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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
60/127

ひとりきりの恋

自サイトの拍手文再録。由貴也、大学入学前の春休み。哲士視点。

「ぶちょー!」

 部活の練習後、ロッカールームを出ようとすると、背後から呼び止められた。振り向くと、練習着などが入った大きな荷物を持った根本が駆けよってくる。彼の後ろの窓からは穏やかな午後の陽光が射し込み、ロッカールーム内で談笑する部員をやわらかく照らしていた。

「部長! 夜、俺の部屋に来ねえ?」

 戸口で足を止めて待っていた哲士に追いた根本が、こちらの肩に手をかけて言う。彼の声はつねに大きい上、リノリウムの床、コンクリートの壁を持つロッカールーム内は反響しやすい。根本のセリフは一語一句きわめて明瞭にロッカールーム中に響きわたった。

 なんだ、お前らあやしいぞー、と四方八方の部員から、からかいの声が上がる。根本は「俺と部長の仲に嫉妬すんなよー」と軽く応じている。根本はその気安い性格から友人が多く、驚くほど顔も広い。

「部長、それで今日、俺の部屋で飲もうぜ!」

 改めて言われ、哲士は思わず「二人で?」と返してしまう。根本が通う私立大と、そのはすむかいにある哲士の国立大はその近さからインカレをしているサークルも多い。陸上部も例に漏れずそうだ。私立大の行き届いた屋内施設と、敷地が広大な国立大のグラウンドという双方の利点を考えれば当然の結果だった。

 そういうわけで根本とは週四回の練習の度に顔を合わせているが、じっくりと二人きりで向かい合って飲んだことはない。親しくないというわけではなく、根本の性格が大勢で騒ぐのを好むからだ。

「まあ来ればわかるって」

 根本がニタニタと意味深な笑みを浮かべながらロッカールーム兼部室があるクラブハウスの廊下を歩く。ここは私大の方の建物で、体育会系の部室はこの棟に、文化系はもうひとつの棟に部室を持っている。春休み中のせいか常日頃の活気はなく、控えめな声が時おり聞こえるのみだった。

 根本の不気味な笑みに、ああ嫌な予感がするな、ととっさに思う。これは何か企んでいる顔だ。哲士とて伊達に立志院で部長をやっていたわけではない。根本の企みを事前に察知して面倒なことを回避する、あるいはさせるぐらいの能は持っている。

 けれども、とっさに浮かんだある一人の顔が断りの言葉を飲み込ませた。まさか、あり得ないと思いつつも、全否定はできない。根本の悪だくみと切って離せない存在であるのが彼だ。

 結局、興味が勝った。たとえ哲士が思ったような人物がいなくとも、根本とたまには向かい合って飲むのもいいだろう。

「わかった。バイト終わったら適当に何か買って行くよ」

「おーよろしく」

 屈託なく笑って、根本が軽く手を上げる。気がつくと駐輪場まで来ていて、バイクの自分と徒歩の根本はここでお別れだ。

「じゃあ後でなー」

 バイクにまたがり、根本の言葉とともに発進させる。彼が軽く手を振ったのを視界の端でとらえる。

 流れていく景色に、いつも妙な罪悪感を覚える。曲がりなりにも陸上選手であるのに、安易にバイクを交通手段に使うことが邪道に思えるのだ。走りを放棄し、鈍らせているように感じる。

 きっと彼はそんなささいなことなど微塵も思わないのだろう。どこまでも我が道を行くタイプだから。

 哲士は知りたかった。彼がどんな我が道を選んだのか、どうしても知りたかった。







 因果な性格だと思う、つくづく。

 去年は故障に泣かされた年だった。ハムストリングス――スプリント系競技に不可欠な太もも内側の筋肉の肉離れ。この部位の肉離れは癖になりやすく、リハビリには細心の注意を要した。

 哲士は柔軟性には恵まれていない選手だ。やわらかさを欠くというのはそれだけでケガをしやすい。予防策は人一倍とっていたつもりだったが、防げなかった。

 加えて哲士には迷いがあった。陸上を学生の間だけ楽しくやってればいいとはどうしても割りきれなかった。ただ陸上は、特にスプリントは才能がものをいう。柔軟性然りで、自分が天分に恵まれた選手でないのもわかりきっていた。

 百メートルの、ゴールがはっきりと見えるコースではなく、楕円のトラックを走っているような一年だった。ぐるぐると回っているのだ。

 そういう状態で、香代子に告白できる訳もなく、今に至る。香代子が毎月陸上雑誌の隅々まで読んでいる姿を見たらどうすることもできなくなった。

 恋にフェアもアンフェアもないだろうに。それでも彼がいない不戦勝をよしとしない自分は、公平さという言い訳を捨てるだけの覚悟がないだけかもしれない。

 六時にガソリンスタンドのバイトを終えて、根本の部屋に向かう。根本は私大の目と鼻の先にある寮に住んでいる。その近さからかえって時間にルーズになり、必修授業を落としかけ、教授に泣きついてやっと進級したという有り様だった。陸上部は大学から公認サークルの扱いを受けているため、留年は問答無用で退部という部内の規則が設けられているのだ。

 原則として寮は学生による自治が敷かれており、規則は緩いようだ。哲士のような部外者が入ってきても何も言われないし、個々の部屋がバスキッチン備え付けのワンルームタイプなせいか、普通のマンションのように見える。

 ロビーの郵便受けで根本の部屋番号を確認し、部屋に向かった。三○二号室。三階だ。

階段を上っている最中に、上から降りてきた根本と行き合う。バイト先を出るときにメールしておいたのだ。

「お、部長。そろそろ来る頃かと思ってた」

 根本の後について彼の部屋に入る。彼の部屋に来るのは初めてで、どんなものかと思いきや、足を踏み入れた瞬間、むっとした臭いが鼻につく。

「あいつまだ帰ってきてねえんだよ。テキトーに座って」

 異様な臭いに哲士が立ち尽くしている間、根本は足で床に散らばるものをかき分けて進んでいる。コンビニ弁当の容器、服、漫画などがフローリングの床を覆い尽くしている。足の踏み場もないというのはまさにこのことだ。

 一人暮らしの男の部屋といえども、しょせんは自分と同じ生態だとたかをくくっていた。シンクを埋め尽くす汚れた食器に、異臭を放つ牛乳。無造作に置かれたごみ袋からあふれだすカップ麺の数々――哲士の予想を上回る不潔さだ。

「根本。ごみ袋」

 玄関から一向に動こうとしない哲士に根本がいぶかしげな視線を向けてくる。その彼に低く言い放った。

「部長?」

「根本は床を片づけろ。俺は食器を洗う」

 心底不思議そうな根本に有無を言わさず命令する。他人の自主性を重んじようと努める哲士だが、さすがにこれは我慢できなかった。香代子が見たら卒倒しそうな光景だ。

「管理人が泣くよ」

 食器を洗いながら根本に言うと、「俺の部屋なんてきれいな方だって」と悪びれもしない。背後でとりあえず物をぶちこんだごみ袋をクローゼットの中に押し込んでいる様子がうかがえたが、哲士はもう何も言えなかった。

 箸もふたつ。コップもふたつ。茶碗もだ。それらを手早く洗って水切りカゴに入れながら、根本がさっき『あいつまだ帰ってきてねえんだよ』と言っていたのを思い出す。一緒に暮らしているのか。

 その理由が皆目見当もつかず、なぜなんだろうと思っていると、玄関が開く音がした。

「お、帰ってきた」

 根本の声につられて玄関を向く。そこに立つ人物の風体に、哲士は目を瞬かせた。

 いったいどこで手に入れたのか、人気チョコ菓子のロゴが入った黒いジャージに、黒いスニーカー。黒づくめの格好もさることながら、その人物はふわふわと波うつ前髪を額の上で結んでいた。しかも輪ゴムで。

 いわゆるちょんまげヘアーを無表情でする男。それが古賀 由貴也だった。

「お前、また菓子買ってきたのかよ! いい加減にしろよ。毎日毎日毎日! 帰ってくる度に甘いもの大量に食っている姿を見てる俺の身にもなれよ。もー見たくねえ」

 根本は勢いよく言ってのけ、悩ましげに頭を抱えた。見れば由貴也は両手に大きなビニール袋をふたつ提げており、それがすべて菓子だとすればすごい量だった。

「シャワー使っていいですか」

 根本の嘆きをきれいに無視し、由貴也はバスルームへ向かう。哲士の存在にもノーコメントだ。

「勝手にしろよ!」

 根本がやけになって叫んで返す。その声の振動でか、床においたビニール袋が倒れ、中身が床に広がった。シュークリーム数個、プリン数個、アイス、ロールケーキ一本、菓子パン、クッキー数箱、チョコ。コンビニの菓子棚はずいぶん寂しくなっていることだろう。

 哲士が何も言う間もなく、由貴也はバスルームの扉へ消えた。部屋ですらこの汚さなのだ。水回りであるバスルームの中がどうなっているかは精神衛生上考えない方が良さそうだ。

「部長、驚いた?」

 根本が悪ガキのような笑みを浮かべてくる。由貴也の出現に驚いたか、と聞いているのだ。

「ああ、うん、まぁ。でもなんで……」

 予想がついていたとは言わず、適当に返事をする。それよりもなぜ由貴也が根本と暮らしているのかが気になった。

「あいつ、部長のとこの英文科に受かったんだってよ。嫌みだよな。いつ受験勉強したんだよ」

 まったくだ、と心中根本の言葉に同意した。国立大にスポーツ推薦はない。八月にインターハイを終えて引退したと考えると入試までは半年しかない。もちろんインターハイと受験勉強を平行させるのも不可能だ。到底体がもたないだろう。

 執念だな、と思った。由貴也はたったひとりの顔を浮かべて受験勉強に励んだのだろう。それ以外の理由がどこにある。

「しかも陸上クラブに所属してんだってよ。ほらあそこの、去年改修工事してた」

 ああ、と思い出す。大学そばのスポーツクラブは全天候型の競技場を持っており、試合が近くなると使わせてもらっている。大学のグラウンドは未だに土なのだ。

 根本はそれから由貴也から聞き出したらしいことを簡単に話した。コーチに見出だされてクラブに誘われたこと。大学の陸上部にも入る気があるらしいこと。ほぼ毎日クラブの練習に行っていること。根本の部屋に居候し始めてから半月ほど経過していること。

 哲士はそっと目を伏せる。由貴也が“どちら”をとるのかずっと考えていた。彼がこの国立大に進むのであれば、陸上選手としての将来は閉ざされる。例え香代子のそばにいられても、この部には名を轟かせる指導者もいなければ、プロ指向の部員もいない。あくまで大学の付属品として部活が存在するだけだ。

 逆に由貴也が陸上の強い有名私大に入学したとすれば、香代子とともにはいられない。彼女はともかくとして、由貴也が香代子と離れていても想い合えるほど強いとは思えないからだ。

 哲士は大した選手ではない。それでも大学進学にあたって悩んだ。スポーツ推薦も特待生も何もなくとも、走るのが好きだという気持ちだけを頼りに強豪私大に入り、一番下からスタートするか。それとも将来を見据え、国立大に入るか。結局哲士は後者をとったのだ。無難さから抜け出せず、度胸もなく。

 由貴也は二者択一ではなく、どちらもつかもうとしている。哲士とは違い、力を持つがゆえに道は拓けた。

 自嘲気味にゆるく笑って思案を打ちきる。無意味な思考を連ねる気持ちを切り替えたかった。

「あいつさー、こっちに一人暮らしのための部屋もう借りたらしいんだけど出ていかねえの。古賀ってけっこう寂しがりで――」

「アンタが『琴音ちゃん落とすまで終われねえ!』って俺のキラメキ☆青空はいすくーるツーを返してくれないからじゃないですか」

勢いよく根本の背後のドアが開き、風呂上がりの由貴也が根本の言葉を遮った。

鬼の首をとったかのように得意満面だった根本の顔が固まる。根本という男はやたら調子はいいが、こういうところが憎めないやつなのだ。

「古賀! お前が俺の琴音ちゃんを横から奪って、しかも……は、破廉恥な真似するから悪いんだろ!?」

「破廉恥な真似って何ですかー」

 意識するあまり破廉恥と今どき死語に近い言葉に言い換えた根本をすかさず由貴也がわざとぼけて攻撃する。

 そういえば数日前根本が『キラメキ☆青空はいすくーるツー』は画期的な二人プレイができるようになり、やや刺激的なサービスシーンが増えたと言っていた。といってもR指定がついてないところをみると大したことはないのだろう。根本が純情なだけだ。

どうやら哲士と由貴也の対面が今となったのは二人が、というか根本がゲームの攻略に夢中となり、それどころではなかったせいなのだろう。

 むきになる根本を適当にいなしているように見えて、由貴也は彼の怒りを増幅させる方向へ誘導している。根本をからかっているようだ。

 根本の怒りが爆発する前に、哲士は口を開いた。

「古賀。服を着てくれ」

 先程からずっと由貴也は腰にタオルを巻いただけの姿で、そこに立っている。ワンルームに脱衣所などあるはずもないので仕方がないが、どうにもこうにも落ち着かない。ちょんまげヘアーを止めた髪は濡れているせいもあり、鎖骨にかかるほど長い。帰ってきたときは柔らかそうに広がっていた髪が落ち着き、ボサボサのシルエットがなくなった由貴也は秀麗な顔を際立たせていた。

 高校の頃、由貴也と初めて会ったときは作り物めいた、精巧な人形のようだと思ったのに、今はきちんと血が通っているように見える。その分、長い髪と風呂上がりという状況と相まって言い知れぬ妖しさを感じさせるのだが。

「だって着る服ないんですもん」

「そこら辺から好きなの着ろよ。パンツは貸さねえぞ」

「自分のパンツが人に貸せるほどご大層なものだと思ってるんですか」

 本気か冗談かわからない根本のセリフを皮肉で返した由貴也はタンスを漁っていた。

半裸の由貴也を見ながら、つねにだるそうな顔をしているくせに、体つきはしっかりスプリンターだな、と思う。あんなに地道なウェイトトレーニングは嫌いだと言っていた由貴也なのに、今は腹筋が割れている。腰の位置が高く、バランスのいい体格。弾力に富んだしなやかな筋肉。長い手足。

 そこで哲士は由貴也の手に目を留めた。正確には手首だ。そこにある褪せた黒に目を奪われる。

――目、悪くするよ。ゴムあげるから結んだら?

 雨の競技場。試合前の一時。半年前のインターハイでの香代子の声がまざまざとよみがえる。

 由貴也は香代子よりも十センチ以上高い位置にある頭を傾け、結んでとぼさぼさの髪を彼女に預けたのだった。

 そのゴムを由貴也は今もまだ手首に通して持っている。普段は輪ゴムで髪をくくって、ぼろぼろのそのゴムは使おうとしない。でも肌身離さず持っているのだ。それは香代子が古賀 由貴也の名前を探して陸上雑誌を読むことと重なって見えた。

 哲士はそっと笑む。桜の下、由貴也の姿に香代子はきっと、よろこぶだろう。

「古賀、合格おめでとう」

哲士は改めて由貴也に言った。こちらもいったいどこで買ったのか、『一走入魂』と書いてあるTシャツを着て、由貴也はだいぶフローリングが見えるようになった床に座っていた。

「じゃあ今日は古賀の合格祝いつうことで。かんぱーい」

根本がいつの間にか待ちきれないというように、五百のビール缶を持っていた。満面の笑みで缶を掲げる根本に、哲士ははっと思い出す。哲士が今まで根本と個人的に飲まないようにしていたのは、彼の酒癖がおそろしく悪いからだ。大会の打ち上げだの追いコンだの、合宿の慰労会などで飲んだ際は必ず哲士が彼のフォローと後始末に回るのだった。

 彼をさらにタチが悪くしているのは、弱いにも関わらず酒類が大好きだということだ。

「根本っ、待――……」

 哲士の制止は間に合わず、根本は一人で乾杯して盛大に五百缶を喉を鳴らしながら飲んでいた。

「ぷはーっ、うめー」

 どこの場末のオヤジだというように、根本は泡のついた口を拳でぬぐった。無駄だと思いつつも「飲みすぎるなよ」と言っておく。

「古賀。お前も飲めよ! 部長も」

 一杯で早くも顔を赤らめ、陽気になっている。由貴也の肩を抱き、はっはっはと大声で笑っている。

「古賀は飲んだことあんの?」

 一人でげらげらと笑っている根本は脇に置いておいて、酒臭さに顔をしかめている由貴也に尋ねる。予想通り彼は首を横に振った。

「そうだと思ってサワー買っといたから。入学前に少し慣れとけよ」

 とりあえずジュースに近いようなサワーを由貴也の前に並べる。自分には焼酎をコップに注いだ。

「おっ部長。今日も焼酎なの? 渋いねー」

 根本の絡みが始まった。最初はただ陽気になるだけなのだが、その後は非常に厄介なことになる。

「俺は、ここに宣言する! 真美ちゃん一生フォーエバーラブだ!!」

 案の定、二缶空けた辺りから行動が大仰になってきた。

「ここで一曲。お耳を拝借」

「根本! ご近所迷惑だから止めろ」

「部長も一緒にっ。フォーエバーラブ、エンドレスラーブ!」

 ものすごい力で立ち上がらせられ、肩を組まされた。ただでさえも声がでかいのに、熱唱するとさらに大きい。隣の住人からすぐさま壁に抗議のキックをかまされ、哲士はあわてて根本の口をふさいだ。由貴也はといえば、のんきに手拍子を打っていた。

「部長! 愛してるぜ、真美ちゃんの次に」

「わかったっ、わかったから!!」

 顔を近づけてくる根本を手のひらでブロックしつつ、身を離す。このままでは根本に抱きつかれて圧死しそうだ。

「古賀! 飲んでるかー!」

 根本が離れて安堵したのもつかの間。今度は標的を由貴也へ変え、根本は無意味に叫び始めた。予兆を察してか、由貴也はアイスを食わえながらきちんと耳を塞いでおり、代わりに今度は反対側の隣人が壁を蹴った。

「世の中愛だよな、愛! 俺はこの身にたぎる愛の証に脱ぐぜ!!」

「止めろ! 脱ぐな!!」

 Tシャツの裾をつかんで今にも脱ごうとする根本を後ろから羽交い締めにする。誰も根本の裸など見たくない。

 大会の打ち上げのとき、居酒屋で脱ごうとして大騒ぎになったのを忘れたのか。あの時は体格のいい投擲組と短距離組総出で根本を止めたのだった。

 そう。根本は酔ってくるととにかく脱ぎたがるのだ。

「古賀、お前も愛の証を見せろ!」

 我関せずとばかりに由貴也はサワーを黙々と飲んでいた由貴也が顔を上げる。顔色も至って普通で、酔った様子は見られない。それだったら、この根本を一緒に止めてくれと言いたくなる。哲士に押さえられてもなお、根本はがははと笑っていた。

「お前、マネージャーを追っかけて来たんだろ。白状しろよ!」

――不覚にも、一瞬根本を押さえつける力が弱まってしまった。酔っぱらいにも関わらず、その隙に根本はすばやく哲士の拘束から脱し、由貴也へ詰め寄る。

「インハイのときもふたりで怪しげな雰囲気出しやがって。さっさと告白しろよー」

 哲士は苦笑する。もう平然としてみせるのも慣れた。卒業式の夜、由貴也とともに焼肉屋から出ていき、インターハイの後に客席に近寄ってきた由貴也へ脇目も振らずに走っていった香代子。段々表情豊かになっていき、嫌いなウェイトトレーニングもこなす由貴也。わかっている、もう。ふたりが相思相愛なことぐらい。

 由貴也は鋭い。哲士は念入りに平静を装った。

「それで真美ちゃんを俺に回せ!」

 結局そこか、と哲士は脱力して心の中で突っ込んだ。根本はいまだに真美にベタぼれで、今はメル友だという。どんなメール送ったのか、と聞くと、頬を染めておずおずと送信メールの文面を見せてくれた。それはポエムそのもので、真剣な根本には悪いと思いつつ笑いをこらえるのに必死だった。

 返事は返ってきたのかと聞くと、「『根本先輩のメールはいつもステキですね』と返ってくる夢をみた」と幸せそうな答えが返ってきた。夢オチとは根本の妄想もだいぶまずいところに来ていると思うので、ふたりの仲が進展することを願うばかりだ。

「……しない」

 根本の言葉に流されたと思った由貴也の返事は今になって返ってきた。香代子とのことに言及されて由貴也が答えるのは初めてで、さすがの根本もびっくりしている。

「何で俺が告白しなきゃなんないの」

 そう言った由貴也は相変わらず表情の動きが乏しかったが、どこか口を尖らせた子供のように思えた。

「子供かよ! こういうのは男の方からビシッと告れ」

 ビシッと告れとは、それだけは根本に言われたくないだろうと思いつつ、黙っておく。根本は由貴也のコップに並々とカクテルを注いでいた。由貴也は当然嫌そうな顔をするが、「俺のついだ酒が飲めねえっつうのかよ。飲まないなら脱ぐぞ」と時代錯誤な体育会系プラス露出狂で根本が脅したので、渋々と飲んでいた。

 哲士はなんだかどっと疲れてうなだれていると、ふとカクテルの缶が目に入る。先程根本が由貴也に注いでいたものだが、アルコール度数の表示に哲士はぎょっとした。アルコール度数が十五パーセントもあったのだ。ビールの三倍だ。

 あわてて由貴也に視線を向けるが、時すでに遅し。根本の一気コールで由貴也はコップを空かした後だった。

「古賀、大丈夫……」

 肩に触れて、うつむく顔をのぞきこんだところで、由貴也がこちらにもたれかかり、ずるずると上体を沈めていく。いわんこっちゃない。とりあえず由貴也を床に転がし、台所に水を汲みに行く。一人でアイドルグループの曲を歌って踊っている根本には「もう古賀には飲ませるなよ」と厳命しておく。

 水を汲み終えて戻ってきたときにはもう、ふたりして床に寝そべって眠っていた。大の字でいびきをかいて寝ている根本は言うに及ばず、由貴也もただアルコールが回って眠くなっただけのようだった。

 そばに水の入ったコップを置くと、由貴也が音に反応してかすかに動いた。

「……俺は一年待った」

 目を閉じたまま、うわごとのように由貴也がかすれた声を放つ。

「今度は向こうから来てもいいんじゃないの。なんで俺ばっかり――……」

 語尾が眠りに飲み込まれて消えた。“なんで俺ばっかり好きなんだろう”

 ざわざわと外の木々が夜風に鳴る。寝息を立てる由貴也を立って見下ろす。一瞬、刃物のような冷たく鋭利な夜気に体がさらされたように思えた。その衝撃をやり過ごしてから哲士は息をつき、大の男二人を避けて部屋の隅に腰を下ろす。手酌で焼酎を注ぎ、あおる。飲まないとやっていられない。

 高校に入学してすぐ、陸上部に入った。誰も中学までのいじめられっ子だったみじめな哲士を知らない。急に世界が広くなった気がしていた。

 入部して間もない四月のある日、スポーツドリンクが入ったポットを重そうに持つ彼女を手伝った。緒方くん、ありがとう。女子に微笑みかけられたことがなかった哲士はその一言で恋に落ちた。そのたった一言で、今までずっと。もう四年になる。

 ありがとう。その最初の言葉に囚われて、自分はいい人を崩せずにここまで来てしまった。信頼も、人望も、部長という肩書きも、香代子を手にいれるためには何も役に立たないというのに。

 哲士はどうしても大学最高峰の大会、インカレに出場したかった。そうでもしなければ自分はただ“部長”という役割を果たすために高校・大学の期間を費やしてきたことになる。部長である前に、自分は選手なのだ。緒方 哲士という名前をタイムとともに刻みたかった。

 しかしそれも由貴也の入部で難しくなる。陸上の大会で出場資格を得るには大会ごとに定められた標準記録を突破する必要がある。大抵はA記録とB記録が設けられており、インカレの場合同一チームから、A記録が三名、A記録の突破者がいない場合のみB記録をクリアした者一名だけに出場資格が与えられる。

 由貴也はすでに十秒六のB記録を高三のインターハイで破っている。対する哲士はB記録がどうしても突破できず、B記録突破と同等の資格が与えられる地区インカレ優勝を目指していた。

 けれども、その地区インカレも当然由貴也とともに出ることとなる。哲士は自分でも決して遅くはない選手だと思うが、コンスタンツに十秒代は出せない。十秒ランナーという言葉があるように、十秒台とは、ましてやB記録を破ることは特別な才能が必要なのだ。ケガをするほど練習して、なお届かないB記録に自分の限界を知った。

 わざと焼酎の熱を感じるようにゆっくり嚥下する。香代子のそばにいることは自分だけの特権のはずだった。それがスポーツが盛んでないこの大学に進学したせめてもの慰めとなっていた。凡人な自分は、陸上選手として生きていく由貴也には手にできない小さな幸せを手にしていると思っていた。

 由貴也はそんな自分の卑小な思いを軽々と飛び越えて、どちらも手にしようとしている。

 結構なハイペース飲んでいるのに、ちっとも酔わない。どうやら酒に逃避するのは無理なようだ。酒に強くていいことなど何もない。自分だって先ほどの由貴也のように酒に飲まれて本音を吐露できたらださぞ楽だろう。それなのに実際はいつも尻拭い役だ。

 腕時計を見ると終電に間に合いそうだったので、帰ることにした。散らばる缶、ビン、燃えるごみを分別してごみ袋に入れ、コップを洗う。

 布団が押し込んであるだろうクローゼットは、開くと雪崩が起きそうで恐ろしいことこの上ない。もう春で、しかも室内なので大丈夫だろうと、そのまま二人はフローリングに転がしておくことにする。

 今夜はもう、一刻も早く帰りたかった。

「……部長」

 玄関で靴を履いていると、背後から怒られるのを覚悟した子供のような声がかけられた。振り向きたくない。けれど振り向く、“部長”としての習性で。

「部長、ごめん。俺……」

 そこには酔いが醒めた顔をした根本が立っていた。根本は哲士が香代子のことが好きなことをうっすらと察している。それなのに、哲士の気持ちを省みず由貴也に告白をうながしたことに罪悪感を感じているのだろう。

 哲士は笑え、と自分に命令する。顔は忠実に動き、何の話? と笑って見せる。

「明日朝からバイトだし帰るよ。バイクは後で取りに来るから」

 つま先でトントンと床を叩いて靴を履く。根本に悪気がないのはわかっている。だからあと少し、この部屋から出るまでは“いつもの部長”でいたい。

 大学一年だった去年度、そして二年になる今年も哲士は“部長”ではない。当たり前だが上級生が部長を務めている。けれども舌が慣れているせいか香代子と根本は自分を“部長”と呼ぶのだ。当初は呼ばれる度に訂正していたが、今はもうあきらめている。彼らにとって自分はもう部長でしかない。最後に名前を呼ばれたのはいつだっただろうか。

「俺、部長のためにならすげえいい合コンセッティングするから」

 根本の気遣いに今度は心から笑った。根本はこういうところがあるから憎めない。そして厄介なことに自分は由貴也も嫌いではないのだ。哲士は薄く笑ったまま根本を残して部屋を出た。

 寮から出ると、雲がかかりそうな月が弱く光っていた。朧月だ。道路に写る自分の薄く長い影を見ながら、これからのことを考える。

 由貴也がそばにいたなら、自分は競わずにはいられない。努力だけではどうしようもない分の悪すぎる勝負を、自分に見切りもつけられず、擦りきれてぼろぼろになって立ち上がれなくなるまでしなくてはならない。由貴也は哲士を奮い立たせる男だ。根本が暗にあきらめろと言うのは勝算のない勝負に臨む哲士の姿が見えるからだろう。

 由貴也を嫌いではないのだ。だからこそ戦わねばならない。何もなくなるまで。自分を納得させられるまで。

 哲士はたまらず走り出した。電車には乗らずに帰ろうとその時決意する。夜通し走ってたまには無茶をしよう。

 緒方 哲士は陸上選手だ。だからうれしい時、悲しい時、感情を乗せて走るのは自然なことだと思いたかった。

 ずっと夜の街を走っていたかった。自分は陸上選手以外の何者にもなれないと信じたかった。そしてこの走路が永遠に続くと思っていたかった。

 月の光はもう、感じなかった。

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