助走・後編
翌朝、まだ夜も明けない内に、いきなり隣に寝ていた由貴也が勢いよく起きあがった。
あまりの勢いのよさにに、壮司は明け方の浅い眠りを破られる。まぶたの重さに目をすがめつつも、由貴也に視線を向けた。
「……お前、こんな朝っぱらからどうした?」
春先といえどもまだ夜明けは遅い。障子の外には夜の気配が溜まっており、暁ともいえる時刻だった。
尋ねても由貴也から返事はない。布団の上で上体を起こしていたかと思えば、またもや何の前触れもなくすくっと立ち上がった。そのまま部屋の隅に置いてある自分のボストンバッグを開け、蒼い闇の中で単の帯を解いて着替え始める。
脈絡のない行動にあっけにとられ、壮司は由貴也を見ているしかできない。由貴也は無意識に動いているようで、きちんと覚醒しているかどうかもあやしい。しかし、次々と服を身にまとう手つきは何かをなぞっているかのごとく慣れており、確かだった。
あっという間に由貴也はぴったりとしたズボン――壮司は陸上のことはよくわからないが、ランナーがよくはいている体に沿った下衣に、Tシャツという格好になる。手にはこれまた競技用と思われるシューズを持ち、無言で外へ出ていった。
見送るまでもない。あの出で立ちといい、この時刻いい、由貴也が走りに行ったのは明らかだった。目覚ましもかけずに起き上がったところをみると、毎朝の習慣なのだろう。
着替えは持って来ずとも、ランニングウェアとシューズは持ってくるところがやはり由貴也はランナーなのだ。
足音が遠ざかり、静かになった部屋で時計を見ると午前五時ちょうどだった。低血圧で叩いても布団をひっぺ返しても起きなかった由貴也とは思えない早い時間だ。
寝直す気にもなれず、起床して床を上げる。由貴也の形のまま膨らんだ布団も畳んだ。
彼が帰ってきたのはそれからきっかり一時間後、六時だった。壮司は家中の雨戸を開けながら横目で由貴也を見る。庭の芝の上ででストレッチをやる由貴也は淡々としていて、インターハイのような鋭さの片鱗も見せない。どうやら普段の覇気がない表情からは想像もできないあの研ぎ澄まされた鋭利さは、試合の時限定らしい。別人かと思える変貌を見たかったので、壮司はいささか残念に思った。
そうしてしばしそこにたたずんで見ていると、由貴也と目が合った。またもや“何見てんのさ、変態”と言わんばかりの瞳を向けてくる。
そんな目で見られようとも壮司には由貴也の“スイッチが入る”という状況がにわかには信じられないのだ。壮司は由貴也とは腐れ縁で十数年もの付き合いになるが、彼が表だって感情をあらわにしたのは一度だけ、巴をめぐって対峙したときだけだ。長い年月の中で初めて見る由貴也の激怒だった。
壮司の中では巴のためだけに感情を動かすのが由貴也であるという印象が強く、加えて彼は努力、根性、忍耐の三つを母親のお腹の中においてきてしまったかのように無気力だ。ゆえに勝利という無形のものに闘志を燃やした由貴也がいまだにうまく理解できなかった。
「……お前、走るのがそんなに好きなのか」
はぐらかされると思いつつも、壮司は尋ねずにはいられなかった。無機質なこの由貴也の心を動かしたものに純粋な興味があった。
由貴也はストレッチを終え、ゆっくりと立ち上がる。朝日が彼の後ろから降りそそぎ、輪郭を淡く輝かせた。
「そんなこといちいち考えて走らないし」
予想外の答えが帰ってきて面食らう。もっとも想定内の言葉が彼から帰ってきたことはないが。
言葉を求めて由貴也に視線を向けても、もうそれ以上の言葉が帰ってくることはなかった。由貴也は好き嫌い以前に息をするように当たり前に走っているのだろう。もう陸上がない生活は考えられないのだ。その本能的な心の有りようが、やはり彼はまごうことなきアスリートなのだと壮司に思い知らせた。
「おはよう。由貴也、壮司」
まだ固く蕾を閉ざす桜の梢から朝露が滑り落ちる。その中を割烹着姿で箒を持った巴が歩いてくる。
「おはよう」
壮司はあいさつを返したが、由貴也はべたりと上半身を地面につけたまま、スチレッチに没頭していた。軟体動物のような体の柔らかさだ。
「由貴也。お風呂を沸かしたから入ったらどうだ。そのままでは風邪をひく」
そのまま驚異的な体の柔らかさを披露し続ける由貴也のかたわらに巴がタオルを置く。春の清々しい朝日に、それが真白く輝く。
由貴也はその体を折り畳んだ体勢のまま顔だけ上げて「うん」と答える。ヒラメを連想させる、シュールな格好だ。由貴也はやはり、そこはかとなく変なのだ。
壮司は苦笑する。まったく、かいがいしいことだ。由貴也のために巴はせわしく立ち回っている。
ここ一、二年の長い断絶状態を考えるとそれも仕方のないことではある。巴は由貴也の想いを受け入れなかったとき、こうしてまたいとことしての関係に戻れるとは思っていなかったのだろう。
もともと嫌いあっているふたりではない。感情の傾け方を間違えなければいいいとこ同士になるはずだ、と無理やり大鷹に自身を納得させた。
朝食の席に風呂上がりの由貴也は青鈍色の着流し姿で現れた。昨夜と違って今日は隣に座っている巴に目で問う。
着替えなど壮司のTシャツとジャージで事足りるにも関わらず、由貴也にわざわざ和服を着せた意図がわからなかった。由貴也の入浴中に着替えを用意したのは巴だろう。
壮司の問いかけに応え、彼女はいたずらっぽく笑う。
「叔父さまのな、若い頃の着物なんだ、あれ。たまには由貴也にもお祖母さま孝行してもらわないとな」
巴の指す『叔父さま』とは由貴也の父のことだろう。寺というシュチエーションもさることながら、この家では男に武道を、女には華道、茶道などの伝統芸能を習わせるのが慣習となっている。その影響もあって着物に親しむようになるのだ。壮司は違うが、巴は現に今も着物だ。
祖母は食いるように由貴也を見ていた。由貴也の面差しは美形一族の古賀家のものそのもので、当然彼の父にも似ている。その由貴也がかつての息子の着物をまとって現れたのだから、祖母が懐かしまないはずがない。
当の由貴也は片袖を抜いて気だるそうに腹をかいていた。依然として彼はどこまでも雰囲気に染まらないのだった。
ちなみに朝食はいつも通り和食だった。当然由貴也の食事に旗が立っていることもなかった。安堵したようながっかりしたような気分だ。
朝食後、壮司が庭の草木の剪定をしていると、洋服に着替えた由貴也が出てきた。アーガイルのVネックセーターにベージュのチノパンという出で立ちで、それはタンスから引っ張り出してきたのか壮司の服だった。しかもそれは壮司が少し気負った格好をしていかなければならない時――例えば一族の集まりなどに着て
いく一張羅で、他の服に比べてやや値が張る。量販店産の他の服には目もくれず、品質のいいそれを選ぶあたりが由貴也だった。
「出掛けるのか」
壮司は脚立の上で由貴也に尋ねる。ししおどしに飛石、小さな池まであるこの立派な日本庭園にはもちろん、季節ごとに庭師が入っているが、簡単に庭を整える程度の剪定は壮司がやっていた。
由貴也は無言でそばにやって来て、脚立の下からおもむろに拳を差し出す。壮司が瞠目すると、ちゃらりと由貴也の指の間から車の鍵がたれた。
「運転して」
拒否権はないと言わんばかりに、由貴也が断定的に鍵をつき出していた。
「運転って、お前いきなり――」
「伯父さんには許可とったから」
この家にあるのは巴の父所有の古いセダンだ。由貴也が免許を持っているはずはないので、壮司が運転をすることを前提に伯父へ話を通したのだろう。壮司は昨年の夏に免許を取得した。由貴也は自分のために人を使うことにまったくためらいがなかった。
少しはためらってくれ、と思いつつも、長い前髪から壮司が断ることを微塵も考えていない目が見えた。由貴也に遠慮を期待するだけ無駄なのだ。壮司は諦感の息をつきつつ、頭に被っていたタオルを外した。
「どこに行きたいんだ」
由貴也に問うと、思いもよらない答えが返ってきた。
大学、と短く彼は答えた。
由貴也の大学は典型的な地方国立大である。県名を冠したその大学は県庁所在地の駅からいささか離れたところに緑豊かで広大なキャンパスを持つ。全体的に背が低く、平たい校舎群が点在していた。
道中、車の中で『入学前だっつうのに、大学に何の用があんだよ』と聞いても由貴也は一向に答えなかった。ただ助手席で終始無言でガムを噛んでいた。しかも普段だったら絶対に口にしないような辛いガムで、由貴也の好みとはアニメキャラクターがパッケージに印刷されているような子供向けのガムとばかり思っていたのでやや面食らった。
大学の駐車場に車を停め、外へ出る。日射しも、空気も何もかもがぼんやりとした陽気で、まどろんでいるかのような春の日だ。
都市型のビルキャンパスである壮司にとって、郊外型の大学は興味深い。滴るような緑の中で物珍しげに周囲を見ていたが、対照的に由貴也は景色など目に入っていないかのごとく一直線に歩いていく。四月から通う大学だというのに、感慨らしきものは見受けられない。
由貴也らしからぬ行動だった。いつもだったら車から降りてぼーっと突っ立っているのは壮司ではなく、由貴也の方だ。それが壮司を置いていかんばかりの早さで歩いていく。まるで逸る心を抑えられないかのごとく――。
壮司は純粋な興味から由貴也の後ろ姿を追った。
緑がさわさわと揺れている。由貴也はその中を直線的な最短距離で歩いていく。走らないのが不思議なくらいの忙しい歩き方だった。壮司がかつて見たことのない背中の後に続きながら、まるで由貴也の心の奥へと潜っているような気分になる。この先に、由貴也へ影響を及ぼす何かがあるのは確かだった。
由貴也は入試の時に来たことがあるのだろうが、壮司は初めての場所だ。おまけに由貴也は道から外れて芝を横切ったり、歩道の両端に植えられた低木を飛び越えたりする。やっとの思いで彼に追いついた時、由貴也は背の高いフェンスの前に佇んでいた。
うららかな日射しのもと、フェンスの内側では在学生がサークル活動に励んでいた。赤茶色に舗装されたグラウンド。すっと伸びた白線。あちこちで活気のある声が上がっている。陸上部だった。
これが見たかったのか。四月から入部する気でいて下見にきたのか、やっぱり陸上選手だな、と腑に落ちた気分で壮司は由貴也を見たのだが、見事に違った。グラウンドを見つめる由貴也の瞳は、競技者のそれではなかった。
驚く壮司を前に、由貴也の片手が意志を感じさせずに持ち上がり、眼前のフェンスを握る。それはほとんど無意識の行動のようで、それだけに由貴也の万感の思いというものを余計に感じてしまった。
自分を傾けるような切実さで、どんなささいなことでも目に焼きつけておこうとするような真剣さで、由貴也はじっと陸上部の練習風景を見ていた。
ああ、と壮司は一目で理解した。由貴也の居場所はここなのだ。ずっとここに帰ってきたかったのだ。初めて見る風景のはずなのに瞳が懐かしんで目の前の光景を見ている。
昨年の夏、インターハイ後にいきなり国立大に行きたいと言い始めたのは決して気まぐれではなかったのだ。由貴也の頭にはここに戻ってくることがあの時からすでにあったのだろう。
彼を一人にしておいてやりたくなって、由貴也を置いて、壮司はそっとその場を離れた。
木のまわりを囲む花壇の縁に腰かけ、壮司は画面越しに見たインターハイを思い出す。決勝戦の出走直前、飛んだり跳ねたりして自らのコンディションを確かめる選手が多い中、由貴也だけは客席のある一点を見て、微動だにせず立っていた。その美しい横顔は、真っ直ぐな瞳は、『用意』の号令の後に見せた競技者としてのものとは違っていた。そして今の由貴也と同じだった。ただ単に由貴也は今日、練習を見に来たわけではなかったのだ。
やはり恋なのか、とこの期に及んでも半信半疑に壮司は思う。壮司の中では彼は巴に対する想いだけで、一生分の恋心を使い果たしてしまったように見えたのだ。それほどに由貴也は全身全霊で巴を想っていたし、あんな恋慕をもう一度抱こうものなら、由貴也は狂うのではないかとも危惧していたのだ。
それが相手を追いかけて大学まで来るほどの恋をした。おそらくそれはかつて失恋した由貴也を救った高校の陸上部の誰かなのだろう。
そこではたっと壮司は思い出す。壮司はかつて立志院の生徒会長をやっていた。その時に目を通した陸上部の書類には女子部員の名前はなかったはずだ。陸上部は男子しかいない。懸命に今さっき見たグラウンドの中に女子部員がいたかを思い出そうと努めるが、記憶が定かではなかった。
由貴也は巴が確かに好きだった。だからノーマルのはずだ。はずだが、あの由貴也だ。好きになってしまえば性別を問題にしないかもしれない。そもそも性の枠を設けているかもあやしい。
まさかまさか、と考えたくもない可能性がまわる。とりあえず落ち着こう、と近くの自販機に思わず向かった。木陰にいたせいか体も冷えている。
硬貨を入れ、コーヒーのボタンを押そうとしたところで、別の手が背後から伸びてきて、ミルクココアのボタンを押した。平生の顔つきに戻った由貴也だった。
「もういいのか」
ボタンを勝手に押された憤りよりも先に、言葉が口をついた。由貴也は答える代わりにしゃがんで取り出し口から缶を取る。その由貴也を壮司はうろんげに見てしまった。
「携帯貸してくれません?」
缶を開けながら、由貴也が何気ない様子で尋ねてくる。壮司はあわてて疑惑のまなざしを納める。彼はといえば見ているこちらが痛くなるようなあの瞳はどこへやらだ。
「携帯? お前、自分のはどうした?」
「充電が切れてた」
壮司も人のことはいえないが、携帯を携帯しない、もしくは無用の長物たらしめているのは由貴也も相変わらずだ。あきれつつも、「ほらよ」とポケットから黒い携帯を出し、彼に渡した。
何をするのかと思えば、由貴也はそらで覚えているのか、番号を打ち込み始めた。携帯を貸したのだから当たり前と言えば当たり前だが、コミュニケーション力に難がある由貴也が電話しているという状況は希有な事態だといえた。
誰へ電話しているのか、と耳に携帯を当てる彼の様子を見守っていると、ややあって応答したのか、由貴也が「古賀 由貴也です」と名乗った。あまり親しくない相手のようだ。
その後はほぼ向こうがしゃべっていたのか、由貴也は時おりはい、と答えるに留まり、電話を切った。
携帯を突き出しながら、くるりと由貴也がこちらを向く。彼の動きには予備動作がなく唐突なので驚かされることが多い。
「人と会うから送ってって」
またもや壮司に断るという選択肢は用意されていないかのごとく、由貴也が命令を下した。ここまで来てどうこう言うのも面倒で、「はいよ」と答える。こうなったら今日はもう彼の運転手に徹するしかない。
「電話の相手か?」
「そう」
短く答えるやいなや、由貴也はさっさと駐車場へ歩いて行く。あんなにも自身のすべてをかけて見つめていたグラウンドには後ろ髪を引かれないようだった。
由貴也が指示したのは大学近くのカフェだった。間接照明が多用された落ち着いた内装で、夜にはバーにでもなるのだろう。学生向けでは明らかにないので、由貴也ではなく向こうが選んだ店らしい。
壮司は車の中で待っていようとしたが、「俺、財布持ってないから」という由貴也の一言で同席させられた。本日壮司は彼の運転手で財布というしょっぱい役回りだ。
しかも遠慮なく由貴也は席へつくなり本日のケーキセットを注文した。ケーキ三種の盛り合わせであるそれはデザート類の中で一番値段が高く、壮司のつねにさびしい懐にさらなる打撃を与える。
「お前、少しは遠慮しろっ!」
たまりかねて壮司が叫んでも由貴也はどこ吹く風で、さらにクリームソーダを追加注文した。清々しいほどずうずうしい。
「待たせてごめんなさい」
壮司がわめいていると、凛とした声が割り込んできた。弾かれたように声の方を向く。
背が高い若い女だった。グレーのストライプのパンツスーツという甘さを廃した格好もさることながら、理知的な瞳がこちらを見ている。長い髪はひとつに結ばれ、女性として華美に装うよりも機能性を重視しているのが見てとれた。
男相手でも一歩も引かない、それどころかやり込めてしまいそうなキャリアウーマンといったところか。もっと端的にいうと美人だった。
これが由貴也の待ち合わせの相手か、と呆けているうちに、向こうはきびきびとした動きで向かいの席に座った。活動的な動きだった。
それから臆することなく由貴也を見、そして壮司を見た。無駄を省いて本質的なものを見ようとする瞳だった。
二十代半ばぐらいの女性と由貴也。一体どういう関係なのだろうか。まさか彼女こそ由貴也の惚れた相手なのか、と思ってしまう。
「そちらは?」
女性が壮司を見すえ、尋ねてくる。威圧的では決してないのに、視線を向けられると思わず背筋を伸ばしてしまうような雰囲気を女性は持っていた。
「俺の運転手兼財――」
「従兄の古賀 壮司です!」
由貴也が真面目にこちらを運転手兼財布などと紹介しようとするので、壮司は遮り、すばやく自己紹介する。『従兄』を強調するのも忘れない。
「由貴也がいつもお世話に……」
「まだ私は何もしてないわよ。古賀くんとは初対面だもの」
壮司が思わず常套句を述べようとしたところで、今度は女性がクスクスと笑いながら遮る。その笑みには歳上の余裕があった。
「ややこしいから下の名前でいいかしら」
古賀姓の自分たちを前にして、女性が由貴也へ言葉を向ける。由貴也はといえば運ばれてきたケーキセットに夢中らしく、フォークを口に食わえながらあごを引く。反抗しても無駄な相手だとわかっているのか、やけに素直だ。女性は隙がなく、さしもの由貴也でも歯が立たなそうに見えた。
「初めまして、古賀 由貴也くん。私は久世 華燿子」
そこで由貴也がわずかに表情を崩したのが見えた。目を見開き、ケーキを運ぶフォークの先がぶれた。
……これは驚き、か?
壮司が考えているうちにもう、由貴也は深海へ潜るようにいつもの無表情に戻り、壮司には由貴也が何に反応を示したのかはわからなかった。
名刺を差し出されたので両手で恐縮して受けとる。由貴也の代わりに渡されたので、彼の保護者代わりにでも思われているのだろうか。それはともかくとして、名刺に目を通した。
“久世 華耀子”すごい字面だ、と思った。同時によく似合っている、とも。彼女は少なくとも名前負けしないようなオーラは備えている。
飾り気のない書体で書かれた名前の他には携帯の番号とアドレスだけで、社会的肩書きはなかった。
「噂に違わぬ美少年ね」
久世 華燿子はゆったりとからかうように笑う。由貴也はケーキを黙々と食べることで、その言葉を黙殺していた。親しくないながらもこの由貴也がわざわざ連絡をとって会っている。一体この二人はなんなのか、と壮司はさらに疑問を深めた。
華燿子は店員を呼び、コーヒーのブレンドを頼んだ。ケーキセットとクリームソーダを前に並べている由貴也にはあなたはもう十分ね、という視線を向け、最後に壮司へ「あなたは?」とオーダーの有無を聞いてきた。壮司はとっさに「同じものを」と答える。
夜がメインな店なのか、昼下がりの今はあまり客はいない。すぐにコーヒーは運ばれてきた。
「先輩……あなたにとっては顧問ね。彼からどこまで聞いているの?」
店員が去ったのを見計らって華燿子は口を開いた。問われた由貴也はゆっくりとケーキから顔を上げる。
「『自分の後輩で陸上のクラブチームを創設する人物がいる。それにあたって将来有望な選手を少人数制で育てたいと言っている』」
「そう。それであなたに話をしてもらったの。立志院の顧問は私の大学時代の先輩なのよ」
どうやら華燿子と由貴也を仲立ちしたらしい顧問の言葉を由貴也は丸ごと引用したらしかった。久世 華燿子の方はコーヒーに口をつけてから微笑む。どこか挑戦的な瞳だ。
「私は根性論も精神論も信じていないわ。ついでにいえば部活の旧体制然とした上下関係もね」
台詞の内容はともかく、華燿子の口調には嫌悪などはなかった。私はそう思うけど、あなたがそう思わないのなら別にかまわない――そういう奔放な、一種突き放した言葉だった。
「あなたが有望な選手であること以上に、私の指導方針は古賀 由貴也という選手に合っていると思ったのよ。実物を見て確信したのだけど、違う?」
由貴也を見すえる華燿子の目の奥に光が宿った。由貴也には自分が必要であるという絶対的な自信が静かにただよう。表情は欠片も崩さない。
由貴也もまた、華燿子を見ていた。凪いだ海のように静かなのに、相手の手札の裏の裏まで見透かそうとする鋭さを秘めている。
いきなり由貴也の“スイッチ”が盛大に入ったようだ。温度か急上昇したような、あるいはサッと急激に下がったような、そんな陸上選手の顔をしている。壮司は息を飲んで異様な迫力を醸す二人を見ていた。
「――やっと自分を売り込むことに成功したの」
由貴也とつながった視線を一ミリたりともずらさずに華燿子が切り出す。
「業界では中規模だけど、いいスポーツクラブよ。大手ほどわずらわしくないし、かといって今にもつぶれそうな地方クラブでもない」
由貴也の厳しい眼光に受けてたつように、むしろその強さをよろこぶように華耀子は口角をわずかに上げていた。
「私はそこに陸上セッションを立ち上げるわ。コーチとしてね」
どうやら、彼女はたくましくも自身をスポーツクラブに売り込み、コーチとして由貴也をスカウトに来ているらしい。美人コーチと由貴也――似合いすぎて逆におそろしい。
「改めて言うわ。私はあなたをそのスポーツクラブに陸上選手として招聘したいの」
心の中心に迷わず飛び込んでくるような華耀子の声と瞳だった。人の力では動かしがたいような、確固たる意志を持って彼女はそこにある。
「来てくれるかしら?」
勧誘とは、スカウトとはもっと違うものだと壮司は思っていた。自身の利点を上げ連ね、他よりもここが勝っていると強調することが常套手段だと思っていたのだ。
だが、この目の前の女性はそういった俗に言う“営業トーク”というものがない。口を開くことを必要としない説得力が華耀子にはあるのだ。
長い沈黙があった。由貴也はそっと瞳を伏せ、答えない。内心を推し量ろうにも壮司は由貴也の陸上選手としての側面を知らなすぎる。彼がこの先陸上を続けていくのか、続けていくにしてもそれで身を立てる気があるのか否か――。
「……あなたが毛嫌いしている部活は俺にとってそんなに悪いところではなかった」
やがてぽつりと胸の中の塊を吐き出すように、由貴也は言った。華耀子はすぐさま「そうね」と返す。意外だった。今までの発言から鑑みるに華耀子は明らかに部活全否定主義に見えたからだ。
「卒業して陸上を忘れてしまえたのならそうだったわね」
華耀子と由貴也、二人の共通項が浮き彫りとなる。どちらもおそらく部活が好き“だった”。華耀子は何らかの理由で部活中に、または卒業した後に挫折を覚え、由貴也はこのままでは速くなれないだろう。由貴也の進学する国立大は大学名を一身に背負い、潤沢な資金を元にスポーツだけに特化した私立大とはわけが違う。どんなに由貴也がその国立大の陸上部を愛していたとしても、陸上選手として大成することとは別問題だ。そしておそらく環境が整っていない国立大で陸上選手としての将来を望むことは不可能だろう。
逆に由貴也が降るようにあったスポーツ特待生の話を受け、どこかの強豪私大に入学したとしても、早々に辞めることは目に見えている。それこそ華耀子が言ったように、強豪校に顕著な精神論と根性論がはこびる、旧体制然とした風潮故に。
華耀子は由貴也に最適な環境を与えられると言っている。由貴也の様子をうかがうと、彼は斜め下の虚空を凝視していた。まるでそこに大事なものでも浮かんでいるように、ただじっと見ていた。
「……大学の部活には入る。それでいいならあなたのコーチも受けます」
やがて、振りきるように視線を上げ、由貴也はゆっくり結論を出した。由貴也の言い分は大学の部活が主で、従が華耀子のコーチだ。
「それで構わないわ。どっちにしても大学の部活に籍は置いてもらおうと思っていたの。そうじゃないとインカレに出られないもの」
それに対し、華耀子は部活が従だ。先ほど、グラウンドを見ていた由貴也のひたむきな目が壮司の脳裏には強烈に残っている。あの切なげですらある顔と、険しい陸上選手の顔は両立できないのかもしれない。地方国立大の陸上部の一員としては由貴也は陸上選手すぎるし、華耀子のもとでコーチを受ける陸上選手としてはきっと甘いのだ。
由貴也はもう、何も言わなかった。華耀子は練習の内容や、スポーツクラブの入会に当たっての説明をし始めた。時に、話は陸上の専門的なことに及び、壮司にはさっぱり理解できないことを二人で話していた。
「この空白期間は何?」
手元に何枚も並べられた書類の一枚を見て、華耀子が言った。彼女は由貴也を勧誘にするにあたって結構な下調べをしていたらしく、戦績はもちろん、来歴から大会のテープまで入手していた。
彼女の言う『空白期間』とは由貴也の高校入学から三月初旬までの約一年間を指す。その間、由貴也は部活動に所属せず、陸上選手としての活動は皆無だ。
「留学していました」
由貴也は壮司が気を揉む暇もなく即答した。留学などではない。その一年を由貴也は巴への恋に捧げた。
今の由貴也にはトゲがなかった。以前だったら相手が華耀子でもお構いなしに『何でそんなこと聞くんですか。関係ないでしょ』ぐらい言ってのけたはずだ。だが過剰ともいえるほどの拒絶がなかった。それでも、留学の一言にすべてを押し込めてしまっているあたりがまだ、危うかった。
「……そう」
今まで間をおくことなく答えてきた華耀子が初めて聞いたことを咀嚼するような沈黙を挟んだ。由貴也の陸上選手としての強さは、心の弱さと表裏一体なのかもしれない。おそらく精神的支柱は大学の部活の方にあるのだ。
少し接しただけでも、華耀子は一を見て十を理解するような鋭敏な洞察眼を持っているように思える。バランスを保っている由貴也をわざわざ崩すことはないと判断したのかもしれない。少なくとも、今は。
「じゃあ明日から来て」
最後に華耀子はそう言い、それで話は終わりを告げた。由貴也は「はい」と答えた。
それが彼らの師弟関係の始まりだった。
家へ戻った頃にはすでに日が傾いていた。
夕刻、由貴也はまた当然のようにトレーニングを始めた。階段の上り下りを繰り返していたと思えば、地道な腕立て伏せ、背筋などのトレーニングを黙々とこなす。そこに余分な感情は見られず、華耀子に会って触発されたからやっているというわけではなさそうだった。彼の日常に組み込まれていることなのだろう。
夕食後、入浴を済ませた壮司が自室に戻ってくると、由貴也は荷物をまとめていた。
「……お前、何してんだ」
由貴也の滞在は彼の父親の海外出張中丸々なので、一週間なはずだ。彼は壮司の方を向かず、ボストンバッグのファスナーを閉めた。
「聞いてたでしょ。俺、明日から練習だから」
言うなり、由貴也はバックを手に立ち上がる。彼は自身の行動原理以外は関係ないと言わんばかりの態度だった。
「いや、それは知ってけど、どこ行くんだ、お前」
華耀子の説明していたスポーツクラブはわりと大学のそばらしく、確かにここから毎日のようには通いづらい。それは車で十五分ほど離れた由貴也の家からでも大して変わらない。
「部活の先輩の部屋に泊めてもらう」
言いながら、すでに由貴也は玄関に向かって歩き出していた。
「今から行くのか? 足は?」
壁の時計に目を向けると、すでに九時近い。ここから駅まではともかく、向こうの駅からその先輩とやらの家までのバスがあるかどうかは怪しいところだ。悪しくも、壮司たちと入れ代わりに巴の父が通夜へ出かけており、送って行こうにも車がなかった。
「タクシーぐらいいるでしょ。ダメだったら走ってくからいいよ」
タクシー。壮司にはない贅沢な発想だ。相も変わらずナチュラルに金に苦労したことがないおぼっちゃまぶりを発揮する由貴也だ。
そうこう言っている間に、玄関へ着き、由貴也が靴を履き始める。
「お前、せめて今夜一晩泊まって明日の朝出てったらどうだ。間に合うように送ってやるから」
靴ひもを結び終えて、由貴也が板の間から立ち上がる。肩ごしに振り返って不敵に笑った。壮司は思わずひるむ。毎度のことながら、こういう嫌みな顔をすると由貴也の美貌は凄みがかかって迫力を増すのだ。
「俺の代わりに存分に巴に構ってもらえば」
彼が泊まりに来てからというもの、巴は由貴也由貴也由貴也で、それがおもしろくなかったかと言えば嘘になる。由貴也はそんなこととうに見抜いていたのだろう。まったく油断ならない観察眼だ。
由貴也が視線を壮司から外す。顔を正面へ向ける一瞬に、彼の苦笑らしきものが見えた。俺はもういいよ。だから巴を返すよ、というような。
そのまま由貴也は玄関の引き戸を開け、しっとりとした春の夜の中へ踏み出す。石灯の明かりが照らす彼の背中は、どこか知らない男のもののように見えた。
不意に、真後ろの床がキシッと鳴いた。
「もう行ってしまったのか」
春の幻想から我に帰ったような気分になり、声の方向を向く。そこには平服に改めてはいるものの、髪が濡れたままの巴が立っていた。
「由貴也がお祖母さまのところにあいさつに行っているのが見えたんだ」
巴はあわてて寝間着を着替えてきたのだろう。にもかかわらず間に合わなくてかわいそうだった。
彼女はつっかけを履き、由貴也が出ていった戸を静かに閉めた。夜気が遮られ、古い家の香りが鼻をつく。
視界の端で巴が寂しげな顔をしたのが見てとれた。
「……なんだかな、昔と違って居心地が悪そうに見えたんだ。由貴也が」
だから早々に帰ってしまったのだと言外に巴は言っていた。
「いや……」
壮司は否定をしてみたものの、うまく次の言葉が継げなかった。しかし気休めではない。
遠ざかっていく先ほどの背中がよみがえる。由貴也はただ単に今の彼が違和感なく溶け込める場所へ戻ろうとしているだけなのだ。
陸上選手としての顔と、大切な存在を愛おしむ二つの顔を明滅させていた由貴也。そのどちらもこの家では見られなかった。彼の心を揺らすのはもうあくまで外の世界なのだ。
今日、大学へ行く車の中で辛いブラックガムをずっと噛んでいた由貴也。普段なら壮司を頼ることを嫌がる由貴也が今日に限って車を出してくれと頼んだ。その気があれば今のようにバスとタクシーで行けるのにも関わらずだ。
今になって思う。由貴也はおそらく緊張していたのだ。だから心を落ち着かせるためにブラックガムを噛み、気を紛らわすために壮司の存在を欲した。
加えてあの利己的な由貴也が陸上一筋に徹することができなかった。あれほど組織に属することを嫌っていた由貴也が大学の部活に固執した。彼をそうさせる人物とは一体誰なのだろうと壮司は思いを馳せた。
そこではっとする。昼間の懸念がよみがえってくる。由貴也はさっき、部活の先輩の部屋に泊めてもらうと言っていなかったか。昼間考えた通り、立志院の陸上部にいた部員は男だけだ。となるとその先輩とやらも男だ。まさか由貴也の想い人がその人なのか。
「壮司……?」
巴が気遣わしげに声をかけてくるが、答えるだけの余裕がない。巴にふられて女性不信となり、その方向へ走ったか。壮司より心の造りが繊細で複雑な由貴也ならば充分にありえそうだ。濃厚になってくる“その線”が壮司を青くさせる。
しかし完全に彼の姿が消えてしまった後ではもう、それを確かめるすべはなかった。