さみしさの病
『金色の時間』読了推奨。香代子の帰った後。
(自サイトの拍手文再録)
起きるともうあたりは暗く、同時に誰もいなかった。
夜風がカーテンを揺らして吹き込み、髪をなでる。その静かなひとりきりの夜に落胆し、同時に安心した。由貴也は保健室に入ってきた真美をいるはずのない香代子と間違えるなどという愚をすでに犯し、これ以上の見苦しい真似を重ねるのは遠慮したかった。
触れあった温もりはなく、体は夜風に冷えている。あれは夢だったのだ。由貴也は香代子が帰らないように、と彼女のブラウスをつかんでいた。あれが現実だったなら香代子はここにいるはずだった。自分は決して離しはしなかったのだから。
由貴也は安堵する。自分のみっともないとすらいえた行動は夢であったことに。心の奥に感じたむなしさや痛みは無視する。この一年でそうすることにずいぶん慣れた。
いくぶんかすっきりした頭を抱えて起き上がると、額にのっていたらしいぬれたタオルが落ち、ゴム製の枕が振動で中に充分に入った氷を揺らした。とうにぬるくなったタオルは不快さにどこかへ放り投げ、氷枕は溶けきっていたはずだった。そういえば体の汗がぬぐわれ、Tシャツも新しいものに変えられていた。
まさか、と思い室内を見回すが、彼女のいた痕跡など見当たらなかった。けれども気のせいだったのか、と思ったのも束の間で、枕元に保冷バックが置かれていた。中にはプリンとゼリーがご丁寧に保冷剤とスプーンつきで入っている。冷蔵庫になど入れない由貴也のめんどくさがりの気質をよく理解していた。
夢ではなかった。現実だった。
自分のさらした醜態に対する羞恥より先に、足が動いていた。香代子が背負っていたのは夕日で、もうすっかり日は暮れて時間の経過を表しているのに、自分はベットから裸足のままで抜け出し、戸口まで駆けよった。
保健室の真っ白なドアを開けて息をつく。廊下は宵の浅い闇を月光が照らすだけで誰もいなかった。人の気配が絶えて久しい静寂がある。
はっと我に帰った気分になり、舌打ちしたくなる。なんで帰ったんだよ、という思いと、そう思う自分にイラつくのだ。
この自分が毒気を抜かれて、翻弄されている。自分自身の制御が効かない前後不覚の状態に陥ったことが忌々しかった。そうならないようにこの一年、自分を厳しく律していたというのに。
由貴也はマイナスからのスタートなのだ。最初にどん底まで沈んだ自分を見られている。ひとつの歳の差も香代子との関係では悪く作用する。巴の時は歳下であることを利用して甘えてみせたが、相手が香代子ではますます自分がいると由貴也が自立しない、と距離をとられるだろう。
そもそも自分がこんなことまで考えて行動しなくてはならないことが面倒くさい。彼女の歓心を買おうとして媚びているようだ。
最初に好きになったのは向こうのはずだ。当初、由貴也には落ちない絶対の自信があった。巴にフラレたばかりだったあの頃は特に。自分に恋愛などもう必要ないと思っていた。
――正確に言うと怖かった。また巴にフラレたときのように死んでいるのに息をしているような状況になるのが耐えられなかった。恋愛にとって受け入れられることと拒絶されることは表裏一体なのだ。
だからこそ何かあったときに自分へ跳ね返る影響が少ないように好きなら向こうから来い、という姿勢をとっていたのだ。今度は恋にのめりこむものか、という自棄に似た意地もあった。自分は香代子を好きではない、と公言もしてきた。
それなのに引退後、立場がそっくり入れ替わったような状態となる。自分は離れていく香代子を引き留めるかのように大会で結果を残し、競技場の底から彼女の姿を客席に探した。
無意識に自分を振り回す香代子が時に憎くすらあって、それがおもしろくないとふてくされる自分はそれこそ年相応の男子のようで、香代子にますます追いつけないような気がした。自分のペースが乱されて、肝心なところで主導権を持っているのは向こうで嫌になる。
こうやって気まぐれに会いに来たかと思えば、次が見えないままここに置き去りにする。自分ばかりが心の内をさらけ出して、彼女に確たる言葉を強要する。
徒労感にさいなまれて由貴也はベットに戻る。互いが見えない距離にいる。近づいたかと思えば離れていく。由貴也はこんな狭い場所に変わらずにいるのに、向こうは無限に広がる新しい世界にいる。大学生から見れば高校生などどうしようもないほど子供だ。
由貴也はベットに寝転がり、青白い月の光を感じながら目を閉じる。聴覚が研ぎ澄まされ、夜風に木々がざわめく音が耳を満たした。
綺麗になっていた。薄く化粧をして、シンプルなラインのブラウスを着て、制服を脱いだだけで半年前よりずっと大人びて見えた。
だからこそあせったのかもしれない。一歳の差は由貴也の前に重く鎮座する。帰らないで、ここにいて、置いていかないで、待っていて、追いつくから。焦燥があのとき、消えゆく意識の中で由貴也に香代子のブラウスをつかませた。
体は回復しつつあるようで、空腹を感じて目を開く。体を起こして、月明かりを頼りに枕元の保冷バックからゼリーをとった。さすがに濃厚なプリンはまだ食べる気にならない。
手探りでプラスチックのスプーンもとると、その拍子に何かメモのようなものが落ちた。深く考えずに手に取り、窓から細く射し込む月の光の元でふたつにたたまれていたそれを広げた。
何の柄もない、簡素なメモだった。上部がいびつに破れており、ノートか何かの切れ端だとわかる。あらかじめ書かれて保冷バックに入れられていたのではなく、おそらくこの場で書いたものだ。
由貴也は女にしては丸みの少ない文字に目を走らせた。
『早く良くなってください。お大事に。インターハイは見に行きます』
末尾に新野 香代子と名前が添えられていた。
“インターハイは見に行きます”
この一年、思い返してみても走っている記憶しかないのだ。走って走って走って、ただそれだけで、色彩も温度も思い出すことがどうしてもできなかった。溺れそうで、つかむところがなくて、足がつくところを選んで駆けた。
けれども今、体が軽くなって、息がずっとしやすくなって、体のすべての感覚が戻ってきた。
インターハイは見に行きます。胸の中でその言葉をなぞる。
病は快方に向かいつつあるようだった。




