06
ジャージに着替えて練習に加わった由貴也は普通の彼に戻っていた。焦点を結ばない茫洋とした視線でウォーミングアップを行い、走りだした。
由貴也が走っている間だけは香代子もほっとする。何もしでかさないからだ。
走ることに関しては由貴也の集中力はすさまじい。普段もまわりのことにはうとい由貴也だが、走っている最中はさらに極端だ。一切外界の雑音はシャットアウトされるらしい。何かにとりつかれたように走るのだ。
らしいといえば由貴也らしい。本能のままに走っているようだった。
基本的に四時半から始まる練習は七時にはいったん終わる。その後は上がるも自主練習を続けるも自由だ。
大会も近いので七時を過ぎてもかなりの人数がグラウンドに残る。ライトの白い明かりが照らすもとで皆それぞれ練習に励んでいた。
香代子が部活で使っていた用具を片づけたり、スポーツドリンクを入れていたボトルを洗っているうちに人数は減っていく。過ぎた練習は明日へ影響を及ぼすからだ。
しかも三月だというのにグラウンドでは雪がちらつき始めていて、練習に向いている環境とはいえなかった。
水道は外にあり、この時期、水は刺すように冷たい。この冬で香代子の手はあかぎれだらけになってしまった。
洗いものを終え、思わずかじかんだ手に息を吹きかける。
日暮れから気温も下がり、息も白く染まる。その息の向こう側で人影が見えた。まだ誰か残っていたのかと意外に思った。
暗くて誰だかは見えない。しかしずいぶん無茶な走り方をする。フォームは乱れ、ただしゃかりきに走っているように見えた。
あれではケガのもとだ。香代子は声をかけようと近よる。
距離が近くなり、徐々に人物の造作がはっきりする。スポーツ選手には細い体つきと、陸上部でそろいのものではないジャージ。由貴也だった。
彼が残っているとは驚いた。由貴也は受動的だ。走っているときにも速くなろうだとか、いいタイムを残そうだとか気負っている様子はない。余分な感情を介入させず、ただ走るという行為に没頭している。
決して不真面目なわけではないが、あふれんばかりの熱意を持って陸上をしているわけではない。その由貴也が誰よりも遅くまで残って走っているとは思わなかった。
息を整えないまま、由貴也がスタートラインに立った。すぐさま彼の頭の中で架空のピストルが鳴って、走りだす。
しかし疲労がたまっている体でうまく走れるはずがない。スタートしてすぐに膝の力が抜けたように由貴也の体が傾ぐ。
香代子はあわてて駆けより、地面に膝をついた由貴也の肩を支えた。
「大丈夫?」
触れた手のひらから荒い呼吸が伝わってくる。彼の熱っぽい呼気も白く染まる。
由貴也は顔を下げたまま反応しない。汗があごを伝い、雪片とともに地面へ落ちた。
やはり今日の由貴也はどこかおかしい。彼のことをそんなに知っているわけではないが、それでも今日は練習前のあの禍々しい表情といい、あきらかに変だ。
片膝を立てた方の由貴也のふくらはぎが痙攣していた。こんな寒い日に、ろくに休憩もとらずに走れば足のひとつもつらない方がおかしい。
「足つったの? ゆっくり伸ばして」
由貴也がゆっくりと体を動かす。香代子の言葉に従ってくれたのかと思いきや、そのまま立ち上がった。おぼつかない足どりでスタートラインに戻ろうとする。
「何してんの!? もうやめなって!」
過ぎた練習で由貴也はもうふらふらだ。彼の感情とは裏腹に限界を訴える体にとりすがる。それでもなお由貴也は体をねじり、香代子を振り払い、走ろうとする。
いつも何の主張もなく走る由貴也が、今は走らなければ死ぬとでもいうようだ。
「何なのよ、今日のアンタは!!」
由貴也をとり押さえようともみあっているうちに、なんだか腹が立ってきた。
香代子は弟たちが危険なことをやったときは容赦なく鉄拳制裁を与えてきた。暴力がいいかどうかは別として、今の由貴也を正気に戻すには衝撃が必要なように思えた。
香代子は拳を振り上げ、迷いなくそれを振り下ろした。由貴也の頭でげんこつが炸裂する。
「いいかげんにしなさい!!」
人気のないグラウンドの隅々まで香代子の怒鳴り声が響きわたる。由貴也はてきめんに動きを止めた。
お説教をかまそうと口を開いたところで、糸が切れたかのように、由貴也の体がかたむいた。
香代子の足元に由貴也がくずおれる。
「えっ、ちょっと、何っ!?」
最後まで香代子の叫びを無視し、由貴也はスイッチが切れたように卒倒した。
香代子は自分のげんこつが由貴也を殺したのかと、倒れた彼を前に顔を青くした。