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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
51/127

最後の一日・前編

『かざす花』『初恋の君へ』読了推奨。卒業式。

 卒業式の日は桜どころか名残雪が降っていた。山奥のこの学院では珍しくもないことで、まだまだ春遠い。

 まだ一般の生徒が登校するには早く、寮から校舎へ続く道はただしんしんと雪が積もる。巴は白く染まる歩道に足跡をつけて歩きながら、こうしてこの道を歩くのはこれで最後だと思った。

「巴」

 耳によく馴染む声に背後から呼び止められ、振り向く。悪天候のためにまだ点いたままの外灯が彼の姿を照らす。予想通りの人物に巴はゆるく微笑んだ。

「おはよう、壮司」

 巴のあいさつに、長い丈のコートに身を包んだ壮司もわずかに目元をゆるめる。壮司のコートは祖母が卒業祝いにスーツ一式とともに贈ったものだった。仕立てのいい、すっかり大人向けのものだ。

「早いな。ちゃんと寝てるのかよ。昨日も遅くまで起きてたんだろ」

 壮司が向かい合ってまじまじと顔をのぞきこんでくる。こちらの顔色を見ているのだろう。

「寝ている。今体調を崩したら元も子もないからな」

 なんとなく照れくさくて、巴はぶっきらぼうに答える。巴の顔を見るたびにあれこれ心配される状況に、お前は私の父親か、と言いたくなる。

 巴はすべての入試を終えたものの、第一志望の国立大学の合否だけまだわかっていない。すでに私大から合格通知をもらっていたが、明日の合格発表で国立大が落ちていた場合は後期試験に向かう。まだ受験生で、勉強に手を抜くわけにはいかなかった。

 医学部の壁は並大抵の努力では打ち破れない。多浪が珍しくない医学部受験だが、祖母に『浪人は許しません』とはっきり昨年の春先に告げられていた。現役合格のため、空いた時間を一分一秒たりとも逃さないように勉強してきた。

 もっとも莫大な授業料がかかる私立医大に行ってもいいと言われたことだけで、過ぎるほど巴は恵まれている。

「壮司」

 靴底が新雪を踏みしめる。ざくざくと三歩ほど歩いてから、壮司が「何だ」と答えた。白い息が雪に混ざって消える。

「……クリスマスもバレンタインもなにもできなかったな。ごめん」

 イベントらしいイベントをしたのは夏休み最後の壮司の誕生日を祝ったのが最後だ。それからは加熱する受験勉強に追われて何もできなかった。とはいえ、クリスマスもバレンタインも冬休みと自由登校期間で家にいたが、あの家で横文字の行事はなきに等しかった。

 これから何もなしにしよう、と言ってきたのはすでに秋で受験を終えていた壮司の方だった。受験に追われているこちらを慮ってのことだろう。恋人同士になって以来、初めて迎える冬のイベントだったが、受験で手一杯な巴は正直有り難かった。

 壮司は足を止め、やや怪訝な顔でこちらを見てきた。そんなこと気にしてたのか、という顔つきだった。

「……また来年な」

 頭に壮司の大きな手が乗せられた。その優しい手のひらに申し訳なさが胸をつく。

 一月末の巴の誕生日の夜、予備校から帰ると自室の文机の上にプレゼントが置いてあった。去年のマフラーに続き今度は手袋で、その壮司らしい芸のなさに笑った。うれしい反面、一方的に自分だけが祝ってもらった状態がたまらなく不公平に感じた。

 雪が強くなってきて壮司が手持ちの傘を開いた。と同時に肩を抱きよせられる。

「ほら入れ。風邪ひいたらどうすんだ」

 巴は口をつぐんで傘の柄を握る壮司の手を見た。最近の彼は過保護極まりない。

「……傘ぐらい自分のを持っている」

 相合い傘が気恥ずかしくてカバンから折りたたみ傘をとりだそうとした手を今度はつかまれる。そのまま壮司のコートのポケットに突っ込まれた。

 絶句している巴をよそに、壮司は「冷てえ手だな。手袋はどうした」とのんきにつぶやいていた。

 巴は赤面しているのを感じながら、彼に噛みつくように叫んだ。

「離せっ。誰かに見られたらどうする!」

「まだ誰も通らねえよ」

 平然と壮司は言ってのけ、「それに」と続けた。

「最後だろ。言うこときけ」

 最後。認識していたはずのことを、今壮司の言葉で改めて重く感じる。中学からの六年間が今日で終わる。大きな六年間だった。ここに来た当初十二歳だった自分はもっと大人を憎んでいて、生意気な子供だった。たぶん今の光景は六年間に描いたどんな未来とも違っていて、どんな未来よりもきっと幸せだ。

 最後という言葉にほだされて、自分は積極的に壮司の手も解けず、それどころか最後だからといういいわけをつけて体を少しだけ壮司の方に寄せた。分厚いコートに阻まれて、人肌の温もりなど感じるべくもないが、それでも壮司と触れ合っているところが温かい気がした。

「ひゃあ! 冷たいーっ」

「ばかっ。声出すな、芙美花!」

 穏やかな気持ちが胸に満ちた瞬間、それに浸る暇もなく背後からの奇っ怪な声と積もった雪が落下する音に雰囲気を跡形もなく壊された。

 自分と壮司は弾かれたように身を離し、瞬時に後ろを確認した。

 歩道の脇に植わっている針葉樹からぱらぱらと落雪の残滓である粉雪が舞っている。その下で芙美花と健一郎が雪の下敷きになって、折り重なるようにうつぶせに横たわっていた。

「……えへへ、おはよう」

 ばつの悪さをごまかすようにへらっと笑い、芙美花が力なく片手を上げた。

「お前ら、そこで何してたんだ」

 低く問いかけたのは壮司の方だった。そんな歩道外の木の下で、こちらに声をかけずに何をしてたかなど聞くまでもない。

 こっそり覗いていたのだ。芙美花はともかく健一郎までもが。

「不動、お前めろめろだな。見てるこっちが恥ずかしくなる」

 健一郎が芙美花に手を貸し、雪の中から起き上がりながら苦笑する。巴は我に帰ったような気になり、二の句を継げずにいた。かたわらの壮司はといえば正面の彼らから顔を背けて、どことなく赤くなり、ぼそっとつぶやく。

「……めろめろで悪いかよ」

 どことなくやけになった感すらある壮司の言葉に、巴は羞恥よりも先に驚きに目が点になった。あの朴念仁の壮司が『めろめろ』。耳を疑いたくなる。

「てめえ、開き直んなっ。気持ち悪い!」

 即座に反応したのは健一郎だった。からかってやろうとしたらとんでもないものを引き上げてしまった、という顔をしている。これは壮司の強烈なのろけなのだろう。聞きたくもない。

「うるせえ! お前だってこの指輪はなんだ。色気づきやがって」

 壮司が今度は反撃に移り、健一郎の左手を引っ張り出す。その薬指にはごくシンプルな銀色の指輪がはまっている。今は手袋に包まれている芙美花の指にも同じものがあるのは想像に難くなかった。

「クリスマスに買ったんだよ。うらやましいか!」

 負けじと健一郎は壮司に見せつけるように左手を掲げる。壮司は「うらやましくねえよ!」と答えながらも言葉の歯切れが悪かった。仮に巴と壮司がペアリングを買って日常的につけでもしたら、祖母にすぐに外せと言われるだろう。僧侶には結婚指輪の交換という習慣はなく、そもそも学生の身分でそんなものはまだ早いと言われる。

 幼稚なのろけ合戦を過熱させていく男二人に芙美花が「やめなよぉ」と声をかける。こういうとき意外と分別のある行動をとるのは芙美花だったりする。だが自由登校中に溜まっていた鬱憤を晴らすようにふたりはわめいていた。

「壮司」

 羞恥心がひっくり返り、冷たい声音となって表れた。

「黙れ」

 壮司を見据えて冷たく言うと、健一郎まで動きを止めた。水を打ったような沈黙が落ちる。

 自分の言葉によって体感気温が二度も三度も下がったのがわかったが、巴は三人に背を向けて歩き出す。そろそろ我慢の限界だった。

 視界の端で動きを固めている男二人と、追いかけてくる芙美花が見えた。巴は歩調を早めるが、芙美花に「待って!」と腕をつかまれた。

「ごめん、巴。怒った? もうめろめろとか言わないから」

「怒ってなどいない」

 巴は顔を芙美花から極力反らしながら早足で歩き続ける。芙美花をやり過ごしたかった。

「ほんとにごめ――」

 それでもなお謝り続ける芙美花の言葉が不自然に切れる。瞳だけ動かして彼女の様子をうかがうと、芙美花は巴の顔をまじまじと見て、笑みが溶け出すようににやーと笑った。あわてて瞳をそらしてももう遅い。

「巴、顔が真っ赤だよ?」

 ふふ、と芙美花が体をかすかに揺らして微笑み、腕に体を巻きつけてきた。

「不動くん、巴がかわいくて仕方ないって感じだね」

 歌うように話す芙美花に、苦しまぎれに「腕を離せ」と言う。顔が熱く、赤面していることは否定できない。

 壮司とはつきあって一年ほどになるが、いまだに巴は壮司の視線の熱っぽさに慣れない。十数年にも及ぶ恋人とも家族ともつかない期間があったので、どうしても照れくささを感じてしまう。

「巴、かわいい」

 羽毛のように軽く笑った芙美花には健一郎の言った彼女たち自身ののろけ話に対しては特に感じ入るところはないようだった。彼女たちは中学時代からの交際だという。この動揺のなさは年月の長さが為せるわざか。

 芙美花のように平然と痴話を聞いていられるようになるのはいつのことか、と取り乱す自分を情けなく思い、ため息をついた。








「なあ、マネージャーは古賀に告白しないのかよ?」

 卒業式前のひととき。ホームルームが終了し、式まで自由に過ごしていたときだった。

 受験という重荷がとれ、晴れ晴れとしたクラスでは久しぶりに会う友人たちと談笑する様子がそこここに見られる。窓からは在校生が大講堂に移動する姿が見えた。

 香代子も席が近い哲士と部活の同級生たちの近況について話していたら、理系棟から根本がやって来て話に加わったわけである。

 その根本が発した一言がそれだった。

「ななななんで知ってんのよっ!?」

 何の脈絡もなく出された言葉に香代子はすさまじく動揺した。香代子は友達にも、哲士を除き部活の誰一人にも由貴也が好きだとは言っていない。部活動中も決して公私混同はしまいと、恋愛感情を隠し続けていた。

「見てればわかるし。マネージャーがあいつのこと好きなことぐらい」

 根本は平然と言ってのけ、さらには哲士に「なあ、部長?」と同意を求めた。

 根本のこの行動には、香代子は心中穏やかではなかった。けれども哲士は香代子のそんな心情とは裏腹に「そうだな」と微笑すら添えて答える。

 それを見て自分の思い上がりに恥じた。哲士の表情はまったくもって平静そのものだった。

 香代子は一瞬、哲士がまだ自分のことを好きだったらどうしよう、と考えてしまったのだ。

 哲士には四月の大会前に告白された。けれども哲士をそこに至らせた理由が不純――由貴也を刺激するためだったので返事は保留して欲しいと言われたのだった。

 そのうち正式に告白すると言われたが、引退後は受験でそれどころではなく、しかも教師たちに受験に恋愛はご法度だとくどいほど釘をさされていたのだ。

 とはいえ、香代子と哲士は学部は違うものの同じ大学に進学しそうだった。まだ結果は出ていないが、センター試験はまずまずだったし、自己採点を元に出した判定ではA判定に近いB判定で、二次試験でもお互い大きな失敗をしなかった。

 つまり哲士とのつきあいはこの先も続いていく。だから哲士はあせる必要がないのかもしれないし、そもそも香代子のことなどもう好きではないかもしれない。

 まったく自意識過剰だ。哲士はあれ以来香代子に気がある言葉もそぶりも見せたことがない。

「私、そんなにわかりやすかった……?」

 いい加減哲士から意識を切り離して根本に尋ねる。根本は「あー……うん、まあ」と歯切れの悪い返事を返してきた。その言葉に頭を殴られた気分になる。真美しか見えてなさそうな根本にまでばれてるとは相当だ。穴があったら入りたい。

「いいじゃん、ばれてても。古賀とマネージャー、結構いい組み合わせじゃねえ、って話してたんだよ」

 なっ、とまた根本は哲士に同調を求めた。哲士はまたしても表情を微笑みから変えずに「そうだな」と答えた。

「今日告白しなくていいのかよ。今だってもうあいつに告白の列ができてんじゃねえの」

 根本は身を乗り出して香代子に迫る。その距離の近さに香代子は思わず身を引いた。

 由貴也は色んな噂を撒き散らしてはいるが、基本的には学院の王子だ。その座は不動のものでおそらく後一年、彼が卒業するまでそのままだろう。きっと来年由貴也が卒業する時にはもっとたくさんの女の子が彼に好きだと言うのだ。

 そしてそこに自分はいない。

「だって今さらでしょ。向こうは私が好きだって知ってるし……」

 香代子はもごもごと口を動かした。香代子は俗に言う“恋バナ”というのが大の苦手だ。恥ずかしくてしかたない。

「それに告白してどうするのよ」

「どうするってOKだったらつきあえばいいじゃん」

 あっからかんとしている根本に思わず香代子は息をついた。簡単に言うが、現実はそう単純ではない。向こうは高校生、こっちは大学生。しかも由貴也は全寮制のこんな山奥にいて、運動部に拘束される身だ。

 哲士が香代子の心中を汲み取ったように「つきあうっていうのはマメじゃないと続かないだろ」と言った。マメと由貴也は一番結びつかない。

「や、でもほら、今告白しとかないと後悔すると思うんだ俺は!」

 由貴也がマメではないというのは根本にも否定できなかったらしい。彼は取り繕うように明るく言葉を継いだ。

 なんだか根本が不自然に思えてきた。やけに香代子をやる気にさせようとしている。哲士も同じことに気がついたのか目を伏せてふっと笑ってみせた。

「じゃあ根本も小野さんに告白しないとな」

 言葉だけ聞くとなんてことないのに、哲士の言いようにはどことなく含みがあった。そういえば根本も盛大に顔をひきつらせて笑っている。

 なにかをごまかすような笑みにピンときた。根本が好きな真美が見ているのは由貴也だけ。その由貴也に恋心を抱いているのは自分。この多角関係を打ち破るにはどこを切ればいいかなど考えるまでもない。

「根本。アンタ私のこと焚きつけてどうするつもり?」

 香代子はじとりと根本を見つめた。目を合わせたとたん、根本はサッと顔ごと反らし、瞳を泳がせる。まったくもってわかりやすい不審者だ。

 なにもたくらんでねえよ、と口の中でもぞもぞとつぶやく根本に、香代子は依然としてうろんげな目線を送り続けた。かたわらの哲士が息を吐くように伏し目がちに笑う。

「マネージャーと古賀がつきあえば小野さんの目が根本の方に向くかもしれないしな」

 いつもより低い声音と相まって、哲士にいつもより濃い影があるように見えた。けれどもそれは一瞬で、顔を上げた哲士にもう翳りはない。気のせいだったのかと思う。

「いや、その……」

 意味をなさない言葉を重ねながらあはは、と根本は虚しい笑みを浮かべた。香代子と由貴也がくっつけば、必然的に真美の恋は成就しなくなる。由貴也にぞっこんな真美の目も覚めるだろう。

「失恋した真美をなぐさめて、そこにつけこむつもりだったんでしょ」

 香代子は腰に手を当て根本に詰め寄った。

 真美は由貴也への想いが断ちきられてしまったらそれはもう泣いてわめいて落ち込むだろう。彼女はその素直さゆえに感情の揺れ幅が大きい。十三歳の彼女には恋の手練手管も、男に対する警戒心もなく、隙だらけだ。失恋で傷ついた心につけいることなど容易い。

 根本はごまかしをあきらめたのか、口を尖らせた。

「だって古賀は後一年真美ちゃんと一緒にいるじゃんか。マネージャーがあいつ捕まえといてくれないと古賀だって真美ちゃんのかわいさにいつふらふらっとなるかわかんないし……」

「ふらふらっとなるときは私がいようといなかろうとお構いなしになるでしょ」

 これから自分たちがいなくなった後の不安を吐露してみせた根本を一蹴する。由貴也につきあおうという口約束など通用しない。彼がもし真美に惚れたならば香代子の存在などもう跡形もなく消えて抑止力など期待しようがないだろう。彼はどこにいても自分のやりたいようにやりたいことをするだけだ。

「根本。お前はもう少しグラウンド以外でも自信を持ってもいいと俺は思うよ」

 根本の目を見据えておだやかに言った哲士はさすが元部長だ。その威力は絶大で、根本は頬を赤らめ「そ、そうかな」と照れていた。確かに根本は走る格闘技と呼ばれる中距離走者の中にあってもインコースとりが抜群にうまかった。他の選手の妨害などものともせずに内側へと躍り出ていく。その姿は自信に満ちていた。

 なんとなくなごやかになった空気になったのを、「せんぱーい!」という幼い声が破る。元気のよすぎる無邪気な声に心臓が飛び出そうになった。ついさっきまで彼女の話をしていた影響だ。

 真美が当然ながら三年生だらけの教室に桃色の頬を上気させながら臆することなく入ってくる。彼女の物怖じのなさ、裏を返すとひたすら自分の興味の向く方へと突っ走っていく姿勢は大したものだった。

「先輩。卒業おめでとうございますっ!」

 にこにこと今日の寒さを吹き飛ばすような真美の声に答えられたのは哲士だけだった。卒業記念品を差し出す真美から優しい手つきで受け取っている。

 香代子と根本はといえば、根本は真美の実物にかける言葉もなく照れ隠しに目を明後日の方へ向けており、香代子はといえば真美に腕をとられて引っ張られてきた由貴也を見て動悸が激しくなった。

 あくびを噛み殺してぼさっと立っている由貴也は背が伸びた。華奢だった体は短距離選手の平均よりはまだ細いけれど少ししっかりしたものへ変わっている。

 肝心な顔が見れなかった。部活を引退してから九ヶ月。由貴也と会わなかった。会わないようにしてきた。それに直前まで根本としていた告白云々という話が由貴也への直視を難しくしていた。

 たがいに「男らしく告白しなよ」「マネージャーが先にしろよ」と小声で言い合いながら、根本とふたりでもじもじとしていた。真美がクレッションマークをつけながら首を傾げている。

 香代子と根本の埒のあかないやりとりを破ったのはやはり哲士だった。

「古賀。ネクタイは?」

 哲士がゆったりと尋ねて、香代子は反射的に由貴也の方を見てしまった。相変わらずのまぶしいほどの端整な顔をしている。けれども少しずつ顔を構成するパーツの輪郭が鋭くなった気がした。あごの線やまなじり、鼻梁などがシャープになって、全体的に大人びた。胸が激しく鼓動を打つ。由貴也は香代子の心中など知るよしもなく平然と視線を受け止めてから、ポケットの中をあさってネクタイを取り出した。

「式典なんだから身なりはしっかりしような」

 哲士のいう通り、今日も由貴也はゆるゆるだった。ワイシャツの上にブレザーを羽織っただけの姿で、ブレザーのボタンはもちろん、ワイシャツも第二ボタンまで開いていた。

 だらしないといつもの香代子なら顔をしかめるところだけれど、不思議と由貴也だとそのゆるめ具合も一種のスタイルのように見えるから不思議だ。顔がいいと何を着ても似合うというのは本当のようだ。

「ネクタイ嫌いなんですもん」

 子供じみた口調で言って、由貴也がさっさとネクタイをしまおうとする。けれどその手を哲士がすばやくつかんだ。

 由貴也に顔を近づけて、哲士が笑う。近すぎる距離に由貴也の顔に影が落ちた。

「俺が結んでやろうか」

 哲士のおかしな申し出に由貴也はもちろん嫌そうな顔をした。いつ見ても由貴也がネクタイを着用している姿など見たことがない。相当ネクタイが嫌いなのだろう。

 そもそも哲士がこんなことを申し出る方がおかしいのだ。哲士は由貴也に何かと注意はするけれど、必要以上に手を貸すことはない。

「最後なんだから言うこと聞くよな?」

 由貴也の意志などお構いなしに哲士はネクタイを手に取り、有無を言わせないような微笑を浮かべた。言い知れぬ威圧感が彼から漂っている気がする。

 なんだか妙な哲士に言葉もかけられず、その内に彼は淡々とした手つきでネクタイを由貴也の襟に通し――次の瞬間思いっきり結んだ。間一髪で不穏な哲士の雰囲気を察したのか由貴也が哲士の腕をつかむ。ネクタイが軋んだ。明らかに哲士は力の入れすぎだ。

 由貴也が半眼でなおもさわやかに微笑む哲士を見やった。

「……アンタ、俺のこと絞め殺す気ですか」

「悪いな。めったにネクタイなんて結ばないから加減がこう、なかなかわからなくて……」

 言いながらも普通科学生服の哲士はぎゅうぎゅうとネクタイを絞めていた。それを阻止せんと由貴也が哲士の手をネクタイから外させようとする。その攻防にキリキリとと二人の間のネクタイが悲鳴を上げた。

 哲士らしくない行動にあっけにとられて彼を見ていた。哲士はノリは悪くないが、積極的にウケを狙ったり、誰かをいじるような人物ではない。いや、今の状態はいじるを通り越して薄ら寒いものを感じる。

「ぶ、部長……?」

 とりあえず制止の意味で呼んでみるが、哲士は能面のような笑みを崩さず、相変わらず由貴也とネクタイの取り合いをしている。笑っているのに目が笑っていない。そう思えばこめかみに青筋が浮いている。――哲士は怒っている。

「そんなに俺のことぶっ殺したいんですか」

「当たり前だろ」

「アンタ性格悪いでしょ、本当は」

 悪びれもせずにさらりと答える哲士はある意味由貴也よりタチが悪いかもしれない。いかにも快活な好青年の笑みを浮かべて、まったくよろしくない行動をとる。

 いつもと違いすぎる哲士に、ぽかんと遠巻きに見つめていた根本が我に帰ったのか、興奮ぎみに香代子に耳打ちしてきた。

「なあ、部長って実は……」

 意図的に根本が濁したセリフの先を読みとって、香代子は顔に熱が集まってくるのを感じた。

 ひょっこりと現れた由貴也に怒る哲士。ただそこにいただけの由貴也には怒りをぶつけられる要素がない。とすると直前の根本と香代子が話していた告白の話題が無関係だと言えないはずだ。根本と香代子の会話の最中に時折見せた絶妙な口のはさみ方は意図してのことか。

「そうか。部長がライバルっていうのはちょっとキツいなあ」

 隣でしたり顔でうなる根本に香代子は思わず「えっ?」とまぬけな声を漏らした。構わず根本がさらに眉根を寄せて続ける。

「まさか部長も真美ちゃんが好きだとは思わなかった」

 困った、とまったくもって見当違いの杞憂をする根本に、香代子は脱力した。まさかその方向に根本の思考が飛ぶとは思わなかった。どこまでいっても根本の思考というのは真美一色なのだ。

 なんだかどっと疲れて、香代子は椅子に座って深くため息をついた。まだ由貴也と哲士はネクタイの取り合いをしているし、真美は事情を飲み込めなくてきょとんとしている。根本は真剣に哲士対策を渋い顔で考えているようだった。

 この集団は一体何なのか。香代子は今日が最後という感慨も忘れ、一刻も早く卒業したいと思った。

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