金色の時間・前編
本編、番外編読了推奨。香代子大学一年、由貴也高三の引退間際。
外ではやかましく蝉が鳴いている。七月下旬、夏の盛りだ。
山のさわやかな風が開け放たれた窓から吹き込む。薄手のカーテンが揺れ、ベットに横たわる由貴也の汗ばんだ額をなでた。
その風すら不快なものに感じて由貴也は寝返りをうった。無人の保健室にシーツの触れあう音だけが響く。高地にある立志院では盛夏といえども冷房なしで充分やり過ごせるのに寝苦しさを感じるのは外気のせいではなく、発熱のせいだろう。
この期に及んで、とこの時期に体調を崩した自分に失笑したくなる。よりによってインターハイ本選がもう目と鼻の先だというのに。
夏はもともと苦手で、暑さにやられて昔はよく体調を崩していた。それ以上にここ最近の日々を鑑みれば熱のひとつぐらい出してもおかしくなかった。インターハイ予選、関東大会、国体予選、その合間に練習試合と県の強化指定選手の合宿など、四月から連戦だった。
関東大会では寸でのところで全国大会への切符を逃し、国体予選も思うような走りができなかった。由貴也は成長期を迎えたのが遅かったため、まだ完全に体が出来上がっていない。そのため走りが安定していなかった。
インターハイ予選を辛くも勝ち抜き、あとは本選を残すのみだ。どんな結果であろうともそこが最後になる。間もなく由貴也は高校の部活動一年半の集大成を迎えることとなる。誰がどう考えても、こんなところで寝ている場合ではなかった。
「古賀せんぱぁい……」
入口のドアが開いた音に次いで、細い声が由貴也を呼んだ。由貴也は首だけ動かして戸口を見る。頭の下の氷枕ががばり、と深い海の底のような音を立てた。
熱のために明瞭ではない視界に真美が入りこむ。彼女は両腕に大きなビニール袋を提げていた。
「なにか食べてください。お願いです……」
彼女の大きな瞳がここからでもわかるくらいに潤む。勘弁してくれ、と由貴也は真美から顔を背けた。
溜まる疲労に重くなっていく体を騙し騙し使っていたが、ついにガタがきたのは三日前だった。
インターハイに出場する由貴也を残し、同級生の大部分は引退した。仲間がすべて引退してしまうっていうのはちょっとなあ、という顧問の体育会系的考えで名目上、三年生は自由参加となっていたが、彼らはすばやい変わり身で受験生となっていた。受験するならば夏休みは正念場だから仕方のない。彼らは時おり気分転換に部に顔を出す程度にとどまっていた。
昨日も由貴也は実質的に代替わりを済ませた後輩中心の部活で、相変わらず走っていた。試合直前の調整期間に入っているとはいえ、暑さと連日の練習の疲れで食が細くなり、ついに倒れた。
一晩寝ても熱は一向に下がらず、食欲もない。真美に言われなくとも何かを口に入れなくては、と思う。熱に体力を奪われ、体を弱らせてしまったらインターハイに大きく関わる。こうしている暇はないとわかっていても、一足早く気が抜けてしまったかのように頭が働かなかった。
「古賀先輩……!」
真美が両手に病人食を抱えながらずいっとベットサイドに近よる。もはや彼女は盛大に泣いていて、うんざりと由貴也は目を伏せた。心の中でいつまでも彼女を野放しにしておく根本を恨むのも忘れない。
「……食べるから、その辺に置いといて」
とりあえず真美を追っ払おうと、嘘でもいいのでそう言っておく。とはいえぞんざいな返事を真美はまったく信用していないようで、さらにつめよってきた。彼女は顧問に由貴也の看病を仰せつかっているのだろう。まったくもってありがた迷惑だ。
「ほんとに、ほんとうにちゃんと食べてくださいね」
真美の懇願に適当にうなづき、とにかくやり過ごす。下手に彼女を刺激すると昼夜を問わず由貴也のそばに付き添ってそうだ。
由貴也は拒絶の意を消極的に示すために真美に背を向け、枕に顔を埋めた。まったく、真美に嘘を見抜かれるなど自分もやきが回った。
「ほかになにか欲しいものはありますか……?」
威勢を削がれて、真美がひかえめに尋ねてくる。本当は水分が摂りたかったし、氷枕も代えて欲しかったが、これ以上真美に居座られると厄介だと本能が告げていた。別に、と答える。
真美は「何かあったら呼んでくださいね」と言って出ていった。これで当面の静かな環境は確保できたようだ。
夏の強い太陽とは裏腹に、保健室の中は暗い。ひとりになった室内で、欲しいもの、と真美に言われたことを頭の中で反芻しかけるが、即座にまぶたを閉じた。余計なことを考えないように眠りにつこうとする。
本当に余計なことだ。心の底から本当に欲しいものを思い浮かべることは、由貴也にとって思い出に囚われることと等しい。
目をつむっても、蝉が脳内で鳴いているかのようにやかましかった。頭が脈打つように痛む。
熱に浮かされながら思う。自分がこうなるのなら、一年前のあの時だと思っていた。一年と少し前、一人で陸上部に残されたあの時に。
とはいえあの後、すぐに夏が来て練習に明け暮れたので、具合を悪くしている暇などなかった。夏休みというものは運動部にとって部活強化期間と同義だ。狂暴な日差しのもと、朦朧とするまで走る毎日。吐くことなど日常茶飯事で、かなりきわどいラインまで体を酷使した。
それなりに勝とうと思うのなら、ギリギリまで追い込まないといけない。コンマ一秒速くなることと、練習のしすぎで壊れることは紙一重だ。
それでも汗にまみれ、力尽きて地面に横たわり、砂に頬をつけて疲労に足を痙攣させながら、なぜ自分はここでこんなことをやっているのか、と考えたことは一度や二度ではない。
本当は辞めてもよかった、彼らが引退したあの時に、自分も一緒に。むしろどうしてそうしなかったかわからない。けれども由貴也は陸上という細い鎖を離すことができなかった。彼らに――彼女につながる唯一の手段だと思っていた。
だから去年、ひとりになってからも走り続けてきた。厳しい練習と自己管理に身を投じ、ずっと気を張って今までやってきた。それがここにきてついに切れたのだ。
体と心が限界を訴えている。とにかくもう何も考えずに寝てしまおうと思考を打ち切った。熱のせいで妙なことを考えている。たぶんこのままでは長らく考えないようにしていたことにまで早晩触れてしまうだろう。隣に彼女がいた、あの光景に引き戻される。
巴の時と同じ轍を踏むわけにはいかない。だからこそ由貴也は香代子のことを思い出すことを固く禁じてきたのだ。例外は表彰台の一番上に登った時だけだった。
結果を出すことだけと引き替えに許してきたことを今、破りかけている。
一番欲しいものなど、望みなど、もう考えるまでもなかった。
山道を走るバスから降り立ち、香代子は半年ぶりに見る母校の校舎ににわかに緊張した。三月の卒業式以来だ。つい半年ほど前まで毎日通っていたはずなのに、今はもうどことなく校舎がよそよそしく見える。
さすがに大学のある平地とは違い、ここは涼しい。薄いブラウス一枚では少し肌寒いぐらいだ。香代子は思わず手のひらでむき出しの腕を擦った。
そうしているうちに遠くから近づいてくる足音が聞こえてきた。真美がセーラー服の裾を翻して駆けてくる。中等部のセーラー服は高等部の平たいリボンタイとは違いスカーフで、ゆるいりぼん結びにされたそれは白い蝶のようだった。
真美は香代子の前で足を止め、「……お久しぶりです」と言ったきり押し黙っていた。まただんまりの再燃か、と香代子は心中ため息をついた。
真美からの電話を受けたのは今日の昼前だった。香代子は大学生の例によってテスト期間中で、学校の図書館で勉強していた。そこに真美から一方的な電話があり、言いたいことだけ言って切ろうとする彼女からなんとか詳しい事情を聞き出してこうして駆けつけたのだった。――二人で。
うつむいて口を閉ざす真美から唐突にぽろぽろと涙がこぼれる。突然のことに香代子はすっかり狼狽し、思い出したように後ろの人物に視線を投げた。根本だ。
何の因果か、根本は香代子と哲士の通う国立大のはす向かいにある私大に進学した。根本いわく、合格できたことは百年に一度の奇跡だそうだ。彼もまた陸上を続け、敵情視察と称してこちらの陸上部を覗きに来たりする。
その根本を真美の危機だ、と言って連れ出してきたのだ。根本はいまだに真美に淡い恋心を抱いており、やっと聞き出したメールアドレス宛にこっぱずかしくなるようなメールを細々と送っているらしい。
香代子は根本に見てないでどうにかしてよ、と無言で助け船を求めたけれども根本は久しぶりの実物の真美を前にしてかちこちに固まっていて、どこぞの有名ブランドのシャツも、細身のジーンズも、尖った靴も、ワックスでセットした髪も台無しの緊張具合だった。
片手で真美の背をさすりながら、逆の手で使い物にならない根本の背中をしっかりしろと叩く。はっと正気に返った根本の方へさりげなく真美を追いやる。
「真美、泣かないで。私にどうして欲しいの?」
香代子は真美をなぐさめに来たのではない。それでもことがことだけに、真美の複雑な気持ちもわからなくはなかった。
真美からかかってきた電話は由貴也の具合がよくない。インターハイが近いのに何も食べようとしない。だから見舞いに来てくれ、という内容だった。真美のことなのでどこまで誇張されているかはわからないが、とりあえず適当にお菓子でも置いておけばそのうち食べる、とアドバイスした。すでに香代子はOBで、むやみに現役生に関わるのはよくないと思ったからだ。それでも真美は長い沈黙の後、『……香代子先輩じゃないとダメなんです』と言った。
由貴也のことが好きでたまらない真美が言ったその言葉で、香代子は事態が真美の単なる被害妄想でないことを知った。真美は本当は香代子に助けなんか求めたくなかっただろうし、病気の由貴也を独り占めしたかっただろう。それでも香代子に電話をかけてきたのが彼女の苦渋の決断だったのだ。
現に今も真美はうなづくのをためらってか無言でうつむいていた。やがて日が隠れた花のようにみるみるうちに表情を萎ませる。大粒の涙が頬を伝う。
「真美……」
思わず香代子はいたわるように真美の肩に手を置いた。真美は頭ではわかっていても、心では香代子と由貴也を会わせたくないのだろう。表情に悲しみと悔しさがにじんでいる。例え真美が言う“香代子でなければダメな事態”だとしても、自分はここで帰るべきかと考えた。
「真美。そんなに思いつめなくても大丈夫。これだけ渡してくれる? 私もう帰るから」
努めて微笑し、真美に持参してきた保冷バッグを手渡した。
「根本、後よろしくね」
え、とあっけにとられる真美と根本を残して、香代子は帰りのバス停に行こうと歩き出す。
本当は香代子は怖かった。由貴也と会ったのはこの一年でただ一度、卒業式の時だけだ。部活を引退したら驚くほど疎遠になってしまった。
陸上雑誌で、新聞の小さな紙面で、由貴也の活躍は知っていても、彼の実物は遠かった。――会いたかった。
それでも香代子は由貴也と会うのがどうしようもなく怖かった。この先、今度はいつ会えるかわからないのに今、由貴也と会って離れがたく思ってしまったらどうするのか。由貴也にとってメールも電話もまったく意味をなさないことを香代子は知っている。由貴也と触れあうには声と、まなざしと、体温が必要なのだ。近くにいれない香代子にはそれは無理なことだ。
こんなにも今や隔たりがあるというのに、必死に眠らせていた恋心を呼び覚ましてしまったらきっともうどうしようもない。根本を連れてきたのは歳下を想う同じ境遇を不憫に思って、ということもあるけれど、第三者の存在があることで自身に歯止めがかかると思ったからだ。
「マネージャー、待てよ。ここまで来たんだから会ってけよ、な?」
向こうのバス停に行こうと道路を渡ったところで根本に追いかけられて腕をつかまれた。
根本の思いやりに満ちた声に嫌になる、自分が。いつもは導線が短くて直情型で落ち着きとは無縁なのに、なんだってこんなときだけ自分よりずっと大人びた言動をとるのだ。どうして歳下に恋をしている状況は同じなのに、こんなにもとる態度に差があるのだ。自分ばかりがじたばたしてみっともなくて嫌になる。
「私は元々こないつもりだったからいいの!」
たまらない気分に任せて香代子は叫ぶ。
本当は真美に懇願されても来ないつもりだった。来たところで何になる。しょせん今日だけの短い時間しかいれないのに。
「私じゃなくても大丈夫だってことを知るべきなのよ」
香代子でなければダメだと真美は言う。だからこそいけないのだ。香代子はかつて由貴也を確かに救ったかもしれない。由貴也はその記憶が残っていて香代子の存在をあてにするだけだ。
由貴也が今、どんな生活をしているのか、どんなことを思っているのか香代子はもうわからない。香代子の知らないことも、きっと増えた。香代子はもう以前と同じように由貴也の力になれるとは限らないのだ。
いない人をいつまでも頼りにしてはいけない。由貴也の中の香代子の虚像は作りこまれ書き換えられ、つねに彼に都合がいいように動くだろう。由貴也の視野は狭く、ひとつの世界にはまる傾向がある。その世界の中で由貴也はまだ錯覚している。
そんなにまわりが見えていなければ今にきっとつまずいて怪我をする。由貴也の危うさはそこから来ている。
「そこまで考えなくてもいいじゃん。あいつが好きだから会いたいって思うのはのは普通だと思うけど」
根本はけろりと言ってのける。由貴也が失恋をして、体まで壊した一連の流れを知らないわけではないだろうに。
「だって恋愛じゃないものっ。私はねぇ、弱ってるとこにつけこんだの! あんなときに好きだって言われたらなんとも思ってない相手だってちょっとはよく見えるよ」
あのときはただただどこまでも堕ちていきそうな由貴也を引き上げることで手一杯だったけれど、今は自分のあざとさが恥ずかしい。きっと普通に出会ったら由貴也は自分に見向きもしなかった。
自分は結局、自信がないのだ。あんな時でなければ、由貴也が好きになるところなんてひとつも持っていないのだ。それがいつまでも香代子のしこりとして残っている。
そしてこれがなくなるのはきっと由貴也の目が覚めたときだけだ。
拳を握り、肩をいからせてうつむく香代子の頭上で、根本がはぁっ、とため息をつく気配がした。それは明らかにあきれからくるもので、香代子はなにがあきれるようなことなのか、とくってかかりたくなる。
「俺、マネージャーの言ってること全然わけわかんねえよ。つらいときに優しくされたから好きになるって普通のことじゃん」
「私、別に優しくなんてしてない」
「まあ、それはそうだけど……」
すぐに根本が同意した。香代子が由貴也にしたことといえば怒ったり、わめいたり、ときに殴ったりだ。ますます自信がなくなってきた。自分が男だったらこんな女は願い下げだ。
「でも古賀はそこがいいんだろ」
「だから恋じゃないってば。錯覚なの!」
「そもそも恋は錯覚だろ!」
ふたりでぎゃあぎゃあと熱い恋愛談義を繰り広げていると、いつのまにか真美がそこに立っていた。目に涙を溜め、それでも気丈に香代子をにらんでいる。
「に、逃げるんですか!」
蚊の鳴くような真美の怒鳴り声だった。人に反抗し慣れていないのがよくわかる。真美の薄い肩が細かく震えていた。
「会わないで帰るなんて香代子先輩は卑怯です!」
真美の精一杯の大声に、香代子のみならず根本でさえも面食らっていた。
「古賀先輩は会いたいなんて言ったことありません。でも先輩、練習をすごくがんばって大会ではいつも客席を見てた!」
客席を見る由貴也の姿が脳裏に浮かぶ。いつもと変わらない無表情で、けれども瞳に切実な色を宿して彼は立っている。一体何を、誰を探して――……。
「試合も一回も見に来ないくせに、なにも知らないくせに、ひとりで勝手にいろいろ考えて、逃げるなんてずるいです!」
真美の渾身の一撃に返す言葉がなかった。自分は確かに卑怯でずるい。由貴也のためだという大義名分をたてて、彼から遠ざかっていた。錯覚だとすべてを決めつけて、自分の中に眠る想いにも、彼の想いにも向き合わないようにしていた。
自分を責め立てるように蝉が鳴いていた。
「古賀先輩は――」
そこでまるで糸が切れたように真美が顔をくしゃりと歪めて泣き始めた。真美の中で泣いてはいけないという思いと涙が拮抗しているのがわかる。奥歯を食いしばり、自分を奮い立たせているようだった。
「古賀先輩は、保健室に入ってきた私に『先輩?』って言ったんです」
先輩――それはかつて由貴也が死ぬほど好きだった巴に使われる呼称ではない。熱が出て、真美を誰かと見間違えるぐらい意識が朦朧としていて、その夢うつつの状態で由貴也が呼んだのは巴ではなかった。
「これでもまだ錯覚?」
かたわらの根本がにやりと笑った。香代子は返す言葉が見あたらず、ただうつむくしかなかった。