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初恋の君へ  作者: ななえ
番外編
43/127

どっちが大事?

15読了推奨。

 膝の上で眠る由貴也の髪を指ですいた。記憶に残る感触よりもずいぶん短くなっていた。

 横たわり、なおかつ巴の胴に腕を回すという楽ではない体勢をしているにもかかわらず、由貴也はぴくりとも動かなかった。触れ合ったところから伝わる熱を感じて初めて、由貴也が生きているのだと実感するほどだった。

 ぐったりと眠る由貴也を見て、巴は自己嫌悪に息をついた。

 どうしても巴は由貴也に弱い。きっぱりと拒めない。だからそこを彼につけこまれるのだ。

 そしてその甘さは毒にはなっても由貴也のためにはならない。

 わかっている。わかっているが、生徒会室に入ってきた由貴也の顔を見た途端、何も言えなくなってしまった。

 帰ってくるつもりはなかった。そういった後悔が一瞬だけ由貴也の顔へ浮かんだ。不本意で、でもどうしようもなくて――苦渋の末に手を伸ばしてきた由貴也をはねのけることができなかった。

 髪が短くなった。陸上部のジャージを着て、外見だけは確かに変わった。しかし中身がついていっていないのだ。今、疲れ切って眠っている由貴也を見れば明白だった。

 拒むことができない。けれど受け入れることはもっとできない。巴は中途半端すぎた。それは残酷だった。

 遠くから足音が聞こえて、巴は伏していた瞳を上げた。

 足音の主を巴はわかっていた。彼を前に逃げも隠れもできない。自分の甘さが引き起こした事態だ。

 規則的な足音が止まり、ドアが開く。やけにその音が大きく聞こえた。

 ドアが中途半端に静止する。壮司が動きを止め、そこに立っていた。

「……ごめん」

 浮気だと言われてもしかないことをしているので、巴はすぐに詫びた。真実恋慕を向けているのは間違えなく壮司だが、由貴也が入る隙が心にあったのは確かだ。

 壮司は何かを言いかけて、結局無言で息をついた。吐息からかすかな激昂の気配を感じた。

「……こいつは何でここにいんだ」

 部屋に足を踏み入れ、後ろ手でドアを閉めながら壮司は言葉を発した。

 その声音には巴へ対する非難も怒りも含まれていなかった。ただ辟易したような疲れを背負っていた。

「わからない……」

 由貴也がここに来た経緯はまったくといっていいほど謎だ。彼が陸上部に入ってからは話はおろか顔すら合わせてすらいなかった。

 そう思うと途方に暮れた。今の自分は由貴也に対して何の力にもなれない。それどころか彼の成長を阻害している。

「そもそもまだ部活中だろ。抜け出してきたのかよ」

 嘆息しながら壮司がこちらへ歩みよってきた。言われてみればまだ五時前だ。まだ充分部活の活動時間帯だった。

「おい、由貴也」

 壮司がやや手荒く眠っている由貴也を揺さ振る。巴が止める暇もないほど遠慮のない手つきだった。

 よほど深く眠っているのか、あの警戒心の権化のような由貴也が一度では起きなかった。

 巴はただ困惑した。由貴也を寝かせといてあげたかったが、それを言うべき立場ではなかったし、そういう体勢でもなかった。

「お前、いい加減起き――」

 壮司がなおも揺さぶると、由貴也は突然雷に打たれたように跳ね起きた。ほぼ同時に由貴也の肩にかかっていた壮司の手が勢いよく振り払われる。

 その由貴也らしからぬ行動に壮司とあっけにとられた。ふたりしてほうけている内に由貴也は真っ青な顔で壮司の脇を抜けていく。

 生徒会室から続く給湯室へ由貴也は駆けこんだ。そのあまりの勢いに巴は声をかけられない。

 巴はただ立ちすくんで給湯室の開け放たれたドアを見ていた。ここからでは由貴也の姿は見えない。

 けれど深く、体の底から咳き込んでいる声が聞こえた。

 ――吐いている。

 そう認識した瞬間、巴の足は給湯室へ向かった。困惑のままに給湯室の戸口に立つ。

 シンクに覆いかぶさる由貴也の背中が見えた。空嘔で体を痙攣させていた。

「由貴也、お前、大丈夫か」

 ただ動揺するだけの巴の横を抜け、壮司が由貴也に駆け寄る。天敵である壮司が側に寄ってきたにも関わらず、由貴也は茫然とシンクの吐瀉物を見ていた。信じられないといった表情だった。

 常に無表情で武装している由貴也がこんなにもはっきりと表情をあらわにするのは今までにないことだった。

 それだけ由貴也の中で追いつめられて余裕がなくなっているのかもしれない。

 自分自身ならともかく、人の吐く姿など巴はここ数年見たことない。いくら勉強ができたって、こういうときにどうしていいかはわからない。相手が他ならぬ由貴也になるとなおさらだ。

 由貴也のかたわらにしゃがみこみ、ただただ心配に由貴也の顔に視線を向けるしかできなかった。

 巴の目線の先で由貴也は崩れた表情をしまいこみ、淡々と蛇口を回して口をゆすいだ。

「由貴也、何かあったのか?」

 由貴也が落ちついたのを見計らって巴は声をかけた。

 由貴也は昔から軽度の吐きぐせがある。吐いた後はけろっとしているので、彼の親も特には心配はしていなかった。そもそも彼の親は何を考えているかわからない息子に匙を投げている節がある。

 しかし巴は由貴也の嘔吐が心因性のものではないかと疑っていた。

 由貴也の心は完成されているようで未完成だ。思うよりずっと繊細で脆いところがある。茨に包まれた誰にも理解できない彼の心は傷つきやすく、成長途中の少年らしく多感だった。

 人が嫌悪感に顔を歪めるように、由貴也は吐くのだ。

 しかしそれも彼が成長するにしたがって消えていた。彼の複雑な部分を知らない大人たちにとっては、子どもは急に吐くから、と思い出話にされて終わるはずだった。

「別に。何も」

 表情をさらに硬化させ、由貴也は淡白に答えた。

「そんな顔して何もってことはねえだろ。真っ青だぞ、お前」

 追及から逃れようとする由貴也を壮司の言葉がとらえる。

 ゆっくりと由貴也の瞳が壮司に向いた。その目にはむき出しの刃のような鋭利な色が宿っていた。

 一触即発の剣呑な雰囲気になったかと思えば、次に由貴也がとったのは意外な行動だった。

「いって! お前何すんだ!!」

 壮司が片足を上げて顔を歪める。由貴也に脛を蹴られたのだ。

 由貴也はといえば、壮司に蹴りを食らわしたにもかかわらず、してやったりという表情はなかった。気位の高い猫のようにプイッと身を翻して出ていってしまった。

 腹立ちまぎれのような行動に巴は目を瞬かせた。

「由貴也!」

 はっとして呼びかけたときにはもう遅く、由貴也の去っていく足音だけが聞こえた。

 蒼白な顔にひどくなっている吐きぐせ。もう限界だと彼が無言の叫びを発しているようで、巴は知らず知らずのうちに由貴也が出ていったドアを見つめた。

「心配ねえよ」

 自分はよほど情けない顔をしていたのか、壮司に内面を見透かされたような言葉を向けられた。

「あれでどこが心配ないっていうんだ……」

 浮気まがいのことをしたというのに、壮司のご機嫌とりもせずに由貴也を案じている。壮司にすまないと思う半面、曇る心はどうしようもなかった。

 巴にとって由貴也は壮司とは違う意味を持つ大事な存在だ。同時に由貴也にとってそれはただの迷惑以外の何物でもないだろう。

「由貴也がああなってんのは多分お前のことだけじゃねえよ」

「え……?」

 壮司の思わぬ言葉に巴は間の抜けた聞き返しをした。

「さっきここに来る途中に陸上部の部長とマネジャーと会った。しかもマネジャーの方泣いてたぞ」

 由貴也の陸上部のジャージが思い浮かぶ。彼らの目的は由貴也なのか。

「それにあいつの頬。赤くなってた。ビンタのあとだろ、あれは」

 ビンタと泣くマネジャー。それはトラブルを匂わせるもの以外の何物でもなかった。

「つまんねえ八つ当たりしやがって」

 壮司が苦々しく、けれどもどこかおかしそうに由貴也に蹴られた方の足へ目を向けた。

 あの容貌と性格だ。由貴也は昔から数多の視線を集めてきた。好意的な瞳もそうではない瞳も一様にはねつけ、人間そのものに興味を抱いていないように見えた。その由貴也がトラブル。しかも言葉の代わりにビンタが使われるほどの事態だ。

 ひとりでは争いごとは成り立たない。由貴也がそれほどまでに人と濃くかかわっているのが信じられなかった。

「由貴也は外の世界でつまずいて、お前のとこに逃げ帰ってきたんだろ」

 壮司の言葉を聞いて、自分は由貴也の家みたいだと思った。疲れたときに少し休んで出ていく、そんな存在であればいいと思った。

 人と違う感性を持つ彼にとって、外は生きにくい世界だろう。それでも由貴也がひとりではなく、誰かと歩んでいくことを願った。

「巴」

 いつのまにか椅子に座っていた壮司に手招きされる。壮司と手招きという動作があまりに似合わなくて、巴は首を傾げつつ、壮司に近よった。

「もっと寄れ」

 彼は何をするつもりなのかと、いぶかしみながらさらに距離をつめる。拳ひとつ分の隙間を空けて彼の前に立った。

 声をかける間もなく、すっと壮司の腕が伸びた。彼の腕の中に捕らわれる。

 座ったままの壮司に胴に手を回され、抱きしめられた。腹に壮司の頭がくっつく。

 驚きに目を瞬かせた。この堅物の壮司がと思うといとおしさとともに笑いがこみあげてきた。

 壮司は由貴也の膝枕に対抗してこんなことをやってきたのだ。

「妬いたのか?」

 立ったままの巴は壮司を見下ろす形になる。彼の表情は見えないが、きっと赤面していること疑いようもなかった。

「うるせえ」

 ぶっきらぼうに答える壮司は由貴也に負けず劣らず子どもっぽかった。

「由貴也にお前は貸さねえからな」

 憮然としたつぶやきはまさに子どもそのもので、巴は笑いつつ「はいはい」と答えた。

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