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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
57/127

それは幸せにも似て

サイトmemoのSS再録。

由貴也高三、冬。古賀家でのワンシーン。

「髪、邪魔じゃないのか」

 参考書に視線を落とし、数学の問題を解いていると、巴の手が伸びてきて前髪をなでるようにかきあげられた。

 外は冬晴れだが風が強く、二人きりの和室を木枯らしの音が満たす。けれども室内はストーブがたかれていて温かく、目の前にはやわらかな湯気をたてる湯飲みがふたつ置かれている。志望大である国立大の二次を控えた冬の日、驚くほど平和な時間だった。

 由貴也は部活を引退してから古賀家で巴の家庭教師を受けていた。高校受験の時もあまり勉強せず、高校に入ってからはなおさら勉強していない由貴也はとにかく効率的に短期間で学力を上げなくてはならなかった。山のようなスポーツ推薦をひとつ残らず蹴ってしまった由貴也にはもう一般入試しか残されていない。とはいえ教師面したよくも知らない大学生と毎日のように顔を合わせるのはまっぴらだったので、親が連れてきた巴を選んだ。

 やわらかい動きで巴の手が離れていく。ずっと巴には近づかないようにしていた。ふられたあの時からずっと。オフシーズンならそこまで余裕がないわけではなかったのに、部活を理由として古賀家の行事もすべて欠席した。

 一年以上経ってやっとこうして顔を合わせられるようになった。触れられても従姉としてのスキンシップだと理解できるようになった。この家に漂う壮司と巴の気配が身をさいなまなくなった。幼い頃の記憶が由貴也をわけもわからない焦燥に掻き立てなくなった。あの頃に戻りたい、と。

「……平気」

 巴の白くたおやかな手から目を離して、いつも手首につけているヘアゴムをとった。何の変鉄もないヘアゴムだが、退色して元は黒だった色が藍色になっている。夏のインターハイ以降、走るときはいつもこのゴムで結んでいるから無理もない。

 ――美容師さんに髪切ってもらいなっていったじゃない。

 脳裏に真夏のグラウンドでの記憶がよみがえる。

 ――目、悪くするよ。ゴムあげるから結んだら?

 そういって彼女はインターハイの日、由貴也にこのゴムをくれたのだった。自分は結んで、と返し、髪をくくる手までも欲した。

 巴に拒絶されたときから、自分は巴と同じように優しく触れてくれる誰かを欲していたのだと思っていた。巴の隣で笑って一番幸せだった幼少期に戻ったような気になりたかった。

 けれどもどこがどう間違ってかげんこつ、ビンタを喰らわせられ、景気づけに背中を叩かれ、挙げ句に髪を遠慮なくぐいぐいひっぱって結ぶようなまったくもって優しくない手の方を思い浮かべるようになってしまった。

 その果てにこんな自分がどうなるかわからない場所に帰ってきて、おとなしくお勉強をしている。何がうれしくてあれほどなりふり構わず欲した巴と毎日のように顔を合わせているのだろう。まったく、自虐的にもほどがある。

 それでも、自分はここに戻ってこなければいけなかったのだ。もう巴が好きではないのだと確認するために。

 ゴムを口に食わえてから髪を手で適当にまとめる。毎日、走る際にはこうしているのでもはや習慣に近い。部活を引退した後もいくつか小さな大会に出たが、その時もこうして結んでいた。髪がうっとうしいというよりも、こうしないともう落ち着かないのだ。

 髪の束を通すとき、いつもこのゴムをもらった“最初”を思い出す。きつく結ぼうとされ、痛いんだけど、と自分は非難の声を上げる。

 ――だってアンタの髪、やわらかいんだもの。きつく結ばなくちゃ走っているうちにとれちゃうって。

 そんなささいなやりとりが、巴といた過去を愛しむのにも似て、やわらかくて温かくて、なつかしくて。きっとこの心の奥からにじみ出るような感情の名前は――。

 髪を通そうとゴムを広げたとき、パチンと軽い音を立て、ゴムが木目調の机に落ちた。押さえを失った髪が広がり、自由になった毛先が首筋をくすぐる。

 ゴムが、切れた。

 目を数回瞬かせる。色あせたゴムは伸びて弱くなり、弾力性を失って切れていた。半年間、毎日使えば無理もない。

 巴もまた音に驚いたのかこちらを見ていた。何気なく顔を上げると目が合う。

「直せないの、これ」

 目で切れたぼろぼろのゴムを指しつつ尋ねる。尋ねられた巴はといえば驚いた顔をし、あからさまに目を丸くしていた。

「切れたところを結び直せば直らないこともないだろうが……」

 驚きをとりあえずしまってという具合に、巴がゴムを手に取り結び直す。その細かい作業を由貴也は無言で見ていた。そして、なじるように思う。

 俺ではなく、アンタが悪いんだ。こうして髪が伸びて邪魔なのも、ゴムが切れて直してもらっているのも、巴とこうして相対しているのもすべてアンタが悪いんだ。

 アンタが近くにいないから、全部がうまくいかないんだ。俺のせいじゃない、と巴から直されたゴムを受けとる。もとあった結び目と、今切れた箇所を繋いだ結び目とふたつできていて、いびつだった。

「とりあえず直したが、いつ他のところが切れてもおかしくないぞ」

 いつ切れても、と言われ、由貴也はただじっとくたびれて限界を叫ぶゴムを見つめた。

 後少し、持てばいい。春まで待ってくれればいい。

「大丈夫」

 手のひらにのせられたゴムをそっと握る。

「春になったら髪、切ってもらうから」

 春になったら、春になったら、そうやって何度おまじないのように胸の中で唱えてきただろう。

 待ちわびた春はきっともうすぐそこまで来ていた。

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