君に贈る歌
香代子高三、引退後一ヶ月。送別会にて。
入口の自動ドアをくぐった瞬間冷気が全身を包み、生き返った心地になる。エアコンの冷たい空気とともに流れ込んできた中のエコーのかかってぼやけた歌声が外の蝉の声をかき消す。夏休み初日の今日、カラオケボックスは混んでいた。
「十八人です。はい、パーティールームで」
カウンターで部屋をとる真美を横目に、香代子はひとりで曇天を背負ったように憂鬱だった。カラオケボックスに来るともはや条件反射のようにこうなる。
引退から一月ほどたった今日、香代子たち三年生は部の後輩たちに送別会を開いてもらっていた。焼肉からカラオケというのが毎年恒例のコースで、今日も汗と焼肉臭さをまとい、カラオケへやって来たのである。
高地で涼しい立志院から夏真っ盛りの平地に降りてきて、この暑さに対する不快感もさることながら、カラオケの楽しそうな歌声が香代子を暗くさせた。
「マネージャー、暗いじゃん」
根本に気安く肩を叩かれる。そのこれから歌うことに関して何の憂いもない姿が憎くすらあった。
「誰のせいだと思ってんのよ……」
香代子はとげとげしく根本に答える。香代子の憂鬱の種は根本が植えつけたのだ。
香代子が通っていた中学のある地域はいなかで、カラオケボックスなど車で行かなければいけない隣町にしかなかった。その上、シングルマザーの母と、幼い弟妹を抱えた香代子に遊ぶ暇はなく、家のことに忙殺されていた。
そういうわけで高校一年生のとき、香代子は初めて先輩たちの送別会でカラオケに行くこととなった。自分の歌を披露することにためらいのあった香代子はなるべく気配を消して隅に座っていたけれども、下級生として先輩に歌え、と言われては断れもしない。それが送別会の主役である三年生からではなおさらだ。男子ばっかりのところに華を添えて、とポップなラブソングを冗談半分で入れられ、そして盛大に音をはずしたのである。
先輩、同級生のひきつった顔をおそらく一生忘れないだろう。なぐさめを送る彼らの痛々しい優しさをぶち壊したのは根本である。香代子のあまりの音痴ぶりをギャグだと思ったらしく、「マネージャー、ひどすぎ」と笑って見せたのである。場は凍り、十六歳の今よりずっとナイーブだった香代子の胸にもう二度と歌うものか、という執念にも似た決意が打ち立てられることとなった。
「私はボーリングにしようっていったのに」
香代子は恨みがましく根本に目をやる。たまにはボーリングにしない? という香代子の提案を断固として受け入れなかったのは根本であった。それ以前に陸上部の面々は球技が下手なのだ。特にランナーと言われる選手たちは輪をかけて球技を苦手としている。それは重心が大きく関係していて、走るとき重心はなるべく高く持ってくるが、球技は反対に腰を落とす競技が多い。ボーリングもしかりだ。陸上部でボーリングに行くとガーター連発だろう。
根本は「まだ気にしてんの、あのときのこと。ごめんって」と悪びれもせずに謝って、つと距離をつめた。おもむろに近づいてきた根本にいつもの妖しげに光が瞳に宿る。それが根本の悪だくみの気配をいち早く伝えた。
「――マネージャーは古賀がどんな曲歌うか聞きたくないのかよ」
思わぬところをつかれて「えっ?」と聞き返す。由貴也が歌うことなど考えたこともなかった。
「だって歌わないでしょ、だってあの電波王子じゃない」
期待とか、興味とかを横において香代子はともかく現実的な答えを返す。当の本人へ目を向けると、相変わらずぼーとした顔つきでドリンクバーを見ている。走ることとお菓子を食べることしか興味がないあの由貴也から歌声を引き出すことなど不可能に思えた。
「そこを三年生の権力で歌わすんだよ。俺、この日のためにボイスレコーダー買ったんだ」
根本の瞳に光る商魂の星に、香代子は脱力した。また由貴也親衛隊に売るのだろう。
またケンカになるよ、と言っても根本は聞かず、スキップしそうな勢いでパーティールームに向かった。仲がいいやら悪いやらだ。根本は由貴也に構うことを楽しんでいる節がある。
パーティールームに入り、楕円形のテーブルにつく。後輩の誰かがほどよく照明を落とし、歌う準備を整える。緊張が高まってきた。
「先輩方、どうぞ!」
後輩が曲の予約機をこちらのテーブルに回してくる。三年生が主役であるのだから、当たり前の配慮であった。
香代子が歌わない言いわけを考える前に根本が横合いから目にも止まらぬ早さで予約機を由貴也へ押しつけた。由貴也はといえば、さっそくドリンクバーの飲み物をとりにいこうとしているところだった。
「古賀、歌え!」
有無を言わさぬ態度で根本が由貴也に言葉を突きつける。由貴也相手にこうも物怖じせずに言えるのは根本ぐらいのものだろう。
相手が学院一の美形で変人・古賀 由貴也であることから、部員一同が彼の反応を興味津々でうかがっていた。予約機は二台あるけれども、誰ももう一台で曲を入れようとはしない。
皆の視線を一心に集める中、由貴也はコップを持ったままじっと根本と予約機を見た。表情はいつも通りどこか眠たそうで、内心がうかがい知れない。いつのまにか部員全員が息を飲んで見守りすぎて、パーティールーム内は水をうったように静まり返っていた。
当人の由貴也だけがそんな沈黙を意に返さず、軽やかな動きでソファーにストンと座り、予約機をいじり始めた。この予想外の行動に香代子のみならず哲士も、言い出した本人である根本さえも「歌うのかよっ!?」と声をそろえてつっこみを入れた。
由貴也はといえばこちらの驚きを丸無視し、最初から歌うことを前提としていたかのように早々に曲を選び終えて送信する。すぐにテレビ画面が演奏モードに切り替わる。
あっけにとられていたまわりも我に帰り、わたわたと「マイクマイク」とあわただしく動きだす。一年生のひとりが由貴也にうやうやしくマイクを手渡した。明度の低い明かりのもと、銀色のマイクが鈍く光る。香代子の隣に座る真美の瞳も、これ以上なく期待に輝いていた。
前奏が流れ始めたのを合図に、由貴也がおもむろに立ち上がる。表情は依然として無表情だけれども、ひょっとしてノリノリなのかもしれない。いろいろな意味で由貴也からもう目が離せない。
やがて一昔前の歌謡曲のような鄙びたメロディとともに、テレビ画面に曲名がでかでかと映し出される。
『全国津々浦々銘菓リレー』
パーティールームの全員が目を見開いた瞬間だった。
「まずは北国、言わずと知れた白いチョコー」
衝撃から立ち直る前にAメロが始まっていた。由貴也は表情ひとつ変えず、けれどもよどみなく彼の歌声にのって『全国津々浦々銘菓リレー』は確実に南下していく。
香代子はもう何も言う気になれず、ただひとつ息をつく。哲士は苦笑いし、真美は呆然と口を小さく開いたままで、根本は――根本はわなわなと震えていた。
「お前それかよっ!! しかもなにげに上手いし!」
根本の絶妙な突っ込みにどっと笑いがおこる。由貴也はどこまでいっても由貴也だった。
由貴也は全国の銘菓を制覇した後、次々とお菓子のCMソングを熱唱していった。お菓子を主題にしている曲ならば昔なつかしから最新曲までびっくりするほど豊富なレパートリーだった。
「お前はどこの製菓会社の廻し者だよ! 貸せっ、俺が歌う」
耐えきれなくなった根本にマイクを奪われ、由貴也のお菓子ロードはやっと終わりを告げた。由貴也は「まだポップンロールチョコのCMソングがあるんですけど」とややすね気味につぶやいていて、不覚にもちょっと子供じみていてかわいいと思ってしまった。
由貴也のお菓子攻めが終わったと思ったら、今度は根本が柄にもなくしっとりとしたラブバラードを歌い始めた。どういう風の吹きまわしかと思いきや、根本の視線は一心に真美にそそがれていて、そのまま切々と片想いのつらさを歌っていた。真剣そのものの根本には悪いけれども怖気が走る。しかも真美は「ちょっとおトイレ行ってきます」と根本の視線を見事になまでに素通りしていった。
「根本、気色悪い」
真美不在のまま一曲終え、思わず本音が口をつく。このままだと気持ち悪さが致死量に達しそうだ。自身を客観視できない根本は無自覚で、「マジで? 俺ってキモい?」と、うろたえていた。
けっきょく、真美が帰ってくる頃には根本はいつものロック系になり、シャウトしまくっていた。
「根本、やかましい」
根本の叫びが五曲目に達したとき、哲士がこれ以上なくさわやかに笑って言葉の槍を根本に躊躇なく突き刺した。笑顔で相手をバッサリと斬ることに関して哲士の右に出る者はいない。それでも香代子と違って哲士は五曲もの間耐えたのだから、自分よりもよっぽど忍耐力がある。
「部長、俺のソウルフルな叫びをやかましいとか、ちょっとひど……」
あからさまにショックを受けた顔の根本を哲士は黙殺し、「小野さんもよかったら曲入れて」と真美に予約機を回した。ここで香代子に勧めない哲士の優しさがこの上なくありがたい。
「じゃあ入れさせてもらいますね」
真美は無邪気に微笑んで、最近ヒットした女性アーティストの曲を入れた。同時に哲士がもう一台の予約機で容赦なく根本の曲を中止させる。
すぐさま画面は中高生にカリスマ的人気を誇るアーティストのポップなプロモーションビデオに切り替わる。
真美の歌声は幼いながらも甘い曲調によくあっていた。香代子はひそかに衝撃を受け、これじゃあますます歌えないな、と思った。歌まで音痴なんて自分はどこまでも“女子的ポイント”を押さえていない。由貴也の前であんなヘタクソな歌など歌えるはずがない。
真美の曲が終わり、疾走感のあふれるイントロが流れ始めた。香代子でも知っている清涼飲料のCMソングに起用された曲だった。
「あ、俺だ」
手を挙げた哲士に、近くにいた後輩がマイクを渡す。それを受けとりながら「マイクもうひとつとって」と言っていた。
誰かとデュエットでもするのかと疑問に思っているうちに、マイクがいつの間にか目の前にあった。驚いて顔を上げると哲士が香代子にマイクを差し出していた。
「マネージャーもいっしょに歌おう」
優しさの塊のような哲士の笑顔にも、香代子は「私っ、ムリだよ!」とあわてて顔の前で手を振る。けれども哲士のペースにのせられ、マイクを握らされる。すかさず部員の中から冷やかしの声が上がっていたたまれなくなる。今すぐ逃げ出したい。
無情にも曲が始まる。香代子は仕方なくぼそぼそと歌った。
「マネージャー、なにかわいこぶってんだよっ!?」
部員の中からヤジに近い声が上がる。とっさにマイクを持ったまま「うるさいっ!」と返す。しまった、と思ったときにはもう遅く、キーンと耳を塞ぎたくなる音がパーティールームに響いた。
室内の混乱を見てとって困りきり、もう無理と哲士を見る。今の自分はきっとさぞかし情けない顔をしているだろう。
けれども哲士はまったく気にしていないというように、気持ち良さそうに歌っていた。弱りきった香代子と目が合うと笑みを深める。まったく曲を止める気はないようだった。
こうなったらあと四分歌うしかない。香代子はヤケになって哲士と同じメロディラインを追う。
赤面しながら声を張り上げているうちに、違和感が香代子を包む。違和感というよりも歌いやすすぎて驚いたのだ。哲士の歌声がガイドボーカルのように香代子を導いていた。
あんなに四分前まで歌うのが嫌でしかたがなかったのに、今は少し楽しいとすら思える。気持ちがよかった。
あっという間の四分間だった。歌う前の憂鬱が嘘のように消えている。哲士と顔を見合わせて笑った。
曲が変わり、マイクが別の部員に渡ってからこっそり由貴也を見る。由貴也は自分たちのデュエットなどどこ吹く風でメロン味といちご味のフロートを交互に飲んでいた。
「古賀ー、何か歌えよー」
入室して二時間ほどが経過し、しだいに雰囲気がだれ始めてきた。今日は朝から遊びまわっていて、その疲れが出始めてきたのだ。
根本に指名された由貴也はストローを二本食わえ、コーラとサイダーをいっぺんに飲むのを止め、「じゃあポップンロールチョコのCMソングを……」と答えて予約機をとる。
「ああもう、菓子ネタはもういい! 普通の曲歌え!!」
根本に止められ、やけに素直に「わかりました」と答えて由貴也は曲を入れる。由貴也の普通の曲。ラブバラードだったりしたら、と香代子は表情を変えないように気をつけながらこっそり期待した。
けれども香代子は由貴也を甘く見ていたことを知る。テレビ画面には大きな瞳、ピンクやオレンジなどあり得ない色の髪、そしてたわわな胸の俗にいう萌え絵の少女のアニメーションが映し出された。『キラメキ☆青空はいすくーる』というタイトルが星にのって画面に現れる。童顔の少女がウインクしてできた星が、後頭部に直撃した気分になった。
皆がフリーズしている間に由貴也は間奏にはさまれるセリフまで言いきり、完璧に歌って見せた。
“変人”。この二文字が誰の頭にも大きくと浮かんだに違いない。そろいもそろって部員がまぬけづらをしている中、根本だけは両拳を机の上に置き、またもやわなわなと震わせていた。
「お前、これギャルゲーのテーマソングじゃねえかよ!!」
由貴也の歌を録音すべくボイスレコーダーを構えて待つも、毎度毎度裏切られ、根本の忍耐力も切れる寸前なのだろう。けっこうな剣幕の根本を前にしても由貴也は平然としていて、それどころか妙にキリッと「この作品は俺的には最高傑作です」と言いだす始末だった。
「もっとマトモな持ち歌ねえのかよっ!?」
「俺のこれ以上なく素晴らしい選曲に何か文句でも?」
「大アリに決まってんだろっ!」
コントのような根本と由貴也のやりとりに哲士が肩をすくませる。香代子も苦笑した。
「俺らも何か歌おうか」
哲士が自然な動きで予約機を引き寄せる。あまりにもさらりとした動作だったので、香代子も何の気負いもなしにうなずく。
しばらく哲士と肩を寄せ合い、予約機の画面をのぞきこんだ。ああでもないこうでもないと楽しみながら曲を選んでいたので、いつの間にか根本との応酬を終えた由貴也がじっとこちらを見ていたとは気がつかなかった。
けっきょく、今放送している学園ドラマの主題歌に決め、送信しようと哲士が予約機をテレビに向ける。その直後絶妙なタイミングでもう一台の予約機から予約が入る。先んじて予約を入れたのは由貴也であった。こちらの予約を阻止しようとしているのかと思えるタイミングだ。
予約を邪魔されたぐらいで怒るのも子供っぽいので、一体由貴也はどうしたのかと思いながらもおとなしく由貴也の歌を聞くことにした。実際、曲の順番なんてどうでもよさそうな由貴也の、強引ともいえる行動に怒りよりも驚きの方が先に立つ。
隣に座る哲士は息をつき、由貴也の行動の真意を知っているかのように腕を組んでいた。こちらもこちらで哲士らしからぬ姿勢だ。その目は由貴也にそそがれており、由貴也もまた挑むような瞳を一瞬だけ哲士へ向ける。
やがてピアノ一本に乗せたメロウなメロディが流れ始める。海辺の夕暮れを連想させるような寂しげで、はかない旋律だった。
今までのネタのような曲とは明らかに違う。そして由貴也がそっと唇を開き、静かに歌い始める。
「I had no idea about this side of my personality until I met you that is――……」
由貴也が歌っているのは洋楽だった。発音は美しく、なめらかだ。そういえば彼は陸上部に入る前、英語圏のオーストラリアへ留学していたのだということを思い出す。
今日は由貴也にふりまわされっぱなしだ。ふたたび由貴也は部員全員の注目を一心に集めていた。繊細で力強い歌に引き込まれる。
「あいつさ、普段はわけわかんない不思議ちゃんのくせに、妙に押さえどころを知ってるよな」
根本がしてやられたという風に頭をかきながらつぶやく。確かにこれは不意打ちで、胸にくるものがある。
「本当にな。ムカつくほどやってくれるよ、古賀は」
少しの苦々しさすらこめて哲士が眉を下げて笑う。彼の言う通り、むかつくほどやられた。身もだえするほどかっこいい。普段の変人具合との落差が余計にそう思わせるのだ。
曲がサビにさしかかり、にわかに迫力を増す。由貴也はゆるやかに視線を上げ、射抜くような強い瞳を香代子に向けた。まわりの存在を消し、由貴也とふたりきりになったかのような錯覚に襲われる。
「……――Since you were, I could walk along the way firmly」
由貴也が壮大な音楽にのせて歌った一文を、香代子は胸の中で温める。
ここで人目がなかったら、泣いてしまうところだった。本当に、本当にやってくれる。愛してる、とか好きだ、とかそんな言葉じゃなく、なんでこの場でこんなことを言うのだ。由貴也と過ごした短い間のできごとが次々とよみがえってきて、涙をこらえるのに必死だった。
もう大丈夫なんだね、とぼやける視界の中で思う。これから先、一緒に歩いていくことはできないけれど、由貴也の歩んでいく道が輝いていることを願った。
切なすぎるメロディの中、由貴也が歌った言葉をそっと訳す。由貴也から贈られた歌――。
“あなたがいたから、僕はしっかり道を歩めるようになった”