金色の時間・後編
西日が射す校舎には人影がなく、もの寂しげな空気が漂っていた。
来客用のスリッパが足になじまない。サイズが小さいわけでもないのに、気を抜くと脱げそうだ。
夏休み中で誰もない廊下を思わず足音をひそめて歩く。保健室はもう目と鼻の先だった。
真美を根本に任せ、香代子は由貴也のいる保健室に向かっていた。
この期に及んでまだ迷いがある。そもそも発熱なんてよくあることだ。いちいち来ていたらキリがないし、ただの先輩後輩関係なのにここまでする自分がおかしい。自分は由貴也のことになるとどうかしているのだ。
保健室の真っ白な扉を前にして息を飲む。このドアの向こうに由貴也がいる。
穴が開くほどドアを見つめ、まるで由貴也の心の壁のようだと思う。根本も真美も由貴也の気持ちを推察してあれこれ言うけれど、それを鵜呑みにすると痛い目にあいそうで怖いのだ。由貴也はあのなにも考えていなさそうな茫洋とした瞳の奥に鋭い刃を内包している。彼の内部に触れようとするとその鋭い切っ先で容赦なく一閃されるのだ。――ねえ、俺がアンタのこと好きだと思った? と。
由貴也と離れていたこの半年間、ひとりであれこれ考えをめぐらせては心が臆病になっていた。
そんなうじうじしている自分がいい加減嫌になって、意を決して目の前の扉を開けた。強ばっていた香代子の体をほぐすように、部屋の中で行き場を失っていた夏の夕方の風がドアから通り抜ける。茜色の西日が室内に長い影を作っていた。
首筋をなでるような風が吹き、薄手のカーテンをはためかせる。その元で由貴也は眠っていた。
傾きかけているというのに凶暴さを失わない日が由貴也の顔に射し、深い陰影を作っていた。
起きているときはもう鋭角ばかりが目立つ若い男の顔をしているのに、こうして寝ているとあどけなくて隙だらけで、中性的だ。まるで出会ったばかりの、子供と大人の境目にいたあの頃の由貴也のようで香代子は息をするのも忘れてベットに横たわる彼を見つめていた。
ああ痩せたな、と思った。ちゃんと食べてるの、とか考えるのはそんなことばかりだ。由貴也は誰も彼もはねつけるわりにさみしがりやで、誰かがいないとやっていけない。自分が引退してから真美でも元カノでもそばにおけばよかったのだ。最初はなんとなく隣にいたとしてもその感情が実を持ち、本当になることだってあっただろうに。
そうしたら香代子だって安心するのだ。由貴也の悲しみの溜まりできた錯覚を利用してずっと彼のそばにいたいなどとは思わなくなる。由貴也には自分でなければダメだという驕りも捨てられる。
香代子はため息をついて、由貴也に手を伸ばした。伸びて白いシーツに広がる彼の髪をなでる。また自分が卒業式の夜に切った以来、ハサミを入れていないようだ。
それから額に手をあてる。当然ながら熱く、少し汗ばんだ由貴也の肌を感じる。その拍子に由貴也が小さくうめいて寝返りを打ち、彼の頭の下の溶けた氷枕がたぷんと軽い音を立てる。
眠りは深くなさそうだけれど、由貴也は目を覚まさない。とりあえず冷却の意味をなしていない氷枕をとりかえようと心の中で詫びて由貴也の首の下に手を差し入れ、氷枕を取り出した。
氷枕のぬるい中身を捨てようと、香代子はきびすを返した瞬間、視界がぐんっとぶれた。たまらず後ろのベットに手をつく。燃えるような熱い体温を手首に感じた。
「何で来たの」
ベットに腰かけた香代子を、目覚めた由貴也が肘をついて半分体を起こしかけた状態で見上げていた。熱で顔がはっきりしていないのに、由貴也の眼光だけは息を飲むほど強い。
「き、来ちゃ悪い!?」
とっさに強がりの言葉が口をつく。由貴也が起きていたという驚き以上に、何で来たの、という非難ともとれる言葉が胸に突き刺さった。明らかに歓迎されていない。
「帰る。帰ればいいんでしょ」
やっぱり来なければよかったという思いがこみ上げてきた。由貴也にとっては香代子はもう過去の弱かった自分を思いおこさせるだけの存在に違いないのだ。
立ち上がろうと腰を浮かせた香代子の動きを封じるように、由貴也が香代子の体の向こう側のシーツにも手をつく。腿の上に彼の体を渡され、香代子は立ち上がることが叶わなくなる。
獣が伸びをするような体勢で、由貴也は下から舐めるように香代子を見ていた。
「アンタ、俺のこと忘れたんじゃなかったの」
由貴也のぽつりとつぶやかれた言葉に、香代子は目を瞬かせる。香代子は卒業してから試合も練習も一切顔を出さなかった。哲士や根本から行こうと誘われても頑なに断ってきた。ひとえにそれは由貴也との関係を断つためだった。
嫌味を交ぜて由貴也はそれを非難する。まさかそれをすねているのか。憮然とした様子はそれを肯定しているように思えた。
答えを求めるように由貴也を見ると、下から見上げる彼の瞳と目があう。異様な迫力を宿した彼のまなざしに、香代子は猛獣に射抜かれた獲物のように身をすくませる。ひとつひとつの仕草が威圧感に満ちているのだ。
由貴也が手をすべらすようにして、ベット横の壁に手をついた。
「ちょっと、近い……」
思わず声がうわずった。完全に上体を起こした由貴也の顔がすぐ近くにある。片手は座った香代子の腿のすぐそばのシーツの上に、もう片手は目を動かせば確認できるほど真横の壁につけられていた。
由貴也が作った腕の檻に捕らわれて、香代子は後ずさった。けれどすぐに背が壁につく。日暮れの暗くなっていく室内の中、逆光で由貴也の表情は見えず、ただむせかえるような彼の気配と熱気を感じる。
夏の残照でできた影は暗く濃く、もう逃げ場がなかった。
「……アンタは俺に会いたかったんだ」
かすれた由貴也の声に、ときおり荒い息づかいの音が混じる。それが普段の由貴也にはない、切羽詰まった雰囲気を作り出していた。
「アンタは引退してからも卒業してからも、俺のことが好きだったんだ。ずっと、ずっとずっと……っ!」
この一年間の感情を種に火がついたような由貴也の叫びだった。それに呼応して、香代子の顔の横の彼の手が拳になり、ギリギリと手のひらを握りしめる音がする。由貴也の固く分厚い心の堰が破られ、その感情の奔流が香代子にそそがれている。
「ねえ、認めなよ」
ずいぶん傲慢なことを言っているのに香代子の返事をうながす由貴也の声は一転して弱々しかった。
胸がしめつけられて痛い。自分は由貴也のこういうところに弱いのだ。卒業後、離れていった香代子に、まだ心は自分の下にあると見捨てられた子供のような顔で言質をとる由貴也にたまらなく弱いのだ。
由貴也は自分が会いたかったとは口が裂けても言わないのに、香代子ばかりが言葉を与えてしまう。それでも言葉がこらえきれなかった。
「そう、私はアンタのことずっと好きで会いたかったの!」
半ばやけになって叩きつけるように言い放つ。これでまた振り出しだ。今まで我慢してきたことが水の泡だ。
「もうっ……! 私、アンタのことになるとバカみたい。ぐじぐじ悩んで、ぜったい来ない方がいいってわかってたのに。恋でもないのに」
由貴也が自分に依存していれば依存しているほど離れた方がいいとわかっている。由貴也が自分に抱く感情は一時の気の迷いのようなものなのだから。
香代子に反抗するように由貴也の気配が何の前触れもなく鋭く尖った。それを裏づけるように彼の腕が振り上げられ、拳が香代子の顔のすぐ横を打つ。固い壁は鈍い音を立て、香代子は肩がびくりと震え、全身に力が入り、硬直した。
反響が部屋を重く満たす。後には薄暗い部屋と、夏の日没前の凪で湿気た濃い空気が残った。こんな荒々しい由貴也は初めてだった。
「アンタは決して今の俺を見ようとしないんだ」
“逃げるんですか!”
真美の言葉が脳裏によみがえる。自分は真美だけでなく由貴也にも本質的には同じことを責められている。
「遠いところからいろいろムダなこと考えて、勝手にひとりで悩んで離れていって……」
一息に言ってのけた由貴也の言葉に、後頭部を殴られた気分になった。自分の思惑など由貴也には筒抜けで、同時に突きつけられた自身の弱さの衝撃にめまいがしそうだ。
由貴也は弱くて強いのだ。根元から折れてしまいそうな危うさはあるけれど、こうと決めたらどこまでも突き進んでいく。
それに比べ怖かったのだろうか、自分は。由貴也の烈火のごとき愛情を向けられることを、その愛情を信じてつかんでみたら手痛いしっぺ返しをくらうことも、彼の中に今だ残る巴の影も。遠ざかって、由貴也の活躍にすら背を向けて、由貴也のためという言いわけを掲げて逃げていたのかもしれない。
巴のこと以外でこんなにも余裕のない由貴也がいるとは思ってもみなかった。彼の瞳が朱色の光に照らされて揺れる。
「……アンタは俺のことが好きで、ただそれだけでいい」
絞り出すように言って、由貴也は力が抜けたようにずるずると体を沈ませていった。ゆるく崩れる熱い肢体を香代子は受けとめる。背中に回した手からは早い呼吸が伝わる。
この言葉が、事態が信じられない。熱で由貴也はおかしくなっているのか。由貴也はいつだって自分の手の内を見せないようにするような周到さがあり、つねに自分が心理的に優位に立とうとしていた。それは香代子といるときは一層強かった気がする。
しばらく由貴也の理性と感情のせめぎあいの間のような時間が空く。
「……なんでこんなときだけ来たんだよ、俺の情けないとこだけ見に。アンタから同情を向けられるのはもうまっぴらなんだ」
由貴也がほとんど吐息のようなささやきを漏らした。それはとても理性からではなく、感情に針が振れた言葉で、香代子は目を見開く。
それは普段、由貴也があの無表情の下敷きにしている“弱み”のようなものに思えた。
「一年、長かった」
彼が観念するようにつぶやくやいなや、香代子の支える由貴也の体が重くなった。ぐったりと体を預けきる由貴也には意識があるかどうかもあやしい。
それでも高熱に抵抗するように、無造作に投げ出されていた由貴也の手が動いた。おぼつかない動きで香代子の背にまわされる。次の瞬間、確かな意思を持って、その指が香代子のブラウスをつかんだ。
意識が呑み込まれていく前の刹那のあがらいだったのか、香代子の背中の生地に食いこんでいた由貴也の手が音もなくシーツの上に落ちた。完全に意識を手離したようだ。
段々と重くなっていく由貴也の体を彼の背中に腕を回して支えながら香代子はぼんやりと窓の外の夕日を見ていた。
この一年、胸の中は彼の存在が占めていても、香代子が向いていた方向は由貴也ではなかった。他の誰でもない自分が、由貴也の失恋という特殊な状況下で彼に芽生えた感情を否定したかった。そのメッキがはがれて、由貴也の救い主でもなんでもない自分を見られてがっかりされるのがどうしようもなく怖かったのだ。
つきつければつきつけるほど自分の行動は彼のためでもなんでもない。だからそれを思い知るのが嫌で由貴也を見ないようにしてきた。
けれども由貴也が、いつだって感情を後ろに隠していた由貴也がそれをかなぐり捨てて叫んだのだ。彼がいつも自分の心の動きを他人に悟られないようにしていたのは、生来の気質でもあったのだろうし、香代子との間では歳下だとか、おそらく助けた、助けられたという彼にとって上下のある関係を払拭するためだったのだろう。
熱によって彼の鎧のような無表情が消え、プライドや意地が溶かされ、それによって洗い出された彼の心の奥底に、香代子は静かに思う。
好きなら好きなままでいいのだろうか。自然のままに心がおもむく方へ進んでみてもいいのだろうか。
由貴也の想いは“本物”なのだろうか。恋を始めてもいいのだろうか。
その問いに答えを出すのはもう少し後でもきっと遅くない。
まずは次のインターハイを見に行こう。それから、そこから新たに始めよう。
今まで彼がひとりきりで戦ってきた日々を称えるように、香代子は優しく由貴也の背中をなでた。