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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
44/127

初恋の君は

本編読了推奨。巴と壮司から見た由貴也の変化。

 日曜の部活を終えて寮に帰ってくると、巴が談話室のテーブルで何かを一心不乱に眺めていた。

 夕方の赤い光がその集中している横顔を照らしている。壮司はなるべくそっと巴に近より、後ろからテーブルの上に広げられたものをのぞき見た。

「何を見てるんだ……?」

 後ろから真剣そのものの巴に呼びかけると、彼女の肩がびくりと揺れた。驚かせてしまったようだ。

 状況を確認するようなわずかな間があり、それからゆっくりと巴の顔がこちらに向いた。

「あぁ、壮司。おかえり」

 突然の壮司の出現に驚きつつも、巴の顔にはどこかほうけたような色があった。まるで夢から現実に立ち返ったようだ。

「お前もな。おかえり」

 今日、巴は由貴也の試合を見に行っていた。今日の部活は自主参加だったため、壮司は一緒に見に行こうか、と言ったのだが、きっぱり断られた。理由は『お前を連れていくのは由貴也に失礼な気がする』とのことだった。

「何をしてるんだ」

 壮司は巴の前に座り、改めて問いをし直す。テーブルの上にはアルバムやら写真やらが並べられていた。

 その内の一枚をとり、巴がふっと微笑んだ。夕日の中でその笑みはどこか寂しく悲しそうだった。

「由貴也の写真を見ていたんだ」

「由貴也の?」

 言われてみればテーブルの上の写真の数々は幼少期のものだ。いとこ同士の由貴也とは行事のたびによく一緒になったものだった。

 壮司も近くにあった一枚を拾い上げる。赤い着物を着た巴と、羽織袴の自分。それから千歳飴を口に含んでいる由貴也が写っている(ちなみにその千歳飴は壮司のものだ)。七五三の写真だろう。由貴也は見事なまでの仏頂面で壮司は笑ってしまいそうになる。彼は写真が大嫌いなのだ。

 いとおしげに手元の写真を指でなでてから巴は続けた。

「今日、由貴也が笑っていたんだ。楽しそうに気持ちよさそうに、仲間にかこまれて……」

 壮司は思わず「嘘だろ……」と聞き返す。嘘じゃなければ幻か。幼い頃ですら由貴也の笑顔など見たことがない。彼はどことなく浮世離れしていて、笑顔など生まれつき持っていないかにように見えたのだ。

 驚きに目を丸くしていると、巴は写真から視線を上げてかすかに笑った。

「お前が驚くのも無理ないな。私だって見当たらないんだ。由貴也があんなふうに笑う姿なんて記憶にも、どこにも……」

 巴は憂いを帯びた淡い微笑みを浮かべ、もう見ても無駄だというふうに、写真を片づけ始めた。形として残された過去の光景に由貴也の笑顔は見つけられなかったのだろう。

「私は長い間、由貴也がああなのは彼の生来の性格だからだと思ってきた」

 注意深く淡々と語る巴に、壮司はああ、と短く相づちを打つ。壮司だってそう思ってきた。表情が著しく乏しく、感情の起伏がない。それは彼が独特の感性を有しているからだと考えてきた。

 けれども時おり、ほんの刹那の間に彼は微細な心情の揺らぎらしきものを見せることがあった。それは気のせいだと思いこめるほど小さなものだったので、あえて考えることもなかった。

「けれどもそうではなかったのだな。今日、思い知った」

 巴が布製の袋の中に写真を丁寧にしまい、アルバムを静かに閉じた。つねと変わらない声音にも、落ち着いた手つきにも、巴の平静であろうとする努力が隠されているのを壮司は知っていた。

 やがて長い沈黙の後、巴はアルバムの表紙に目を向けたまま口を開いた。

「昨日由貴也が私のところへ来て――」

 革の表紙は年を経るごとに風合いを増していく。巴はそれを見て、今まで由貴也と過ごした年月を思ってか、視線を緩めた。苦いような甘いようなそんな表情だった。

「あまりに悲しそうな顔をしてな」

 巴が省略した言葉の中に何があったかは容易に想像できた。

 今の由貴也は意味もなく巴のまわりをうろついたりしない。彼女のところへやってくるときはある程度覚悟を持ってくるだろう。だとすれば考えられることはひとつ、体当たりで想いを伝えにきたのだ。

 由貴也の行動に不思議なほど不快感は沸いてこなかった。彼に直接は間違っても言えないが、そのひたむきさや一途さは憐れみすら覚えるものだった。

「由貴也は泣くときだってあんな風な顔をしなかった」

 巴と由貴也の間にあったことは聞くまでもない。巴は由貴也の想いは受け入れない。

 巴の話の中にいる、無表情で泣く由貴也。それはうまく感情を吐き出していないのだろう。

 一度、由貴也は陸上部のジャージのまま生徒会室を訪れ、巴へ抱きついた後嘔吐していた。その姿は痛々しく。壮司は相手が由貴也だということも忘れて心配し、不安になったのだった。そしたら案の定、由貴也は神経性胃腸炎で入院という事態になった。

 見舞いに行った帰りのバスの中、巴は真っ青だった。ともすれば由貴也よりも顔色が悪く、思いつめた表情で膝の上で固く結んだ拳が震えていた。由貴也のそばにいた方がいいのだろうか、揺れる瞳が巴の苦悩を表していた。

 壮司は巴に由貴也のそばに行ってもいいとも行くなとも言わなかった。巴が一生彼のそばにいる覚悟があるのならば、由貴也のところに行っても仕方ないと思った。一方でつまらない悋気がないといえば嘘になった。実際、平静を装っていても巴が由貴也のところへ行くとなったら引き留めただろう。

 それよりも他人との交流を好まない由貴也に自分たち以外の見舞いが来ていたのが驚きだった。陸上部のマネージャーだと後で巴が教えてくれた。由貴也は排他的で、その実激しい人見知りなのだ。その由貴也がまともに話している姿を見て、彼に真に必要なのは巴ではないのだろうと思った。

 巴は結局行かなかった。由貴也とはそのとき既に『リレーを見に行く』という約束が成立しており、彼女は彼の誇りと意地を尊重したのだ。

「……寂しいな」

 ひとりごちるようにつぶやいて、それから巴は苦笑した。朱色の陽がより一層巴を寂しげに見せた。

 ふと、巴の言葉に幼い由貴也の姿がよみがえってきた。

 保育園の時のことだ。壮司は園庭の鉄棒で前回りをしていた。引っくり返った視界に、光沢を放つエナメルの靴が写った。外遊びが盛んで、家政婦が洗っても洗っても汚してしまう壮司の運動靴とは天と地ほどの差がある綺麗な靴だった。

 頭を地面に向けたまま、地面から生えるその姿を視線で追っていく。黒いハイソックス、折り目のしっかりとした半ズボン、そして染みひとつない空色のスモック。胸の名札には『こが ゆきや』と書いてあった。

 ただでさえも体が小さく、加えて少し長い髪と、何よりも可憐な顔立ちからまったく女子にしか見えない由貴也は、鉄棒にぶら下がったままの壮司に言った。

『ともえちゃんはぼくのだから』

 要は巴を独占するな、と言いたかったのだろう。それだけ言うと由貴也はすぐさま駆け出し、桃色のスモック――巴の方に行ってしまった。そして巴に抱きついて、こっちに来るなと言わんばかりにそこから壮司を見たのだった。

 その時はおもしろくない気分になったが、今は単純に幼い由貴也を微笑ましく思う。成長した彼に散々毒を吐かれた壮司ですらそう思うのだから、巴はどんなに由貴也をかわいく思っていただろう。

 由貴也は長じるにつれて照れに押し込められてしまう幼少期の純粋な思慕を、巴に対して絶やさず向け続けたのだ。このままではよくないと思う反面、由貴也の想いはずっと巴にあり続けるような気がしていた。――巴を偏愛することで、彼自身の人生は無に等しいとわかってはいても。

 当たり前の状態に慣れきっていたのはこちらだった。彼についてあれこれ思案する自分たちをよそに由貴也は成長を遂げ、去っていったようだった。

「まさか一月あまりであんな風な顔をするようになるなんて思わなかった」

 巴は終始苦笑していた。しかし寂しさの裏に安堵もあるのだろう。巴の後ろをくっついて回るのと、仲間と笑いあうのとどちらが健全かなど考えるまでもない。

 よかったな、と安心してふと前を向くと、巴がどことなく非難がましくこちらを見ていた。

「お前、黙ってないで何とか言ったらどうだ!」

 何だ、と尋ねる前に、矢のように巴の声が飛んできた。

 何かと言われても、こういうときは聞き役に徹した方がいいと思っていた。加えて由貴也に対して何かコメントするのは偽善者のような気がして避けていたのだ。彼も壮司の同情などいらないだろう。

 だが巴が壮司に求めているのはそういうことではないのだ。口調は壮司を責めていても、巴の瞳には何か言ってくれという哀願めいた感情が浮かんでいた。

「じゃあ構ってやろうか、由貴也の代わりに」

 壮司はやれやれと笑い、机の上に無造作に置かれていた巴の手をつかんで自分の方へ引いた。

 つまりはそういうことなのだ。巴は壮司に的確な言葉を望んでいるわけではなく、弟のようにかわいがっていた由貴也が去っていってしまったことがただ寂しくて仕方がないのだ。しかしそれは由貴也の道を妨げる自分本位な言葉だと知っているので、むやみやたらに言うことができないのだろう。

「いい! お前は最近エロオヤジのようで嫌だ」

 まんざら冗談とも言い切れない様子で力一杯拒否され、そんなに自分はにやついていたかと思う。しかしそんなことは些少の問題で「素直じゃねえな」と手を取り、その甲へ唇を落とすと巴はひるんだ顔になった。その表情に意地悪く笑ってから、これが巴の言うエロオヤジかと納得する。だからといって止めるわけでもなく、少し身を乗りだし顔を近づける。この隙に、と思う気持ちがあった。

 巴と唇を重ね合わせながら、心の中で由貴也に詫びた。彼をダシにして巴と触れ合うことこそ、彼に対する冒涜だ。

 唇をわずかに離すと、今度は巴の方からもう一度押しつけてきた。壮司は驚く。こういうことに関しては常に壮司の方が積極的で、巴は恥ずかしいのか毎回尻込みした姿勢を見せるのだ。

「……なあ、壮司」

 唇を離してから一拍の後、巴がそっと呼びかけた。互いの顔はいまだすぐそばにあり、影がかかって密やかな雰囲気だった。

「由貴也がああだったのは私のせいなのかと思う」

 小さいながらもしっかりとした巴の声に、これは睦み合いの延長ではないのだとわかった。同時に巴は泣きそうで、恐らくこの不安のために壮司との触れ合いを長く欲したのだろう。

「お前の……?」

 反駁すると、巴は小さくうなづく。壮司は黙って言葉の続きを待った。

「私は由貴也があんな風に笑う可能性を少しも考えなかった。いや、気づいていたかもしれないが見ないふりをしていた。私と一緒にいなければ、由貴也はもっと早く彼らしく生きていた」

 巴と二人きりの、由貴也の閉じた世界。何となく巴の言わんとしていることがわかる。彼はその中で少しずつ他のものへの関心をなくし、巴への恋慕を際立たせていったのだ。

「お前が好きなのに由貴也が離れていくのは嫌だった。ずっと手元に置きたかった」

 巴の独白を聞きながら、自分がいなければどうだっただろうか、と考えてみる。ふたりは双方向への愛情を持っており、異分子は自分のようだ。だが、彼らの望みは合致しているように見えて少しずれていた。巴は由貴也を共に歩むパートナーだとは考えておらず、由貴也は巴から姉のような愛情をもらうだけでは満足しない。

 どんな形であれ、ふたりはいつか別離の時を迎えた。

「お前とのことがあったから由貴也は今、笑っているんだろう。元を作ったのはお前だ」

 初対面の小さな由貴也は不健康に色が白く、どこを見ているかわからない目をしていた。しかしその焦点が巴に合い、彼女からよろこびや悲しみを与えられ、静かに蓄積させていった。

 表現するすべを忘れていた彼に刺激を与えたのが、新しい環境の彼らなのだろう。由貴也が失恋の喪失感に凝り固まる前に、その無表情の下の感性を呼び覚ます彼らが現れたことは、天の配剤だと思った。

「そうだろうか。そうだといいんだがな」

 やっと少しだけほっとしたように、巴は小さく笑んだ。

「今日の由貴也はなかなか格好良くってな。もう弟には見えなかった」

 ふふふ、と心底楽しそうに微笑んで、巴は爆弾発言を落とした。それは由貴也が男に見える、ということか。

「……どこがどういう風に格好良かったんだ」

 壮司は憮然とするのを平坦な口調に隠して尋ねる。男としての器の小ささをさらすのは耐えがたかった。

「具合が悪そうだった。百メートルは棄権してたな。リレーは出たんだが、予選の走りは良くなさそうだった。私はいつ倒れるのかと気が気じゃなかった」

 巴の言い草ではまったく格好良くはない。むしろやるとなったら極力労力を抑えてそれなりの結果を残そうとする由貴也にしては考えられないほどの醜態だった。

「……だけどな、がむしゃらで一生懸命だった」

 がむしゃら、一生懸命。由貴也の中からとうに消えていたはずのふたつの言葉が復活している。

「それは……最強だな」

「そうだろう?」

 巴は軽やかに笑う。そうだろう? 私の由貴也だからな、という自慢めいた響きだった。

 自分の好きなものに対して一生懸命で、仲間と笑っている。しかもあの顔だ。それは結構ないい男だった。

 壮司は急に不安になるのを抑えられなかった。今度は平静を装えない。

「……由貴也に惚れないでくれ」

 壮司の真剣なせりふに、巴はひらひらと舞う蝶のようにつかみどころなく笑って「さあ、どうだかな」と言った。

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