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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
45/127

お菓子より愛してる・前編

由貴也高二、五月中旬から六月中旬。文化祭の一ヶ月。

 事の発端は文化祭一ヶ月前、香代子の一言だった。

「バス代が足りない……!」

 部活終わりのひととき。部室には部費の出納帳を確認する香代子とスパイクを手入れする哲士、自主練から帰ってきた根本がいて、由貴也は窓際で紙パックのいちごみるくを飲んでいた。

「足りないって部費が?」

 深刻極まりない香代子の言葉に、哲士が手を止めて顔を上げた。香代子は蒼白な顔でうなずく。

「え、何でだよ! だって部費ってマネージャーが管理してたんだろ!?」

 根本が汗をふく手を休めて声を上げる。それは香代子を非難するものではなく、マネージャーともあろうものがどうしてという驚きだった。

 スポーツクラスがあるほど部活が盛んな立志院において、陸上部は間違えなく弱小の部類に入る。よって部費も少ない。あてにならなかった顧問をよそに、一切の金銭監理を香代子が請け負い、上手くやりくりしていた。

 いつもの威勢はどこへやら。香代子はじっと赤字の出納帳を見てうつむいていた。

「……私が計算し間違えたみたい」

 たとえ失敗でさえ、いや失敗が大きければ大きいほど事態の悪化を防ぐために香代子ははっきりと答えるのに、今回はほんの一瞬間が空いた。加えて『私が』の部分が強調されていたのは由貴也の気のせいではないだろう。本当に嘘をつくのが下手だ。

 肩を落とす香代子の頭上で、根本と哲士がもしや、と視線を合わせた。それに気づかず悄然とする香代子を、由貴也はバカだなあ、と眺めた。

 根っからの正直者な香代子が嘘までついて隠したもの――いや、庇ったと言った方が適切か。それは新しいマネージャの小野 真美のことだろう。

 香代子は三年生で、あと一ヶ月あまりで引退だ。次代のマネージャが必要になる。

 哲士の話によると、去年も勧誘をがんばったらしいが、男所帯でしかも強くはない陸上部には誰も来なかった。マネージャー志望の女子は例年通り花形の野球部、サッカー部、バスケ部に流れた。やるべきところでやれないのが弱小部の弱小部たる由縁だ。

 そして今年、由貴也は陸上部の看板を手に、勧誘の場に立たされた。もちろん根本の発案である。彼の思惑通りマネージャー、選手問わず多数の女子が入ったが、そのほとんどが部活を遊びと勘違いしていたらしく一月も経たないうちに辞めた。

 その中で唯一残ったのが小野 真美だった。

「ごめんなさい、私が払うから」

「いや、部費が足りなくて部員が支払ったっていうのは問題になる。俺が明日顧問にかけあってみるから」

 この山奥の学院ではバスをチャーターするしか試合に行く方法はない。バス代がないというのは由々しき事態だ。けれども哲士はそんなことを言っても仕方がないわかっているように冷静だった。

「ごめん、部長。迷惑かけて……」

「俺こそマネージャーに部費の監理任せっぱなしでごめん」

 ごめんごめんと謝りあってこの件は終わりに思われた。由貴也は傍観していた視線を窓の外へ放った瞬間、視界が大きくぶれた。横目で見やると、首根っこを根本に捕まれていた。

「あーあ、腹減った。帰ろうぜ!」

 わざとらしい口調と場違いなほど明るい根本の声音が部室に響き渡る。由貴也の食わえたままのストローが大音声に震えた。

「部長も帰ろうぜ!」

 根本がすばやく哲士の肩に手を回し、有無を言わせずドアへ向かう。この強引な退場劇に香代子もあっけにとられていた。

「ねも――」

「じゃあ先に帰るわ。マネージャー気にすんなよ!」

 片手ずつで哲士と由貴也をがっちりとつかみ、空いている足で根本はバタンとドアを閉めた。香代子がさかんに目をまたたかせているのが、最後に目に入った。

「ねも――」

「作戦会議だ。とりあえず飯食いに行こうぜ」

 またもや哲士の呼びかけは無視され、半ば引きずられながら根本に無理やり連れていかれる。哲士はなおもまだ「離してくれ」だの「作戦会議って何なんだよ」だの言っていたが、由貴也は早々に抗議を放棄し、二本目のいちごみるくを飲んでいた。

 食堂へ着き、やっと根本から解放される。夕食のピークは終わっており、並ばずに券売機へ直行できた。

 根本の言う通り食欲を満たすのが先、ということか哲士もとりあえず問いを横に置いているようで、日替わり定食をチェックしている。券売機に硬貨を入れて、何を食べようかと悩んでいる根本の後ろから、由貴也は目にも止まらぬ早業できつねうどんと自家製プリンのボタンを押した。

「古賀てめー、何すんだよ!」

 ぎゃんぎゃんとわめく根本を無視して食券を取り、カウンターに向かう。哲士が由貴也の尻ポケットから財布をとり、謝りながら根本に代金を払っていた。

 先に席に座ってめんどくさい、と思いつつきつねうどんをすする。甘いものしかたべたくない由貴也がきつねうどんを頼むのは哲士の手前だからで、定食ではなく麺類なのは噛まなくていいからだ。

 まもなく哲士と根本がやってきて、当然のように隣と前に座る。根本は「作戦会議だ!」と息巻いていた。

「古賀、お前身長何センチ?」

 一体それがどう作戦とやらと関係あるのかと思いつつ春先の身体測定の記憶を思い起こす。由貴也は留学していた去年の秋から成長期を迎えており、一晩寝れば伸びるといった有り様だ。おかげで食べても食べても甘いものが足りない。

「百七十……三?」

 由貴也があやふやな記憶の数値を告げると、ぱっと根本の顔に喜色が浮かんだ。嫌な予感がする。

「俺の姉貴百六十八あんだよ。まあ五センチくらいならなんとかなるな」

「根本のお姉さんと古賀に何の関係があるんだよ」

 勝手に納得して、勝手に何かの作戦を進めようとする根本にすかさず哲士が尋ねる。問題児の自分と、陸上部一無鉄砲な根本に振り回されていても、哲士に辟易の色はなかった。他人をフォローすることが生きがいのような彼ならではだ。根本に引きずられて来なければ今ごろ彼は香代子をなぐさめていただろう。

「何って女装に決まってんじゃん」

 何でわかんないのか、と言わんばかりに根本はさらりと答えて味噌汁に口をつけた。

「「女装?」」

 哲士と自分の聞き返す声が重なった。

「女装って古賀が?」

 哲士はスポーツマンらしい旺盛な食欲で焼き魚定食を食べていたが 今や箸を握る手も完全に止まっていた。

「古賀以外誰がいんだよ。部長はちょっと背がありすぎるし、俺の女装なんて誰も見たくないだろ?」

「まあそれはそうだけど、一体何のために?」

 根本の女装が見たくないという部分をあえて否定せず、むしろ肯定して哲士が聞き返した。根本は“走る格闘技”の中距離走者だけあってしっかりした体つきをしている。加えて顔も濃かった。

「だから文化祭だよ! こいつの女装だったらがっぽり儲かるぜ」

 根本の瞳で勢いよく燃える商魂の炎に、由貴也はまたか、と顔には出さずともげんなりした。どうして根本は毎度自分をダシにして儲けたがるのか。

「なんで俺がそんなのやらなくちゃいけないわけ」

 頬杖をつきながら箸できつねうどんのあぶらあげをつつく。由貴也は甘いものは好きだが、菓子ではなく食事に中途半端に甘じょっぱいものが出てくるのは嫌なのだ。

「古賀、お前はマネージャーのこと助けてやりたいと思わないのかよ!!」

 米粒を飛ばしそうな勢いの根本の反論をやわらげるため、由貴也はすばやく手のひらで耳を覆った。これは生活の知恵だ。彼の大声を間近で聞くと鼓膜が破れる。

 根本のわざとらしい正義感に哲士が苦笑した。

「なぁ根本。お前が助けてやりたいのはマネージャーじゃなくて小野さんだろ?」

 由貴也と同じく生活の知恵を取得していた哲士が根本の言葉による反響が止んでから言った。とたんに根本がうっ、とひるみ、みるみるうちに赤面した。驚くぐらいわかりやすい。

「ああ古賀。お前野菜も食えよ」

 根本が騒ぎださないうちにか、哲士が思い出したようにサラダを由貴也の方へ置いた。由貴也は甘く煮てあるあぶらあげを食べながらそれを哲士の方へ押し返す。またそれを哲士がこっちへ置き、という攻防を三回ほど繰り返した。

「根本。わかってると思うけど小野さんは――」

 根負けした由貴也にサラダを食べさせることを成功させ、哲士はそこで言葉を切った。後の言葉を強調するためにわざと行ったことらしかった。

「中学生だぞ」

 哲士の言葉が核心をえぐる。そう。新しく入ったマネージャー、小野 真美は立志院の附属中学の一年生なのだ。

 立志院は同じ敷地内に高等部の三分の一ほどの規模である中等部を抱え込んでいる。哲士も由貴也も香代子も高等部から編入学した外部生だが、根本は内部進学生だった。

 中等部に陸上部はない。毎年五月に校内陸上競技会を行い、成績がよかった上位者を市の大会に送り込む制度をとっていた。根本もその口だ。

 中等部の入学式を終えた次の日、小野 真美はどうしても陸上部のマネージャーになりたいとやってきたのだった。

 中等部と高等部の部活が合同で練習するのはよくあることだ。普通の学校ならば中学三年生で受験のために部活を引退する生徒が多い。けれどここは中高一貫校だ。受験の心配はない。六年間同じ部活で練習することは質の高い練習を展開することができる。それを強みにし、中高の枠を取り払っている部活も多かった。だから小野 真美の入部は何の問題もなかったわけである。

 根本はまだ沸騰しそうなほど赤い顔で酸欠の金魚のようにパクパクと口を動かしている。その様子はまったくもって恋心を見抜かれて動揺している図だった。

「それってロリコ――……」

 的確に根本の状態を指摘しようとすると、すぐさま哲士に口をふさがれた。

「根本が五歳差だってことわかってれば俺は別にいいと思うけど」

 ロリコンという言葉で根本を揶揄しないのは哲士ぐらいのものだろう。根本は高校三年、十八歳。真美は中学一年、十三歳だ。哲士のいう通り五歳差なのだ。

 真美は小柄で華奢だ。加えて子供っぽさの残る顔をしており、十二分に小学生で通じる。彼女相手に根本が懸想することすら犯罪まがいのことに感じる。

「……ロリコンでも何とでも言えよ。あの小さい体でがんばってると思ったらもうダメだったんだよ」

 根本が口に手を当て、そっぽを向き、ぶっきらぼうに答える。耳まで真っ赤にして照れ隠しに渋面を作る根本はどうやら本気のようだった。

 ――私が計算し間違えたみたい。ごめんなさい、私が払うから。

 根本の顔をぼんやり眺めていたら、不意に香代子の声が頭に響いた。らしくなく弱い調子の声。共通している強い調子の『私が』の言葉。

 中学生と高校生の間は大きく、真美は度々失敗を繰り返した。おそらく今回のバス代も香代子ではなく真美がミスをした結果のことなのだろう。間違えることは仕方ないにしてもシャレにならないミスだ。

「マネージャー、なんで何にも言わないんだろ? 俺、マネージャーに怒られた真美ちゃんなぐさめようと思ってんのに」

 やっと恋慕を哲士に見破られたという動揺から立ち直った根本は本気とも冗談ともつかないことを言ってのける。開き直った感すらあった。

「さすがに女子同士の難しい事情はわかんないな。もしかしたら去年のこと気にしてるのかもしれない」

 見事な箸使いで哲士は魚の骨をとってみせる。哲士の言葉に根本はしばし「去年?」と考えるそぶりをし、ああと言った。

「早紀ちゃんね。かわいかったのに辞めちゃって残念だったなー」

 茶々を入れるように根本が言った。そこに先ほどの真美に対しての真剣さはなく、アイドルをかわいいというような無責任な軽い口調だった。

「誰、早紀って」

 夢見る表情の根本ではなく、哲士に聞く。根本に早紀ちゃんとやらを語らせるとどんな主観が混ざってるかわからない。

「去年、ひとりだけ入ったんだよ。マネージャー志望の女の子が。すぐ辞めたけどな」

 咀嚼して、箸を置いてから答える哲士を、由貴也はウサギよろしくレタスを一枚食べながら見ていた。

「女子二人っきりだから大変だよな。すぐ辞めたのは自分のせいじゃないかとマネージャー気にしてると思う」

「マネージャーはそんなこと気にしないだろ」

 あり得ないというふうに軽く笑って見せた根本に、哲士はまた苦笑を向けた。今度は根本には伝わらないほどのあきれが混ざっていて、なんにもわかってないんだな、というふうなほんの一瞬の表情だった。

 女子が居着かないのは、部員の態度にも問題があるのだろう。哲士や根本が無意識に口に乗せる『マネージャー』という呼称は香代子にだけ使われるものだ。マネージャーといえば、どんなにかわいくても早紀ちゃんとやらでも真美でもなく、香代子なのだ。

 真美のことも中学生相手なので皆、優しく丁重に扱った。現に彼女は妹のような愛らしさがあった。

 最初はちやほやされて気をよくしていられても、一月も経てばお客さま扱いでは居心地も悪くなる。マネージャーに真剣になりたいと思っていれば思っているほど。

「“真美ちゃん”にいいところを見せたいのならアンタがやればいい。俺を使ったってしょうがないでしょ」

 根本は真美が作った問題を解決することで影のヒーローを気どりたいのだ。そんな消極的な方法しかとれないところがいかにも根本だ。純情といえば聞こえはいいがただ単に臆病なのだ。

「それじゃあダメだ! 真美ちゃんは古賀、お前が好きみたいなんだ」

 いかにも重大な問題のように宣言した根本にやめてくれ、という気分になる。別に真美に好いてくれと頼んだ覚えはない。哲士は何をいまさら、というふうに味噌汁を飲んでいた。

「お前がどんなにいい顔してたって男だ。やっぱ女装したら変になるだろ。その情けない姿で真美ちゃんを幻滅させてやってくれ!」

 勝手に好かれて勝手に幻滅されるとは何ともおかしな話だ。別に由貴也がこれといった行動をしなくとも真美はいずれ離れていくだろう。由貴也は歳下は眼中にまったくない。そう考えると女装に労力を割くのは無駄なことにしか思えなかった。

 気乗りしない由貴也に、根本はなおも言い募った。

「なあ、古賀。もしお前が女装したらどこのクラスでもよろこんで売り物タダでくれるぞ! きゃー、持ってってくださいってな」

 思わず箸が止まる。

 頭の中に文化祭の売り物が圧倒的な存在感を持ち始める。チョコバナナやアイス。三年のあるクラスではいまはやりの生ドーナツを作るといっていた。

 由貴也はしばし考えこむ。ゼリービンズを箱買いしたので、文化祭で散財する余裕はない。かといって親に無心するのも面倒極まりなかった。

「自家製プリンの食券十枚つけてくれるならやってもいい」

「じゅっ……十枚って、三千円!?」

 根本が目をむく。自家製プリン一個三百円。十個でしめて三千円だ。バイトもやっていない高校生にしては小さくない額だ。

「古賀、五枚にまけてやれよ」

 見るに見かねて哲士が助け船を出すが、由貴也は一顧だにしなかった。

「十枚」

「お前っ、この前限定モデルのスパイク買ってたくせになんでそんなにケチいんだよ!」

 追いつめられた根本の悲鳴のような反論に取り合わず、由貴也は「やるんですか、やらないんですか」と畳みかけた。

「やらないんなら別にいいですけど」

「…………やる」

 苦悩の末という根本の弱々しい返答に、哲士が「交渉成立だな」とやれやれと笑った。

「古賀! せいぜい無様な姿を真美ちゃんの前にさらすんだなっ!!」

 こらえきれないというふうに根本は立ち上がり、由貴也を指差した。彼の哄笑が響きわたる空間で、由貴也は自家製プリンを食べながら、来月はあと十個これが食べられる、と考えていた。







「嘘だろ……」

 呆然とつぶやく根本の声に、由貴也は目の前の鏡を見た。

 これでもかというほどのフリルとレースで胃がもたれそうなほどの甘いワンピース。頭にはウィッグの境界隠しのためのヘッドドレス。あごの下で結ぶリボンが邪魔くさくて仕方ない。ウィッグは地毛に近い茶色でロングのウェーブヘアだ。

 よく女子に間違えられた昔ならばともかく、今はさすがに根本の言う通り女になりきるのは無理だろう、と思っていた。けれども鏡に写る自分は予想に反して女にしか見えなかった。

「これで満足?」

 立ち上がって根本に不敵に微笑みかけて見せる。ラウンドトゥの黒光りするエナメルシューズがコツ、と鳴った。

「お前、反則! 似合いすぎだろっ」

 由貴也が一歩前に進んだ分だけ、根本が赤い顔で一歩下がる。じっと目をみてやれば、根本は「それ以上近寄るなぁっ!」と声の限り叫んだ。

「男でもいいって思ってしまう……」

 頭を抱えて根本が「ああぁー」と苦悩の声を上げてしゃがみこむ。由貴也は肩にかかる髪を払いのけて、根本を見下げた。

「アンタはよくても俺はそっちの趣味ありませんから。願い下げ」

「俺だってねえよっ!」

 しゃがんだままで即座に答えた根本は涙目にすらなっていた。

 文化祭当日。陸上部が借り受けた多目的室には由貴也と根本だけがいた。面倒な服だから着替えを手伝う、という理由で根本は同行したが、実のところ陸上部の面々に見せる前に、由貴也の醜態を先に見たかったのだろう。

 由貴也を広告塔に使う文化祭企画に、部員はおおむね乗り気だった。今まで陸上部は文化祭で何かをしたことがなく、新しい試みに心踊らせているようだった。

 四月の離任を期に、陸上部の顧問も変わった。あの公害のような顧問は任を解かれ、陸上の経験のある体育大学を卒業してまだ何年もたっていない教師が新たな顧問に就任した。若い意欲に任せて部員を指導する顧問の元、陸上部はかつてないほどの上昇気流の中にいた。

 顧問は文化祭間近にあるインターハイ予選に影響を及ぼすことを危惧したが、文化祭準備があることでかえって練習の士気は上がった。もっとも若いだけあって顧問の考えは柔軟で、無闇に文化祭を否定することもなかった。

「そろそろ準備したいんだけど、入っていい?」

 ドアの外から香代子の声がかけられる。この多目的室は数時間後には団子屋に変身する予定だった。

 根本が返事をする前にドアが開けられる。好奇心に負けたらしい部員がどっとなだれ込んできた。

 由貴也は彼らを一瞥する。部屋に入ってきた勢いはよかったが、彼らはただ由貴也を放心したように見ているだけでなにも言わなかった。根本と同じような色が浮かんでいたのは気のせいだと思いたい。

「根本。お前のお姉さんすごい趣味だな」

 部員が言葉を失う中、少し遅れてやってきた哲士だけが平静と変わらぬ様子だった。

 哲士に言われて、根本の姉から借りた服を見下ろす。装飾過多のまったく実用に不向きなこれはおそらく噂に聞くロリータファッションというものなのだろう。

「古賀先輩、とってもきれいです!」

 手を胸の前で合わせ、無邪気によろこんでいるのは小野 真美だった。彼女は由貴也よりも頭ひとつ分小さく、下から見上げる格好になる。その視線がまっすぐで純真で由貴也は視線をそらした。

 化粧もしろと口々に部員は言っていたが無視し、由貴也はお姫さまよろしく椅子に座って部員が教室のセッティングをしているのを見ていた。こんな格好では手伝えと言われても無理だ。

 火気の使用許可をとり、教室内で大量の団子が茹でられている。団子をカップに入れ、餡や缶詰のみかん、さくらんぼを乗せて客に売るのが陸上部の出し物だ。いわゆるあんみつ屋である。

 これは香代子の発案で、白玉粉ならそんなに単価かからないし、シロップとかはたくさん煮詰めておけばかけるだけで済むよ、とのことだった。これは単なるお楽しみのイベントというわけではなく、部費稼ぎという切実な側面もあるため、ある程度利益も追求しなければならない。

 香代子の提案に対してめずらしく反論したのが真美だった。あんこって嫌いな人多いし、洋菓子の方がいいのではないかと。おとなしく、小動物的なかわいさがある真美が食ってかかるとは誰も思っておらず、部員は目を点にしていた。

 あんこ嫌いの高校生は結構いるもので、部員の中からもあんこじゃない方がいいかも、という声が上がった。けれども包丁もろくに触ったことのない部員たちがぐっとハードルの上がる洋菓子を作れるわけもなく、あんみつに落ち着いた。

「はい。たくさん食べてよく宣伝してね」

 気がつくと香代子が目の前にいて、あんみつのカップを差し出していた。それを受け取って由貴也が食べている間も彼女はそこにいて、じっとこっちを見ていた。

「……これでもアンタ、男なんだよね?」

 香代子はなぜか疑問型で聞いてきた。一年三百六十五日の内、今日を除き三百六十四日は男でいるはずなのに、その問いはないだろう。

「なんなら脱いで見せるけど?」

「いい。止めて」

 予想通り即答される。普段は陸上部の男たちを一手にまとめているが、香代子はそういうことに対して意外にも免疫がなかった。

 やっと由貴也の姿を見慣れてきたのか、香代子の後ろを通りすぎる際、部員のひとりが「マネージャーよりかわいい」と軽口を叩いた。香代子もそれに「うるさい。ほっといて」とわざとらしく怒った顔を貼りつけ、返していた。

「マネージャー、こわっ。真美ちゃんとこ行こっと」

 そそくさと部員は去っていく。そのバカな後ろ姿を「もうっ」と香代子は腰に手を当てて見送る。真美が入るまで紅一点のはずだったのに、部員にここまで“女”として見られていないのはある意味すごかった。

 その点、真美も根本以外には異性として意識されていないが、彼女と相対する部員は皆まなじりを下げ、歳の離れた妹に接するように甘くなった。現に今も香代子はひとりで運んでいるみかんとさくらんぼの缶詰が入った箱を真美は根本に運んでもらっている。

 由貴也は椅子から立ち上がり、香代子が苦心して運んでいる段ボールに横から手をかけた。

「手、離して」

 由貴也が言っても、香代子はただ目を瞬かせていた。明らかにこういうことをされなれていない様子だ。

「え、いいよ。服破れたりしたら大変でしょ」

 相変わらずきっぱりはっきりとした隙のない物言いだ。由貴也はかまわず段ボールを強奪し持っていく。真美がこちらを見ていたので見返してやると、すぐさま「先輩、手伝います」と香代子のところにやってくる。真美は由貴也と香代子が接触するのを阻止しているつもりなのだろう。なんにしても香代子と張り合って少しは役に立つ働きをしてくれるなら結構なことだろう。

 香代子と真美が話している隙に由貴也は茹でたての団子をいくつかカップに入れ、あんことシロップをたっぷりかけて椅子に戻った。由貴也はあんこも他のお菓子同様に愛している。

 段々外が騒がしくなってくる。多目的室は文系棟の三年生の教室のある並びにある。三年生はお客の集中する飲食物を扱っている模擬店が多く、いい場所だった。

 多目的室正面の黒板上の時計が九時を告げる。チャイムが鳴った。

『ただいまより、立志祭を開催いたします』

 放送部の力んだ声がスピーカーから校内に響き渡る。文化祭の始まりだった。

「じゃあ宣伝がんばってね」

 香代子の手で首から宣伝ボードを下げられる。桜形にカットされ、場所と売り物の内容が凝った文字で書かれたこれは根本の手作りだった。見かけによらず彼は手先が器用なようだ。

 文化祭企画の言いだしっぺである根本はもちろん積極的だった。足りないバス代の埋め合わせという理由は隠し、表向きは部費の調達として香代子と真美を納得させていた。

 部費が増えればその分、練習試合に多く行ける。

「古賀先輩、お供します!」

 教室を出ようとすると、真美が勢いづいてついてきた。まるで忠実な犬のようで、ちぎれそうに振られている尻尾の幻影まで見える気がする。となると主は自分か。

 今まで由貴也に寄ってきた女子たちは何かしらの下心を抱えていた。しかし真美の場合、歳のせいか純粋な思慕を向けてくる。恋愛というよりも憧憬といった方が近いかもしれない。

 ふることは前提にあるにしても、やりにくいことこの上ない。

「ねえ、俺って男子トイレと女子トイレどっちに入ればいいと思う?」

「へ……?」

 突飛な質問に真美があっけにとられているうちに由貴也は彼女の前から逃げた。

「あれ、古賀 由貴也!?」

「超キレイ! 女にしか見えないっ」

 教室から出ると、根本の予想通り一歩歩くたびに騒がれた。黄色い声に囲まれ、写メの嵐に巻き込まれた。いつも向けられる視線は大半が女子のものなのだが、今日は男子のものも混ざっている気がする。無理やりにでも気のせいだと思いたい。

 由貴也はまず食堂へ向かった。まだ午前のせいもあり空いているが、今日はそればかりが理由ではない。模擬店で買い食いする生徒が大多数なので、食堂はいつにもなくガラガラなのだ。

 ポケットから財布をとりだし、根本から受け取った自家製プリンの食券を取り出す。十枚すべてをカウンターに出した。

 カウンターのパート職員が由貴也を見るなり興奮のあまり叫び出したのを皮切りに、厨房内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。由貴也はいつも自家製プリンを大量に買っているので、食堂のおばちゃんたちに顔を覚えられているのだ。

 ここでもまたフラッシュを存分に浴びたが、おまけにプリンをもうひとつくれた。

 プリン十一個を腹の中に納め、食堂を出てさあどうしようか、と考える。宣伝らしい宣伝をしたわけではないが、もう充分だろう。あとは噂に任せておけばいい。

 甘いにおいのする方へ無意識に足を進めていると、文系棟に戻っていた。その頃には由貴也は「うちのクラスのも宣伝してくださいー」と模擬店の売り物の数々を進呈され、両手で持ちきれないほどになっていた。

 マシュマロの串刺しを歩きながら食べていると、前に見慣れた普通科の制服の男女が見えた。腕に生徒会役員の腕章をつけている。巴と壮司だった。

 ちょうどいいところに来た。焼き鳥だの冷やし中華だの甘くない進呈物の消費を手伝ってもらおう。

「巴。壮司さん」

 呼びかけると向こうもすぐに気づいたようだった。けれども目を丸くしてまじまじとこちらを見ている。そこで改めて自分が女装していることを思い出した。

「まさか……由貴也か?」

 おそるおそる尋ねてきたのは巴の方だった。無言のうちに肯定すると、さらにふたりでじっくりと見てきた。

「叔父さまかお祖母さまに知れたら大変だな」

 巴が苦笑する。壮司はほとほとあきれ果てたという顔で「お前に男としてのプライドはねえのかよ」と言ってきた。

「まあ壮司さんの女装なんて死んでも見たくないから、そのまま変なプライド持ち続けてればいいんじゃない」

「おまっ……」

 壮司が激昂しかけ、それをものすごく努力が見える形で何とか収めていた。相変わらず挑発に乗りやすい直情型だ。

 巴がおかしそうに自分たちのやりとりに笑っていて、壮司は毒気を抜かれたように口をつぐんでいた。男のプライドうんぬんと言っていても巴の前だとまったく他愛のないことだ。

「お前、そういう格好してると少し巴に似てるよな」

 壮司の何気ない言葉に、巴の顔を見る。由貴也にとって巴は巴で、自分と似ているとなど少しも思ったことはないが、確かに昔はよく姉弟に間違えられたものだ。

 そのとき、隣を黒髪ロングのウィッグを被った男子生徒が通りすぎる。女装というのは受けがいいらしく、どこか他のクラスでもやっているのだろう。

 由貴也はなびくそれを後ろから引っ張って、男子の頭から外す。直視に耐えない醜い女装の男子は驚き、当然振り向いて何すんだと言ってきたが、由貴也は無視して茶髪ウェーブのウィッグを脱ぎ、黒髪のそれを被った。巴と同じ髪型だ。

 首の横にそれぞれ手を差し入れて、髪を背に落とす。それから壮司に向けて微笑んでみせた。なるべく巴に似せて。

「壮司さん、誘惑してあげましょうか」

「止めろ!」

 肩に手をかけてささやくと、壮司は赤くなって怒鳴った。まったく本当に他愛のないことだ。

 由貴也を見て呆けたまぬけ面になっている女装男子に黒髪ウィッグを返し、元の茶髪の方を被り直していると、急に廊下がざわつき、通行人が左右に割れた。それを不審に思っている暇もなく、顔面蒼白になったふたりがものすごい勢いで由貴也に目を向けた。

「由貴也、隠れろ!」

 ただならぬ声を発したのは壮司の方だった。

「お祖母さまがなぜか向こうから歩いてきた!」

 今度は巴が言い、「壮司の後ろに隠れろ」と由貴也の背を押した。

「お前、ばあさまにバレたら古賀家から存在抹消されるぞ!」

 わたわたと由貴也を背に追いやりながら壮司と巴は前に立ち、壁を作った。古賀家の系譜から名前が消えようともそれはそれで構わないと思ったが口には出さず、とりあえずヘッドドレスのひもを結んだ。

 あわてるふたりをよそに、由貴也はのんきに彼らの後ろから近づき来る祖母の姿を見た。檜皮色の着物の裾をさばきながら歩いてくる祖母はどう考えても異質だった。こんな時まで仏頂面を備えた祖母が歩く度、まわりの生徒が壁際に寄り、道を開ける。文化祭のにぎやかさは消えていた。

「お祖母さま、どうなさったのですか」

 文化祭は名目上、一般公開とされているが、こんな山奥の閉ざされた学校だ。来校者はほぼなく、実質は学内だけのイベントになっていた。巴が遠い道のりをやってきた祖母に対してそう聞きたくなるのもわからなくはない。

 対する祖母はまわりの視線など意に介さず、岩のようにどっしりと構えていた。

「送られてきた広報会誌で文化祭があると書いてありましたので、あなたがたの通ってらしゃる学校を一度見ておこうと思ったのです。ずいぶん賑々しいのですね」

 それだけの理由でこの若者の園に単身乗り込んで来たとは祖母はやはり強者だ。由貴也は巴をどうにかしようとする祖母は好きでなかったが、同時に敵にはまわしたくないのでいつもおとなしくしていた。

「先生がたにごあいさつを申し上げたいのですが、どこにいらっしゃるのです」

「俺が案内します」

 壮司が後ろ手でぐいと由貴也を横に押しやり、巴の方へ隠される。よろけた由貴也の前に巴が立ち、壮司に先導される祖母からみえないようにされた。

 祖母と壮司の気配が遠ざかり、そろそろいいか、と思って巴の後ろから脱する。古賀の名字などどうでもいい由貴也にとって、祖母から隠れるというのは巴と壮司につきあってやっていただけだった。

「古賀先輩!」

 のっそりと立ち上がった瞬間、人ごみを左右にかき分けるような大きさの声が由貴也に刺さった。ここに『古賀』は三人いるが、明らかに自分へフォーカスが向いていた。

 その声のただならなさに、通行人までもが由貴也に注目する。当然祖母にもしっかり見られた。

 動きが止まった人の波をぬって走ってくるのは真美だった。高校生の中にあって彼女はその幼さ、小ささを際立たせている。

「古賀先輩っ、探しました!」

 本当に探しまわっていたのか、真美の息は弾んでいた。彼女はなんだか急いでいて、その興奮のままに由貴也の顔に近づこうと背伸びし、ヒラヒラとした服の一部分をつかんだ。

「あの、おトイレしたいなら多目的トイレがいいと思います! あそこなら誰でも使えますし」

 その言葉が由貴也にとってとても助けになると信じて疑わない目がそこにはあった。

「トイレ……?」

 なんのことだったかとつぶやいてああ、と思い出す。俺は男子トイレ女子トイレどっちに入ればいいのかと突飛なことを言って、彼女をまいたのだ。もっともトイレをどうするかというのは切実な問題だったが。

「漏れたら大変! 先輩、こっちですっ」

 由貴也は手を引かれ、持っていたチョコバナナを落とすわけにはいかないと口にしっかり食わえた。真美のこの思いこみの激しさは、歳ゆえの短絡さか。こうも誰かにふりまわされることは由貴也にとって今までないことだった。

「由貴也さん」

 決して大きくはない、けれども不思議とよく通る声が拉致される由貴也を呼び止める。真美がいつもの通り突っ走ってくれることを期待したが、祖母のずっしりとした質量の声は彼女の足をも止めた。

 祖母が一歩由貴也の方へ踏み出す。その異様な迫力に、真美が恐れをなして硬直したのがつかまれた腕から伝わった。

「姿をよくお見せなさい」

 由貴也は祖母の言に逆らわず、その場に立っていた。由貴也が着ているのはただのロリータファッションの服ではない。着物をドレス風に改造したもので、根本いわく『和ロリ』だそうだ。

 正統派の着物を着こなす祖母にとって、男である由貴也が女装をする以上にこの格好は許せないかもしれない。

「由貴也さん」

「はい、お祖母さま」

 反射的に返事をした。一族の子供たちは祖母に呼ばれるととりあえず返事をするようにしつけられている。由貴也がくだらないその癖を抜かないのは、返事をしておいた方が面倒なことにならないからだ。

「その格好はいったいどうしたことですか」

 祖母の言葉には当然ながら咎める響きがあった。それは真美にもはっきり伝わったらしく、彼女は弁解のために口を開いたが、うまくいいわけが出てこないようだった。

「由貴也はこれから家政科のファッションショーのモデルを努めるのです、お祖母さま」

 助け船を出したのは巴だった。祖母譲りの涼しい顔で平然と嘘をついてみせる。もちろん由貴也には巴が言ったような予定などない。

「このファッションのテーマは自由です。性別から解き放たれた存在――つまり由貴也の本来の性を打ち消すために女性の格好が求められたのです」

 由貴也の今の姿は極めて高い芸術的な理由から生まれたものです、と巴は淀みない口調で言ってのけた。実際には高い芸術性もへったくれもなく、あるのは根本の汚い思惑だけだ。

「先ほど、御不浄を指す言葉が聞こえたような気がしましたが」

 それでもなお祖母は追及の手を緩めなかった。巴も巴で、眉ひとつ動かさずに祖母の追及を受けた。

「今回のショーはトイレ会社とのタイアップ企画です。先方は若者のお手洗いの使用マナーの向上に努めています。そこで由貴也がショーのインターバルに多目的トイレの必要性についてプレゼンテーションをすることになったのです」

 巴が相変わらず落ち着き払った声で、真実が一ミリたりとも見えないことを言った。カタカナ語を多用しているのはわざとだ。そうすることでカタカナに親しみのない祖母の理解を遅らせているのだろう。

「由貴也。後輩の方がわざわざ迎えに来てくださったんだ。遅れたら大変だからもう行ったらどうだ」

「はい! 私が必ずショー会場へつれていきますっ」

 由貴也に向けられた言葉を真美が引き取り、由貴也の腕をがっちりつかむ。その目は巴から命を受けた忠犬のように使命感に満ちていた。

 まさかこんなバカバカしい巴のいいわけを本気にしているのか、と確かめる間もなく、真美は由貴也の手をとり、走り出した。なすすべもなく、由貴也は真美に引きずられてその場を後にした。

 気がつくと家政科のファッションショー会場にいて、気がつくとステージの上で歓声を受けていた。「サイズ間違って作っちゃったのよぉ。いいモデルさんが来てくれてよかった」と言われ、和ロリから黒いゴシック調のドレスに着替えさせられた。

 家政科のショー自体はあるが、性からの自由というテーマもなく、トイレ会社とのコラボレーションもなく、したがって由貴也のプレゼンテーションもなかった。

 これで優にプリン十個分の働きはしたはずだ。由貴也は陸上部の教室に戻ろうと歩き出す。少し遅れて真美がついてくる。

「古賀先輩、モデルとってもすてきでしたね!」

「…………」

「さっきの着物の人は先輩のおばあさんですか?」

「…………」

「大丈夫ですか、疲れました? おトイレですか?」

 そうトイレトイレ言われると、自分はトイレのことしか考えていないみたいだ。

「あのっ、よかったら文化祭いっしょにまわってくれませんか!」

 由貴也の歩みに小走りでついてくる真美の、ふたつにくくった髪の先が揺れている。視界の端に映るそれを追い払うように由貴也は足を止め、真美に向き直った。

「俺の本日の営業は終了したから」

 え、と面食らう真美に「これあげるからおとなしくして」とフランクフルトや焼き鳥などの甘くないものを押しつける。

 十三歳は難しい年齢だ。下手に刺激して好きだと勘違いされても、その逆も面倒だ。特に真美は思いつめるとなにをしでかすかわからなかった。とにかくのらりくらりとかわし、その間に根本ががんばってくれることを祈るばかりだ。

 先輩先輩と、ただひたむきに慕ってくれているとわかっていても、恋愛を考えたくないし感じたくもない。

 教室に戻ると団子屋は昼を過ぎて人が退きかけていた。部員は一様に疲れた顔をしていて、繁盛して忙しかった跡がうかがえる。

 由貴也が顔を出すと根本が血相を変えて飛んできた。

「古賀、お前服は……姉貴の服はっ!?」

 根本につめよられて改めて自分の服装を顧みる。家政科のファッションショーでひんむかれて、着替えさせられていたのだった。

「置いてきました」

「どこにだよっ!?」

「家政科のショー会場」

 答えるなり根本は一目散にショー会場である中庭へ駆けていった。根本姉弟の力関係は姉が圧倒的に強いらしく、根本は顔面蒼白になっていた。

 団子をいくつか拝借して空いている客席に腰を下ろして食べていると、部員が何人か意味ありげな微笑で近づいてきた。入部して二ヶ月あまりの一年生だ。

「古賀先輩。先輩のこと小野さんがはりきって追いかけていましたね」

 慇懃無礼な後輩たちにだから何だといわんばかりに視線を向けると彼らはたじろいだ。腰を引かせながらも、彼らの瞳には下世話な好奇心がちらちらと透けて見える。

 目だけでざっと教室を見回しても、香代子も哲士もいなかった。真美もフリーズしたままなのか戻ってきていなかった。

「先輩って、マネージャーさんと小野さんどっちが好きなんですか?」

 表情ひとつ変えない由貴也に後輩たちはひきつった半笑いを浮かべている。由貴也は頬杖をつき、わざと無関心そうにつぶやいてやった。好きな人いる、誰が好き? その手の質問は聞き飽きていて、辟易している。

「俺がどっちかを好きだったら何だっていうわけ?」

 マネージャーさんと小野さん――香代子と真美。真美は言うに及ばず、香代子もなかなかわかりやすかった。もっとも香代子は部内恋愛を固く戒めているようで、由貴也に対する恋愛感情を極力出さないようにしている。その努力を無下にしないためにか、二・三年の部員たちはその話題に誰一人として触れなかった。

 頬杖をついたままで由貴也は微動だにしなかった。さっさと失せろと無言の圧力を送っているのに、彼らはかえってあわてたように口を開いた。

「先輩だったらもっとかわいい子とつきあえるじゃないですか」

「小野さんは中学生であり得ないし、マネージャーさんって怖いし、先輩ならもっとかわいくてなんでも言うこと聞いてくれる子とつきあえますよ」

「古賀先輩ってなんでマネージャーさんがいいのかって俺ら話してたんです」

 三人は由貴也も香代子が好きだと勝手に予想をたててぺらぺらと早口でまくし立てた。失せるどころか由貴也の無言に耐えられなくなるとは予想外だった。

「だってそもそもありえなくないですか? マネージャーさんが古賀先輩を好きになるとか」

 調子に乗ってきたらしくなめらかに口を動かし、嬉々として話し始めた。由貴也は机の上に飾ってあった一輪挿しを手持ちぶさたにいじくる。造花が活けてあり、こういう細やかなことをするのは女子しかいないだろうと思っていた。何を言われても気にしない図太い女だと思われている香代子も、一皮むけば花をテーブルに飾ってみたりするただの女子だ。

「普通無理ですよ。自分の顔考えたら古賀先輩のこと好きになるって。よっぽど図太くないと無理ですよ」

「俺、ずっと気になってたんですよね。四月に女子あんなにたくさん陸上部に入ったのに、今小野さん以外いないじゃないですか。マネージャーさんが嫉妬して辞めさせ――」

 ――ガキッ。

 言葉をさえぎるように、由貴也の手の中で一輪挿しが砕けた。いつの間にか自分は一輪挿しを握りしめながら彼らの言葉を聞いていたらしい。試験管のような陶器の一輪挿しは真っ二つに割れ、由貴也の手を傷つけてぽたぽたと血がテーブルにこぼれた。

 あまりお客がいなかったのが幸いで、数人の客が声をひそめてこちらを見ているだけだった。何かが割れる音はけっこう響くのだ。

「先輩、なにやってんすか!」

 あわてふためく後輩たちをよそに、由貴也は無感動に血があふれてくる手を見ていた。けっこう深く切ったのかあっという間に手が血まみれになる。

 それでもなお鋭い割れ口をさらす一輪挿しを握りしめ続ける由貴也の手をほどかせたのは香代子だった。

「マネージャー、さん。いつから……」

 由貴也をとりかこんでいる一年生三人は香代子の登場にいつからいたのか、話を聞かれたかと真っ青になっていた。彼女は問いには答えず、由貴也の指を一本一本丁寧に、固く握りしめた一輪挿しからはがしていく。それから香代子はポケットからハンカチをとりだし、由貴也の手に巻いた。清潔そうな白いハンカチがみるみるうちに赤く染まる。

「やっぱり救急箱借りてこないとダメだね」

 血臭に顔をしかめ、香代子はつぶやいた。その声には何の含みもなく、いつもの香代子そのもので、彼ら三人はあからさまにほっとした顔をしていた。話を聞かれてなさそうだと思ったのだろう。聞いていたらきっと香代子なら烈火のごとく怒り狂うと考えていたらしい。

「保健室行って借りてくるから。片づけ頼むね。アンタは血が止まるまでおとなしくしてて」

 後輩三人と由貴也にそれぞれ言葉を残して香代子は教室から出ていく。背筋を伸ばして歩く後ろ姿を見ながらバカだな、と思った。普段は嘘をつくのが致命的なほど下手なのに、なんだって今日はそんなにも落ち着き払っているのか。涙のひとつでも見せてやれば、かわいげのないという評価もひっくり返るだろうに。香代子は傷つかないと思って言いたい放題の彼らを、大いにうろたえさせることができるだろうに。

 しょせん彼らは――この部は香代子がいないと成り立っていかないのだから。

「あっぶねー。聞かれたかと思った」

「なんで今のタイミングで帰って来るかねー」

 まるで教室に来た香代子が悪いといわんばかりの態度に、由貴也はふと思い出す。彼らは以前練習試合に行ったときにまったく下級生としての仕事をせず、真美に押しつけていってしまったのだ。それを香代子に注意されたときも彼らは自分は悪くない、という顔をしていた。要は彼らが香代子を気にくわないのは単なる逆恨みだ。

 由貴也は血が今にも滴り落ちそうな手から視線を外し、立ち上がる。ヘッドドレスをむしるように外し、ウイッグ、洋服を次々と脱いで床に落としていく。ロッカーから制服を出し、それに着替えた。

「先輩、おとなしくしてろってマネージャーさんが……」

 教室から出ていこうと足を戸口に向けると、彼らは今さら偽善者ぶって由貴也を止めようとする。由貴也は一瞥し、テーブルに放置されている一輪挿しの折れた半分を手にする。それをためらいなく壁に投げつけた。

「ひっ!」

 透明な鋭い軌跡を描き、彼らの顔のすぐ真横を通って壁にぶつかる。身をすくませるような音を立て、今度こそ一輪挿しは粉々に粉砕された。破片がぱらぱらと床に落ちる。その間、彼ら三人は硬直して突っ立っていた。今度は蒼白ではなく、顔色は完全に失われている。

 由貴也と目が合うと、三人は大仰にびくりと肩を揺らした。すっかりおびえた様子にもう視線を向ける価値もないと、歩みを再開させた。

 すっかりおとなしくなった彼らの気配を背に感じながら、最初からそう静かにしてればよかったのに、と教室を後にした。

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