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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
61/127

君のヒーロー・前編

自サイトの拍手文再録。

竜二と華耀子の出会い。12月~由貴也が来るまで。

※『死に損ないの言い訳』改題。

 鬱蒼とした木々に囲まれた競技場。そこから見上げる空は競技場の形に切り取られていた。

 こんな森の真ん中にグラウンドを作るなど、嫌がらせにしか思えない。ここへ来た当初はそんなことを思ってたのに、今はただ淡々と水はけの悪いグラウンドの整備をするだけだ。毎日毎日、放課後になると同じ行程を繰り返す。水を追いやって、地面をならして走れるようにする。そうしなければ死んでしまうかのように。

 ここは墓場だ。大学紹介のパンフレットにも、陸上部のウェブサイトにも決して載らない闇の部分。亡霊のように生気のない表情をした“三軍”の部員たちが、ただ黙々とラインを引く。

 西に五十嵐有り。かつてそうもてはやされた竜二は、ここで埋もれて、沈んで、潰れた。大学に入って早々、膝を故障したのだ。練習中の他部員との接触――表向きにはそうなっている竜二の怪我は人為的なものだと今でも思っている。部内でのレギュラー選抜の際、隣を走る先輩がラインを越え、竜二にぶつかってきたのだ。巧妙に足まで引っかけてもつれさせて、なおかつ派手に倒れた竜二の上に自身も転倒を装い覆い被さり、膝に強い負荷をかけた。それで竜二の膝は壊れた。

 この部には厳格な規則と上下関係が存在している。大勢の部員を抱えているため、少しでも統率を乱す者には厳罰を持って処される。先輩を相手に争うということは、退部を意味する。それに竜二の味方など誰もいなかった。レギュラー選抜戦で走ったすべての選手がグルだった。普通に走れば竜二がレギュラーに選ばれるのは明らかで、インターハイ準優勝の自分を消したがっている人物は多かったのだ。

 それからはあっという間だった。二軍に落ち、夏が過ぎて三軍へ。この墓場へ行くとき、二軍の先輩は言ったのだ、『五十嵐 竜二も終わったな』と。小学校からずっと陸上をやってきた竜二だが、一度も口をきいたこともなければ、大会で見たこともない人物だった。おそらくたいしたことのない選手なのだろう。

 自分はその彼にすら勝てない。何も言い返せない。自分はそう、終わったのだ。

 三軍でゆるやかに死んでいく日々。プライドを捨て、三軍にいることを受け入れてしまえば、最低限毎日とりあえずは走れる。練習試合にすら出してもらえなくとも、陸上選手ではいられる。この部では最下層の雑用係でもいい。ずっと走ってしかこなかった。だからグラウンドの外になどなおさら居場所などないのだった。

 竜二は膝を抱えて、グラウンドの隅に座っていた。小雪が舞う十二月の始め、シーズン中の反省をふまえて冬季練習に打ち込まなければならないのに、走れなかった。どうしても膝が痛むのだ。

 もう、立ち上がれない。狂っていくフォームが無駄な動きを付与し、どんどん遅くなっていく。自分ではどうにもできず、走れば走るほど泥沼にはまっていく。

 ここからはい上がろうという気力すらない。インターハイ準優勝が遠い昔の夢のように思える。

 空風が髪をなで、体を冷やした。関節が寒さに悲鳴を上げる。このまま何もかも壊れてしまえばいい。自分の体も、この腐った部活も、目の前で覇気のない練習を行う部員たちも――。

「五十嵐 竜二くん?」

 自分の名前を呼ばれているのだと理解するまでにずいぶんかかる。陸上雑誌に新聞、学校の垂れ幕。かつて栄光に彩られた竜二の名前を呼ぶ人物はもういない。竜二の転落を喜んだ人々も、今はもうその存在すら忘れかけているだろう。

 竜二は緩慢な動きで顔を上げる。寒さで凝り固まった首がぎしぎしと痛んだ。

「初めまして。私は久世 華耀子。来年から関東でクラブチームのコーチをするわ」

 若い女だった。だが、竜二が認識できたのはそれだけだった。視界が膜のかかったようにぼんやりとしていて、よく見えない。音もよく聞こえない。現実感が希薄な毎日をただ漂うように過ごす。それが竜二の自己防衛だった。自分の置かれている状況をよく考えてしまっては、情けなくて生きていけないから。のたうちまわって苦しむしかないから。

 女はそれからもしばらく何か言っていたが、竜二はそれを意味のある言葉としてとらえなかった。変化を極力廃さないといけない。何のショックで目が覚めて、冷静に現実が見えるようになってしまうかわからない。今日かそれとも明日かあるいは昨日を生きているのかわからないほど変わりばえのない日々を望んでいた。

 女はやがて去っていった。ほんの少し心が動いた。それは女がこの日常を壊さずにいてくれた安堵だった。







 次の日も走れないのに竜二は木の幹に寄りかかってグラウンドで座っていた。

 家には帰れない。家族は竜二が怪我からの再起に向けて励んでいるのだと思っている。竜二の家は取り立てて裕福なわけではない。だが、大学でスポーツをするのは遠征費やら設備費やらで並々ならぬ金銭的負担がかかる。加えて竜二は怪我によってスポーツ特待生の資格も失い、大学の授業料も余分にかけさせていた。それらは親と歳の離れた兄が嫌な顔ひとつせず出していてくれていた。兄は「竜二の走る姿を見るのが好きなんや」と、自身が大学に行けなかったことに恨み言もこぼさずに竜二を応援してくれていた。

 今はオフシーズンで大会はないが、春になれば大会に出場できない竜二を家族はいぶかしむだろう。タイムリミットは近い。

 これでは大金をどぶに捨てさせているようなものだ。一刻も早く大学も陸上も辞めて働くべきなのに、離れられない、ここから。服屋の販売員でも美容師でも、ここにいるよりもよっぽど有意義だとわかっていても陸上を辞められない。辞めたらこの三軍で保っている仮死状態が本当のものになってしまいそうで怖いのだ。

 雨でも三軍に屋内練習場など使わせてもらえるわけがない。冷たい冬の雨に打たれながら座っていると、いきなり視界がぶれた。腕を引っ張られ、立ち上がらせられていた。

 反射的に顔を向けると、昨日の女がそこにいた。

「あなたに風邪をひかれては困るのよ」

 女は竜二を引きずるようにしてグラウンドから引き離す。竜二はずいぶん久しぶりに明確な意思を持って女に逆らった。グラウンドから離れるわけにはいかない。恐怖が竜二を支配した。

 けれども女は竜二の抵抗を全力で押さえ込んだ。

「あなたは私と一緒に来なさい。ここの監督にも、ご両親にも許可はとってあるわ。昨日、そう言ったでしょう」

“両親”。その言葉に体温が急激に上昇するのを感じる。赤がまぶたの裏で明滅した。

「……親に何言うたんや」

「ありのままを言っただけよ。竜二くんは怪我以降調子が上がらず苦しんでいる。だから私が少人数制のクラブで教えたいって」

「何で、何でそんなことを勝手に言うたんや!」

 一日分のエネルギーを全部使って竜二は叫んだ。ついこの間、春になったらまた優勝する姿を見せると約束したばかりだった。全力でバックアップしてくれている家族に、嘘をつき続けてでもよろこんでいて欲しかった。

「ご両親は知ってらっしゃったわ。あなたが苦しんでいることを」

 知っていた――……?

 頭が真っ白になる。嘘や、という言葉が出なかった。

 体は大事にするんやよ。膝の具合はどうなんや。無理したらあかんで。両親や兄の言葉がぐるぐると頭をめぐる。自分は笑って大丈夫だと答えていたはずだ。渾身の力をふりしぼって、普段通りを装ったはずだ。いったいどこが、何が悪かったのだろう。ただ、ひとつはっきりしていることは、もう家族のもとには戻れないということだ。いったいどの面下げてこれから彼らと暮らしていけというのだろうか。竜二の意思などお構いなしに停滞が破られた。

 それからはショックのせいか、ずっと思考を放棄してきたせいか、よく覚えていない。気がついたら関東に連れていかれ、女の所属するというクラブチームに連れていかれた。

 十二月の初旬、冷たい風が竜二と女ふたりだけのグラウンドを吹き抜けた。

「走って」

 夜更けといっていい時刻だった。放課後の部活の時間に、半分拉致のような形で竜二を新幹線に乗せてここまで連れてきたのだ。時間の経過は当たり前だった。

「走りを見せてって言っているの。あなたが今現在どういう走りをしているか見ないことには始まらないのよ」

 竜二は口を動かすのも億劫で、ただ突っ立っていた。ここまで来るのにもずっと手を引かれてきたのだ。走ることなどできやしない。

 どこのグラウンドも、あそこと変わらないように見える。あの鬱蒼とした木々に囲まれた、陰気な競技場と。

「聞こえないの、走りなさい」

 何をまくしたてているのだろう。バラバラになって壊れて踏みにじられた自分に何を今さら言うことがあるのだろう。竜二は今まで散々叫んできた。膝にまだ違和感がある。フォームが狂っていく。もう一度走るのが怖い。アドバイスが欲しい。助けてくれ、とあんなにも叫んだのに答えてくれる人などいなかった。それなのに、今さら何を自分に要求するのだろう。

 不意に女の手が振り上がった。冬の夜気を鋭く切る音がして次の瞬間、平手が竜二の頬で炸裂した。力を入れて立っていない竜二はいとも簡単に吹き飛ぶ。

 女は尻餅をついた竜二を先ほどまでと何ら変わらない顔で見下げていた。怒りとか、いらだちなどはなく、どこまでも冷静だった。

「目を覚ましなさい。今の頬の痛みは膝の痛みとは違うでしょう」

 膝はずっと痛む。あの日からずっと。けれども、叩かれた頬の痛みは感じない。妙にしびれているだけだ。痛いのはずっともう膝だけだ。

「目を反らすのは止めて。今のあなたはご両親にも見抜かれるほど不安定になっているの。自分の置かれている状況をいい加減把握しなさい」

 女の言葉が右から左に通り抜けていく。言語として意味をなさないただの音だ。竜二は尻餅をついたまま、座っていた。

 それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。女の手がまた竜二の腕をつかんで引っ張りあげた。竜二は逆らわないでなされるがままに従う。やがて連れていかれたのはクラブの寮だという場所だった。

 どこにいても変わらない。こんなに遠くに来ても竜二には染みついている、あの湿ったグラウンドが。

 家具が備え付けられた清潔な寮の一室で、竜二は壁に背を預けて座りこむ。

 そうしてまた動けなくなった。







 竜二の毎日は変わらないはずだった。場所がグラウンドから寮の一室に移っただけで、ただ日長一日ぼんやりと座っているだけだ。

 けれども、部屋のスペアキーを持っているのか、毎日華耀子がやって来て竜二をグラウンドに連れ出した。

 やれと言われればやる。ただし走る以外のことだけだ。着替えて、スパイクを履いて、ストレッチをして、ウエイトトレーニングをする。体が覚えているから、なにも考えずにできるのだ。ただ、華耀子の「走って」の言葉には体が反応しない。華耀子のアドバイスも竜二の上を滑っていくだけだ。

 華耀子は根気よく竜二を指導したのだと思う。いつもグラウンドにはふたりきりで、一日の長い時間を彼女は竜二のために割いた。竜二はただ、彼女の組み立てたスケジュールに乗っかって過ごした。

 クリスマスの華やぎも、年末の忙しさも、正月の清々しさも感じない日々が過ぎる。竜二の目には空はあのグラウンドの楕円形に切りとられた曇天にしか見えず、湿ったグラウンドの汚泥にまみれているようだった。

 一月の半ば、突然華耀子が言った。

「三月のこの競技会に出ましょう」

 鈍い思考が急激に回り始めた。彼女の提案は竜二を壊すものだ。退けなければ、自分を守らなければいけない。

「嫌や」

 竜二はここに連れてこられてから初めて口をきいた。

「なぜ? あなたの膝はもう治っているわ」

「オレは走れへん」

 膝が治っているなんて嘘だ。竜二をごまかすために言っているに違いない。この膝は一生治らないような痛みを放っている。

「走りなさい。私は陰気くさい人形を関西から持ってきたんじゃないの」

 反論を許さないほどきっぱりと言われ、初めて竜二に小さな反発がわき上がった。あの狭く、世界の果てのような場所から勝手に連れ出したのは華耀子ではないか。

 華耀子は竜二をなだめるようにワントーン声音を落として言った。

「……ここにはあなたを傷つける者は誰もいないわ」

 傷つける者。記憶が一気によみがえった。夕方のグラウンド、赤く染まった隣を走る人影が、竜二に覆い被さってくる。逆光の中、その人物は薄く笑っていた。膝が壊れる音に、竜二はたまらず絶叫する――。

 竜二が固く口をつぐんできたことを華耀子は知っている。なぜ、という竜二の無言の疑問に答えるように、華耀子は口を開いた。

「あなたの膝の診断書を見たのよ。明らかにただの接触事故でできる怪我じゃなかったわね」

 規則にがんじがらめにされて、竜二が自分から口にできなかったことを華耀子は見抜いた。気づいて欲しくない。けれども誰かに気がついて欲しいと長い間思ってきた。

「やられたらやり返しなさい。このままで終わっていいの」

 心がざわめき始める。閉じこめてきたものの蓋がガタガタと耳障りな音を立てる。

 かつて、燃えるように竜二は怪我が治ったら自分の膝を壊したやつらを完膚なきまでに抜き去ってやると思ったはずだ。

 もしも、もう一度走れるなら、走れるならば――。ずぶ濡れで消えたはずの胸の熾火がわずかにくすぶっていた。

「目を覚ましなさい。あなたの膝はもう治っているの」

 ぐらぐらと心が揺れる。華耀子の言葉が、自分の心の最奥に手をかけたのだとわかった。

「走って」

 その言葉にもう逆らうすべはなかった。

 竜二はふらふらとスタートラインに立つ。北風が長く伸びた髪を揺らす。

「On Your Mark」

 聞きなれない英語で華耀子が号令をかける。それでも竜二の体は反射的に位置についての姿勢をとる。

「Set」

 力が体の中心から隅々に行き渡るのが感じられる。ずっとできないと思っていた走る体勢が出来上がっている。

 次の瞬間、鋭くピストル音が天に放たれた。

 竜二が思うよりも早く、体が動き出す。何千回、何万回もやってきたスタート。

 視界が開ける。景色が崩れ落ちていく。あの自分と溶け合って境界がなくなっていた陰気なグラウンドの風景がはがれ落ちる。現実の色が竜二の瞳に映る。

 走れる。足が動く。自分は走りをこんなにも渇望していた。

 だが、心地よいと思った瞬間、何かに足を引っ張られた気がした。顔を向けると、それは竜二に芽生えた希望を塗りつぶすほどの黒い色をしていた。

 ――なあ、お前ほんまに復帰できると思ってんの。

 不意に耳の奥に下卑た声が響いた。

 ――お前がやった膝の再発率わかってんの。あいつはもう使えないって監督も言うてたわ。足、移植してもらえや。

 ゲラゲラと笑い声が竜二のまわりで起きる。さらなる絶望を植えつけに、相手は表情を消し、竜二の耳元に口を寄せた。

 ――お前のその怪我から復帰して、ろくな選手になったやつはおらん。はよ辞めや。うちの部がお前を潰しとるって言われるのは心外やからな。

 何度でもやってやる、と言わんばかりに竜二の膝裏を、相手の膝がつつく。否応なしに、竜二は暗い闇の中へ落ちていく。

 過去の記憶が、竜二の中で暴れた。途端に傷ついた膝から下がなくなったような感覚に陥る。体勢を崩し、タータン舗装の地面に倒れる。

 柔らかい地面に体が打ちつけられた瞬間、竜二はあの時に引き戻される。西陽射す、大学のグラウンド。一軍のレギュラー争いの最中、転倒した自分は事態が飲み込めず、すぐには起き上がれなかった。

 体の上には誰かが乗っている。退けようにも巧妙に体を固められ、動けなかった。やけに荒い相手の呼吸を感じた直後、竜二の膝裏に彼の膝頭が当たった。

 なかなか体を起こさない相手にただいぶかしんでいた竜二だったが、急所を探るようにして膝にゆっくりと力をかけ始められたことで事態を察した。さっと体温が下がる。

 相手が体を起こす。全体重がかけられる。竜二は相手の体の下から脱しようともがくが間に合わない。

 止めてくれ――っ!

 膝が軋む音がした。

「うあぁぁぁああっ!!」

 膝を抱え、喉が潰れるほどに竜二は叫んだ。絶叫の後、荒く息を吸うと、その白さにここが大学のグラウンドではないことを知る。みぞれが頬に当たって溶ける。世界はまた灰色に戻っていた。

 恐慌状態が過ぎ、状況が把握できるようになってくる。竜二は直線コースから外れて、横向きに転がっていた。かたわらに誰かが立っている気配がする。

「……何で今さらこんなところに連れてきたんや」

 竜二はそこに立つ人物にかすかな言葉を向ける。自分がもう一度走れるなんて、どうしようもないほど都合のいい嘘だ。彼女の口車に乗せられて、レーンに立った自分が愚かだった。

「どうしてあそこであのまんまにしといてくれなかったんや……!」

 三軍のあのグラウンドであのまま座らせておいてくれればよかった。あのまま死なせといてくれればよかった。もう一度走らせようとさせないで欲しかった。絶望を上書きするだけなのに。

 枯渇していたはずの涙が顔を伝って地面を濡らす。

「辞めさせてくれ、頼むから。お願いや……」

 泣きながら自分は何度も何度も華耀子に陸上を辞めさせてくれと懇願した。自分を客観視することができず、地面に倒れたままの情けない姿で同じ言葉を繰り返した。

 華耀子はただそこに立って竜二を見下ろしていた。決して辞めていいとも、けれども走れとももう言わなかった。

 自分の醜態を目にしてもなお表情ひとつ変えずに佇む華耀子が竜二には悪魔のように思えた。あるいは自分を完全に再起不能にさせるための死神か。

「……今日はもう帰りなさい」

 長い時間が経ち、やっと華耀子はそう言った。『今日は』。それは今日はよくても明日明後日、あるいは永遠に竜二の苦しみが続くということを意味していた。

 こんなになってまで、なぜ走らなければならないのか。どうして走らせようとするのか。

「起きて。風邪をひくわ」

 華耀子の手が竜二の腕をつかんで起き上がらせようとする。『あなたに風邪をひかれては困るのよ』。あの時も華耀子はそう言って竜二を関西から連れてきたのだ。すべての感情を忘れかけていた竜二に絶望の記憶だけを思い出させにここへ連れてきたのだ。

 竜二は華耀子の腕を振り払う。そして世界のすべてを憎悪するように華耀子をにらみつけた。それから表情を歪んだ笑みに変えてみせる。自分に覆い被さって膝を壊した部員と同じ醜悪な笑顔。

「こんな体、壊したるわっ!!」

 もう二度と誰も竜二を走らせようとしないように、バラバラに原型を留めないほどに壊れてしまいたかった。どうせ華耀子の元から逃げ出したところで、どこにも行く場所はないのだ。大学にも、家族のいる家にも。走れない自分を誰が求めるというのだろう。

 華耀子はこの期に至っても噛みつかんばかりの竜二を冷静に見つめていた。

「悪態つけるほどの元気があれば心配ないわね」

 鼻で笑ったような気配すら残して、華耀子はさっときびすを返す。冷徹な背中は重いみぞれが降るグラウンドに竜二を置き去りにして去っていく。

 すっと体と心が冷えていく。竜二はもう一度怪我をした方の膝を抱え、グラウンドに横たわった。膝が壊死していくかのように鈍く痛む。

 何も考えることができず、ただ時間の流れに身を委ねた。みぞれが雪に変わり、竜二の体を覆っていく。

 遠くで子供の声が聞こえる。近所の子供がグラウンドへ入り込んできたのか、雪だぁと無邪気によろこんで走り回っている。

 どうしてあの子供たちは走るのか、あんなに楽しそうに軽やかに。自分もああいう風に走っていた頃があったのか。そもそも自分はどうして走っていたのか。最初を思い出そうとしても記憶にもやがかかっている。ひとつだけわかっていることは、自分はあの子供たちのようにはもう走れないということだった。

 竜二は長い間、跳び跳ねるように走る子供たちを見ていた。だからグラウンドのよく見えるクラブの一室に竜二が帰るまで明かりがついていたことなど知らなかった。

 凍えてすっかり感覚がなくなった体をひきずって寮の部屋に帰ると、風呂が沸いていた。この部屋のスペアキーを持っているのはただひとりだけだった。

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