 だから、と華耀子は言葉を継ぐ。

「お願い、走って」

 ――あの時、助けてと伸ばした手が、今つながった気がした。

「……今さら、今さらや! そんなん、そんな……っ」

 言葉が続かない。喉が痛む。怪我をしてから、あのグラウンドで感情を殺していくまでのことが、竜二の中で再生されていく。孤独が竜二の心を潰していく。

「そうね、今さらね。わかってるわ。でも、今ならまだ私にもできることがあると思ったのよ」

 力を与えるように華耀子の手は竜二の膝に触れ続けている。それをどかそうと伸ばした竜二の手は、いつのまにかその手をつかむものに変わっていた。

 華耀子の手がひるがえって、下から手を握られる。手をつなぐ。

「私は、あなたをひとりで走らせはしない」

 誰も、竜二にそんなことは言わなかった。あんなにもたくさんの部員と、それを取り囲むコーチや監督、トレーナーがいながらも竜二はひとりきりだった。

「私と一緒に走って」

 両手をつなげて、ゆっくりと華耀子が立ち上がる。竜二もそれに倣った。

「私は高みの見物なんてしない。あなたが倒れるときは私も倒れるわ」

 二人三脚よ、と竜二の両手をとったまま、華耀子は影などできないほどにまっすぐに言った。

 華耀子はコーチであり、竜二は選手だ。すべての結果はあくまで竜二だけに降りそそぎ、華耀子はそれが自身に波及しそうになれば選手を切り捨てて逃げることも可能だ。事実竜二はそうされて、怪我をしてから長い間、いないものとして扱われた。それでもふたりで歩むと華耀子は言う。一蓮托生だと。

 手を繋げたまま、導かれるように歩いた。

 もう一度だけ、信じていいのだろうか。ひとりではなく、ふたりでなら、もう一度走れると。

 華耀子の歩みが徐々に速くなっていく。“歩き”から、“走り”へ変わる。

 足を踏み出す。自分の足音が耳朶を打つ。地面を蹴る、力強い音。ずっと昔から知っていた懐かしい音だった。

 華耀子に手をひかれ今、確かに走っていた。後ろから絶望が追いかけてくる。けれども追いつかれない。竜二は足をとられない。前に進み続けることができるから、導いてくれるから――。

 百メートルを走って、止まった。肩で息をする。酸素不足で視界がぼやけているのかと思ったが、違った。顔が熱い。喉から嗚咽が漏れて、初めて自分が泣いているのだと気づいた。

 身の内に溜まった澱が溶けてあふれだす。凍えた竜二をとかしていく。竜二の中で何かがはがれ落ちていくのがわかった。

 どうして自分は、走りを忘れていられたんだろう。顔を手で覆っても、次から次へと涙がとめどなく流れる。

 そっと、つながっていた華耀子の手が離れていく。空になった手に外気の冷たさを感じた瞬間、竜二を支えるように肩を抱きよせられていた。それは体の触れ合いだけでなく、竜二の心にまで寄り添うものだった。

 かつて自分に恐怖を与えた人肌の温もりは、今は湯に浸かっているような安心感となって竜二を包む。その中で今までの膿をすべて吐き出すように涙を流した。

「まだ、膝は痛む?」

 やがて、竜二が落ち着いた頃、静かにそう問いかけられて、切れ切れの声で何とか答える。

「……もう、痛まん」

 おそらく、もう痛まない。膝の痛みは竜二の恐怖が作り出したものだったのだろう。

 ふっと見間違えのような一瞬に華耀子がやわらかく笑ったかと思えば、おもむろに手を伸ばし、髪に触れてきた。次の瞬間、たゆたうように優しく動いていた手が、確かな意思を持ち、竜二の前髪をわしづかみにした。

「髪を切ってきてちょうだい。いい加減、むさ苦しいわ」

 思いもよらなかった言葉に竜二は絶句する。改めて自分の格好を省みれば、何ヵ月も切っていない髪に、スウェットとゴム製のサンダル。ここ数日は浮浪者よろしく過ごしていたため、ひげも剃っていない。いつも部内の規則違反すれすれのところで最大限のおしゃれをしていた竜二にしては考えられない姿だった。

 それにしても、走れなくなって自棄になっている竜二を前に、バカにしたように『悪態つけるほどの元気があれば心配ないわね』と言ってみたり、あんなにも真剣に見ていたパソコンを竜二が目覚めたとたんに隠してみたり、この感動的な場面で唐突に髪がむさ苦しいと言ってみたり、この人は本当にあきれるほど素直じゃない。

 雪まみれになって寮の部屋に帰ってきた竜二のために風呂をわかしたり、夜中に様子を見に来て看病したり、街でさまよっている竜二を探しに来たり、行動が隠しきれない華耀子の心情を物語っている。アンタがオレのこと、心配してたのはわかってんで、と竜二は思った。

 翌日、竜二は短く切って金髪に染めた髪でグラウンドに行った。染髪など言語道断、スポーツマンらしくないという部活内では絶対にできない髪形だった。

 華耀子は竜二を見上げ、「派手ね」と一言。

「でも、ずっとよくなったわ」

 オレもそう思うわ、と答えて竜二は笑う。初めて、“本当の自分”になった気がした。


後日譚に続く。

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