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初恋の君へ  作者: ななえ
本編
5/127

05

 由貴也が入部してから一週間が経った。

 電波つきとはいえ、学院の王子、由貴也の入部に陸上部は浮き足だった。それに由貴也は県の記録を保持する実力者だ。注目を集めないはずがない。

 当の本人は実に淡々としていた。注目の的になっている自覚があるのかないのか、自らの種目である百メートル走を黙々と走っていた。

 由貴也はやはり速かった。ブランクはあるものの現役部員と比べても見劣りはしない。彼の存在は部員たちのいい刺激になっていた。

 彼は一年生がやるべき雑用を任せればうまくできないやりにやろうとする。先輩から注意されたことも素直に聞いている。ただ部員たちの雑談やバカ騒ぎには一切関わりあいになろうとしなかった。

 それが由貴也の元々の性格でもあるのだろう。見るからに由貴也は非社交的で排他的だ。

 頑なに他との交わりを拒む由貴也に部員は肩をすくめていた。

「あ、待って!」

 いつものように練習の準備をしようと、倉庫で用具を出していると、後ろを由貴也が通りかかった。彼も放課後の練習のために、部室へ向かうところようだった。

 香代子が呼び止めたにもかかわらず、由貴也はすたすたと歩を進める。華麗なる無視だ。まったくもっていい度胸だ。

「待ってって言ってるでしょ!」

 まったく歩みを止めようとしない由貴也の首根っこをつかむ。さすがの由貴也も首がしまり、足を止めざるえなかったようだ。それから相変わらずぼさっとした顔でこちらを見た。

「頼みたいことがあるの!」

 由貴也を前にすると耳が遠い老人に話しかけている気分になる。ついつい声を張り上げてしまう。なんとなく存在が遠いのだ。

「……俺?」

 あたりには由貴也以外いないというのに、依然として寝ぼけたことを言っている。この分では最初に呼びかけも自身に向けられたものだとは思ってないのだろう。

「そうだよ」

 由貴也との会話は疲れる。恐ろしく遠回りになるか、恐ろしく短絡的になるかどちらかだ。

「今月の活動予定表を生徒会室に持ってってくれる? 予定表は部長が持ってるから」

 自分でも世話焼きだと思う。こんな雑用、わざわざ由貴也に頼むまでもないのだ。それでも部員と少しでもコミュニケーションをとって欲しくて、そのきっかけになればと思っていた。

 由貴也は癖なのか無言でうなずく。

「返事は口でして」

 自分の口うるささももう癖だ。歳の離れた兄弟の母親代わりをしているうちにこうなってしまった。

「……はい」

 由貴也はいつも通りの無表情で返事をした。

 この小言に顔をしかめないのは由貴也ぐらいなものだ。皆、苦笑しながら香代子のやかましさを受け流している。もっとも由貴也は受け流すどころか、人の話の半分も聞いていないかもしれない。

 由貴也がふたたび歩き始めたのを見送り、香代子も作業を再開する。

 まったく、由貴也は見ていると不安になってしょうがない。いつもぼんやりとしていて、どこをとらえているかわからない目をしている。生命力は間違えなく低そうだ。

 そのくせ、あがらいようのない存在感を持っている。ついつい視線が由貴也に行く。だからおせっかいをしたくなってしまうのだ。

 最初は必要以上にかかわり合いにはなりたくないと思っていたのに、と香代子は人知れずため息をついた。

 香代子の後ろを練習着に着替えた部員たちが続々と通っていく。「こんちはー」「お疲れっす」と軽いあいさつを投げかけてくる。香代子もそれに気軽に答えた。

 陸上部に女子部員が絶えて久しい。この学院は男子が多い。その上、普通科の部活加入率は、高い進学率に比例して低い。

 残された芸術科、家政科、英語科などの特別科は基本的に部活をしない傾向にある。立志院の部活動の主力たるスポーツクラスには陸上で入ってきた生徒はいない。

 したがって、陸上部には女子が集まりづらかった。

 部員たちが思い思いにグラウンドに広がり始めた頃、由貴也が生徒会室から帰ってきた。

「行ってきてくれたの? どうもありがとう」

 スポーツドリンクを作る手を休めて由貴也に顔を向けた。

 瞬間、体が凍りついた。

 うつむきがちの由貴也の顔には夕暮れも相まって濃い影が落ちている。闇の奥からこちらを見る彼の瞳は、そこだけ灯りが当たったように鈍く光っていた。

 夕陽の中、美しく獰猛な獣が闊歩しているようだった。鳥肌が立つほどおそろしく、綺麗な光景だった。

 ゾッとした。おおげさではなく、彼は殺気だっていた。

 こちらに物騒な一瞥を与えただけで、由貴也は去っていく。彼の姿が完全に消えた後でも、心臓がやかましく鼓動を打っていた。

 恐怖をやわらげるために胸の前で使っていた布巾をきつく握る。手が小刻みに震えた。

 何なのかあれは。別人としか思えないほどの豹変ぶりだった。いやでも別人ではない。香代子さえもうならせるほどの美形がふたりといてたまるか。

 だいぶ思考が混乱している。陸上部の男たちを一手にまとめるこの自分が動揺している。

 彼は一体何者なのか。ぼさっとしていて協調性など皆無で、いつも現実と膜一枚隔てたところに住んでいるのが由貴也という人物だ。

 あれは由貴也だという考えてを頭が否定する。あんな二重人格のような変わり方、普通の人間はできない。

「マネージャー。タイム計ってくんねー!?」

 グラウンドの端から部員が叫んでいる。

 その声であたりがサッと明るくなる。由貴也の及ぼした影響が薄れていく。

「あ、はーい!」

 返事をしながらストップウォッチをジャージのポケットからとりだして、駆け出す。

 香代子を呼んでいたのは部長だった。

 あ、と思う。

 今月の活動予定表を生徒会室に――。

 由貴也が行ってきた生徒会室にはあの人がいる。彼が失恋した生徒会副会長、古賀 巴が。

 すさまじいほどの荒れようはそのことが関係しているとしか思えなかった。

 恋にうつつを抜かす人間は香代子のもっとも嫌うところだ。しかし、いつものように失恋ごときで情けない男、とは思えなかった。

 ただ見てはいけない由貴也の深淵をのぞいてしまった気がしてしかたなかった。


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