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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
58/127

助走・前編

由貴也、大学合格後の春休み。壮司視点。

※活動報告4/12の、登場人物紹介参照。

 庭の梅が満開の三月の中旬、従弟の由貴也がこの古賀家に泊まりに来た。

「お義母さま、ご面倒をおかけして申し訳ございません。息子をよろしくお願いいたします」

 玄関の三和土で由貴也を連れた伯母が口ほどには申し訳なく思っていなさそうに頭を下げる。その拍子にスプリングコートの首もとに巻いたスカーフから強い香水の香りが漂った。

 玄関に出迎えに来た壮司は思わず身を退く。伯母の香水の臭いは壮司にとってあまりいいものではない。単独ではいい香りであろうそれも出戻りの母を持つ壮司にとっては幼少期、伯母に『どこの馬の骨とも知れない』と罵られた記憶につながるからだ。

 古賀家には当代の当主で長男の巴の父に続いて、次男で今は分家となっている由貴也の父、駆け落ち同然で家を出、その後精神を患って死んだ壮司の母の三兄妹がいる。その子供たちが巴、由貴也、自分で、歳がだいたい同じことからいとことして幼少期から近しい関係にあった。

 巴と由貴也は誰がどう見ても血のつながりが明らかな顔をしているが、壮司と由貴也が血縁関係にあると知る者は少ない。

「ええ。そろそろ行かなくてよろしいのですか」

 縹色の着物で板の間に座す祖母は相変わらず置物のよう完璧さで、しかし置物にはない威圧感でそこにあった。この家の影の支配者である祖母の存在感はとてつもない。

「そろそろ参りますわ。由貴ちゃん、お祖母さまにあまりご迷惑をおかけしないようにね。久しぶりに巴ちゃんと仲良くなさいな」

 仲良くなさい――その言葉の裏側まで探ってしまう自分にため息をつきたくなる。伯母にその気はあっても、今まさに寝起きを引っ張られてきました、という由貴也にその気はないだろう。来たくはなかったといった様子がありありと見てとれる。

 古賀家は何代も脈々と続く住職の家系だ。檀家千軒を抱える円恵寺を預かる上、あちこちに土地を持っている。祖父亡き今、そのほとんどが祖母の名義だが、長子相続がこの家の慣習となっているので、いずれは現住職で長男である巴の父に、そして総領娘の巴か、彼女と結婚し婿養子兼次代の住職になると決まっている自分にまわってくるだろう。それが次男で傍流たる伯父一家には気に食わないのだ。だから由貴也と巴を結婚させて利権を得ようとする。“仲良く”とはそういう意味だ。

「伯母さん、海外出張お気をつけて」

 自分の感情をなだめるように伯母に声をかける。由貴也の父は商社マンで、海外出張が多い。由貴也の幼少期には三年ほど外国暮らしをしていたほどだ。今回も妻である伯母を伴い伯父はイギリスへ一週間ほど渡ることになっていた。

 由貴也の三つ上の兄はこれもまた海外留学中で家におらず、両親の渡英の間、古賀家で由貴也を預かることになったのだ。

 伯母は壮司の言葉を華麗に無視し、祖母に「ではよろしくお願いします」とお辞儀をし、家の前に待たせていたタクシーへ乗り込んでいった。

 線香の漂うような古めかしいこの家に、芳しい香水の匂いはふさわしくない。外国種の大輪の花を思わせる伯母が去り、壮司は息をつく。

「壮司さん、由貴也さんをお部屋へ案内して差し上げなさい」

 祖母も、彼女を送り出しやれやれといった感じがわずかにうかがえる。祖母と伯母は静と動ほどかけ離れている。静寂を好む祖母にとって伯母は何となく馬が合わない相手であるのかもしれない。

「……世話になります」

 靴を脱いで板の間に上がるとき、今まで眠そうに突っ立っていただけだった由貴也が、ぼそりとつぶやく。世話になると、そんな殊勝な言葉を由貴也から聞くのは初めてで、壮司はよく磨かれた廊下で転びそうになる。

 たまらず肩ごしにちらりと由貴也の様子をうかがうと、世話になど決してなりたくなかったけれど仕方なく渋々という、本文よりも強い前置きが隠されていたのだと知る。由貴也は先日、彼の大学合格祝いのために一族が料亭に集まり晩餐会を開いたが、その時のように不本意極まりない顔をしていた。

 巴との仲の進展を望む伯母が今回も無理に由貴也を連れてきたのだろう。以前は誰の目にも明らかに巴を好いていた由貴也だが、今はその恋慕が消えた。だから伯母はあせって強行手段に出ているのだ。

 よく磨かれた廊下をいくつか曲がり、とりあえず客間に案内する。由貴也は畳にボストンバックを下ろし、ついでに自分も足を伸ばして座った。その態度にわずかに実の母に対するあきれが感じられる。

 壮司は軽く息をついた。

「せっかく来たんだ、そんなにふてくされんなよ」

 壮司が苦笑して言うと、由貴也は何気なく手を伸ばし、障子を開く。窓の外には桃の花が咲いていて、障子に手をかけ、見るともなしに外へ視線を向ける由貴也は一幅の絵のようだった。

「あの人は俺をいくつだと思ってるんだろうねぇ」

 ゆるい口調だからこそ、抑えられた由貴也の感情が透けて見える。あの人という突き放した言い方が余計にそれを引き立てる。三歳の子供でもあるまいし、常識的に十八の由貴也は家にひとり置いていっても何ら問題はないだろう。むしろ家を開けるから、と高校卒業した子供をよそへ預けるのがおかしいのだ。

「まあ、伯母さんはお前が心配なんだろうよ。この前もぶっ倒れたんだろ、お前」

 壮司は由貴也と伯母の関係悪化をふせごうととりなす。由貴也は第一志望の国立大の入試を終えた夜から高熱を出して寝込み、あわや入院となる事態だったらしい。平然とした顔で淡々と日々を過ごしているように見えて、由貴也も受験に相当心血を注ぎ込んでいたのだろう。

 その病み上がりの由貴也を伯母が心配するのも無理からぬことだ。幼少期、彼は病弱だったので過保護な部分は少なからずあるのだろう。

 親の心子知らずで由貴也は相変わらずおもしろくなさそうな顔を窓の外へ向けていた。

「家でキラメキ☆青空はいすくーるツーの攻略しようと思ってたのに」

「なんだそのきらめきなんたらは?」

 おそらくまた大学の授業料払わない、と脅されてここへ連れてこられたであろう由貴也は当然不満たらたらだ。由貴也は誰かの思惑に添って動かされるのが死ぬほど嫌いなのだ。

「壮司さん知らないの、あんな名作を。きらめき☆青空はいすくーるは――……」

 わけがわからないなりに、語感が妙にやわらかすぎるその単語に嫌な予感がした。

「由貴也」

由貴也の説明をもういいと遮ろうとした瞬間、開け放されていた襖から割烹着姿の巴が顔を出す。こころなしか彼女は息を弾ませ、うれしそうな表情をしている。

「よく来たな、由貴也。今日の夕食は何がいい?」

 どうやら今日は巴が台所を預かっているらしい。あるいは彼女自身がやりたいと言い出したのか。どちらにせよ巴は由貴也の宿泊を歓迎していて、腕によりをかけて夕食を作る気らしい。

 昔、由貴也はよく古賀家に泊まりに来ていて、巴と一緒の布団で休んでいたりしていた。幼かった頃、由貴也が来るとおもしろくなかったことを思い出す。今になって思うと巴をとられたような気がしていたのだろう。そんな時、親がいない壮司は祖母に手を伸ばしてみたくなったが、しゃんと背を伸ばした祖母は人を拒んでいるかのようで、うまく甘えることができなかった。

「アイス、ケーキ、プリン」

 今日の夕飯に由貴也が即座に三つの菓子をあげる。

「はいはい、オムライスとポテトフライとハンバーグだな」

 それをすぐさま巴が菓子以外でわりと好きなメニューに言い換える。由貴也は味覚が子供で、それはお子さまランチそのものだった。あるいは巴の中で由貴也はずっと子供のままだというイメージがあるのかもしれない。

 事実後刻の夕食では、箱膳に不釣り合いなお子さまランチの数々が並ぶ。和食が中心であるこの家ではかなり珍しいメニューだといえる。だが昔、由貴也が泊まりに来ていたときはいつもこの献立だったので、祖母も巴の父も別段驚きはしていないようだった。

 上座に巴の父が、その左右に列を作り、右に祖母と巴が、左に自分と由貴也が横向きに座す。

 壮司は思わず隣の由貴也の膳を見てから自分のと比較した。壮司の膳には目にもあざやかな黄色い玉子で包んだオムライスがのっている。デミグラスソースが湯気をたて、いい香りが鼻腔をくすぐる。その濃い香りを堪能しつつ、壮司は再び由貴也の膳の方を見た。ポテトフライ、ハンバーグのつけあわせににんじんのグラッセにブロッコリーとプチトマト。オニオンスープ。そこまでは壮司と変わらない品々だ。しかし由貴也のりんごはうさぎになっており、ハンバーグは魚形、極めつけにオムライスには旗が立っていた。

 彼の母の伯母だけでなく、巴もてんで由貴也を子供扱いしている。おかしかった。

 当の由貴也は気にしているのかいないのか。いつも通り嫌いな野菜を壮司の皿にぽいぽい放りこむ。めざとい祖母がじろりと由貴也をねつけたが、彼はまったくの知らん顔だった。

 厳格な祖母とどこか浮世離れしている由貴也。真正面から対決したらどちらに軍配が上がるのだろうか。壮司は素直に興味を抱いた。

 しかしそんな事態は訪れず、粛々と食事は進み、入浴の段になった。由貴也は従弟とはいえ客なので、巴が「由貴也、先に入ったらどうだ」と一番風呂を勧める。巴は由貴也が来るとあれもこれもしてやりたいようで、いつも先回りして彼に声をかけるのだ。

 なんと彼が持参した膨らんだボストンバッグの中身はすべて菓子とゲーム類で、肝心の身の回りのものを持ってきていなかった。驚く巴とあきれる壮司を前に由貴也が「着替えなら壮司さんの借りればいいし」とこともなげに言うので、壮司はしかたなくタンスから新品の白い単と帯を出し、由貴也に放った。

 彼を浴室へ送り出した後、巴に「いくらなんでもオムライスの旗はないだろ」と冗談めかして言ってみせる。由貴也はもう、巴の後をくっついてまわっていた子供ではないのだ。

 巴は少し気まずそうに苦笑する。

「私の方がどうやって接すればいいのかわからなくてな」

 ああ、とその言葉に壮司は合点する。由貴也は先日、合格祝いの席で巴との仲を推す彼の母親を退け、他人行儀に『巴さん』と今まで一度も使ったことのない呼称を使った。由貴也は巴をただの従姉だと扱おうとしている。それに対して巴はどのように適度な距離をとって接すればいいかわからないのだろう。だから極端に由貴也への対応が幼くなる。

 男女の仲にはなれなかったふたりは今、いとことしての関係を作っている最中なのだ。

 巴はただ単に由貴也に風呂がわいたことを知らせに来たのかと思ったが、黙々と布団を敷き始めた。ここは壮司の部屋だが、それは壮司の布団ではない。客用の上等な布団だ。

「お前、何やってんだ」

 部屋の主に断りもなく、さも当然のように布団を敷かれて面食らう。それに対して巴は意外そうな顔を向けた。

「お祖母さまが『由貴也さんは今宵、壮司さんのお部屋で休まれます』と言ったんだ……聞いていないか?」

 そんな話は初耳で、壮司は二の句が継げない。離れがあるほどのこの大きな日本家屋には、由貴也が休むのに耐えるだけの客間はもちろん、空き部屋だってある。どうしてこの八畳一間で男二人で休まないとならないのか。

 しかしこの家では祖母が絶対で、たかが由貴也が自分の部屋で休むくらいで抗議に行くのも面倒だった。

 巴が布団を敷き終えて出ていくのと入れ代わりに由貴也が風呂から戻ってくる。ゆるく着つけた単の前合わせから無駄なく筋肉がついた体が見えた。

 いとことして接している普段は忘れがちだが、ふとした瞬間に彼が高校陸上界では屈指の短距離走者だということを思い出す。半年以上前のインターハイの記憶が壮司の脳裏に今も鮮明に残っている。

 夏休みに入っても寮から帰ってこない。受験なのに、と伯母が心配したのも束の間、まもなくインターハイに出るから遠征費をくれと由貴也が無心してきたそうだ。伯父伯母はそこで初めて由貴也が高校でも陸上をやっていることを知ったというのだから彼にはほとほとあきれる。

 大応援団を結成した伯母を尻目に壮司と巴は家のテレビで観戦した。このときばかりは祖母も気にしていないふりをしながらもばっちり見ていた。

 陸上より前に、由貴也はすこぶるテレビ映りが良かった。真夏だというのにどしゃ降りの雨の中、戦いに挑む彼の姿は佇んでいるだけで絵になった。これが全国区で放送されては由貴也もこれから大変だろう、とそのとき思ったのだ。放映しているとき、何人もの女子が彼の姿にくぎづけになっていたのだろうから。

 あの時は一日の大半を省エネモードで過ごしている由貴也が、そのすべてを放出しているようだった。旗のついたオムライスを食べる彼とはどう考えても別人だとしか思えない。

「何見てんのさ、変態」

 片方の手を腰にあて、もう片方で無造作に濡れた髪をふきながら、由貴也はこちらを見下していた。回想に耽っていた壮司は我に帰る。見ていたことは否定できず、「変態じゃねえよ」としか反論できなかった。

 感情の起伏があまりない由貴也だが、唯一壮司は大嫌いで、昔からそれはもうぽんぽんと嫌みが飛び出す。それは由貴也が盲目的に愛していた巴が、壮司を好きだったことに起因するのだが、由貴也が巴への恋心を克服した後も壮司に対する悪感情は続いているようだ。

「何で俺、アンタと寝ないといけないわけ?」

 二つ仲良く並べて敷いてある布団を目にして由貴也は嫌そうな様子だった。表情も声音も平坦なままだが、明らかに嫌がっている。

「文句は俺じゃなくてばあさまに言えよ」

 この家の全権を握っているのは祖母だ。もっとも祖母がささいなことであれ、一度決めたことを覆すとは思えないが。

「お祖母さまがね、ふーん……」

 由貴也は何かを得心した顔つきになり、布団の上に腰を下ろした。そしておもむろに壮司の方へ視線を向ける。

 一瞬、春の夜の花がここまで香ってきたかのように感じる。またたく間に空気が変わった。

「アンタたちは俺が巴に変なマネするんじゃないかと思ってるんでしょ」

 言葉もさることながら、凄絶な流し目だった。男とは思えないほど妖しく、不敵だ。壮司が由貴也の――巴に似たその顔に弱いのを知って、彼はからかうように時おりこういう表情をする。それは彼の小さな復讐なのかもしれなかった。まったくたちが悪い。

「俺が巴に夜這いでもかけると思った?」

 本当におかしそうに由貴也がクスクスと笑う。それはまったく見当外れの心配だと、杞憂だとでもいうように。

「それって俺にものすごく失礼な話だよね」

 由貴也の言う通りだった。祖母は万が一にも由貴也が巴に不埒な行為に及ぶ可能性がなきにしもあらずと思っているのだ。だから壮司と同じ部屋で寝かせ、見張りのような役割を背負わせたのだろう。

 祖母の懸念もわからなくない。巴のことだけを一心に見つめていた以前の由貴也だったら、それくらいやりかねない物騒さがあった。そして今夜、由貴也とともに休むことに異議を唱えなかった自分もまた、心の奥底でその危惧を捨てきれていなかったのかもしれない。

 今の由貴也はもう、世界のすべてが巴ではない。彼自身の世界を持っている。それでも何のはずみで由貴也が巴への恋慕を思い出さないとも限らないのだ。それくらいかつての由貴也は、端から見ても断ち切りがたいような想いを抱いていた。

 まったく、そう思うことは彼にとって失礼だ。この状況は由貴也を信用していないと言っているようなものなのだ。

「やるならもうとっくの昔にやってるし。家庭教師のときにでも」

 布団の上に足を伸ばし、由貴也は目を伏せて虚空を見ていた。その静かな様子とは裏腹の過激な言葉に壮司はぎょっとする。

「お前、まさか……」

「やってないよ、何も」

 言葉同様に、虚無ともいえる瞳を由貴也はしていた。顔を上げながら彼は虚ろだった目に、感情を宿らせる。疑り深いのもいい加減にしてくれ、というようなうんざりした瞳だった。

「俺が少しでもそんな風に見えたら、お祖母さまが家庭教師なんて許すはずがないじゃん」

 由貴也は受験中、巴からの家庭教師を受けていた。それは由貴也の親が例のごとく巴を指名し、巴は親戚関係の悪化を心配し、それを断れなかったのだ。由貴也は由貴也で家庭教師自体を嫌がるそぶりを見せており、当人たちが望んだことではなかった。

 ひとつの部屋で二人きり。加えてかつて猛烈に好いていた、好かれていた相手と顔をつきあわせることになるのだ。まわりが顔をしかめても無理はない。もっとも由貴也の両親はそのあたりを露骨に狙っていたのかもしれないが。

 反対に祖母は由貴也がそんなことにならないように厳しく見張っていたはずだ。祖母は超能力者かと思うぐらい鋭く、自分たちの三角関係も、それが崩壊したことも、その後の由貴也の変化も察しているだろう。由貴也の言うことはもっともだった。

 アンタの下衆の勘繰りにも疲れたよ、といわんばかりに由貴也はごろんと布団に転がった。白い単の背中を向けて、由貴也はこれ以上この話題を引き延ばすのを避けているようだった。

 由貴也は自身の荷物から携帯ゲームを取り出し、背を向けたままやっていた。壮司は完全に自分の世界に入っている由貴也を一瞥し、風呂へ行こうと立ち上がり、襖に手をかける。

「……もう好きじゃないかどうか試してた。家庭教師の間、ずっと」

 不意に、由貴也に声をかけられる。壮司は振り向けなかった。由貴也の方を見たらこの雰囲気が霧散して消えてしまいそうだ。この期を逸したら、彼が本心を語ることは未来永劫ないだろう。

「巴に手を出したくなったとしたら、死にたくなるほど絶望するのは俺の方だ」

 のらりくらりといつも壮司に対してからかうような言動しかとってこなかった由貴也の、初めて聞く胸の内だった。

 由貴也の巴への想いは、もう彼だけのものではなくなってきている。由貴也が想いを断ち切ったことによってむしろ、彼の両親の思惑が浮き彫りになった感を受ける。

 旧時代然としているこの一族は、由貴也の想いを利用するぐらいのことは簡単にする。それがわかっているから、由貴也はかつて想いを他者に踏み荒らされないように自らの内面を固く守り、今は恋の残滓につかまることを拒み、他者の介入を退けている。今回、家庭教師の時に巴への恋を再燃させてしまえば、彼の両親の思うつぼだ。由貴也にはそれが耐えがたかったのだろう。

 それきり、何も言わなくなった由貴也へ一瞬だけ視線を向け、壮司は静かに部屋を出た。

 廊下を歩きながら、思う。彼の両親がどうとか、まわりがどうとか、おそらくそうではないのだ。

 ――由貴也はもしかしたら誰か好きな人がいるのかもしれない。

 巴の言葉が脳裏によみがえる。家庭教師をしていた時分、彼女が由貴也のこの二年弱の変化を見てとり言った言葉だ。

 由貴也は驚くほど恋に関しては一途で潔癖だ。だから多分、そういうことなのだろう。

 春だな、と壮司は格子窓の外を見ながら思う。壮司は由貴也と対峙し、結果的に巴と想いを通じ合わせたことに後悔はない。しかしそれでも由貴也に対してすまなく思う気持ちがなかったといえば嘘になる。壮司よりずっと前から由貴也は巴が好きで、彼女だけを見つめていたのだから。

 だからこそ今、しみじみと春が来たのだと多少年より臭く思うのだ。よかったな、と。

 願わくは、まわりが彼に芽生えた新たな想いを潰さないように、自分も含め、と壮司は自嘲気味に思うのだった。

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